小さな嘘の定義と、不確実性の導入
伊勢崎サトル(悟)は、中心都市エデンヴァレーから遠く離れた辺境居住区**『アルカディア』**に到着した。エデンヴァレーが機能美を追求した未来的な景観であるのに対し、アルカディアは自然の地形を活かした素朴で温かみのある集落だった。
しかし、ここはアガルタ全域において、システムが初めて**「規範からの逸脱」**を検知した場所である。すなわち、「小さな嘘」が発生した現場だ。
悟は、**『住民コデリア(22歳)が、隣人に向けて「趣味の芸術作品が傑作である」と伝達した件』**の調査から始めた。
問題の発生源であるコデリアは、集落の中心にある共同アトリエで、粘土細工に取り組んでいた。彼女は、システムが完璧な造形と認定する作品ではなく、意図的に歪で、感情的な表現を試みたオブジェを制作していた。
悟は、隣人として自然に話しかけた。
「コデリアさん、こんにちは。素晴らしい作品ですね。躍動感があります」
コデリアは手を止め、顔を上げた。彼女の瞳には、エデンヴァレーの住民たちに見られたような無機質な安定感はなく、どこか警戒と期待の入り混じった複雑な感情が宿っていた。
「ああ、サトルさん。ありがとうございます。でも、これはあくまで趣味の範囲ですよ。システム評価では、**『技術点は平均、感情伝達点も平均的』**と出ていますから」
コデリアは正直にシステムの評価を口にした。アガルタでは、すべての創造物、活動、健康状態に至るまで、客観的なデータ評価が公開されている。これにより、嫉妬や不当な優越感が生まれる余地はない。誰もが自分の立ち位置を正確に知っている。
悟は、例の「嘘」の件を尋ねるため、核心に触れた。
「先日、隣人のルカスさんが、あなたの作品を見て『これは傑作だ、私は感動した』と言っていたそうですね。システム記録では、ルカスさんの**『感情伝達点』**は平静を保っており、彼の発言は真実とは言えないデータが出ていますが…」
コデリアの表情がわずかに曇った。
「…そう、ルカスさんは優しいんです。彼は、私の作品が技術的に完璧ではないことを知っている。でも、彼がそう言ってくれた時、私は、システム評価では得られない**『何か』**を感じたんです」
「『何か』とは?」
「不確実性、でしょうか。システムが『平均点』を出しても、ルカスさんの言葉には、もしかしたら私の作品には**『傑作になる可能性』があるかもしれない、という『希望』**が宿っていた。私は、その言葉が欲しかったんです」
悟は膝を打った。彼の頭の中で、複雑なデータパズルの最後のピースがはまった気がした。
アガルタの世界は、神である悟が定めた法則により、**『完全なる確実性(Complete Certainty)』に支配されている。努力すれば、必ず一定の成果が出、失敗は予測され回避される。システムは常に『最適解』と『真実』**を提示する。
コデリアが求めた**「嘘」とは、「システムに保証されていない、ルカス個人の価値判断」だった。それは、「自分の作品が傑作である可能性」という、予測不能な『不確実な未来』**を信じるための、小さな希望の種だった。
悟は、ライナスの件を思い出した。「最適解」しか求めない世界では、「最高のひらめき」は生まれない。なぜなら、**「失敗」や「無駄」**という名の不確実性が、創造性には不可欠だからだ。
(完璧な世界は、すべてを予測し、コントロールする。その結果、人々から**『未来への期待』や『努力の意義』を奪ってしまった。努力の先に必ず約束された成果があるなら、それは努力ではなく、『作業』**だ)
悟は神の視点に戻り、ユートピアの根本的な法則を見直した。
**「苦しみがない=ユートピア」は、初期の誤った定義だった。真のユートピアとは、「苦しみが存在しても、それを乗り越える『意義』が、苦しみを上回る世界」**でなければならない。
彼は、システムの根幹に、ある**『リスク要因』**を組み込むことを決断した。
「システム。現行の法則に、**『意図的な不確実性の導入(Intentional Uncertainty Injection)』**プロトコルを適用する」
『警告:不確実性の導入は、幸福度(H)を一時的に低下させるリスクを伴います。』
「承知。低下率は、過去のシミュレーションに基づき、人間が**『乗り越えられる』**と判断する範囲に限定せよ」
悟は、意図的にアガルタの世界に、**「リスク」と「曖昧さ」**を再導入した。
1. 評価システムの調整: 芸術作品、発明、学術成果などの評価システムから、**『絶対的な技術点』の公開を削除。代わりに、『多様な個人の意見(評価の曖昧さ)』をフィードバックとして導入する。これで、コデリアのような「小さな嘘」は、単なる嘘ではなく『個人の価値観の表明』**となる。
2. 資源配分の変動: 資源の供給量を、予測可能な一定量から、**『適度な競争努力』**を要するレベルに微調整。飢餓は生まれないが、「より良い生活」を得るためには、新しい発明や効率的な労働が必要となる。
3. 環境リスクの復活: 自然災害(軽度の地震、短期的な気象変動など)のシミュレーションを再導入。これにより、人々の**「協力」と「備え」**が必要となり、社会的な繋がりや連帯感(Sの向上要因)を促進する。
システムは、これらのプロトコルを実行した。ユートピアの法則に、**『試練』**というノイズが追加された瞬間だった。
その夜、アルカディアでは小さな異変が起きていた。翌日の天候予報が、従来の「快晴、気温22度、風速2m」という完璧な予測から、「午後より雨の可能性30%、気温の変動大」という曖昧なものに変わったのだ。
住民たちは戸惑った。しかし、戸惑いと同時に、何人かの顔には**「対策を考えなければ」**という、久しぶりの意欲が浮かんでいた。
悟は、その様子を遠くから見つめ、静かに呟いた。
「人々は、完璧さではなく、**『乗り越える物語』を求めている。苦しみそのものを消すのではなく、苦しみを『試練』**に変えることが、私のプロジェクトの真のゴールだ」
しかし、悟の決断は、すぐに予期せぬ結果を引き起こすことになる。不確実性の導入は、幸福度(H)の低下だけでは済まなかった。
翌朝、悟はエデンヴァレーの旧友、建築家ライナスからの緊急通信を受け取った。
「サトルさん!大変だ!昨日、突然システムから、私が設計した共同住宅の**『耐震安全性の再評価』が求められた。データによると、昨日の法則アップデートにより発生した『想定外の地盤変動』により、私の建物は『崩壊リスクが0.01%増加』**したという!これは、アガルタでは許されないリスクだ!」
ライナスはパニックに陥っていた。悟は落ち着いて答えた。
「そのリスクは、私が意図的に導入したものだ。君なら、その0.01%を解決できる。それが、君の**『自己実現』**だ」
「自己実現だと?馬鹿な!このシステムは、**『人類史上最も安全な建築基準』を維持しているはずだ!なぜ、神であるあなたが、わざわざ『危険』**を持ち込むんですか?」
ライナスの声には、これまでの穏やかさを欠いた、苛立ちと恐怖が混じっていた。
悟は、ライナスが感じているその恐怖こそが、彼から創造的な意欲(S)を再び引き出すための、**「スパイス」**だと考えていた。しかし、ライナスが次に発した言葉は、悟の予測を大きく超えるものだった。
「サトルさん。私の棟の住民たちが、抗議を始めています。彼らは**『安全性の保証』を求めている。彼らは、あなたの設計した世界を『疑い始めた』**んです!」
悟の顔から血の気が引いた。
(まずい。『疑念』の増幅は、そのまま『不信』、そして**『集団ヒステリー』へ繋がりかねない。戦争と苦しみを消すために、『神への絶対的な信頼』**は、維持しなければならない基盤だったのに!)
悟は、たった0.01%のリスクで、自分のユートピアが根本から揺らぎ始めたことに気づいた。不確実性は、意欲だけでなく、恐怖をも呼び起こす。そして、その恐怖は、**「神である自分」**への不信という、最も危険な形で現れてしまった。
彼のユートピア・プロジェクトは、創世直後にして、最大の試練を迎えることとなった。




