データ・ガバナンスと自由意志の閾値
新世界アガルタの創世から、およそ十年が経過した。
伊勢崎悟は、かつての自分の姿——39歳のプロジェクトマネージャー**「伊勢崎サトル」として、アガルタの中心都市の一つ、『エデンヴァレー』**に暮らしていた。彼の家は、他の住民の家と寸分違わぬ、環境に配慮された機能的なデザインだ。
悟は今、自室でホログラムディスプレイに向き合っていた。目の前には、アガルタ全住民のリアルタイムの**「幸福度データ」**が波形グラフとなって表示されている。
「相変わらず、異常なほど安定しているな」
グラフは常に**99.8%**のラインを維持している。
悟は創世時、あらゆる**「苦しみ」**の要因を排除する法則を組み込んだ。
• 経済的苦痛: すべての物資は最適に供給され、労働は肉体的な負担がなく、自己実現を目的とする。
• 肉体的苦痛: 完璧な医療システムが、病気や老化のリスクを最小限に抑える。
• 社会的苦痛: 人類間のコミュニケーションは、感情的な誤解が生じないよう、常に**『共感サポートAI』**が介入・最適化する。
データ上、アガルタは完璧なユートピアだった。戦争、飢餓、差別、貧困は存在しない。人々は穏やかで、満たされている。しかし、悟の視線は、安定した99.8%ではなく、残りの0.2%、そしてグラフの**「変化の乏しさ」**に釘付けになっていた。
「幸福度が安定しすぎている。まるで、**『生きているデータ』ではなく、『記録されたデータ』**のようだ」
悟は、この数ヶ月、ある傾向に気づいていた。それは、幸福度そのものは高いが、人々の**「意欲値」**が徐々に低下していることだ。
彼は、データ分析のプロとして、幸福度を構成する要素を細かく分解した。
H=(M×P)+(S-R)
H: 幸福度 (Happiness)
M: 充足度 (Material fulfillment)
P: 平穏度 (Peace)
S: 自己実現度 (Self-actualization)
R: 退屈度 (Routine/Boredom)
充足度(M)と平穏度(P)は、神の力で常に最大化されている。しかし、**自己実現度(S)の上昇傾向が頭打ちになり、代わりに退屈度(R)**が緩やかに上昇している。
「苦しみがない世界は、目的のない世界と同義なのか」
悟は、隣人に話を聞きに行くことにした。
彼はエデンヴァレーの広場に出た。人々は、穏やかな表情で、趣味の芸術活動や、穏やかな共同作業に勤しんでいる。争いも焦りもない。しかし、その顔には、かつて彼が生きていた世界のビジネスマンが持っていた、**「何かを成し遂げようとする熱意」**が欠けていた。
悟は、エデンヴァレーで最も優秀な建築家として知られる、ライナスに話しかけた。ライナスは、新しい公共施設の設計図を眺めているところだった。
「ライナス。今日のプロジェクトの進捗はどうかね?」
「サトルさん。順調ですよ。この建物の設計は、街の美観と機能性、そして人々の動線効率において、最適解を導き出しています。システムも完璧だと保証しています」
ライナスは誇らしげだが、悟はどこか虚ろな目をしていると感じた。
「最適解、か。君は、その**『最適解』を超える何か、『最高のひらめき』**を求めてはいないのか?」
ライナスは首を傾げた。
「なぜです?システムが最適解を計算してくれるのに、非効率でリスクのある**『ひらめき』を求める必要はありません。サトルさん。以前あなたが教えてくれた通り、『リスクを避けることが、最大の利益』**でしょう?」
悟は言葉を失った。ライナスが言っていることは、論理的には正しい。彼は生前、プロジェクトのリスク管理において、常にこの原則を掲げてきた。しかし、その原則が「生きた創造性」を奪っているのではないか?
悟は、**「苦しみや失敗」という、創造の糧となるネガティブな要素を、世界の基盤から削除してしまったのだ。人間は、困難に立ち向かい、失敗から学び、予測不能な結果を生み出すことで、自己実現(S)を最大化する。悟は、その『成長のサイクル』**そのものを、効率化しすぎたのだ。
「私は、戦争と苦しみを消すことはできたが、**『生きていく意味』**の再定義を怠った」
夜、自室に戻った悟は、神の視点に戻り、根本的な解決策を模索した。
(介入しなければ、モチベーションはゼロに収束し、このユートピアは**「緩やかな死」を迎えるだろう。介入するなら、彼らに「目的」**を与えなければならない)
彼は、神の権能を用いて、**「目的創造システム(パーパス・ジェネレーター)」**の構築に取り掛かった。
これは、全住民の潜在的な興味と才能を解析し、彼らに最も適した、しかし難易度の高い**『達成すべきミッション』**を神の意思として与えるシステムだ。例えば、「未開の地の開拓」「次世代エネルギーの開発競争」など。
シミュレーションを起動すると、人々の意欲値は劇的に上昇した。ユートピアは活気に満ち溢れ、まるで悟が生前立て直したプロジェクトのように、誰もが目標に向かって邁進し始めた。
しかし、シミュレーションのログには、もう一つの致命的な結果が表示された。
【ログ:自由意志の閾値違反】
• *住民はミッションに熱狂的に従うが、ミッションの内容が個人の内発的な動機によるものではなく、**『神の指示』*であると潜在意識下で認識している。
• この状態が継続した場合、住民は*『自らの選択で生きている』*という感覚を完全に喪失する。
• *結果:幸福度は高水準を保つが、**『人間性』そのものが失われ、彼らは『目的のために作られた機械』*へと変質する。
悟は、頭を抱えた。
「これは、私が最も避けたかったことだ。戦争や苦しみはなくても、**『自由』のない世界はユートピアではない。それは、巨大で完璧な『飼育檻』**だ」
全能の神が、誰かの**『意志』**を創り出すこと。それは、神の介入が、人々の最も根源的な存在理由を奪うことと同義だった。
(私は、彼らの人生のKPIまで設定しようとしていた。それは、私が生前、部下の自由な発想を潰して、効率的なマニュアル作業を強いたのと同じ過ちだ)
悟は、かつての上司の顔を思い出した。すべてを数字で管理し、部下の意欲を削いだあの男。彼と同じ道を辿るわけにはいかない。
悟は、パーパス・ジェネレーターの起動を停止した。
「全能の力で**『目的』を与えることはできない。彼らの『自由な選択』と『失敗の権利』を尊重しつつ、どうにかして、『苦しみ』なしに『意欲』**を生み出す。このプロジェクトの真の難しさは、ここにある」
彼は窓の外を見た。夜空には、悟が創った人工的な星々が静かに輝いている。完璧な世界。しかし、その完璧さゆえに、どこか冷たく、乾いている。
悟は、人間の姿に戻り、深く息を吐いた。
「よし。初期設計のミスは、現場の泥臭い対応で修正するしかない。プロジェクト・アガルタの次フェーズに移る」
彼は、システムに問いかけた。
「システム。ユートピアにおける、最も小さな不協和音、最も些細な『非合理』が発生している箇所を特定せよ。場所は、エデンヴァレーから最も遠い、辺境の居住区とする」
システムは瞬時に反応した。
『特定しました。辺境居住区アルカディア。事象:「小さな嘘」の発生。』
悟は、眉をひそめた。「嘘?システムが人間同士のコミュニケーションを最適化しているのに、どうやって?」
『解析結果:住民コデリア(22歳)が、隣人に向けて「趣味の芸術作品が傑作である」と伝達。しかし、システム評価によると、作品は「平均以下」です。これは、真実ではない情報であり、システム規範から逸脱しています。』
悟は一瞬、呆れたように微笑んだ。
「なるほど。システムは**『感情的な苦痛を避けるための小さな嘘』**という概念を予測できなかったか。それは、人間らしさ、そのものだ」
悟は、この些細な「非合理」に、ユートピアに活力を取り戻すためのヒントが隠されていると直感した。
「よし。次なる出張先は、アルカディアだ。プロジェクトマネージャー、伊勢崎サトルとして、**『小さな嘘』の裏にある、『人間の動機』**を探る」
彼は、完璧なユートピアの設計者から、再び、現場に飛び込む**『現場監督』**へと、意識を切り替えた。




