雨籠—あまごもり―
この園には、送迎バスがない。
だから、決まった時間になると園児と保護者が一斉にやってくる。
駐車場はすぐに車と人で溢れかえり、押し合うような混乱が始まり、
教室では今生の別れかのように泣き叫ぶ子供で埋め尽くされる。
まるで、みんなが同時に発狂したかのような時間だ。
「ちゃんとして!」
トイレ後なのか、パンツもはかずに走り回る男の子に向かい、思わず声を張り上げた。
元々この園は、子どもがずっと座っていることなんて無理だと信じていて、のびのび元気に過ごせることを大切にしている。
だから、落ち着きがなくてじっとしていられない子も、喜んで受け入れてくれる。
ただ、度が過ぎる子もいる。
泣き叫び、保育士の髪を引きちぎるような子もいるのだ。
そういうわけで、保育士の入れ替わりは激しい。
私が採用されたのも、今年の新卒が既に辞めてしまった穴埋めだ。
朝の怒涛のような時間がやっと終わって、肩の力が抜けた瞬間、思わず本音が口をついて出た。
「なんで、この園には送迎バスがないんでしょう……?」
誰かに聞いてほしかった。
でも、返ってきたのは薄い笑みだけだった。
「もう、疲れちゃいますよね」
少し間が空いてから、低い声で答えが返ってきた。
「……置き去り、ってやつ」
その言葉は、同僚の口から静かにこぼれ落ちた。
私は3年ほど前のニュースを思い出す。
幼稚園バスから降ろすのを忘れ、園児が熱中症で死亡した事故だ。
園側の過失について、大々的に追及されていた記憶がある。
あの時は県外に住んでいて、土地勘がなかったからうまく繋がらなかったけれど、この園だったのか……。
驚きと嫌悪が顔に浮かんだのを、すぐに必死で消した。
疲れ切った同僚は、慣れた様子で続ける。
「教職員は全員入れ替わったけどね。あの時の人はもういない。
でも、この園の関係者ってだけで、今も言われることはあるよ」
近くで子供の世話を焼いている同僚も、耳だけこっちを見ている。
目に見えない溝が広がっていくのを感じた。
「てっきり知ってて入ってきたと思ってた。今更何をって感じよ」
そう言われて、胸が締め付けられた。
亡くなったお子さんと、責任を負い続ける職員。どちらにも不幸な事件だったのだ。
慌ただしく日課をこなし、さっき来たばかりだと言うのに園児はお昼寝の時間になる。
みんな布団にくるまって、静かに目を閉じている……はずだった。
ところが、狸寝入りをしている子が、布団を体に巻きつけて芋虫のように這い始めた。
顔だけ出してクスクスと笑い続ける。
本来なら優しく背中をさすって落ち着かせるべきだが、つい口から出た言葉は、いつもの叱り文句だった。
「ちゃんとして!」
その声にびっくりしたのか、その子は突然泣き出してしまった。
すると隣で寝ていた子も目を覚まし、貴重なお昼寝の時間はそこで終わってしまった。
──何なのよ
ふと視線を感じてそちらを見ると、園児Aくんがこちらをじっと見つめていた。
この園で、ただ一人、手がかからない子。
小柄で、泣きも騒ぎもしない。
どんなに騒がしい教室でも、彼だけは静かに座っている。
それだけでも、どれほど助かることかと思う。
だが、よくあることだが、私が他の子を叱っている時、ふとその視線を感じる。
彼の目は、まばたきひとつしない。
まるで何かを……大人を観察するようで、背筋がざわつく。
しかし、考える間もなく、午後の園庭遊びの時間になった。
狭い園庭へ園児が一斉に走り出す。
数日が過ぎたが、同僚のよそよそしい態度は変わらなかった。
特別仲良くする必要も無いと割り切っていたが、あまりに続くと仕事に支障が出る。
今日も「ピアノ教室体験〜先着申込順〜」について、保護者からクレームの電話が来た。
曰く、以前から音楽を学ばせたいと伝えていたのに、先着順とはなぜか……前の先生の方が面倒見がよかった……と。
改めて個人観察簿を確認したが記載が無く、そんなの知らねーよと思いながらも丁寧に謝罪し、自分の能力不足ですと反省を伝えた。
無駄に長い電話のせいで、午前の業務が手付かずだ。
今日のお昼寝の時間は、ランチしつつの書類作成になった
固形栄養食をくわえ、必死に保育日誌にボールペンを滑らせていると、ふいに鼻の奥に生臭い匂いが引っかかった。
生魚を放っておいたような、でももっと甘ったるく、喉の奥にまとわりつく、匂い。
園児が何か悪さしたのかと目をやると、園庭に隣接した雑木林が視界に入った。
ここは園の所有する土地なのに、遊び場として使われていない。
せっかくの自然なのに、もったいない。
自然と触れ合うことを歓迎する保護者も多いと聞く。
元気が有り余っている子どもたちには、ぴったりの場所じゃないか。
登って、跳ねて、かけっこして……
今は天使のような寝顔を浮かべている子供たちに目をやる。
羽が生えたように、大人の手を煩わせず、のびのび遊ぶ姿が見てみたい。
そうだ、雑木林を遊び場に整備しよう。
学生の頃見聞きしたアイデアだ。
職員手作りの木の遊具を作って、活動の意義に共感した保護者にも協力してもらって。
丸太をみんなで運んで、園児とペンキを塗って。
ちょっとくらい難しい方が成長するのだと、アスレチックの難度を上げる父親がいるだろう。
園児がケガをしないよう、安全面にこだわる母親もいるかもしれない。
ケガをするのも学びですと、あのうるさい母親達に分かってもらうには?
……学生時代に思い描いた、保育の理想を思い出し、胸が熱くなった。
カタンと、手元のパンが床に落ちた。
現実に引き戻される。
──はぁ
深く深呼吸をする。
まずは関係作りからだ。
焦らず、意義を理解してもらわなきゃ。
そのためには、何ができるだろう?
翌週の職員会議の最後、思い切って手を挙げた。
手元には、一応作っておいた手作り遊具の資料もある。
資料作りのため開いた教本は、学生時代より面白く熱中した。
自然、声も弾む。
「夏休みに入る前に、みんなでバーベキューなんてどうですか? 近くに空き地もありますし、協力して火をつけて……」
職員室の空気が一気に凍りつくのを感じた。
園長が机を叩きながら、怒鳴った。
「二度とそんなこと言わないで!」
びくりと背中が縮む。
何が悪かったのか分からず、私は自分の足元を見つめた。
大人なのに、泣きそうになる。
そのまま会議は解散となり、残された私を囲むように同僚が教えてくれた。
「あの場所、5年くらい前かな、火事があったんですよ。夫婦が亡くなって……」
「苦労して育てた子供は、遺体の引き取りを拒否して……無縁仏に……」
「園長は息子さんと仲が悪くて、自分の老後も重ねちゃって心配のよ」
言葉を飲み込むようにして、私は目を見開いた。
──え?
──この狭い敷地で、事件が何度も?
雑木林の甘ったるい匂いが、ふと鼻をくすぐった。
裏門のさらに奥、雑木林と駐車場の境に、妙に細長い石が横倒しになっているのを見つけたのは、昼休みの見回りのときだった。
幅は人の背ほどあり、縦に削ったように細い。苔が半分ほどを覆っていて、指でなぞると湿った緑色が爪にこびりついた。
目を凝らすと、苔の隙間から、彫られた文字が現れた。
「昭和十二年 □□供養塔」
──供養塔? なぜこんな園の裏に。
午後の勤務を終えて、そのまま図書館に向かった。
古びた自動ドアが開くと、冷房の冷気が、首筋の汗を一気に冷やした。
受付のカウンターに近づくと、眼鏡をかけた司書が、こちらを見てにこりと笑う。
仕事先以外の人物と久しぶりに会話する緊張感に、声が裏返った。
「すみません、あの……ちょっと調べ物があるんですけど」
「はい、どんな?」
「昭和の……昔の事件とか、わかる新聞はありますか?」
「新聞でしたら、新聞社のデータベースがありますよ。パソコンから検索できます」
案内された端末に座り、「昭和十二年」「死亡」「□□町」と入力してみる。
検索結果の見出しに、見慣れない古めかしい言葉が並んだ。
そのうちの一つに目が釘付けになる。
──“□□町で村民を生き埋め、苗代の納入滞り見せしめ”
喉の奥が乾く。クリックすると、当時の白黒写真が開いた。
──人だかりの向こうに、土を盛った形の丘のようなものが写っている。
記事には、稲の元締め夫婦が納屋の前で見せしめとして一人を穴に落とし、生きたまま土をかぶせた、と淡々と書かれていた。
背後から、司書の声がふっと落ちてきた。
「もしもっと詳しく調べたければ、国会図書館のサービスがネットでも──」
「いえ、結構です!」
我ながら食い気味の声だった。
「あ……ありがとうございました」
頭を下げて立ち上がると、椅子の脚が床を擦って、やけに乾いた音が響いた。
外に出ると、夕暮れ前の空気がねっとりと肌に張りついた。
さっき見た記事の中の、土の盛り上がりの形が、瞼の裏にずっと貼りついて離れない。
図書館を出ても、空気の湿り気は冷房で冷えた体にまとわりついたままだった。
あの供養塔。あの見出し。
土の中に押し込められた人間は、どんなふうに死んでいくのだろう。
最初は、土の重さ。胸が押しつぶされて息が吸えない。
鼻と口に、湿った土が入り込む。奥歯の隙間に砂のざらつきが広がって、唾を飲み込むたびに喉の奥が擦れて痛い。
──やがて、耳の奥で、かすかな音がし始める
──土の中の虫が、髪の間を這い、皮膚に小さな口を開ける音。
その刺激が、熱と渇きでぼやけた意識に薄く広がる。
遠くで、自分の心臓の音だけが響いている。
思わず首を振ったが、すぐに別の光景が脳裏に割り込んできた。
──茶色く乾ききった竹の皮が、ぱちぱちと燃える音。
──燃え盛る火が背中に迫り、息を吸うたびに熱が肺に入り込む。
まだ湿った竹が爆ぜるたび、火の粉が飛び散って頬を刺す。
夫と妻が、互いを探すように左右に揺れながら、煙の中を必死に走る。
それは逃げる動きにも見えたし、踊るようにも見えた。足元の葉が燃え、次の瞬間、視界は白く弾けた。
脳裏の場面が、さらに変わる。
──閉じ込められた車内
──外の陽射しは強く、窓越しに刺す光は鋭い刃のようだった。
プラスチックのシートが肌に吸いつき、汗が蒸発するたびに皮膚が突っ張る。
息を吸うと、熱くて薄い空気が喉を焼く。
信じていた大人は、きっとすぐに迎えに来る。そう思っていた時間が、何度も裏切られる。
水が欲しい。喉の奥がひび割れる。唇が音もなく剥がれていく。
やがて意識は、ぐらりと後ろに倒れるように遠のいた。
……気づくと、私は立ち止まっていた。
図書館から家までの帰り道、足が鉛のように重い。
脳の奥に、さっきの痛みや匂い、熱さが染み込んでいる。
誰かの死の、その瞬間に、自分が確かにいたような感覚。
ぞわりと背筋が震える。
そして、不意に思った。
──これは、かわいそうな人たちの記憶なんかじゃない。
──私と同じように、確かに生きていた人たちだ。
その考えに、わけもなく胸が熱くなった。
供養塔の古びた文字が、私の頭の奥でまだ湿ったまま響いている。
昭和十二年、稲の元締めの納屋の裏で、生き埋めにされた村人。
記事には名前も、年齢も、ただ「村の男」としかなかった。
──彼は、きっと苗屋の夫婦を憎んでいたはずだ。
収穫の良し悪しを盾に、村人の命を握るあの夫婦。
土に押し込まれる瞬間、彼は思ったのではないか。
おまえたちも、同じように、ゆっくりと、苦しみながら死ねばいい。
自分の生を、このままでは終わらせない。
供養塔が壊れたとき、その怨念は、まるで封じていた水瓶を割るように溢れ出したのではないか。
時を越えて、全く関係のない竹林の夫婦を巻き込む形で。
逃げ場を失った二人は焼け死んだ。
その後、遺体は誰も引き取りに来なかったらしい。
──苦労して育てた子供は、遺体の引き取りを拒否して
……私にはわかる。
あの夫婦もまた、恨んだはずだ。
わが子に拒まれた悔しさは、誰かを巻き添えにしたくなるほどのものだ。
どこかに、小さくてか弱い命はないのか。
自分らが子供をどうとでも出来るという、暴力的な征服力。
そうして伸びた暗い菌糸が、園庭の土の下や遊具の影に広がっていったのではないか。
そして、犠牲になったあの子。
あのバスの中で、救ってくれなかった大人たちに怒っている。
その怒りは、まだ薄れていない。
きっと今も、道連れを探しているはずだ。
自分のように、じりじりと命を削る瞬間を、誰かに味わわせたいと願っている。
──その誰かに、誰かがなってしまうのだろうか。
黒く湿った糸が、私の足首から胸の奥へ、じわじわと絡みついてくるのを感じた。
蝉の声が、ざらざらと耳を削る。
──夏休みだ。
もうすぐ、この幼稚園ともお別れ。
朝から泣きわめく子、給食をひっくり返す子、園庭で砂を頭からかぶる子……。
手をかけてもかけても、すぐに振り出しに戻る毎日。
その中で、A君は変わらず手がかからず、私が他の子を叱る時だけ、じっと観察するように見ていた。
時折り、独り言をもごもごと言っているが聞き取れない。
「夏休みが終わったら、もう来ないんです」
同僚にそう告げると、「いいなあ」と笑われた。
この異質な園とも、裏の供養塔とも、あの標本を見るような視線とも縁が切れる。
そう思うと、胸が少し軽くなった。
帰り道、コンビニでアイスを買って、溶けかけた甘さを舌に広げる。
──終わるんだ。
勤務最終日は、片付けや書類で思いのほか遅くなった。
夕立の前の湿った風が、髪の根元にまとわりつく。
熱っぽさは昨日から続いていて、夏風邪かもしれない。
足取りを急がせながら、ふと園の裏手を見る。
……あった。
林の中の、細い柵の向こうに、淡い色のタオルハンカチ。
つい先日なくしたと思っていた、買ったばかりのやつだ。
誰かが柵の上に置いてくれたのが、風で落ちたのだろう。
まだ新しい。捨てるのは惜しい。
手を伸ばすが、柵の目は細かく、指先が届かない。
仕方なく、一度中に回り込む。
林の端、低木の間を抜けて、屈みこむ──
ザリッ。
足元が滑った。
落ち葉の下は、コンクリートの側溝。
角に頭を打ち、視界が一瞬で黒くなる。
……寒い。
目を開けると、薄暗くなっていた。
頭から側溝に突っ込み、顔の半分だけが外に出ている。
腕は気をつけの姿勢で、ぴったりと嵌まり、動かない。
スマホを操作しようにも、足元のカバンにまで手が届かない。
──笑える。
せっかくこの場所から離れられると思っていたのに。
ありえない状況だったが、視界の端には24時間営業のコンビニが見える。
そう待たずに、誰かが見つけてくれるだろう。
息を吸うたび、湿った土の匂いと、どこかで嗅いだ魚の腐った匂いが胸に入り込む。
なにかが、足元から這い上がってくる気がした。
うっすらと目が覚めると、頭の芯が重く、喉はカラカラに乾いていた。
暑さがじわじわと襲い、背中にべったりと汗が張りついている。
背中を、腹を、首元を、細く小さな無数の足が這う。
視界は限られ、顔の半分だけが外に出ている。
腕は側溝の中で気をつけの姿勢のまま固まっていた。
必死に体を動かそうとしても、足も胴体も全く動かない。
声を出そうと口を開くが、かすれたヒューヒューという音しか出ない。
人通りの多い道路も、遠くのコンビニも見える。
けれど、白く塗られた柵の反射で、こちらに気づく人はいない。
通りすがる車の音、遠くのコンビニの人影。
誰一人、私に気づく者はいない。
まるで私は、存在していないかのようだった。
時間がゆっくりと過ぎていく。
頭の中で、さっき図書館で見た生き埋めの村人の顔がちらつく。
火で焼け死んだ竹林の夫婦の姿も、子供の悲鳴も、全部が混ざり合い、湿った闇が心の中で広がる。
やがて空が暗くなり、ポツポツと雨粒が顔にあたりはじめた。
最初は小さな音だった雨が、次第に大粒になり、激しく叩きつけてきた。
水が側溝から流れ込み、顔に冷たく当たる。
息を吸い込むと、冷たい雨水が口に入ってむせ返った。
自由になる首から上を必死に動かして耳に水が入るのを阻止しようとすると、園庭からこちらへ雨水が流れ込んでくるのが見えた。
この側溝は、園庭が水没しないようにする設備なのだ。
それが今や私が堰き止めているせいで、泥とともに水没するのは時間の問題だ。
――死ぬ、死ぬ、このままじゃ、死ぬ!
顔を左右に激しく降ると、コンクリートが頬を削って鋭い痛みが走った。
その時、視界の端に、ぽっと明るい色がにじんだ。
見覚えのある小さな黄色い長靴。
雨がっぱに傘、小柄な体。
ばしゃばしゃと足音が近づいてくる。
しゃがみ込み、こちらを見つめていた。
目が合う。
――Aくん。
助かった、と胸が高鳴る。
鼻の奥がツーンとする。目に込み上げてくるものを必死に押さえ込んだ。
Aくんは感情のない目で私を見て、唇を動かした。
「ちゃんとして」
そして、立ち上がり、雨の向こうへ消えていった。
車のドアが閉まる音。エンジンの始動音。遠ざかるタイヤの水音。
雨は、やまない。
(完)
初投稿でした。読んでいただき、本当にありがとうございました。
少しでも何かが残る物語になっていたら嬉しいです。