第9話 あの一件
横南署第二取調室では、瑠璃が酒井を聴取する。
「グリムの居所?知ってても言うかよ。あいつのバックにゃ、中国マフィアがついてるって噂があんだよ。下手なこと喋ったら、青龍刀でチョンだぜ」
手で首を斬るジェスチャーだ。
「ほう、中国マフィアか。どこのだ?台湾、福建、上海…」
「そこまで知るかよ。でも、ゴリラだかサルだか、なんか…」
「チンパンジーか?」
「ああ、それそれ」
「青幇は上海だな。だがハッタリじゃないのか?実際に、そのマフィアに会った奴はいるのか?」
「いるさ。現に下手を打った仲間が、中華街で半殺しにされてんだ」
容疑者の供述を鵜呑みにする気はさらさらない。だが、確かに連絡に使うアプリは中国語である拼音仕様だった。
瑠璃が腕組みをする。
(嘘ではなさそうだな。調べてみる価値はありそうだな)
今度は一階にあるロビーで、出かける愛子と鉢合わせした。
「あ、愛子さん」
「…刑事さん?」
戸惑い気味に答える姿までも怪しく見える。私は悪い意味で捜査官に戻りつつある、と翔子は思う。
「確認したいことがあるんだけど、赤羽さんはいらっしゃる?」
「あ、今日は留守みたいですよ。出張とかで。でも、刑事さんが何度も事務所まで来るってことは、何かの事件?」
同じ趣味を共有する親近感なのか、タメ口だ。だが、若い子はそんなものだろう。
「ううん。ホントにただの事務的なこと。あと、私刑事じゃないわよ。制服だし」
そう言って、お堅い自分の制服を示す。
「でも、ニュースに出てなかった?『神奈川県警アイドルポリス、発砲して被害者を救出』とかって…撃ったんでしょ?バーン!って」
愛子の発砲の仕草に、何人か振り返る。
人目をはばかるように、翔子がロビーの隅に愛子を連れていく。
「あれはね…」
翔子は観念したように説明し始めた。
見るからに安アパートの玄関に「滝沢」の表札が掛かっている。
先程から呼び鈴を鳴らしているが、応答はない。だが…
(人の気配がするんだよな)
居留守の可能性は捨て切れない。なぜならこのアパートは義理の父親に売春を強要されている少女が住んでいたからだ。
翔子が所属する生活安全課で一度保護していた。ところが実の母親が警察に不服申し立てをして、取り返されてしまった。警察の民事不介入の原則には逆らえなかったのだ。
カギはかかっていない。そっと開けると、玄関に男ものの靴が見える。一旦ドアを戻し、無線をとる。
(生安巡査、護城です。応援の要請を願います。場所は…)
ニ十分が長かった。玄関の横で応援を待つ。
(教場で習ったのは、応援が来るまで待機。単独行動は厳禁…)
「いやあ。やめて!」
という叫び声が、部屋から聞こえてきた。男は薬物の常習者で、一刻を争う状況だった。
意を決して、部屋に踏み込んだ。
「滝沢さん!」
中には、片手絞めにされる亜美がいた。包丁を手にする血走った目の市川もいた。
「はっは。やっぱりサツを呼んでやがったな。亜美は、悪い子だなあ」
亜美の首をくいと締める。苦悶の声が漏れる。
「や、めて。パ、パ」
「お仕置きだ。サツの前で…殺す」
市川が包丁を亜美の首に当てる。
「武器とその子を、放しなさい!」
拳銃を抜いて構える。
「やあだよ」
市川の目は狂気に満ちている。
「…お願い…放して…」
泣きそうな気分でで銃爪を絞る。
発砲音。
「ギャア!」
弾が市川の耳元をかすめる。
亜美と包丁を放り出し、白目をむいて倒れる。
応援の警官隊がようやく到着した。
拳銃を構えたまま、へたり込む。
「う、撃っちゃ、った」
話しながら翔子はロビーのソファでうなだれた。
(ああ。私の警察官半生は、黒歴史だらけだ)
上野愛子は、じっと真剣に聞いてくれていたようだ。
「この国の警官は、拳銃を持たされてるのに…撃つと非難されるの」
一般人相手に愚痴をこぼしてしまった。
「でも、仕方ないですよ。その子をどうしても助けたかったんですよね?」
愛子は立ち上がって、自販機でコーヒーを買っている。
「私もそう言った。でも監察官からは『なぜ応援を待てなかった?これだから女は』って、頭ごなしに言われたわ」
「でも私は、女性警官だって勇気を出して守ってくれるんだ、ってわかったよ」
愛子がコーヒーを翔子に手渡す。あらためて見ると、この秘書は美少女だ。今日はパープルのスカーフを巻いている。
「…あ、ありがと」
「胸を張って下さい。翔子さんは、人を救ったんです」
「救った、か。でもね、人を救うって、そんな簡単なことじゃないのよ」
つい三週間前のことだ。
翔子は桜庭刑事課長に呼び出され、警察病院の精神神経科病棟に行った。
滝沢亜美は病室のベッドから庭を眺めていた。その目は虚ろで生気はない。
庭のベンチから病室を窺う翔子に、千春が説明する。
「滝沢亜美、17歳。三年前から昨年にかけて、母親の内縁の夫・市川文吾に売春を強要され心的外傷を負った。市川は服役中。母親は娘を置いて逃げ出した。養護施設に送るのが適当、と家裁は審判した」
「…やっぱり、救えなかったんですね」
「時間が必要なのよ」
今は刑事課に配属されているものの、千春は生活安全課時代の被害者のことをずっと気にかけていた。そして同じ気持ちであろうと翔子をここに呼んだ。
「来週、市川が仮出所する。服役で薬物こそ絶ったが、あいつの執着心は異常だ。施設でもここでも、自分の金づるを探すかもしれない。私の家にと思ったんだけど、あの子は極度の男性恐怖症なの。うちはダンナも息子もいるから…」
「いいですよ。預かります」
「恩に着るわ。身体に異常はないの。何とか一月だけ、匿ってくれればいいから」
「恩に着る、なんて。私にも責任がありますから」
「責任?」
その問いには答えず、黙り込んだ。
(あのとき…)
翔子の脳裏に、どす黒いイメージが浮かぶ。
発砲した銃弾がスローモーションで宙を飛ぶ。
弾丸は一直線に、市川の額に命中する。
(撃ち抜けばよかったんだ)
そのとき、翔子は確かにそんな思いに囚われた。




