第18話 上野愛子
雨の通勤時間帯ということで、京成スカイライナーの車内は混雑していた。パトを捨てて確実な交通手段を選んだ翔子は、満員の乗客にもまれる。
(亜美と満生君は…似ている」
なぜかそんな想念に捉われて、さまざまな映像が脳裏をよぎる。
市川に人質に取られた亜美とレイプされる満生が重なってしまう。
そこへ、ロビーで手を握ってきた愛子の顔が重なる。
(ん?なんで、愛子さん?)
護城翔子は直感タイプだ。論理の前にイメージが先走る。
窓の外に目を移すと、雨の勢いはない。
(平日夕方の雨。車を使うより、きっとスカイライナーの方が早い)
目の前の路線図を目で追う。
「大宮、赤羽、上野…」と続く。
いろんなものが重なる。今度は駅名と最近聞いた人名だ。
(大宮…健蔵。赤羽…真代。上野…愛子?」
前者ふたつはただの偶然としても、上野愛子まで重なるものだろうか?とって付けた偽名…そんな疑惑が湧いてくる。
隣の乗客が翔子にぶつかってきた。
「あ、すみません」
背の高い男性が、マスクをずり下げて翔子に謝った。
男性の喉元が翔子の目の前に現れ、白いガーゼマスクがスカーフの映像と重なる。
スカーフ…思えばいつも彼女は首に濃い色のスカーフを巻いていた…まるで喉元を隠すかのように。
喉元…教育チャンネルで放送していた、喉にメスを入れるⅤFS手術の映像。
ⅤFS手術…声を別人のように変える手術。
そして、上野愛子…上野愛子が偽名だとしたら…。
(あなたの、ホントの名前は…)
滑走路では雨が止み、上海からの到着便が駐機場へと進んでいる。
黒いスカーフを巻いた女性が、待合席でボードを見上げる。
「遅延」は「到着」に変わった。
席を立とうとしたところで、ふたりの空港警官が女性の前に立った。
「空港警察です。空港内でスリが発生しました。失礼ですが、お手荷物を拝見させて頂けませんか?あと、身分証も」
スリうんぬんは口実だ。先程本部から「女性も確認するように」との指示変更があり、空港警察官は職務質問の輪を広げたのだ。
「免許証は持ってないんで、これで」
スカーフの女性が保険証を提示する。これは最も偽造しやすい公的書類のひとつだ。
「上野愛子、さん。今日はどのようなご用件で成田空港に?」
ひとりが職質をかける間、もうひとりが愛子のバッグを開いて検査している。
「留学していた、友達に会いに…」
じっくりと顔を観察される。
しばらく品定めされたのち、敬礼してきた。
「失礼致しました」
「…失礼致しました」
もうひとりも敬礼しながらバッグを返してくれた。
上野愛子は、にっこり笑って会釈する。
(ありがとう。お母さん)
7月8日にさかのぼる。熊本市の浪岡総合病院院長室。女装した満生と君江の前には、頭を抱えるこの病院の院長・浪岡勝がいる。
「極秘にうちで整形しろ、やと?」
「満生を守るには、それしかなかと。顔の整形と声帯手術もしんしゃい」
「ⅤFS手術か。できんことはなかが…」
「なんでんよか。この子をこげんにしたとは私とあんたたい。さっさとやらんなら、DⅤしとる動画ば、ネットに流すばい!」
これが子を守ろうとする母親の強さか。いつにない君江の気迫に、勝は圧倒された。
世間体もある。やらざるを得ない、と観念もした。
到着ロビーの女子化粧室。誰もいない室内で、鏡に向かう。
喉の手術痕を確認してから、発声練習をする。
「あ、お、あえいうお」
鏡の中の上野愛子が浪岡満生に変わった。
「大丈夫。誰が聞いても、君の声は女性の声だよ。これで、また一歩近づいたね」
無論、本人の姿は愛子のままだ。
「でも、あなた自身はこの世界から消える。ほんとにそれでいいの?」
満生が微笑む。
「きみがいてくれたから、僕はもう一度生きる気になったんだ。後悔なんてないよ。きみは?」
「…たくさんある。真代姉さんやお母さんを犠牲にした。私自身も、これから人を傷つける。それにあのひとも…騙した」
「護城…翔子さんだっけ…」
「あのひと、誰かを捕まえるんじゃなくて、きっと、誰かを救いたい警察官。もっと早く翔子さんに出会えていれば、もしかしたら違う道もあったのかも」
「…そうだね。でも、時は戻らない。みんなのためにも、やるべきことを…」
扉が開く音。
鏡の中の満生は消えて、上野愛子が映し出される。
入ってきたのは、掃除婦に扮した長谷菜摘だった。彼女は洗面台に同一のバッグを置いてから、愛子が持っていたバッグを回収する。
「社長からの伝言よ。『満生君の気の済むように行動すればいい。たとえ中止したとしても、誰も責めない』」
「…」
「お母さんからも。『あなたがどうしようと、今までできなかった分、私はみっちゃんを支える。お母さんを許してね』」
一字一句間違いなく伝えた。
「…お、かあさん」
自称・上野愛子は替えのバッグを握りしめて、決意を新たにした。
京成線成田空港駅・セキュリティエリア。翔子は審査官に警察手帳を見せたあと、スマホに残る愛子の写真データを提示した。
「横浜南署です。この人物は、ここを通りましたか?」
「すみません。渡航者以外は、パスポートも荷物もチェックしていないので…」
「…ですよね」
一礼だけして、走り出す。
パンプスが脱げて、よろめく。
「ああ、もう」
パンプスを脱ぎ捨てて、走った。
空港付近の国道で、神奈川県警の白バイが渋滞につかまっている。
後部座席にタンデムしている幸田は、ヘルメットに装着された無線機で千春と通話する。
―幸田。そっちはどう?
千春の声だ。
「国道でトラックがスリップ事故を起こしたみたいです。バイクでも厳しいです」
刑事課長が無線インカムで幸田に指示を送る。
「護城はもう空港に着いてる。先に行かせる。それと、浪岡は整形している」
―せ、整形ですか?護城は、追う相手わかってるんですか?大丈夫ですか?
「あの子からの情報よ。幸田。安心しなさい。護城翔子は…」
言いながら、亜美のアパートでの発砲事件を回想する。
武装警官を率いてアパートに踏み込むと、市川に発砲して固まる翔子がいた。
「う、撃っちゃ、った」
片隅で震える翔子に語りかけた。
「翔子。もう終わった。離しなさい」
あえて名前で呼んだ。それから、拳銃をゆっくり取り上げる。
「…私は…彼女を…救えましたか?」
「…」
彼女…滝沢亜美が女性警官に保護されながら部屋を出て行く。
「彼女は、力に支配されてきた。あなたもまた、警察権力や銃の力で救おうとした。今日のことは、恐らくあの子のトラウマになる。残念だけど、まだ救えてはいない」
千春は首を振った。
翔子の行動を肯定しなかったのだ。「よくやった。怖かったでしょう」とその場だけでも慰めることはできたはずだが、そうしなかった。
女性警察官は力を背景にして、行動してはいけない。そんなことは男どもに任せておけばいい。私たちがとるべきは、違う行動。被害者であれ加害者であれ、ひとに寄り添う行動…桜庭千春は護城翔子にそう伝えたかった。
このときの翔子の頬には、悔し涙が流れていた。だから…。
「護城翔子は自分のやるべきことを、十分わかっているわ」
刑事課長は、幸田に対してそう断言した。




