第12話 性差
その晩、自宅に帰った翔子は亜美の部屋に向けて声をかけた。
「亜美。ただいま。お菓子があるんだけど、一緒に食べない?」
ノックをするが、応答はない。
諦めて立ち去りかけた頃、「食べる」という亜美の声がした。
ふたりしてリビングでスイーツを食べた。
しばらく沈黙の時間が流れる。
「しょ…」
「あ…」
同時に発声し、そのあと顔を見合わせて苦笑いをした。
亜美があらたまって頭を下げる。
「この間はごめんなさい」
「…」
「私、何もできなくて。お料理もお洗濯もヘタで。だから自分ができること、探したの。で…Hなことなら、翔子ちゃん喜んでくれるかもって」
切なかった。人との関りを持つための方法をほかに知らない少女。
「でも、でも、私だってあんなことされるの好きじゃないもん。ごめんね。嫌なことして、ごめんね!」
亜美が涙ながらに謝る。
「違う!違うよ。私の方が…ごめん!」
亜美の両手を握る。今ならさわれる。
「ゆ、許してくれるなら、も少しここに、い、いさせてほしいの」
「いいよ。当り前じゃない。ずっとだって、いいんだからね」
「ホント?」
「今夜から、一緒に寝ようか?」
「…」
「ただ一緒に寝るだけよ。嫌なことなんかしなくていい。お互いにね」
「うん!」
天使のような微笑みだった。
そしてそれは、翔子の中で固まっていた氷を一瞬で溶かした。
心を開いていなかったのは自分の方だった。翔子は省みて、自己嫌悪した。
その夜は同じベッドで寝た。
亜美が隣で寝息を立てている。
(私は腫れものに触るみたいにこの子に接してきた。ひとを救うって、寄り添うことなのに)
寝顔を見れば、彼女はやはり幼い少女なのだ。
(この子の求めるもの。今は持っていない、大切なもの…愛情。家族)
何かを思いつく。
(ああ、そうか。持ってないなら、作ればいいんだ)
横浜南署の組対係。
自分の席で牛丼を食いながら、幸田は部下の松井の報告を受けていた。
「はあ?今時、拳銃を密売人から買うやつなんかいんのかよ。ネット使やあ、ノーリスクで買えんだろ」
「それが密売人の話によると、相模会に下ろしたらしいんです」
「抗争の種もねえのに、銃なんか仕入れるわけねえだろ。あいつら必要最低限は、常にストックしてるからな」
ガセネタ、と踏んで適当に聞き流している。
「それが『使うのは素人だから、扱いやすい銃にしてくれ』と、言われたそうなんです。しかも若頭の塚原に、直で」
「塚原に?」
ようやく幸田が食事の手を止めた。
横浜港のコンテナ倉庫街。
赤羽真代は係中に腰掛けて煙草を吹かしていた。ぼんやりと横浜港を眺めている。
かもめの鳴き声と波音に混じって、背後のコンテナから銃声が聞こえる。パン、パンと断続的に鳴っている。
(煙草は…やめてたんだけどねえ)
煙草を消す足元には読みかけの「週刊リアル」のページが海風になびいていた。
瑠璃が上海に出張している間、翔子は幸田と組むことになった。
今日も覆面パトに同乗したのだが、運転席には幸田が座っている。
「幸田巡査部長。自分が運転しますよ。巡査ですし」
「階級の問題じゃねえ。俺が女の運転は怖いんだ」
「…」
「あ、勘違いすんなよ。これは差別じゃなくて性差だ。おん…女性の脳は空間把握能力に欠けるから運転には向かない、という科学的根拠に基づく…」
翔子が憐みの目で言う。
「大変ですね。イマドキ男子も。下手な事言うとすぐ、セクハラだコンプラだって。でもその『男脳、女脳』っていう一時流行った学説、今は脳科学会で完全に否定されてます。人間の脳に性差なんてないそうですよ」
苦々しく幸田が応える。
「お前、そういうとこ似てるわ。堂前に」
「堂前さんと親しいんですか?」
「親しくはねえが、警察学校の同期だ」
「どんな方ですか?」
「こいつには勝てねえ、って思わせる奴だ」
さらに苦虫をかみつぶしながら吐き捨てる。
警察学校時代。武道場での術科教養。
ジャージ姿の若き幸田と名倉、そして瑠璃が逮捕術の授業を受けている。
半袖の警察服に膝丈のスカート、という瑠璃の制服姿を見とがめて教官が言う。
「堂前。お前、なぜジャージを着ない?」
「すみません。より実戦に近い状態でなければ意味がない、と思いまして」
しばらく教官は考え込んだが「一理ある」とそのまま訓練を続けた。
「は!」
瑠璃が名倉の腕をひしいで投げ倒す。
続いて、背後から警棒を振りかざして襲い掛かる幸田も…。
「は!」
瑠璃はスカートを捲り上げて、下着が見えるのも構わず幸田に回し蹴りをくらわしたのだった。
倒れた幸田と名倉を見下ろして、瑠璃が言う。
「幸田。名倉。相手を女だと思っているうちは、逮捕はできんぞ。犯罪者に性差なんてないんだからな」
その言葉に幸田は悔しがる顔を、名倉は憧れの顔を向けて見上げた。
思わず口笛を吹いた。
(ひゅう。堂前さん、かっけえ)
構わず幸田が続ける。
「腕っぷしだけじゃねえ。リケジョのあいつは特殊詐欺のメールを解析して、何人もの黒幕を検挙した。結果、階級も役職もあっちのが上だ」
「だったら、私と全然似てませんよ」
エリートと落ちこぼれなのだから。
「俺が思うに、堂前は男相手なら無敵だ。だがやつもお前も、女からは憧れられるか憎まれるか、どっちか両極端だろうよ」
黙った。思い当たることがたくさんあったからだ。
「女の敵はオンナ、ってやつさ」
上海の日本領事館。窓の外には上海タワーが聳え立っている。
会議室に通された警察官僚の北島と渡辺、それに瑠璃の三人が中国外交官の話を聞く。
「中日刑事共助条約に基づき、日本側が追っている容疑者達に対し、旅券返納命令を出しました。これにより、彼らは国外退去処分となります」
外交官の言葉を広東語に堪能な瑠璃が、北島達に通訳する。
北島はあからさまに失望の表情を浮かべている。
(なんだ。向こうは外交官だけじゃないか。来るんじゃなかったな)
通例ではここに中国政治局か公安部の高官が立ち会う。だが今回は事件の規模の小ささに、高官たちは興味を示さなかったようだ。
「送還対象の確認をしたいのですが」
渡辺の言葉を瑠璃が通訳する。
「こちらが、彼らのパスポートのコピーです」
外交官がコピーを並べていく。
(やはり神谷は…いないか)
失望した。だが、一枚の顔写真が目に留まる。
(ん?こいつは…)
バー集合写真の中の中にあった顔だ。パスポートの名義は「氏木」とある。
「警部補。これで手続きを進めるが?」
「はい。実行犯や被害者達の証言とも合致します。問題ないかと」
「ようし。じゃあ、今夜は慰労会だ。カニでも食ってパアっとやろう。美人コンパニオンもいることだしな」
そう言って、瑠璃の太腿を軽く撫でる。警察官僚の中にも昭和の老害はいるのだ。
(ち。誰がコンパニオンだ)
謝辞を述べて退出しようとしたとき、中国側外交官が言った。
[但し、引き渡しは後日となります]
聞き間違いか?いま、後日と言ったか?
瑠璃の目が光った。




