第10話 チャイナドレス
翔子は愛子にもらったコーヒーの黒を見つめる。あの思いはこんな色だったなあ…。
と、隣で愛子が小さく拍手しはじめた。
「え?」
翔子が顔を上げる。
「すごい。すごいです。その場しのぎじゃなくて、ただ派手なパフォーマンスじゃなくて、地道に最後まで責任を果たす。翔子さん、リスペクトです!」
感激した様子で翔子の手を握ってきた。
「や。私はただ、千春さんの真似を…」
「ね。今度その亜美ちゃんに会わせて。私、きっと話合うと思う」
「…う、うん」
「あ、時間だ。じゃ、私行きますね」
何かを振り切ったように、可憐な女の子がビルを出て行った。
横浜中華街。
「張本漢方薬局」という赤い看板を掲げた店の前で、瑠璃が立ち尽くす。
後悔している。チャイナドレスだからだ。
スレンダーなのにアピールすべき部分は突出している、自覚している通りのナイスバディだ。
(屈辱だ。だがあのジジイは、こうでもしないと言う事を聞かない)
薬局の中に入っていくと、円卓で詰め象棋(中国将棋)を打つ張の姿が見えた。広東語で話す。
〔ご無沙汰してます。張大人。横浜南署刑事課二係・堂前です]
両腕を掲げて中国式の挨拶をする。
[わが姪よ。おまえが他人行儀な時は、ろくな事がない。帰れ]
張もまた広東語で、瑠璃を見ずに吐き捨てる。
[この男を追ってます]
構わず、神谷の写真を将棋盤の上に置く。
張が老眼鏡をずらし、写真を一瞥する。
[日本の鬼子か。ん?]
写真の向こうには、瑠璃の美脚が見えている。
「見ろ。やっぱり似合うじゃないか。小姐、よく見せてくれ」
日本語で叫びながら、張が立ち上がった。
叔父が姪の誕生日に買ってやったチャイナドレスを、なめるように見る。
(我慢だ。ガマン)
瑠璃は、女という性をアピールする衣服が大嫌いだ。
いや、女という性そのものも嫌いだった。
ぞわぞわと首筋に鳥肌が立った。
同じ頃、翔子は「DiverCity」に向かっていた。
(今日は堂前さんも別行動だし、現場百回っていうし)
瑠璃の忠告もわかる。感情移入してはいけない。だが彼に何かあったのなら、力になりたいという思いは止められない。これが母性なのか保護欲求なのか、わからなくても。
それに、少し気づいたことがある。初動がうまくいきすぎている気がするのだ。
たまたま自分が聴取や採取したものが、今まさに佳境を迎える事件の重要なポイントとなった。それもふたつの事件にである。
違和感を感じ、聴取した録音データを何度も聞き返してみた。すると便利屋で聴取した上野愛子と赤羽真代の証言が微妙に食い違っていることに気づいた。
愛子は、神谷という男とはキャンパス内で出会ったと言っていた。
だが赤羽は、何かのプロデューサーである神谷と満生が知り合ったのだと言っていた。
(神谷勇樹のキャラ設定がブレブレっていうか、決め切ってないような)
マンガの登場人物でもよくある。当初は意地悪な悪役キャラだったのに、読者の評判が良くなってくるといい人に変貌していき、後付けで「ツンデレだった」ことにしてしまうブレ設定。
(いや。マンガに置き換えるのは違う…ん?)
黒い煙が目の前に漂う。
(ああ。これはあれだ。煙だ。火事の時とかに出る…)
目を凝らすと、その煙の出元は以前訪ねた会員制バーだった。
ボヤなどではなく、黒煙を上げて豪快に燃え上がっているのだ。
「…DiverCityが、火事?」
漢方薬局の壁には、中国公安警察時代の張の写真が飾られている。幹部クラスまで昇進したので今でも顔が利くのだ、と本人は自慢していた。
その元幹部がいじっているブラウン管TⅤには、上海の監視カメラのマルチ映像が映っている。
「この電話番号でいいんだな?」
莉緒のスマホに残っていた着信履歴の番号を入力する。
実行犯に指示していた拠点を洗い出すつもりだ。
張は中国当局のデータベースにアクセスするパスワードを知っている。昔の部下たちの弱みを握っているからだ。
瑠璃は張に代わって詰め将棋を打っていた。チャイナドレスのスリットから長い脚を剥き出しにして、胡座をかいている。
リモコンで検索条件を指定し、AIを起動する。
画面に現れた無数の番号から、人工知能が当該の住所を探し始める。
数秒でスラム街の一地点がヒットした。次はその住所から上海公安当局が管理する監視カメラの映像を探し出す。
「なあ、瑠璃。上海のIT社長と見合いしてみないか。日本のセレブとは桁違いの金持ちだぞ。おまえほどの麗人なら、いとも容易く…」
「何度も聞いたし、何度も断った」
「南京東路K」の映像が点滅する。AIが突き止めたようだ。
「小姐!」
手招きされた瑠璃がTⅤ画面を覗き込む。
上海のスラム街の片隅に建てられたプレハブ小屋だ。いつでも撤収し証拠隠滅できるように建てられた、指示役やかけ子たちのアジトだろう。
やはり、グリム・グループは上海にいた。
将棋盤を引き寄せる。
「グリム…将死!(詰みだ)」
パチリと兵の駒を敵側の将の前に打つ。
と、直後に瑠璃のスマホが鳴った。
発信者は「問題児」とある。
「護城か。どうした?今日は別行動って…はあ?お前、今どこだ?」
DiverCityの敷地には、消防車等の緊急車両が集まっている。
到着したタクシーから瑠璃が降りる。
「護城!」
「ここです!堂前さん」
手を振る翔子に駆け寄る。
「ど、堂前さん。それは一体…」
鳩豆顔の翔子の目が、チャイナドレスに釘付けになる。
「後で話す。それより、現状を報告しろ」
「あ、はい。三十分ほど前、私がこのDiverCityを訪ねたら既に…」
「いるのか?グリムが。クソ!」
瑠璃が走り出し、翔子が追いかける。
消火と排煙作業の真っ只中を、ふたりして庭先に進んで行く。
消防隊員が、遺体らしきものを担架に乗せている。
「通ります!」
瑠璃と翔子の目の前を担架が通る。
「護城。見ろ」
遺体の左手。
小指が欠損している。
「署に送られてきた小指、かもしれん」
「…ロマンちゃん?」
ふたつの事件がここでつながった。
9月21日。身元不明の焼死体が発見された、と報道された。だが、小指の欠損については伏せられた。
警察病院の遺体安置所で、その黒焦げの焼死体を見る。
翔子は憔悴し切った君江に付き添った。ようやく連絡をとれたと思ったら、言いにくい報告をしなければならなかった。
「お母さん。この状態では難しいですし、お辛いでしょうが、いかがでしょう?」
「…満生、かもしれまっしぇん。けど、満生はこげん太ってたやろか?」
その理由は警察医に聞いている。
「少し大きく見えるのは、焼死の場合肉体が膨張するからだそうです」
「そいけんね。女の子んごと華奢で、いつでん私んことば心配してくれる、優しか子が…こげん姿に…うう」
母親がしゃがみ込んで嗚咽する。
同情しつつも、翔子はまた少し違和感を覚える。
(こんな状態なのに、あっさり認めた。母親なら、簡単には認めたくないんじゃ?あ…)
脳裏に浮かぶのは、小柄な満生と一回り大きい神谷の2ショット写真だ。
確か満生の身長は165センチ。若い男性としては小柄な方だが、遺体は170少しの平均的男子の身長である。
(膨張するって言っても、背丈まで伸びるもの?)




