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光井はガラスのように透き通った緑色をした地面の並木道を歩いた。午後2時すぎだが、人はまばらに歩いている。
「ぼーる」
2歳くらいの子供がひょこひょこと光井に軽くぶつかって止まった赤いボールを取りに来た。彼はその子供を慈しむように見つめて、しゃがんでボールを拾った。
「はい、気をつけるんだよ」
子供はいつ見ても愛らしい。ただ、目の前の欲しいものを得ることを考えて、そのために行動する。そこに煩わしい思惑などなくて、ただ直球に欲求する。自分はいつから子供のように考えなくなったのか、子供のように生きていれば、死ぬしかないと考えることなどないのではないか。
ボールを子どもに手渡すと、子供はくしゃっとした笑顔で感謝を述べた。
ほんのりと心が温まる。去っていく子どもを見つめていると、せかせかと歩くスーツ姿の男を見つけた。彼は顰め面で肩を怒らせて歩いていた。着ているスーツはぴしっと彼の体にフィットしていて、様になっていたが明らかにただならぬ雰囲気を醸し出している。
男を観察していると、今度は通りに設置されているベンチにおもむろに座り、足を組んでタバコを吸いはじめた。せかせかと一挙手一投足に落ち着きがなかった。
光井にもその焦りが感染して、辺りを右往左往眺め見る。男は周りを頻繁に眺め見ては、顰め面でタバコを吸う。タバコで少しでも焦りを消そうとしているのだろう。
暫くすると、男の近くに全身黒の服を着た一人の人間が寄っていった。男がビクンと体を跳ねると同時に、黒ずくめの男はスーツの男に近づき、すっと離れた。
一瞬の出来事だった。黒ずくめの男はよろよろと後方へ後ずさりし、来た道を戻っていく。
スーツの男は、ベンチから動かずさっきのせかせかした動きを止めていた。しばらくベンチに深く沈み込むように全身でベンチにへばりついている。大きく股を広げて、ひどい座り方をしていた。
光井が変に思って、じっと見つめていると、男は咳払いをして、口から赤いものを出した。それは血だった。慌てて、男の近くに寄って体を揺する。腹部に長い牛刀で一突きに刺されていた。スーツ男は青白い顔をして、口から唾入りの血をはぎだしている。苦痛に顔をゆがませ、額からはじっとりと粘ついたような汗が出ている。鼓動が早くなる。ここでこの男を助けなければ、この男は死んでしまう。一刻も早く助けなければいけない。光井はそう思って、119番通報した。
「大丈夫ですからね!」
スーツ男を見つめながら、必死に声を張り上げて彼を励ましていた。スーツ男はウンウンと頷くと、一気に血をはきだした。彼に安心感を与えるために肩をさする。可哀想に、牛刀は彼の体に沈み込むように刺さっていて、肉体から生えているようにも見えた。この男は誰かに恨まれていたのだろうか、人から狙われるというのはそういうことのような気がした。通り魔的犯行だともいえなくはなかった。誰かからはっきりとした殺意を向けられた記憶はないけれど、誰かが自分を殺してくれればこんなことで悩むこともないのだろうもも思った。少し目の前の男が、羨ましく感じる。しかし同時に、青白い、消耗していく顔を見てとても怖くなった。苦痛に耐える覚悟があるのだろうか、一気に自分を襲うじわじわとした痛みに耐えきれるのだろうか自信はない。
男の右手を握ろうとしたとき、中途半端に吸っていたたばこを男はぎっちりと握っていた。手にかすかな火傷の跡が見える。震える男の手を握ると、男はぐったりした状態であえぐように話し始めた。
「あれは誰かが僕を殺そうとしたんだ、業者を使って。誰かが僕を恨んでる」
言い終わると、口から真っ赤な液があふれる。鉄の臭いが充満する。
「もう喋らなくていいから。死んでしまう」
光井に言えることはそれしかなかった。この男は、ここで生き長らえても再び恐怖を感じながら生きることになるだろう。果たしてそれが彼のためなのか。いくら考えても分からなかった。怯えながら生き続けることのほうが生きていて地獄のようではないか。
男は救急車で運ばれていった。具体的な話を警察に見たまんま話すと、怨恨の可能性が高いということだった。誰かがそういった仕事をする人間に依頼して、彼を殺そうとしたかもしれないということだ。光井の生きる世界では、決して身近にないことだが、男の世界では頻繁に会ったことなのかもしれない。犯人は170センチくらいの身長で、全身を黒の洋服で身を包んでおり、特徴を隠していた。犯人を捜すのはかなり困難であるようだった。
〜
「川久保が刺されたって?!」
思わずスマホに力が入る。依頼人に制裁が加わったのは初めてのことだった。野﨑義雄はまだ殺害していなかった。誰かが川久保を狙っていて、復讐するために彼を殺そうとした。八木橋の背中に冷たい汗が流れ出る。電話の主は川久保の部下だった。
「川久保さん、今日の午後2時くらいにみなそこ区の◯区の街路樹あたりで休んでいたところを一突きで刺されたんですよ。僕も慌てて、病院に行ったら重態で。あの人のやり方はむちゃくちゃだったから、いろんな人に恨まれてたんだって気づいて」
「もう手ばなすようにしたほうがいいよ。あのビジネスは、命が何個あっても足りない。騙すのはそれ相応のリスクがあるってことだ」
「俺はもう降りようと思います。川久保さんには悪いけど、殺されたくないし」
「そのほうがいい」
八木節はそう言って、電話を切った。川久保に会いに行くか、仕事を遂行するか。どっちを優先するか迷ったが、仕事をしに行くことに決めた。あんな大口を叩いていた男が次の日には殺されそうになるなんて、やはり世の中は悪人には容赦がないようだ。
〜
連城アスミはみなそこ区の総合病院に来ていた。昔からの友人が突然負傷したという話を同業者の間で横のつながりが広い上司から聞き、お見舞いをしに行こうと決意した。
彼とは8年ぶりの再会となる。最後に会ったのは東京で自分が専門学生の時に彼と遊んでそれきりだった。彼は高校時代からの付き合いで、彼女には彼は特別な存在だった。
目的の個室に入っていく。真っ白な室内だった。かすかなツンとしたアルコールの香りがする。明るい日差しが窓際で反射していた。
彼、川久保槙人は上半身をベットの背もたれにもたれかけて、スマホをいじっていた。顔色は青白かったが、落ち着いたその顔は今の状態を安心しているようだった。
「ひさしぶり」
アスミが室内に入っていくと、槙人は眉を顰めて彼女を見つめた。その顔に一気に動揺が広がる。どうしてここにとでもいうように一気に顔が曇って、アスミは彼と会ったことを少し後悔した。迷うことなく、ベットの傍らにある来客用の椅子に座ると、持ってきた花束と果物をテーブルに置いた。
「数年ぶりだね。ここが分かったんだ?」
くぐもった声で槙人は尋ねてきた。
「上司が横のつながり広い人でね、君が襲われたこと知ってたの」
「そうか」
槙人は、大きくため息をつくとアスミに背中を向けて、横になった。
「災難だったね。君が変わった仕事をこっちでしているって知ってたけど、知らない振りしてた。また会うってなったら、最後会ったときにあんなことされたから、感情的になってなにするかわからないもの」
ビクリとわかりやすく体を揺すらせた槙人は、黙っていた。沈黙を無視して続ける。
「逃げれない時にきてやろうと思って。そうすれば君の反応を見ながら、本当のことが分かると思ってね、今回のこの事件は私にとってかなりの幸運だったよ」
「病人に言う言葉じゃないな」
ボソッとした声で悪態をつく。
「優しい言葉が欲しかった?私から」
ボールを投げつけるように言うと、槙人は黙ったまま前方の窓を見つめていた。
「僕はいつだって君からの優しい言葉を欲しているよ」
突然ポツリといった槙人の言葉にぎくりと動揺する。アスミは腹立たしい気持ちを抑えながら、冷静に言った。
「そんなこと思ってたらあんなことしない。それだったらどうして8年前、待ち合わせ場所に来なかったの」
声を荒げそうになったが、どうにか抑えて淡々と伝えた。槙人は、そのアスミの様子も見ずじっと窓を見つめたまま言った。
「君が僕と一緒になったとき、幸せになれると思えなかったんだ」
すうっと体に染み込んでくるような言葉だった。それはアスミ自身思わなかったわけではない。ずっと考えた上、決心してあの場所に向かったのだ。
「君は私の気持ちを知っててあんなことしたんでしょ?楽しかった?甘い言葉ばかり吐いて。私は覚悟を決めてあの場所に向かったのに、どうして期待させる言葉ばかり言って無下にしたの」
どんどんと感情が溢れ出てくる。今さらもとに戻ることのない虚しさ、失われた信頼関係、とりのこされたみじめな気持ちが一気にアスミに襲いかかる。
「君がこうなるのもそういう態度だからだよ」
槙人に突き刺さるようにと願いながら、鋭く言った。
「俺は後悔してないよ。あの行動は自分の中では正しかったと思ってる。君としたあとは感情的になっててもしかしたらこんな自分でも幸せになれるんじゃないかと甘く考えていただけだ。だから、君に無責任に言った言葉は謝るよ。でもあの時感じたことは嘘じゃなかった」
槙人はその時アスミの方を見つめて話した。どこか遠くを見るような目つきだったが、どことなく儚げなその佇まいに心が動いてしまう。
「君は逃げるのがうまいよ。昔からそうだった。
私が何を言われれば喜ぶか知ってたもの。私はあの時君の言ったことすべてを信じて、向かったの。私も君と一緒にいられればそれだけでよかったんだもの。君といることが幸せだって君が好きだったから思えたことなの。それなのに無視して、ずっと連絡もとらないなんて酷い」
アスミは冷たい槙人の手を握った。心が伴わない言葉ではなかったのに、どうしてそのときになって拒否したのかが分からなかった。彼の言葉に操られているような気がしてならなかった。ずっと音沙汰なく消えた彼を心配すると同時にはげしく憎んだ。
「いい人見つかったかい?」
淡々とした調子で爆弾を突っ込むところも変わらない。この男は人のことをよく逆なでする。
「なんでこの話をしていて、そういうことが軽々と言えるの。おかしいと思わない?試し行動をしたいの?私が今でもあなたのことを好きっていえば満足?」
「そうじゃないよ。こんな君に何も言えない男に君が未練を感じる必要はないと思ってね。さっさと次に行ったほうが君のためだよ」
「どうしてそういうことを言えるの?私たちの関係ってそんなもんだった?私はそんなふうに思わなかったのに」
「もうやめよう。あの時、ずっと無視したことは君を幸せにできないと思ったから、連絡したら君に期待させてしまうと思ってだよ。期待させた言葉を言ってしまったこと謝るよ」
「私は君が高校時代に私のそばにいてくれたから生き延びれたの。君がいなかったらきっと押しつぶされてたの違いないの。君が私と関わってくれたから、あのことも踏ん張って頑張れたの」
槙人はアスミを見つめると言った。
「僕は君のような子がいてくれたから、マイノリティな自分に価値を持つことができたんだ。僕はゲイだ。それは今も変わらない。高校時代からずっとそうだった。そんな時、君が高校教師と出来てて、あの教師が退職してそのことが全部溢れるように噂になった。君のような子がいるってわかって、僕は自分を肯定するために君を利用したんだよ。君と関わることで一人じゃないって思えることが安心だったんだ」
「何言ってるの?」
「君みたいな綺麗な人が孤立してるのをいいことに自分を肯定するために君を利用したんだよ。僕がずっと不思議だったのは、君みたいな美人ならその高校教師から毎回テストの答案やら勉強やらを特別教えてもらってればいいのにって思ってたよ。そんな汚いことするやつは利用してやればいいんだ」
「そんなつもりで付き合ってたんじゃない。あれは私が受け入れただけよ」
「僕はいつも君を気の毒に思ってたよ。美しいとこういう人間が寄ってくるんだなって。あの教師が辞めてくれてホントにせいせいしたけど、そういうヤツが世の中にいるのがたまらなく嫌だったね」
「何がいいたいの」
「もっとはっきり言えば、君のほうが俺よりもきたないと思ったってことさ。でも君自身はとても美しい。そこがたまらなく魅力的だった。他の人間は君に声をかけられない。それでも僕は君の近くにいて話をすることができる。その状況が心地よかっただけだ」
それはアスミ自身思っていたことだ。高校教師からの好意など拒否してしまえばよかった。だが、自分が拒否することで嫌がらせを受けそうな気がしたこととあの教師が辞めることを考えると自分が黙っていれば話はウワサになることがない。それを優先した結果があの状態だった。
「私は今でも君が好き。それは8年前とは変わらないわ。君が私に期待を持たせて、ずっとすっぽかしていたのは君にその気がないからって分かってたけど、大人になった今でも君のことが忘れられない」
アスミを憐れむような目で見つめる槙人は、彼女の右手を離して言った。
「僕は何回も言うけどゲイだ。君を幸せにできてたら一緒になってるよ」
「それしか言えないの!」
鋭い声に槙人は体を震わせる。
「それじゃあ、あの行為は何だったの?あれで感じたことも嘘だったってこと?」
「若かりし頃の思い出だと思うしかない」
「あの言葉は本当に全部ウソだったのね。
君ってほんと残酷な男。気を持たせるだけ持たせて、用がなければ捨てるように対応する。私たちは親友だったのに、その親友に言う言葉も嘘だったのね。君は私のことなんかただやれる女くらいにしか思ってなかったんでしょう。ほかの男の人が私に抱く気持ちと同じように体目当てでどんなもんか味見してみたいって好奇心を起こして、あんなことしたのね。全部ウソならもういらない。あんたなんか死んでしまえばよかったのよ」
アスミは鳴き声を上げながら部屋を出ていった。机に置かれた花にはハエがたかっていた。
槙人は深い溜息をついて、顔を両手で覆った。