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「だぁー、また足りないや!」
音脈会という宗教団体の事務所の一室で大声を上げた男、川久保は頭を抱えていた。
信者から毎月もらう会費が明らかに足りない。誰かが会費を払わずに、会に参加していることを意味していた。毎月5万というかなりの金額を納付するように言っているが、これまでにも何度もあった。
入会者の自宅に行って、取り立てることもあったが最近はもうやめてしまった。一度でも出さなかったら最後脱会のルートに突入させる。
「またですか?」
部下の横山が傍らで言ってきた。まだ若く二十代の役員だ。
川久保はため息を吐きながら答えた。
「今回は十五万足りない。ちっ…、また脱会するために金が出せないやつがいるみたいだ」
つまり3人だ。金額の入った封筒の名前と会員名簿を照らし合わせると、山田、杉田、小松の3名だった。
川久保は、今度の講習会で3人を問い詰めようと決めた。
「つまり、このお香を買うことで音脈様と深くつながることができる。私たち信者はひとりひとりは弱くて儚いもの。ですが、このお香を皆で焚くことによって相互の力が感化され、倍になった力で私たちは幸福へと音脈様に導かれるのです!」
「買います!買います!」
7人のうち5人が勢いよくお香を買うために、川久保のもとへ向かう。白いテーブルクロスの上に置いてあった、白檀のお香に群がるとサクラではない信者の2人が5人の様子を見て、買うか迷っていた。
「ささ、人数分なくなるかもしれませんよ!
これがあれば、災いも吹き飛んでいく!
…天音さん、あなた、息子さんが働いてくれないそうですよね?」
川久保はメモした相手の家族構成で、1番相手が悩んでいるだろうことをつつく。
「もしですよ、これであなたの息子さんが仕事をしてくれるなら安いものではありませんか?」
「そんな、都合よく行くわけ無いですよ…」
疑心暗鬼な天音は、か細い声で反論した。弱々しい声で、今にも消えてしまいそうだ。
「大丈夫です!僕が保証しましょう。僕が音脈様に直々にお願いして、あなたの息子さんを会社勤めになるようにしてさしあげます」
川久保はギラギラとした快活な顔つきで、天音に希望を話す。天音はその勢いに思わず返事をしそうになったが、お金がないんですと会費を払ったことで今月使える金がないことを話した。
「それじゃあ、この話はなかったことで」
一気に冷たくするのも川久保の作戦だった。相手を揺さぶって、突き落とす時の衝撃で次の行動を起こさせるのが目的だ。天音は川久保の態度に動揺し、ここでお願いがかなった場合の幸運を想像する。一か八か賭けるときは今だった。
「わかりました…。払います。消費者金融に借りて…」
「OK!いいですよ!待っていてあげましょう。
音脈様は必ずあなたのお香を焚いた瞬間に天音さんの願いを聞き入れるでしょう!」
交渉成立。これである程度金が手に入るな。
川久保はにやりと笑って成功を祝した。
「100万だ。これである程度潤うな」
川久保はドサッとソファに座り、天音からもらった札束を机の上に放り投げた。
「でもどうするんです?息子を会社勤めにさせるだなんて。嘘ついちゃって」
横山が笑いながら言ってきた。
「ちゃんと用意してるよ。僕がそんな無責任にやってるわけないだろう?」
「どうだか?あなたのやり方は強引すぎますからね」
「ちゃんと僕が紹介した仕事をやってもらうようにしてるんだから」
川久保は思い描いている計画を思い出す。ある某防犯管理会社が人員不足で人を雇いたいそうだから、彼にその息子をあてがうことにしよう。それなら一石二鳥だ。使えなければ、あっちで対応するだろうし、天音は会社に毎日出社する息子を見て音脈様の力が本当だと信じるに違いない。川久保はこの労の少なさで得るものが沢山ある現在のやり方に満足していた。
音脈様というのは、音脈会の神様というべき存在であり、崇め奉られる存在だった。それを作ったのは川久保であり、彼は音脈会の重鎮であり、主催者の位置にいた。彼が音脈様と通じ合える唯一の人間であり、意思を聞くものである。つまりは音脈様=川久保ということを示した。御本尊である偶像は、無名の画家に描かせた真っ赤な絵の具の何とも言えない絵であり、それを祀っている。川久保は信者たちの悩み相談に乗り、数々の悩みを一時的に解決してきた。大金の見返りにそれくらいすることは屁でもなかったからだ。だが、その救済措置が粉々に砕かれることがあった。彼のやり方があまりにも短絡的で、無計画なせいであった。
コンコンとノックの音が聞こえる。
2人は顔を見合わせ、返事をすると、一人の小柄な男が顔を出した。
「野崎さん…」
それは3ヶ月前に娘を亡くした男だった。むっつりとした仏頂面で、部屋に入っていく。
「あんたたち、まだやってるんだってな。
いくら犠牲者を増やせば気が済むんだ!」
野崎は娘が不登校で悩んでいたのだった。高校1年生になったばかりで学校に行かなくなった娘を再び学校に行かせるために、音脈様に願いをかけた。
その金額何百万円…。
願いを聞いた川久保は持ち前の軽いフットワークで、野崎の娘と会い、彼女と一緒に学校に行くように取り計らい、様々な手立てを企てては実行していった。
その企ては全て短絡的なものばかりであり、慎重に考えられて実行されたものではなかった。その反動が一気に野崎の娘を襲ったのだった。
「何が音脈様だ!あんたたちが関わったから娘は死んだんだ!」
幾度となくやりとりした口論に飽き飽きし、川久保はすぐさまスマホで110番通報をする。
「野崎さん、その節はお悔やみ申し上げますが、もう終わったことでしょう?何度も来られても僕たちは死者には何もしてあげられません」
川久保が流れるような調子で言うと、野崎はその川久保のシャツの襟を無理くりつかんだ。川久保は驚いて、スマホを落としてしまう。
「お前たちが関わってこなければ、私がお前たちに金を与えて頼まなければよかったんだ」
野崎の小さな瞳に涙があふれる。自分のたった一人の娘の生命を安直に人に頼んだ自分にも腹が立っていたのだった。
「辞めてくださいよ。こんなことしても娘さんは戻ってこないんだから。だいたい、音脈様はあなたの娘さんを約束通り不登校から学校に通わせましたよ。僕たちだってそれを全面的に助けてあげました。勝手に死んだのはあなたの娘さんだ」
「娘を悪くいうな!」
野崎が川久保のほおを殴った。ブチンと鈍い音がする。部屋の後方に後退りする。顔を手で押さえる。
口が切れて血が出でしまう。
「ちっ、手だしやがって」
川久保はすぐにスマホを拾い、スマホのディスプレイを見ると電話が切れていた。
「野崎さん、最後の忠告ですよ。これで帰らなければ警察を呼びます。あなたは僕に暴行した。これは明らかに暴行行為だ。今回だけは大目に見ますけど、また着たらすぐに警察呼びますからね。さあ、早く帰った!」
野崎は身体をビクつかせながら、立ち去るか立ち去るまいか考え込んでいる様子だった。後ろに後ずさると、クソと呟いて立ち去っていった。
「川久保さん、やっぱりやばいですよ。やり方が無茶苦茶すぎるんですよ。もうこれからはやめましょうよ」
「だめだよ。もう僕はやることに決めてしまった。
今更、辞めるなんていえないよ。片足を突っ込んでしまったんだから」
川久保は、ある男に電話をする。