第44話 それでも、嬉しかった
海風が誠達が一戦交えた小道をさわやかに吹き抜けていく。
「もういい時間ですわ。早く行かないと海の家閉まってしまいますわよ。すぐに着替えないといけないんじゃなくて?今からあの男を追っても無駄ですわ……そんなに簡単に捕まる男なら等の昔に公安に逮捕されているはずの男ですもの」
茜にそう言われて、気づいたかなめと誠は走り出さずにはいられなかった。
「そんなに急がなくても大丈夫よ!海の家の人には二人遅れてくる隊員が居るって話しといたから!」
叫ぶアメリアの声を背中に受けても誠とかなめは走り続けた。
「あいつの世話にはなりたくねえからな。後で借りを返せと言われるに決まってるんだ。面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだね!神前!急ぐぞ!」
走るかなめが誠にそう漏らした。
「サイボーグの西園寺さんならもっと早く走れるんじゃないですか?茜さんも海の家の人は待っていてくれるって言ってたじゃないですか。僕は後で行きますよ」
誠はビーチサンダルと言うこともあって普段の四割くらいの速度で走った。
「良いじゃねえか。隊じゃあオメエをアタシが監視してクバルカ中佐の組んだランニングメニューを消化させるために走らせてばっかりじゃねえか。だからたまにはこうして一緒に走りたかっただけなんだ。アタシもそういう気分になるときもあるんだ。自分が女をそんな気分にさせる男だって少しは自慢してみろ。アタシが許してやる」
余裕の表情でかなめは答える。砂浜が始まると、重い義体で砂に足を取られて速度を落とすかなめにあわせて誠も走る。
「オメエこそ早く行ったらどうだ。アメリアの言うことは当てになんねえぞ。アイツの嘘つきは知ってるだろ?水着でバスに乗って吐きまくられるのは御免だからな……さっきはアタシは役に立てなかった……これ以上アタシに恥をかかせるんじゃねえ」
そう言うかなめに誠はいつも見せられているいたずらっぽい笑顔を浮かべて答えた。
「僕も一緒に走りたかったんです!僕にとっても西園寺さんはそう言う存在なんです!」
二人は店の前に置かれた自分のバッグをひったくると、海の家の更衣室に飛び込んだ。
誰もいない更衣室。シャワーを浴び、海水パンツを脱いでタオルで体を拭う。
「いつ見ても全裸だな。お前のがでかいのは知ってるからいい加減前を隠せ。こんなところアメリアさんに見られても見ろ!運航部の女子にAIで無修正ボーイズラブ動画を作られてばらまかれるぞ」
背後から突然声を掛けられて誠は思わず振り返った。そこにはもう着替えを済ませた島田が禁煙指定場所だと言うのにタバコを吸っていた。
「なに?なんですか!島田先輩!もしかして待っててくれたんですか?親切と言うか……ここってタバコ吸って良いんですか?」
全裸の誠を呆れたような表情で島田が見ている。
「お前さんが全裸で暴れたりすると大変だからな。それにこの時間だと人が居ねえからゆっくりタバコが吸える。バスの運転の間は吸えねえからそれに備えてだ。別にここが喫煙禁止だろうが俺のルールブックにはそんなことは書いてねえ。俺のルールブックはすべてに優先する。それが俺の生き方だ」
島田が居ることは予想が出来ても言い返せない自分に落ち込みながら誠はパンツを履く。
「あめりあさんの指示じゃないんですか?ああ見えてアメリアさんって気の利くところがありますから」
部隊に配属になった当初、社会やこの遼州系の隠された事実について最初に教えてくれたのはアメリアだった。アメリアにはそういうおせっかいなところがあった。
「違うよ。俺は俺の為にタバコを吸ってるの。それにしてもお前のモノはでかいなあ……それで童貞なんてもったいねえよ。俺は童貞じゃないけど女は大きい方が好きなのは事実だってことは知ってるからな……それにしてもデカい。やはりデカい」
誠のむき出しの局部を見てにんまりと笑いながら島田は入り口の柱に寄りかかっている。誠はすばやくズボンを履いてシャツにそでを通した。
「はい!急いで!行くぞ!ちんたらしてると老いていくからな!」
十分タバコを吸い終えて、吸殻をマックスコーヒーの空き缶に押し込んだ島田が出て行くのを見て、誠は慌てて海の家の更衣室で海水パンツとタオルをバッグに押し込み飛び出した。
「誠さん。いいですか?」
それまでの男くさい島田との会話に当惑していた誠に向けて不意に声をかけられた誠は更衣室を出てあたりを見渡す。そんな誠の肩を叩いたのがひよこだった。彼女は肌が弱いからという理由で白い長そでシャツを着たまま岩場で小夏と一緒に海を眺めていたはずだった。
誠は海の家とは無縁なはずのひよこの登場に少し驚きながらカーリーヘアーの下のひよこの丸い瞳を見つめた。
「ひよこさん、何ですか?水着に着替えなかったんだから海の家には縁が無い……もしかして僕を待ってたんですか?」
さすがにいろいろあった一日で、心地よい疲労感のようなものが誠を包んでいた。そしてそんな自分を待っていてくれたひよこの優しさに感謝した。
「ええ、誠さんを待っていたんです。これ、西園寺さんに上げてください。さっき浜辺で拾ったんです……あの人、いつも追い詰められているように見えて、これを耳に当てればきっとその心も落ち着きますよ」
ひよこはそっと、貝殻を両手で包むように差し出した。朱に染まり始めた夕陽が、その表面を淡く照らす。
「耳に当てると、波の音がするんです。あの人……いつも何かと戦ってるように見えるから。こういう音、届いたらいいなって……思って」
ひよこが差し出したのはピンク色の殻を光らせる巻貝だった。子供のこぶし程度の大きさの貝は次第に朱の色が増し始めている日の光を反射しながら、誠の手の上に乗った。
「良いんですか?これってポエムの材料とかになりそうじゃないですか。折角拾ったのに……貰っちゃったら悪いような気がして……本当に良いんですか?」
いかにもひよこが好きそうなきれいな貝を手にして誠は彼女を見下ろした。詩をこよなく愛するひよこにふさわしいプレゼント。誠はそのチョイスに理系人間であまり歌心などには関心のない自分と見比べてひよこの心配りをうれしく感じた。
「今日の素敵な休日をくれたのは西園寺さんなんで……そのお礼としてあげてください。たぶん誠さんから貰うと西園寺さんもうれしいと思うから。私にできることはこれくらいしかありませんから」
ホテルの駐車場に向かう島田達を見守りながら誠はひよこに渡された巻貝を耳に当てた。
潮の音がする。確かにこれは潮の音だ。いくら詩心の無い誠でも少しの感動を覚えていた。その幻想的な音の世界に誠は引き込まれた。
「急いでるんだって言ってるのに……ちんたらしやがって。神前、何やってんだ?オメエ」
背中から不思議そうなかなめの声が聞こえた。誠は我に返って荷物を抱えた。その際、耳に当てていたひよこからもらった貝を思わず落とした。
「なんか落ちたぞ。大事な物なんじゃねえのか?」
そう言ってかなめが誠の手から滑り落ちた巻貝を拾い上げた。
「こりゃだめだな。割れちまってるよ。これじゃあ海の音が聞けやしねえ……もったいねえな」
少しばかりすまないというような声の調子のかなめのかなめがいた。誠は思わず落胆した表情を浮かべる羽目になった。
「アタシに渡そうとしたのか?もしかして……アタシなんかに……?」
そう言うと、珍しくかなめがうつむいた。かなめは目元を手の甲でぬぐった。
「ありがとうな……オメエにしちゃあずいぶん気の利いた贈り物だ……下手なブランドバッグなんてもらっても邪魔なだけだ。こう言うのがアタシは好きなんだ」
そう言うとかなめは自分のバッグにひびの入った巻貝を放り込む。バッグの中の割れた貝を一度見つめた。そして顔を上げたかなめは何も言わずにそのまま防波堤に向かって歩いていった。
「良いんですか?もう海の音も聞こえないんじゃないですか?」
心配したように誠はうつむいたままのかなめに声をかけた。
「割れちまったな。でも、逆にちょうどいいのかもな」
かなめはそう言って無理のある笑みを誠に向けた。かなめは手の中の貝を見つめたまま、小さく笑った。
「完璧なもんなんて、あたしには似合わねえ。ヒビが入ってるぐらいがちょうどいい。……アタシ自身が、そういう存在なんだからな」
「でも僕の不注意で……すいません」
誠はかなめにも海の音を聞いて欲しかったという思いに駆られてそんなことを口にしていた。
「お前の初めてのプレゼントだ。大事にするよ。下手にブランド物のバッグを送られたりするよりこっちの方が百倍嬉しいくらいだ。アタシに言い寄ってくる男は金で買えるものしかよこさねえ。そんなもん、アタシは自分の金でいくらでも買えるってのによう……その点これは金じゃあ買えねえ。オメエがここに来た。そのことが大事なんだ」
かなめはそう言うと誠を置いて歩き始める。誠は思い出したように彼女を追って走り出す。追いついて二人で防波堤の階段を登って行った。誠もそれに続いて階段を駆け上った。
二人は黙って海を見下ろしていた。
赤く染まり始めた水平線。波音だけが、遠く近くを行き交っていた。
言葉はいらなかった。ただ、この一瞬の静けさが、全てを物語っていた。今日という一日が、たしかにあったこと。
それを忘れないようにするかのように――二人は、ただ黙って、海を眺めていた。




