第28話 酔っぱらった誠の消えた記憶 〜覚えていない夜の思い出〜
誠は一人、ふかふかのソファーから起き上がった。つぶれはしなかったものの、地下のバーでかなめとの間で何があったのか、はっきりとは覚えていない。ただ、決して悪い時間を過ごしたのではないことだけがなんとなくと言う思い出として残っていた。
かなめにはスコッチのような蒸留酒を多く勧められたせいか、頭痛は無かった。二日酔い特有の胃もたれも無いがなぜかすっぽりと記憶だけが抜け落ちていた。
「起きやがったな。全く神前の野郎には困ったもんだ」
髭剃りを頬に当てている島田が目をつける。その目は明らかに誠に対する軽蔑の念に彩られていた。
「何か?昨日僕何かしましたか?」
誠はその島田の複雑そうな表情に嫌な予感しかしなかった。昨日豪華な晩餐を終えてかなめに地下の瀟洒なバーに連れていかれたことは覚えている。あの酒豪のかなめのペースに合わせて自分で飲んだとなれば多少の失態をしても仕方がないと誠は諦めた。
「何かじゃねえよ!人が寝ているところドカドカ扉ぶっ叩きやがって!お前、当分酒は禁止な。寮で同じことをされたらたまったもんじゃねえ。それといきなり裸になって汚ねえもんを人の顔に押し付けて『デカいだろ』じゃねえよ!確かに俺よりデカいというかあんなでかいのは他に見た事ねえよ!オメエは酒飲むと人格変わるんだな!しかも最悪の方に!だからオメエは当分酒は禁止!」
髭剃りを振り回しながら島田が誠を怒鳴りつける。
「まったくだ。しかも酔っぱらってやっと寝たと思ったらあのものすごいいびき。どうにかならんのか?あのいびきで夜中何度起こされたか……今回だけは島田の言うとおりだ!少しは酒の飲み方と言うものを覚えろ!」
歯を磨いていた菰田がいつもの三白眼でにらみつけてくる。菰田の行動原理は理解できなかったが、失態は失態なので誠には菰田に言い返す言葉が無かった。
それでも誠は実は酒好きだった。酒自体と言うより、飲んでいる雰囲気が好きだった。特にこの『特殊な部隊』に入ってからは、かなめ達と楽しく飲む機会が多かったので飲むことがさらに好きになっていた。
「島田先輩ー!それは無いですよ。僕、ビールが好きなんですよ。今回はウィスキーだったから悪かったんです。酒禁止だけは勘弁してください!それに人格変わるほど飲んだことなんて今回が初めてなんですよ……信じてくださいよ……」
そんな誠の懇願を無視して島田は再びひげを剃り始めた。取り付く島の無い島田を見送ると、島田の説得をあきらめた誠は黙ってバッグを開けて着替えを出し始めた。
「あのなあ、あの怖え姉ちゃんと何してたかは詮索せんが、もう少し酒の飲み方考えたほうがいいんじゃないか?車だけじゃなくて酒まで問題があるとなると世の中じゃあ生きていけないぞ」
「そうだ!社会人失格だ!」
二人の言うことは図星を突いているだけに誠は苦笑を浮かべた。
「そうは思うんですけど……本当に今回はウィスキーのせいなんです!僕が先に気が付いてビールを頼んでおけばよかったんです!次回はああいった店にもアルコール度の低いカクテルとかあるでしょうからそれを飲みます!だから勘弁してください!」
島田は髭剃りを置いてベッドに腰掛ける。菰田は口をゆすぐべく洗面所へと向かった。
二人にあれだけ言われると誠はシャツを着ながら昨日のことを思い出そうとするがまるで無駄な話だった。
「じゃあ次は僕が」
誠も髭剃りを持って鏡に向かう。島田は立ち上がった誠の肩を叩いてつぶやく。
「まあ、あれだ。あの席にいてメカねーちゃんをキレさせなかったのは褒めとくわ。俺もあの西園寺さんに酒を進められたら断れねえ。痛いのは嫌だからな。アタシの酒が飲めねえのかって言われて射殺されるのは御免だ」
言うだけ言ってさっぱりしたのか、島田はそう言うと新聞を読み始めた。
菰田が洗面所から出たのを見ると誠はバッグから髭剃りを取り出して慌ててひげを剃り始めた。
「神前。早く準備しろ!俺は腹が減った。昨日の料理、気取ってる割に量が少ねえんだもん。とっとと支度して朝飯にするぞ」
準備を終えた島田がそう叫んだ。こちらも朝の歯磨きを終えた菰田が隣に立って誠を待っている。誠は急いで髭を剃り続けた。
「それにしてもいい天気だねえ」
新聞を手にしながら振り返った島田の後ろの大きな窓が見える。水平線と雲ひとつ無い空が広がっていた。
「神前、何度も言うけど腹減ったから俺達先に行くぞ」
そう言って島田が立ち上がる。菰田も併せて立ち上がると軽く屈伸をした。誠は振り返ってその後姿に目を向ける。
「すいません、先に行っててください。朝食を食べる場所もバスの中でパンフレットを見て覚えているんで」
そう言いながら島田を見送り、誠はジーンズを履いた。扉が閉まってオートロックがかかる。
「そうは言うけど……ちょっとは待っていてくれてもいいんじゃないかな……普通新人にはもう少し優しく接してくれても……まあ、あのヤンキーと性格破綻者には何を言っても無駄か」
とりあえずズボンを履きポロシャツに袖を通す。確かに絶好の海水浴日和である。誠はしばらく呆然と外の景色を眺めていた。
島田を追いかけようと誠がドアに向かうその時、ドアをノックする音が聞こえた。ベルボーイか何かだろう。そう思いながら誠はそのまま扉を開いた。
「よう!」
かなめが立っている。いかにも当たり前とでも言うように。昨日のバーで見たようなどこかやさぐれたいつも通りのかなめだった。
「西園寺さん?」
視線がつい派手なアロハシャツの大きく開いた胸のほうに向かった。胸元の開いたアロハの隙間から、いつものホルスターが覗いていた。そこで誠は昨日の夜は夢のように消え、いつもの『特殊な部隊』の日常が戻って来たのだと理解した。
「何だ?アタシじゃまずいのか?随分と偉くなったもんじゃねえか」
いつもの難癖をつけるような感じで誠をにらみつけてくる。気まぐれな彼女らしい態度に誠の顔にはつい笑顔が出ていた。
「別にそう言うわけじゃあ無いんですけど……」
誠は廊下へ出て周りを見渡した。いつもはこういう時はおまけのようについてくる同部屋のアメリアやカウラの姿は見えない。
「西園寺さんだけですか?本当に西園寺さんだけですか?」
その言葉にかなめは明らかに不機嫌になる。
「テメエ、アタシはカウラやアメリアのおまけじゃねえよ。連中は先に上で朝飯食ってるはずだ。アタシ等も行くぞ」
そう言うとかなめは振り向きもせずにエレベータルームに歩き出す。仕方なく誠も彼女に続いた。
廊下から見えるホテルの中庭がひろがっていた。それを見ながら黙って歩き続けるかなめの後ろををついていく。
「昨日はすいません。僕、結構酔ってたみたいで……何か失礼なこととかしてないですよね?」
きっと何かとんでもないことでもしている可能性がある。そう思ってとりあえず誠は謝ることにした。
「は?何言ってんの?」
振り返って立ち止まったかなめの顔は誠の言いたいことが理解できないと言うような表情だった。
「だから言ってるじゃないですか、きっと飲みすぎて何か……やらかしませんでしたよね?島田先輩が言ってたようなことを西園寺さんの前でやってたなんて知ったら僕は死んじゃいますよ」
そこまで誠が言うとかなめは静かに笑いを浮かべていた。そして首を横に振りながら誠の左肩に手を乗せる。
「意外としっかりしてたじゃねえか。もしかして記憶飛んでるか?アタシに言わせるとあれは飲んだうちには入らねえ程度だったけど……オメエがあの時間を覚えていねえのは少し残念かな」
エレベータが到着する。かなめは誠の顔を見つめている。こう言う時に笑顔でも浮かべてくれれば気が楽になるのだが、かなめにはそんな芸当を期待できない。そんなかなめを見ながら誠の脳裏に一瞬だけ、グラスを合わせたときの氷の音と、かなめの笑顔がフラッシュバックした。
「ええ、島田先輩が言うにはかなりぶっ飛んでたみたいで……かなりあの二人を怒らせちゃって……しばらくは酒は禁止だそうです。でも僕は……また西園寺さんと二人っきりで飲みたいと思います。西園寺さんの似合う場所で」
今朝の不機嫌な島田と菰田の顔を思い出しながら誠はかなめに自然にそう言っていた。
「大丈夫だって!あの二人の言うことなんか気にするな。ごちゃごちゃ言うようならアタシが射殺する」
かなめがいつも通り無茶苦茶な論理を展開する。とりあえず彼女の前ではそれほど粗相をしていなかったことが分かり誠はほっとする。だが明らかにかなめは一度は島田達の事を怒っては見せたものの、誠の記憶が飛んでいたことが残念だと言うように静かにうなだれる。
「まあ、いいか。次も二人で飲みたい時があったら付き合えよ。それがアタシへの礼儀だ。今度は記憶を飛ばすな。いつまでも記憶に残るような夜をオメエとは過ごしたい……いや、今の言葉は忘れろ!アタシの口が滑っただけだ!」
自分に言い聞かせるようにかなめは一人つぶやいた後、焦ったように自分の吐いた言葉を否定して顔を赤らめた。
「西園寺さん……その時はよろしくお願いします!」
誠は元気よくそう返事をした。扉が開き、落ち着いた趣のある廊下が広がっている。かなめは知り尽くしているようにそのまま廊下を早足で歩いた。
小さくため息をつくと、かなめは肩をすくめた。
「……覚えてないなら、また作るしかねえな。『忘れられない夜』をよ」
かなめは独り言のようにそう言った。誠はその言葉の意味が分からず黙ってかなめの後ろに続いて歩き続けた。




