第20話 その一杯にこめられたもの
「夕日に乾杯、ってな。たまには洒落たこと言うのも悪くねえだろ?……アタシだって、貴族のひとりだ。たまには『それっぽい』ことも言わせろよ。これでも甲武国の最上級の貴族様は最上級の酒も最上級の景色も最上級の場面も心得てるんだ。神前、そのくらいの尊敬の念を持ってこれからはアタシに接しろ」
少し笑顔を作りながらかなめはそう言うとグラスを取った。誠が自分の部屋で直接見た夕陽よりその日差しが柔らかく感じられるのは、この部屋を覆うガラスには特殊な加工が施されているのであろうと誠は思っていた。
誠にとってワインといえば、たまに見るテレビの中の世界のものだった。ましてや、こんな高級なワインなど、触れる機会すらなかった。父の晩酌に付き合うときは日本酒。友達の少ない誠が数合わせで呼ばれる飲み会ではビールか焼酎が普通だった。
飲む酒のバリエーションが増えたのはかなめに混ぜ物入りの酒を飲まされることが多くなったからだった。それもほとんどがラム酒やウォッカ、ジンと言った蒸留酒のアルコール度の高いものばかりで、かなめは誠がそれに酔いつぶれる様を楽しむためだけに飲ませるのである。
かなめはグラスにワインを注ぐと、その香りを一嗅ぎした後軽く口に含んだ。かなめのグラスの脚を持つ指先は、銃を握るときとはまるで違う繊細さだった。とてもいつものガサツ娘としか思えないかなめの面影はそこには無かった。
「お前らに飲ませてもこいつの良さは分からねえだろうな。うん、悪くない、悪くないな。まあ酒を飲まないカウラには特に分からないだろうが。この苦みと甘みのハーモニー……あんな馬鹿武家貴族にも分かるんだな。武家には人を殺すことしかできねえと思っていたが、アイツにももののあわれと言うものが分かるらしい……悪くない」
グラスを手にかなめが余裕のある表情を浮かべた。そしてそのまま誠達にもワインを飲むように視線を送る。誠は恐る恐るグラスを持ち、その高級ワインを口に含んだ。
正直、誠には苦いと言うこと以外特に感想は無かった。それでもかなめが満足げにそれを味わう姿を見るとそこに何か人をひきつけてやまない何かがあるような気がしてもう一度グラスに口を付けた。苦い。けれど、鼻の奥をくすぐる香りと舌に残る渋みに、なぜかもう一口飲んでみたいと思わせる何かがあった。
もう一口誠はワインを口に含んでみる。苦味と渋み。その奥にある、何かを包み込むような余韻。ただの酒ではない。『時間』の味がする。誠はそんな気がしていた。
「私が酒について分からないのは否定はしないぞ。だが香りはいい。西園寺には感謝しよう。良いものを飲ませてもらった。これまで生きてきて一番のワインであることは間違いない」
誠と同じく恐る恐るワインを飲んだカウラはそう言いながらグラスを置いた。いつもなら酒を口にするときはかなり少しずつ飲む癖のある彼女がもう半分空けているのを見て、誠は自分が口にしているきりりと苦味が走る赤色の液体の魔力に気づいた。
「アンタがお姫様だってことはよくわかったわよ。でも……まあこれって本当に美味しいわね。こんなものを自分専用にキープしてるなんて……少し羨ましいかも。所詮、私もカウラちゃんも作り物の人造人間だものね……生まれの違いって奴を痛感しちゃうわね。この部屋に来ると。部屋割り失敗したかも」
一方のアメリアといえばもうグラスを空けてかなめの前に差し出した。黙って笑みを浮かべながら、かなめはアメリアのグラスに惜しげもなくワインを注ぐ。
「神前、お前、進まないな。まだ昼間の乗り物酔いの影響が残ってるのか?」
アメリアに続き自分のグラスにもワインを注ぎながらかなめが静かな口調で話しかける。
「実は僕はワインはほとんど飲んだことがないので……高いワインの味なんて分からないですよ。香りが良いのは分かりますけど、そんなに貴重なものなんですか?このワイン」
そう言う誠の正直な感想を聞くとかなめは満足そうに微笑んで見せる。
「そうか。アタシはワインは好きだが、安物は嫌いでね、あれはただのワインの色をした水だ。それなりにアタシの舌を満足させるものとなるとアタシでも値段が値段だし、アタシは酒については時と場所を考える質だからな。ワインはこういう和やかな雰囲気の場所で飲むべき酒だ。焼鳥屋で飲んだらそれこそ笑われる。まあかえでの馬鹿は焼鳥屋でもワインを飲みそうだな。アイツの貴族趣味は筋金入りだ。あんなのがうちに来るとなると月島屋も大変なことになるな」
その言葉にアメリアとカウラが顔を見合わせる。
「酒については時と場所を考える質?よくまあそんなことが言えるわね。酒以前に銃は場所も考えずにバカスカぶっ放すくせに。酒はTPOを考えるけど銃はどこでも撃っていいの?ふつう逆じゃないの?かなめちゃんの常識はやっぱりおかしいわよ」
すでに二杯目を空けようとするアメリアをかなめがにらみつけた。
「人のおごりで飲んどいてその言い草。覚えてろよ……明日のノックの時にオメエには特別の打球をお見舞いしてやる」
かなめは怒りに任せてそうつぶやくと上品にワイングラスを口に運んだ。
「わかったわよ……誠ちゃん!飲み終わったらお風呂行かない?この部屋の専用の露天風呂も結構いいのよ。大浴場の広々した雰囲気もいいけど、せっかくのお姫様専用の浴室に入れるなんて……果報者よね」
輝いている。誠はアメリアのその瞳を見て、いつものくだらない馬鹿騒ぎを彼女が企画する雰囲気を悟って目をそらした。
「神前君。付き合うわよね?」
誠はカウラとかなめを見つめる。カウラは黙って固まっている。かなめはワインに目を移して誠の目を見ようとしない。
「それってもしかしてこの部屋専用の露天風呂に一緒に入らないかということじゃないですよね?」
誠は直感だけでそう言ってみた。目の前のアメリアの顔がすっかり笑顔で染められている。
「凄い推理ね。100点あげるわ。お姉さん達の貴重な裸が拝めるのよ……男冥利に尽きるでしょ。当然断るようなもったいないことはしないわよね?こんな機会滅多にないのよ?誠ちゃんもうれしいでしょ?幸せでしょ?最高でしょ?誠ちゃん、断るなんてもったいないこと言わないわよね?当然、男だったらそんな機会を失うなんてことは考えられないわよね?来るでしょ?当然」
アメリアがほろ酔い加減の笑みを浮かべながら誠を見つめる。予想通りのことに誠は複雑な表情で頭を掻いた。
アメリアのいわゆる『伝説の流し目』を受け、誘惑という名の爆撃を受けながら、誠の脳裏には“寮則”の文字が火花のように浮かんでいた。『男女交際は硬派たれ』……それは今、この場での最も強力な呪文だった。
「私は別にかまわないぞ。神前になら見られても別に恥ずかしくはない。いや、私の裸を見て良い男は神前だけだ。神前になら……」
ようやくグラスを空けたカウラが静かにそう言った。そして二人がワインの最後の一口を飲み干したかなめのほうを見つめた。
「テメエ等、アタシに何を言ってほしいんだ?アタシは別に神前に裸を見られるくらいなんてことねえぞ。減るもんじゃねえし」
この部屋の主であるかなめの同意を取り付けて、誠を露天風呂に拉致するということでアメリアとカウラの意見は一致している。かなめの許可さえ得れば二人とも誠を羽交い絞めにするのは明らかである。誠には二人の視線を浴びながら照れ笑いを浮かべる他の態度は取れなかった。
「神前。お前どうする?アタシもあえてアメリアの意見に反対する理由はねえが」
かなめの口から出た誠の真意を確かめようとする言葉は、いつもの傍若無人なかなめの言動を知っているだけに、誠にとっては本当に意外だった。それはアメリアとカウラの表情を見ても判った。
「僕は島田先輩とあの菰田先輩と同部屋なんで。『純情硬派』が売りの島田先輩の前でそんなことしたら殺されますよ。それに菰田先輩……僕がカウラさんの裸を見たなんて知ったらそれこそ殺されますよ!」
誠は照れながらそう答えた。その声には照れと共に恐怖の色が混じっていた。
ランの監修の下、島田と菰田が喧嘩しながら作ったという寮則第七条にこんな一文があった。
『男女交際は硬派たれ』
その寮則はランの発案の下島田と菰田の絶対的同意で決定されたものだと聞いて、誠はこの宿に来た日から恐怖していた。
誠は島田と菰田と同部屋である。この一晩を一緒に過ごすことになるのである。もし、アメリア達と一緒にふろに入ったなどと言うことがバレれば命は無い。
たとえこの場でバレなくとも、口の軽いアメリアが隊でこの事実を口にして確実に二人の耳に入る。そうなれば誠はその住まいである男子下士官寮の寮長の島田と副寮長の菰田から『男女交際は硬派であれ』と言う寮則に背いた咎で処刑される。
「だよな。島田はともかくカウラ命の『ヒンヌー教徒』の菰田がその事実を知ったらタダじゃあ済まねえだろうな……それに隊に戻れば『男女交際禁止!』と叫んでるちっちゃい姐御が待ってるんだ。菰田の野郎は射殺すればそれで済むがランの姐御はそれはそれは手ごわいからな」
感情を殺したようにかなめはつぶやいた。アメリアとカウラは残念そうに誠を見つめる。誠は自分の軽い好奇心から命を失う危機をどうにか回避できたことで安堵のため息をついた。
「このホテルの裏手にでっかい露天風呂があって、そっちは男女別だからそっち使えよ。このホテルの部屋にはそれぞれ洋式の風呂があるが、あれはたぶん誠には入り方がわからないだろうからな。オメエは下町生まれだから銭湯ぐらい言ったことがあるだろ。入り方は同じだ。ま、庶民代表のお前にゃこっちの方が似合ってるさ。背伸びはあとでゆっくり覚えればいい……似合ってるよ、お前には……背伸びしない、無理もしない、そんな風に生きるのがな。でも……もし、もう一杯くらい背伸びしてもいいって日が来たら……アタシは、もう一度この部屋で待っててやる……」
淡々とそう言うかなめを拍子抜けしたような表情でアメリアとカウラは見つめていた。
「西園寺さんありがとうございます……おかげで住まいと命を失わずに済みます」
そう言うと誠はそそくさと豪勢なかなめの部屋から出た。いつもは粗暴で下品なかなめだが、この豪奢なホテルでの物腰は、故州四大公家の当主と言うことを思い出させた。そして彼女が島田と菰田が誠に与えるであろう制裁について考慮に入れていてくれたことに感謝するしかなかった。




