地に落ちた青蓮
カーシー国はバーラタという亜大陸に位置する、16の大国の一つである。
その国の王女アンバーには、昔からの恋人がいた。隣国サウラバ王国のシャルヴァ王である。
しかし、婚約しているわけではない。何故なら、バーラタには、婿選びという儀式があり、女性の意思で結婚相手を決められるからだ。婚約などしていなくても、アンバー自身がシャルヴァに、結婚相手に選んだという証拠の花輪をかければ問題などないのだ。
アンバーの婿選びは二人の妹と一緒に執り行うことになった。父にシャルヴァを選ぶことも許可してもらえ、アンバーは指折り数えて、胸を躍らせながらその日を待っていた。
そして婿選び当日。
アンバーがシャルヴァに花輪をかけようとした、その瞬間だった。
乱入者が現れた。
その男は、綺麗な身なりをした戦士だったが、きらびやかな装束に反してどこか世捨て人のような雰囲気を漂わせていた。歳の頃はアンバーたちより一回りほど年上のように見える。
アンバーは初め彼を遅れてやっていた求婚者か見物人だと思った。自分たち姉妹はどうやらバーラタ中の国々の評判になっているようだ。遠くから客が来てもおかしくない。
しかし、群衆が騒めき始めた。花輪をかけられるのを待っていたシャルヴァも、弓矢を取りに馬車へと戻ってしまう。
箱入り娘であるアンバーにも、何やら悪いことが起こっている事は分かった。
「あの男はクル国のビーシュマ殿では?」
「しかし、あの方は不淫の誓いを立てていたはず……」
「そのような方が、婿選びに何の用だ?」
ビーシュマの名をアンバーは聞いたことがあった。クル国王兄にして、聖河の女神ガンガーの息子。ヴァス神群の生まれ変わりだという噂もまことしやかに囁かれている。
彼の名は、『恐ろしい誓いを立てたもの』を意味する。二度目の恋をした父が再婚できるよう、自分自身は子孫を作らないと誓ったのだ。
父のために自分を犠牲にするその高潔さは三界で讃えられたが、アンバーの家であるカーシー王家では例外だった。
カーシー王家の姫ーーアンバーの叔母との結婚がほぼ決まっていたのに、誓いのせいで白紙になってしまっていたからだ。
バーラタでは未婚の女性の立場はないようなものだ。父と祖父は何とか叔母を嫁がせられたが、大変苦労したらしく、よく恨み言を言っていた。
そんなわけで父はビーシュマを恨んでいた。年頃の弟がいると聞いていても、ビーシュマのいるクル国には婿選びの招待状を送らなかったほどに。
(どうして、この男がここに…?)
アンバーがそう思ったとき、ビーシュマはおもむろに箙から一つ矢を抜くと、弓につがえた。
そして言い放つ。
「カーシー国王女、アンバー、アンビカー、アンバーリカーの三姉妹は、我が異母弟にしてクル国王、ヴィチトラヴィーリヤの妻としてもらっていく。ここに集った勇士たちよ、異論があれば、私を倒してみせろ。」
それを合図に、父を始めとしたカーシー国の戦士や招待された王、王子たちは、弓を構え、一斉にビーシュマに向かって矢を放った。
その時、驚くべきことが起きた。
数十もの矢が放たれたにも拘らず、ビーシュマは無傷だった。
放たれた全ての矢をたった一本の矢で全て射落としたのだ。彼の周りには、落とされた矢が散らばっていた。
「やはり大したことはないな。義母上も相変わらず大袈裟だ。」
つまらなそうに吐き捨てると、彼はアンバーたち姉妹の方へ向かってきた。
「姉様…。」
上の妹であるアンビカーが、アンバーの服の裾を摘んだ。今日のため丹念に手入れされてきた指先が、小刻みに震えている。下の妹のアンバーリカーの顔も血の気が引いて青白くなってしまった。
アンバーは恐怖に震える妹たちを庇うように、半歩前に踏み出した。アンバーの胸の内には恐怖以上に、今日の晴れ舞台を突然台無しにされた怒りが渦巻いていた。
(ここで私が引けばいよいよ取り返しがつかなくなる。私が踏みとどまらなければ。私たちの婿選びを奴の好きにはさせない。)
そんな怒りとカーシー国第一王女としての誇りで、アンバーはビーシュマと向き合った。
ビーシュマはアンバーたちに手を差し出すと、柔らかく微笑んで言った。
「さあ、姫君方、申し訳ありませんが来ていただけますか。私も事を荒げたくはありませんから。」
アンバーはその懐柔しようとするような微笑みに苛立って咄嗟に言い返した。
「私たちの婿選びをここまで滅茶苦茶にしておいて、今更よくそんなことが言えますね。」
「ええ、姫君たちにとっては悪いことをしました。しかし、そちらも悪いのですよ。こちらも招待してくれさえすれば、こんなことはしませんでした。」
「よく回るお口ですこと。このような行為は法に悖ると、高潔で立派だとご高名なビーシュマ様ならよおくご存知かと思っておりましたが、買い被りすぎていたようですね。残念です。」
アンバーが皮肉混じりにそう返すと、ビーシュマは困ったように笑った。しかし、アンバーにはそれが面白がっているようにも見え、苛立ちは増すばかりだった。
「はは、いやなことを言いますね。賢い王女様だ。生憎今はあなたとお話ししている時間はないのです。……失礼させていただきますね。」
そう言うや否や、ビーシュマはアンバーの右手を取り、身体を引き寄せると、膝の裏に手を入れ、そのまま横抱きにした。
流石のアンバーもこれには面食らってしまった。これまでシャルヴァとはずっと清い付き合いで、接吻をしたことすらない。それほど初心な乙女だったのだ。
その上、すぐ近くの怨敵の顔が端正で美しく、屈辱的にもドキリとしてしまう。
混乱と怒りと屈辱に負けて、アンバーは言葉を失ってしまった。ビーシュマはアンバーを抱き上げたまま、アンビカーとアンバーリカーに話しかける。
「それでは、妹姫さま方も来て下さいますね。姉君を見捨てしませんでしょう。」
ビーシュマが穏やかに威圧すると、もとより恐怖におびえていたうえ、姉を人質に取られていた妹たちは素直に従ってしまった。
アンバーもはっと我に返り、必死に男の手から逃れようと暴れたが、ひ弱な王女の身では屈強な戦士から逃れることなどできず、どれほど足掻こうが徒労に過ぎなかった。
ビーシュマはそんな足掻きなど意にも介さず、彼の戦車へ向かって歩き続ける。
とうとうアンバーは姉妹と共にビーシュマの戦車に乗せられてしまった。ビーシュマが御者に指示を出すと、すぐに戦車は進み出す。
アンバーが戦車の後ろをみると、シャルヴァが戦車を追いかけてきていた。シャルヴァはアンバーに向かって手を伸ばした。
アンバーも戦車から身を乗り出し、必死にシャルヴァの方へ手を伸ばす。しかし、指先が掠めるだけで、手を掴めはしない。
二人の距離はどんどん離れてゆき、とうとうシャルヴァは諦めたように手を下ろしてしまう。
遠くなっていくシャルヴァを見ながら、アンバーは絶望した。
戦車は変わらずクル国に向かって駆けて行く。まだ未練がましく握っていた青蓮の花輪が、アンバーの手からはらりと落ちた。
ここに一つの物語の幕が開けた。
アンバーの苦難、そしてシカンディンの復讐譚の、これが始まりだった。