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逆巻の時の怪物


 雪月の書斎では時折不思議なことがおきる。

 

 形見の駒を遊ぶ為に作った遊戯盤。

 魔術は一切含まれない。

 

 それなのに、ある夜、駒がひとつだけ、こつりと動いた。

 最初は形見の駒だから死者が動かしているのかと思った。 

 だが、そうではないらしい。 

 

 雪月が即位してから800年。

 魔術の扱いに長けた人間の中でも、長命の部類に入るだろう。

 

 それでも、動く駒を捉えたのは長い時の中でほんの数度だけだった。


  

 その日は、氷香にしては暑い夏の夜だった。

 残務に追われ、夜明け前まで書斎の灯りをともしていた。


 明かりの届かぬ部屋の端に、黒いローブの誰かがいた。

 夏の似合わないその影は窓辺の椅子に腰掛け、遊戯盤をぼんやりと眺めている。

 

 ぽたり


 涙が遊戯盤に落ちた。

 影が駒をひとつ動かす。


 かつり


 駒が落ちる音がし、人影は涙の残滓とともに陽炎のようにゆらりと消えた。

 

 雪月は魔術の残滓を調べた。

 特殊な術式を要するため、滅多に使う手段ではない。

 だが、何度も繰り返される不審な現象を、放置するわけにもいかなかった。

 

 その周辺には、時の障りが残っていた。

 奇妙なことにそれは未来から過去へと流れる指向を持つ。

 

 時の禁忌――その兆しを前に雪月は手を止め、思考を閉ざした。

 

 そもそも、時の障りは異質だ。

 人の五感では捉えられず、ただ僅かな違和感を残す。

 いくつもの検証を経て、ようやくそれが『時』の異常と断定されるほどだ。

 

 時の禁忌に触れるだけでも、人外のものに疎まれる。 

 雪と氷に抱かれ、人ならぬ者たちが潜むこの国で、それに不用意に関わるのはあまりにも危うい。

 

 訪れる者は拒まない。

 だが、招かれざるものには早々に去ってもらわねばならない。

 さもなくば、思わぬところに影響が出る。


 幼い頃に起きた球状結界の事件。

 あの時も、禁忌の残滓に耐えられず、遠い昔からこの国を見守ってきた祖先の竜や、国を愛した多くの者たちが去っていった。


 後になって知った。 

 この災厄を招いたのは、『逆巻の時の怪物』だった。

  

 そいつは、雪月の親族と共謀し、事を起こしていたのだ。

 

 だからこの国でも近隣諸国同様、人間が時を操る魔術を使うことは禁忌としている。

 時を司る者たちはその一線に厳格だ。

 破ればすぐに特定され、処分の為連れ去られる。 

 

 清めのための簡易除染の魔術を編み出したのは、この痕跡を除去のためだった。

 国防の要である水晶宮に、禁忌の残滓は許されない。

 けれども、どれだけ除染を重ねても、忘れた頃にまた訪れる。

 そのことに変わりはなかった。


 *

 

 冬にはまだ早い晩秋の夜半すぎ。

 書斎で書類を読んでいた雪月は、人の気配に顔をあげた。


 そろそろ放浪者が来る頃ではあったが、どうも違うもののようだ。

 

 今まで時折駒を動かしていた影と似ているが、今日はその様子が異なる。

 生気のある、不安げな表情をしていた。

 黒の頭巾がついた長いローブに黒い長靴。

 黙って立っていればそれなりに堂々としているのに、振る舞いは少年のようだった。

 

 その横顔に、雪月の記憶が揺れる。

 幼き日、書斎に閉じ込められていた頃――

 誰も来られぬその空間に、ただ一人訪れた者がいた。

 気が狂いそうな孤独の中で、正気と希望と、そして食事を運んでくれた人。

 

 ――ああ、そうだ。彼は時を遡る、時の渡り人だと名乗っていた。

 もし時の流れが逆なら、以前出会ったあの彼よりも前の彼なのだろう。

 

 であれば、今は敵、なのか。

 このために研鑽を重ね、彼のための封印魔術を作り上げてきた。

 果たして、この魔術は彼に有効だろうか。


「やあ、レトロ。また会ったね」

「僕を知ってるの?えっと……?」

「おや、はじめましてかな?ここは水晶宮、私はルカ。ようこそ、時の渡り人くん」


「こんばんは、急にお邪魔してごめんなさい。すぐに去りますので」

「おっと、そんなに怯えることはないよ。君は私の駒遊びの仲間だからね」


 最大限穏やかに見えるよう、雰囲気を調整する。

 彼にとって初対面なら、ここでの対応が過去の自分を変えるかもしれない。

 そして、これが最後の会話だ。相応の対応をしなければ。

 彼にもらったものを糧に、後悔しないように――。

 

「……駒、あそ、び?」

「そうとも。この遊戯盤はね、君とも何度も遊んでいる思い出の品なんだよ」

「遊戯盤なんて子どもっぽいもの、遊んだことないよ」

「それはもったいない。簡単だけど深い遊びなんだよ。一度やってみないかい」

 

「僕は遊んでいる場合じゃないんだ……」

「おや。君の人生は思っているほど短くないぞ?なにせ君は1000年生きる私より遥か昔から確認されているからね」

「え……そんなに……?」

「暇つぶしのひとつやふたつ、持ったところで重しにもなるまいよ。さあさあ、座って。なに、紅茶一杯飲む時間で終わってしまうようなものだから」

 

 席に着かせて一戦。

 なんとも素直でのびのびとした打ち手だ。

 私に手ほどきしてくれた時の、あの悪魔のような打ち手と大違いだ。

 

「これで僕の勝ち?」

「そうだね。君は筋がいい。きっともっと上手くなるだろう」

「……うん」

 素朴にふわりと笑う様子は、街で見かける子どもたちと大差ない。


 一体何故彼は時の障りを受けてしまったのだろうか。


 その時、私はふと、レトロが本当に『今』この瞬間に生きているのか、確かめたくなった。

 彼が過去を遡る存在であることは知っている。

 しかし、時の間を渡り歩く彼が、今の瞬間にどう感じているのか、何を考えているのか、それを理解するのは私には難しい。


 彼の笑顔の裏に隠された何かが、私の胸に小さな不安を抱かせた。


  


 窓の外で急に銃声がした。

 

 その音が鳴り響くと同時に、がたりと何かがぶつかる音がした。

 雪月が振り返ると、窓から胸から血を流す放浪者が姿を現した。

 

「…………に、逃げ、ろ……雪月」

 彼の声はかすれていた。息も絶え絶えに、放浪者は雪月に警告を発している。 

「放浪者?!」

 驚き、雪月が駆け寄ろうとした瞬間、時の渡り人がその腕を掴んだ。

  

「行ったら駄目だ。あいつ――革命屋がいる」 

 雪月は眉をひそめ、耳を傾けた。

 

「革命屋?」

「睡烏独立の支援したって言われている。鑑定人の街に要警戒人物のリストがあるでしょ?」

「ひととおり目を通しているが?」

 雪月の声に少しの疑念が混じる。

 

「載ってるよ。認識にノイズが入るけど」

「……ノイズ。見落としがあったか」

 

 

 窓の外で再び鋭い銃声が鳴り響き、放浪者の身体が床に倒れた。

 

 その瞬間、雪月の視界に現れたのは、細身の男。黄銅色の髪に異常に明るい緑の瞳。見た目は洗練されているが、荒々しい振る舞いがその姿勢を台無しにしている。

 

「なんだ、レトロ。まだ処理してなかったのか?」

「………………お前の思う通りにはしない」

 その言葉が終わると同時に、雪月の胸に強い違和感が走った。

 まるで時間が一瞬止まったかのような、予測できなかった感覚が襲ってきた。

 

「……かはっ……………………?」

 予想外の痛みに、雪月の視界が揺れる。

 目の前に立つレトロは、彼自身の行動に驚愕しているような表情を浮かべていた。


 遊戯盤に、ぽたり、と血がひとつ、ふたつ落ちる。

 

 

「え……?なにこれ、は……ぐ………………っ……ぅっ――!!」

「レトロ、従属の腕輪に逆らえる訳無いだろう?おや、知らなかったのか?可哀想に。今のお前の主はこの革命屋ファラファス様なんだよ」

 

「――嫌だ……違う……こんな、こんなこと……ッ――ぁァアアア!!」

 

 雪月の視界が一瞬、真っ赤に染まる。

 そこから褪せた赤茶色が急速に広がり、周囲の色が失われていく。

 視界の端が滲み、完全に切り取られたような感覚が広がった。

 音は途切れ、まるで時間が引き伸ばされ、遅くなる。


 レトロの体から湧き上がる障りは、空気を揺るがし、現実さえ歪めはじめた。

 その異常な魔術圧に、雪月の視界は一層ぼやけ、意識がぐらつく。

 立ちすくんだまま、言葉を発することすらできない。


 逆巻の時の怪物――目の前に広がるその異常さは、まさにその名にふさわしいものだった。

 

「――アぁ……こんなの、いやだっ……やだ…………!」

 レトロの叫びが、雪月の耳に響く。

 それは単なる言葉ではなく、彼の心から絞り出された、震えるような絶望そのものだった。


 障りに汚染したせいだろうか。

 雪月にはこの後、何が起きるか見えてしまった。

 

 幼少期、未開の丘だったこの地は、数百年の時を経て、今や水晶宮を中心に栄華を誇る王都となっていた。

 かつては荒れ果て、誰一人踏み入れなかった土地が、今では人々の集う場所へと変わった。


 だが、その成長の影で、水晶宮を震源とする障りは、王都の外まで広がり、辺り一帯を吹き飛ばしてしまう。

 すべてが歪み、この地は魔術を受け付けない禁断の土地となった。

 

 時の管理者は土地の浄化に全力を注ぐが、その効果はゆっくりとしか現れない。癒されるには長い時間を要するものだった。

 

 一方で、氷香と篝海は、国王と王弟を失ったことで急速に関係が悪化。

 弔い合戦の名のもと、戦火が領土を引き裂き、土地は血と怒号に染まる。

 やがてその争いは、憎しみの連鎖となって拡大し、勝者なき戦争へと変わっていった。


 争いの震源となったこの地は、いつしか対立を煽る呪われた場所へと変容する。

 どちらが勝っても争いは終わらない。

 この地方は、永く東西大国の争点となる――。

 そして革命屋の玩具となり、暴力がすべてを塗りつぶしていく。


「……こんなの、絶対、駄目だ」

 すべてが終わった後、レトロは虚ろな目で荒涼とした水晶宮の跡地を見つめた。

 かつて栄華を誇った場所は、今や障りに満ち、人も、人ならぬ者すらも近寄れない。


『逆巻の時の怪物』レトロは、黒く染まった遊戯駒を拾い上げる。

 その瞬間、駒はぼろりと崩れ、塵と魔術へと還った。

 風がそれを舞い上げ、すべてが指の隙間からこぼれ落ちていく。


 レトロは、無表情のまま鞄から細長い結晶を取り出す。

 指に力を込めると、それは脆くも割れ折れた。



 *

 

 

 雪月は寝台でがばりと身を起こしていた。

「…………夢、か? いや、違う。あれは……」


 全身に浮かぶ汗を拭いながら、先程の光景を反芻する。

 夢にしては妙に生々しい。まるで、実際にその場にいたかのような感覚が残っている。

 突飛すぎる。そう思いながらも、雪月はゆっくりと頭を振った。

 

 考えすぎても仕方がない。

 現実に意識を戻さなければ。

 

 今日は放浪者が訪れるはずの日だ。

 冷たい水で顔を洗いながら、もしその時が来たらどう動くべきか、慎重に考えを巡らせた。


 


 

 冬にはまだ早い晩秋の夜半すぎ。

 書斎で書類を読んでいた雪月は、人の気配に顔をあげた。

 そろそろ放浪者が来る頃ではあったが――違う。これは別のものだ。


 扉の向こうに立つ青年を見て、雪月は息をのんだ。

 彼は夢で見たばかりの人物だった。


 青年――レトロは、困惑したようにこちらを見つめている。

 

「やあ、レトロ。また会ったね」

「僕を……知ってるの?」

 レトロは周囲を見渡し、戸惑ったように眉をひそめる。


「ここは……?」

 雪月は静かに微笑んだ。


「おや、はじめましてかな? ここは水晶宮、私はルカ。ようこそ、時の渡り人くん」

「……こんばんは、急にお邪魔してごめんなさい。すぐ去りますので、お構いなく」

 

「おっと、そんなに怯えているのは……その腕輪のせいかい?」

「分かるの? これ、全然とれないんだ……」

「不思議な夢を見てね。きっと何か起きると思ったよ」


 レトロは苦しげに息をつき、後ずさる。

「ごめんなさい、僕から離れて。自分を制御できないみたいだ」

 

 雪月は彼の腕に目をやった。

「そうか。取れないのであれば……腕輪ごと手首を落として封印してみようか」

 

 レトロの肩がぴくりと揺れる。

「……嫌だけど…………でも、それしかないなら、仕方ないのかな」

 

 彼は覚悟を決めて縋るような青い目で雪月を見つめた。

「誰かを傷つけたり、壊したくないんだ。そうすれば……どうにかなる?」


「魔術で切断すれば、後で腕輪を除去してから接合できる。止血して保護し、封印を施そう……」

 そう言って、雪月は静かに手を伸ばした。

 腕と、レトロ自身。

 ——二重の封印。


 レトロを眠らせれば、もう誰も傷つかない。

 時が経てば、いずれ元の人間に戻れるはずだ。

 


 その瞬間、パンッ と鋭い銃声が響く。

 雪月は一瞬動きを止め、窓の外を見やる。

 夜の闇に、赤い火花が散った。

  

 がたり、と音がして窓から胸から血を流したままの放浪者があらわれた。

「…………雪月!」

「放浪者!」

 

 その瞬間、夢で見た男を即座に捕らえた。

「……あーあ、見つかっちゃった。ざぁんねん。新しい歴史が見られると思ったのになァ」

 

 男は薄ら笑いを浮かべたまま、突然泡を噴いて崩れ落ちる。

 ——毒を仕込んでいたのか。

  

「雪月……お前、裏切ったのか……?」

「放浪者?!大丈夫か?!」


 放浪者は息も絶え絶えに微笑む。 

「ああ、違うよな?……すまない…………あと、まかせ、た……」

 レント……ごめ……

「放浪者?ノート?!……オーバーノート!おい、しっかりしろ!!」

 

 雪月は急速に冷たくなっていく隣国の王弟を抱きしめ、ふと、辺りの空気が異様なものへと変わっていることに気づく。

  

 懐から出てきたレントは放浪者に縋り、悲しげな 絶叫 を上げた。

 その瞬間—— 風向きが、風に還る。

 魂を結びつけていた主の死に、風は散り、消えていった。

 

 風向きの悲鳴に火竜が猛る ように駆けつけてきた。

 

「ノート……!? ……ルカ、何故ノートを殺したのだ!」

「スルツェ、私ではない」

「ここには他に誰もいないじゃないか! 一体誰のせいにするつもりなんだ?!」

 スルツェの瞳には、怒りと信じたい気持ちが入り混じっていた。

 しかし、雪月は 「死体がない」 ことに気づく。


 ——封印したはずの時の渡り人も。

 ——死んだはずの革命屋の死体も。


「死体が……ない?」

 

 不穏な沈黙が落ちる。雪月は口を開いた。

「スルツェ、私の話を聞いてくれ」

「……いいや、聞かぬぞ」

 

 スルツェは静かに首を振る。

「火竜の長スルツェラルドは、見た通りの真実を国に伝えよう。

氷香の国王よ、篝海の判断を待つがいい」


 その言葉は、突き放すような冷たさを帯びていた。

 雪月が何か言う前に、スルツェは火竜の咆哮とともに夜の空へと飛び去る。


 ——まずい。


 雪月は即座に警備隊を呼び、法に則った調査を受けた。

 確かにバルコニーには 『第三者の痕跡』 があった。

 だが『それが決定的証拠にならないこと』 を、誰もが知っていた。


 雪月は無罪となった。

 ……しかし、誰一人、それを納得してはいなかった。

 

 飛び去った火竜によって、篝海の国王の溺愛する王弟が、氷香の国王に殺されたという噂が広まった。

 不思議なことに、それを否定する声明も、真実を語る声も、まるで霧の中に消えるように届かなかった。


 それから数日もしないうちに、篝海は氷香に戦線布告した。


 氷香では絶望と非難の声が吹き荒れた。

 そして炎のごとき怒りが国を焼き尽くす。

 火竜の咆哮、傭兵の剣戟、篝海の艦隊が、氷香の街々を蹂躙する。

 かつて誇り高き都だった場所は、焦土と化した。


 しかし、それを見ていた者はいた。


 砂海帝国と深森皇国——ふたつの国が、篝海の疲弊を見逃すはずもない。

 南北から襲いかかった彼らは、篝海の軍勢を粉砕し、一気にその地を制圧した。

 こうして、氷香王国も篝海王国も歴史の表舞台から姿を消し、跡地は傀儡国家となり、飽くなき戦乱の舞台へと変わっていった。



 

「……やっと見つけたよ」

水晶宮の跡地。

崩れた石柱の影から、声が響いた。


「やはり、あんたは封印されていたんだね」

 人ならぬ彼はうっすらと空間に溶け込むように存在していた透明な封印を見つめ、その手をかざした。


 やがて、封印が解かれる。

 ——その瞬間。


 レトロの喉から、言葉にならぬ絶叫がほとばしった。

 

 彼はすべてを見ていた。

 目の前で国が滅び、人々が消え、歴史が狂っていくのを。

 誰にも気づかれず、誰にも触れられず、ただ見ていることしかできなかった。


 彼は震える手で肩掛け鞄を探る。

 そして、最後の手段を取り出した。


 結晶。

 レトロは、迷いなくそれを握りしめ、力を込めた。


 ——パリンッ。


 

 *

 


 雪月は寝台でがばりと身を起こした。

「…………またか……」

 喉が渇いていた。全身にじっとりと汗が貼りついている。

 彼は手早く水盆の水をすくい、顔を洗った。冷えた水が肌を刺す。

 簡易的に汗を拭いながら、先ほどの夢を反芻する。

 

 ——何度目だろう。


 夢の内容を思い返すたびに、胸の奥に嫌な重みが残る。

 しかし、あまりにも現実離れしている。雪月はかぶりを振った。

 こんなもの、ただの悪夢だ。

 そう割り切ろうとしながらも、心のどこかで引っかかるものがある。

 

 今日は放浪者が訪れるはずの日だ。

 雪月は深く息を吐き、気を取り直すと、身支度を整えた。

 そして、訪れるかもしれない 『その時』に備え、考えを巡らせる。



  

 

 冬にはまだ早い晩秋の夜半すぎ。

 書斎で書類を読んでいた雪月は、人の気配に顔をあげた。

 

 ——夢で見た青年が、そこにいた。

 レトロは青ざめた顔で、戸惑いがちにこちらを見つめている。


「やあ、レトロ。また会ったね」

「……僕を知ってるの?」

 彼は足元を確認し、困惑したように周囲を見回した。

「えっと……ここは……?」


 雪月は微笑を浮かべる。

「おや、はじめましてかな? ここは水晶宮、私はルカ。ようこそ、時の渡り人くん」


「……こんばんは。急にお邪魔して、ごめんなさい」

 レトロは一歩引き、苦笑を浮かべる。

「すぐに去るので、お構いなく」


 その瞬間、雪月の指が軽く動いた。

 足元に魔術陣が展開される。

 レトロの体が不意に引かれ、彼は驚愕に目を見開いた。

「な……?」

「問答無用だよ」

 雪月の声は淡々としていた。

 広範囲に捕縛の陣を敷き、魔術で放浪者を手繰り寄せる。


「オーバーノート!…………っ!」

「!」

 

 予測はしていたが、防御は間に合わなかった。

 彼は瞬間的に範囲捕縛を展開しようとした。

 封印も放浪者の死も避けるなら、この部屋ごと捕縛し、放浪者を引き寄せるしかない――そう考えた。


 だが、狭い範囲ならともかく、広範囲では自分より魔術濃度の高い存在を捕縛できない。


 その一瞬の誤算が致命的だった。


 黄銅髪の革命屋は窓の外で捕えたはずだったが、レトロの捕縛失敗とともに魔術が解け、すぐに逃げていく。

 ――雪月は、レトロの魔術濃度を見誤っていた。

 

「…………雪月!」


 温かいものが喉の奥からこみ上げる。

「かはっ……」

  

 視界の端で、レトロが震えているのが見えた。

「い……いや、だ……いやだ……いやだいやだ――!!」

 

 錯乱した彼が後ずさる。 

「おい、落ち着け!お前が刺したのか?!」

 動転した放浪者がレトロの肩を押さえ、必死に声をかける。

 だが、彼の腕は震えていて、レトロを完全には止められない。

 

 視界が暗転した。

 ――まただ。

 何かに触れたのか、脳裏に未来が流れ込む。


 雪月が倒れた。

 部屋を出た瞬間、レトロの姿がかき消えた。

 そして 氷香の国王暗殺の濡れ衣は、放浪者に着せられた。


 雪月の後継者たちは皆幼く、王国を率いるにはまだ早い。

 育成が間に合わず、氷香王国は 混乱の中で崩れていく。


 放浪者は潔白を証明しようと奔走するが、篝海王国で裁かれ――

 ――処刑された。

 

 残された篝海の国王は、一人で同盟を維持しようとした。

 だが 何故か破棄を求める声が日に日に大きくなる。

 まるで、誰かが影で糸を引いているかのように。


 篝海は地方全体をまとめるだけの力も時間もなかった。

 氷香は煉峰と深森の代理国となり、篝海は砂海と信赦の傀儡へと変えられる。

 

 そうして この地は、果てのない代理戦争の舞台となった。

 

  

 どうにかして、水晶宮の跡地に戻ってきたレトロは――

 また結晶を割った。


 まずい。何かが決定的に狂っている。

 このままでは、すべてが終わる。


 雪月の呼吸が浅くなっている。

 その手がわずかに震えながら、レトロに向けられた。


 「レ……レトロ……」

 声がかすれる。

 それでも、言わなければならないことがある。


 「ほ……放浪者に、危険を……知らせるんだ……」

 雪月の唇が、最後にかすかに動いた。


 「時の渡り人、君にしか……できない……っ――」


 そして、その瞳から光が消えた。


  

 *

 


 雪月は寝台で 荒い息を吐きながら 身を起こしていた。

 夢の余韻が、まだ全身に絡みついている。


 「…………っ……」


 額の汗を拭い、簡易除染する。

 脳裏に焼き付いた映像を振り払うように、呼吸を整えた。


 吐き気を飲み込み、現状を認識する。

 ――今日は、放浪者が訪れるはずの日だ。


 放浪者が死ぬのは駄目。

 雪月が死ぬのも駄目。

 封印だけでは、あの革命屋を出し抜けない。


 未来を変えるのは、おそらく『あの一瞬』。

 だが、それまでに何が変えられる?


 何か他に手はないか――。


 例えば、事前に罠を仕掛ける。

 ……いや、不審なものを設置しようとしても、球状結界が弾いてしまう。

 結界に馴染ませるには、時間が足りない。


 腕を落とし、封印と同時にオーバーノートを呼び落とす。

 ……いや、あの速度では間に合わない。


 考えろ。

 他に何か……。


 ふと、思いつく。


 雪月は手紙を書き、それを懐に仕舞った。

 そして、震える指先を隠すように、冷たい水を掬い、顔を洗った。



  


 冬にはまだ早い晩秋の夜半すぎ。

 書斎で書類を読んでいた雪月は、人の気配に顔をあげた。

 

 ――夢で見た青年が、そこにいた。

 レトロは険しい表情でこちらを見つめている。


「やあ、レトロ。また会ったね」

「僕を知ってるの? えっと……ここは……?」


 雪月は夢の中と似たやりとりをしながら、懐の手紙を彼の手に渡した。

 その上に封印を施し、低く告げる。


「頼んだよ、時の渡り人くん」


 ――その瞬間。


 がたりと窓の外から何かが衝突する音。

 次いで、血まみれの男が姿を現した。


「…………雪月!」

「放浪者!」


 夢で見た通りの位置にいる男を、捕縛の陣で縛る。

 だが――


 何も変わらなかった。

 男も、放浪者も、やはりすぐに死んでしまう。


  

 夢は、変わらなかった。

 雪月は殺人犯として処刑され、六花地方は砂海と深森に蹂躙される。


 ――後年。

 水晶宮の跡地に、人ならぬ者 が訪れる。


 彼は、透明化した封印 を見つけ出し、そっと手をかざした。

 封印が解ける。


 ――瞬間。

 

 時の渡り人は絶叫した。 

 声にならないほどの、叫び。

 

 目の前の現実に、心が追いつかない。

 何が起こったのか、分かりたくなかった。


 しかし、封印を解いた味方に思い切り頬を打たれ、時の渡り人はようやく泣きやんだ。

その時、ようやく自分の手の中に手紙があることに気づいた。


 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも何度も、何度も読み返す。

 指が震える。 

 そして、深呼吸をひとつ。


 魔術札を取り出し、過去へと飛ぶ。

 そして、成すべきことを果たした後。

 

 戻った彼は、また結晶を割り折った。

 


 *


 

 その日、オーバーノートは機嫌が悪かった。


 何度も同じことをしていて、何も上手くいっていない気がする。

 確認した。

 傭兵団との打ち合わせ、王弟としての業務、レントの餌の手配、最近活発になった近隣諸国間会合の下準備。

 

 どれも順調に進んでいるはずだった。

 それなのに、胸の奥にこびりついたような違和感が拭えない。



 まるで、静かに積み重なった歪みが、どこかで大きく崩れようとしているような──

 その感覚が、苛立ちの原因だった。


 この朝靄の中の中庭のように、先行きが見えない。

 そんな気がした。


「ミ」

 小さな鳴き声が響く。


「……どうした、レント? 兄上ならさっき会っただろう」

「ミミッ」

 レントが珍しく、強い調子で鳴いた。


 オーバーノートは思わず足を止める。レントがこんなふうに声を上げるのは、ほとんどなかった。

 喉の奥にわずかな冷たさが走る。

 何かがおかしい。


 そう思った瞬間、背筋に鋭い感覚が走る。

 ──気配がする。

 横から、不意に感じた「何か」に、オーバーノートは視線を向けた。

 

「――託宣がくだった」

 

 朗々とした声が響く。


 黒衣に黒のレースで顔を隠した少女が、夜の静寂を断ち切るように立っていた。


 王弟にこうも無遠慮に声をかける者が、まともであった試しがない。

 普段であれば、無視して素通りするところだ。


 だが、ここは──

 立ち止まったのは、兄と初めて会話を交わした場所だった。

 変わらず静かに佇む、お守りの柱。

 あの時の思い出が脳裏を過ぎる。


 オーバーノートは、無言のまま少女を見据えた。

「お前は?」

「私はソーン。篝海に託宣を授けるエルダーの巫女」

 

「篝海のエルダーの巫女?……聞いたこともないな」

「信じようが信じまいが、私はお前に託宣を授けるだけ」


 ソーンは淡々と続ける。

「オーバーノート、今日死んではいけない。

 水晶宮の主が死ねば、この地の命運も尽きる。

 革命屋の懐から未来を取り返すのだ。

 時の渡り人を従わせない限り、革命屋はこの地方を森と砂の遊び場にする。

 ──今日に心を捧げろ。それ以外の道は残っていない」


 静寂が落ちた。

 

 風が一陣、ふたりの間を吹き抜ける。

 ソーンは一瞬、空を仰ぎ、それきり踵を返して霧の向こうへと消えていった。


「……何だと?」


 オーバーノートは思わず呟く。

 死んではいけない?水晶宮?……雪月のことか?

 俺が死ぬ?……意味が分からない。


 だが、不思議と何かが心にすとんとはまる感覚があった。

「要するに、水晶宮で戦って、俺も雪月も死なずに敵を制圧しろってことか?」


 念のため、ルバート兄上に託宣について訊いてみることにした。

 兄はお守り探しの延長で、篝海各地の言い伝えや古文書、伝承を収集・研究するのを趣味にしている。

 

 何か知っているかもしれない。 

 話を聞いてみると、こんな伝承があるらしい。


「大昔、私たちの先祖が棘無しの大木を助けたことがあったようだ。その時の恩で千年に一度、託宣を受ける権利を得たそうだ。それでね―――」


 ……さっきの巫女がその類かどうかは分からんが。

 まあ、用心するに越したことはないか。


 託宣の真偽はともかく、雪月が死ぬのは避けなければならない。

 ならば、水晶宮に行くしかない。


 オーバーノートは一つ息を吐き、足を踏み出した。


  


 冬にはまだ早い晩秋の夜半すぎ。

 放浪者は、火竜と共に水晶宮のバルコニーに降り立った。


 ──何かが、おかしい。

 ただの静けさではない。張り詰めた空気が肌を刺す。

「雪月、生きてるか?!」

 

「おや、これは新しい」

 雪月は軽く笑いながら、向かい合う黒衣の男の腕を落とした。

 だが、敵は怯まない。

 残った腕が予備動作を始めたのを見て、咄嗟に調停の魔術をかける。


「ノート!」

「ミッ!」

 雪月とレントの声に反応し、反射的に身を翻す。

 

 ──パンッ!

 爆ぜる音とともに、偽装道具が宙を舞い、粉々に砕け散った。

(くそ……お気に入りだったのに……!!)


 怒りを飲み込みながら、勘で窓の影に足を振るう。

 布の奥に何かの気配──。

 即座に調停の魔術をかけ、蹴り飛ばした銃をそのまま掴む。


 ──撃つ。


 魔術膜を貫通する弾が敵の胸を貫き、魔術を発動する余地すら与えず沈めた。

 雪月は素早く窓の男を捕縛する。そのあと、目の前の片腕の男へと詠唱を唱え始めた。


 ……詠唱?

(正式な詠唱が必要なほど、魔術濃度が濃いようには見えないが……何か、意味があるのか?)

 放浪者は息を整えながら、次の動きに備えた。


「で?一体何が起きているんだ?」

 放浪者が問いかけると、窓辺で捕縛された男は息を荒くして笑った。


「あはは! なんだ、お前ら、何にもわかんないんだ……」

 男の顔は汗に濡れ、目がぎらついている。妙な高揚感がある。


「革命に、新しい時代に……精々、抗うといい……!」

 その言葉と同時に、男の喉が痙攣した。

 泡が口から噴き出し、びくびくと痙攣したかと思うと──がくりと首が落ちる。


 放浪者はしばらくその様子を見下ろしていたが、やがて小さく息を吐いた。

「…………革命屋って、これか?」


 雪月が男の亡骸を見下ろしながら、静かに問いかける。

「ふむ。放浪者、どこまで知っている?」

「俺は何も知らない。ただ、今朝うちに現れた巫女の託宣を真に受けただけだ」


「そうか。そっちが君を殺そうとした革命屋ファラファスだよ」

 雪月が視線を向けると、捕縛されたままの若者が苦しげにうめいた。 

「じゃ、俺はこいつに用があるから、そっちは任せた」

 

 放浪者が死体の懐を探る間、雪月は腕を落とした男の治療を始めた。

 赤黒く濡れた断面に手をかざし、静かに魔術を紡ぐ。

 ほどなくして、切断されたはずの腕がゆっくりと元の位置へ戻っていく。


 放浪者は一瞬、怪訝そうにその光景を見たが、すぐに肩をすくめた。

(……なぜ腕を戻すのかは分からないが、雪月のやることだ。それなりに理由があるのだろう)

 そう思いながら、彼は死体の衣の奥をまさぐり、何かを探し続けた。

 

 

「さて、レトロ。大丈夫かい?革命屋はもういない。君が過去で託宣者を用意してくれて助かったよ」


 雪月が穏やかに声をかけると、レトロは困惑した顔で首を傾げた。

「僕、が用意した?」


「そうだよ。どうやら私は時の障りを受けてしまったようでね。この時を何回か繰り返したんだ」

「……ああ……」


 レトロの表情が曇る。戸惑いと、わずかな罪悪感が入り混じるように、彼は目を伏せた。

「ごめんなさい……」


 雪月は静かに首を振る。

「何が起きているか、教えてくれないかい? どうやら今回、私たちは今まででいちばん上手くいっているようだ。この際、一緒にどうにかこの時を乗り越えようじゃないか」


 レトロはしばらく黙っていたが、やがてぽつり、ぽつりと言葉を紡ぎ始めた。


 ——他の世界から落ちてきたこと。

 ——この世界に入る時に彼を呪った『人ならぬ存在』を探していること。

 ——そいつはすでに消滅していて、自分はどうやら、その存在がいる過去まで『戻されている途中』なのではないかということ。


 放浪者は黙って聞いていた。

 話が壮大すぎて、どこから疑問をぶつけるべきかすら分からなかった。


 雪月は考え込むように目を伏せ、それから改めてレトロを見つめた。 

「あの革命屋とやらはその腕輪を使って、時の障りを持つ君を暴走させようとしていたようだ」

 

「……!」

 レトロがわずかに肩を震わせる。

 

 放浪者は理解できないなりに雪月の表情を観察した。

 彼は真剣だった。

 つまり、重要な話なのだろう。

「話をしてくれてありがとう」

 

 雪月は静かに微笑み、ゆっくりとした口調で続ける。

「私は君に助けてもらったことがある。だから、信じるよ」


「……ありがとう」

 レトロは驚いたように目を見開き、それから小さく微笑んだ。


「そのかわり、頼みがある」

 雪月の声が、少しだけ硬くなる。


「800年前、この部屋で小さな私が頼れる大人を必要としている。君がいなくても、一人で生きていける術を授けてやってほしい」


 レトロが困惑した表情を見せる。

「それと……最後に会う私は死にかけている。スープをひとくち、食べる力が必要なんだ。祖父ルーカスの遺志を継げと伝えてほしい」


 レトロは呆然と雪月を見上げた。

 しばらくすると、迷いを振り払うように、大きく頷く。

「僕があなたを助ける番なんだね。分かったよ」

 


 放浪者は彼らのやりとりを聞きながら、(まったく分からん)と心の中でぼやいた。


 しかし、さっきまでの殺伐とした空気よりは、ずっといい。


そう考えながら、彼は死体の懐を探る手を止めなかった。


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