呪いのお守りと海底の火竜
「陛下、あの従属の印とやら……本当に信用できるので?」
「ふむ……魔術塔ノワールにすら拒絶された者が、試しにと置いていったものだからな」
王はゆるりと杯を傾け、液面を眺めた。
「あの禁忌にすら挑む魔術に貪欲な塔が、なおも退けた者の技を、ですか……? 陛下、それはさすがに……」
「塔の目も、鑑定人の街の手配もくぐり抜け、今もなお近隣諸国の裏で動いている。表に出せぬ仕事ばかりをこなしてな。腕の確かさは証明済みだ」
「なおさら信用できません。奴がどこかの手先ではないと、どう証明できるのです?」
「公爵……君は慎重な男だな。しかし、大きな取引の最中に、自らそれを壊すような愚を犯す者がいると思うか?」
「……それを、信じろと?」
「ならば、公爵。君に『保険』を施してもらおうか」
「はっ! お任せください。ところで……傭兵部隊の指揮を息子に……」
「その件は然るべきところで決める。……傭兵はどう使い倒すのが効率的か考えておきたまえ」
*
あの日連れ帰った生き物の黒く長い毛並みは、驚くほど手触りがよかった。
ふさふさとした長い尻尾。顔よりも大きな耳。
丸い身体の両脇には、たぷりとした皮がある。
つぶらな黒い瞳。背には、小さな羽根。
鼠や栗鼠に似ているが、それらよりも耳が大きく、しかも翼まである。やはり、見たことのない種族だ。
「ミ……!」
「水ならさっき飲んだろ? 懐に入ってろ」
「ミッ」
「餌は後だ」
「ミヂィ…………!!」
傭兵団の騎馬隊の世話役によれば、こいつは『風向き』という種族らしい。
特にこの色は幸運をもたらすとされているが、『気に入ったものの前にしか姿を現さず、その人間にしか懐かない』という。
つまり、俺が育てることになった。俺が放っておけば、そのうち消えてしまうそうだ。
幸い、食糧は水と持ち主の感情で動く魔術。
手間も金もかからないのは助かるが、気を抜けばすぐに消えそうだ。
好物なら好きに食べさせてもいいらしい。
なら、懐の隠しにこいつとナッツを二、三入れておけばいいか。水を時折やれば――。
そう、気楽に考えていた。
だが、蓋を開けてみれば――全然おさまらない。
戦闘中や有事の際は、流石に大人しく懐にこもる。
だが、それ以外は手がかかるにもほどがあった。
ナッツより花びらを食い散らすのが好みで、しかも選り好みする。
『根付いた葉先』『風がよく通る場所の花』でなければ、見向きもしない。
俺の感情……正確には、それで動く魔術を捕食しているらしいが、実際に食べている場面を見たことはない。
平穏な時は胸ポケットにおさまり、辺りを見回すのが日課のようだ。
人や動物と違って、不要な養分は魔術に変換し、背中の小さな翼から排出しているらしい。
小指の爪ほどの小さく薄いこの羽から。
つい胸ポケット周りを確認してしまう。
異臭はないか、変色していないか、魔術の乱れはないか――。
けれど、何も変わらない。
……むしろ、少し綺麗になった気がする。
気になって、何度も確かめていたら、じっとこちらを睨んできた。
どうやら不機嫌らしい。
…………妙に表情豊かだな、お前。
兄上には、次に会った時に経緯を報告した。
本来なら、こいつの主は兄上だったはずだ。
だが、兄上は『たまに触れられればいい』と言って、俺の懐に納まる黒い生き物を見て微笑んだ。
「このレントは、僕が君に渡した最初のお守り、ってことだね」
「ミ!」
「幸運をもたらしてくれる……んですかね」
「ミッ?!」
俺が冷めた口調で言うと、レントがびくりと震えた。
兄上はくすくすと笑った。
「ほら、レントが傷ついちゃったよ。こうしてまた会えたのも、彼の幸運のおかげかもしれないね」
「ミィ、ミッ!」
「はいはい、わかった。……眠いなら、ポケットに戻っておけ」
兄上が『レント』と名付けた風向きは、くるくると回ってからポケットに潜り込み、丸くなった。
「仲良しになったみたいで良かった。……はい、これは洗濯していた侍女から聞いたんだけど、帰還のお守りだよ」
「……兄上、それは恋のおまじないでは?」
「ええ? だって『無事に帰ってきてね』って言っていたよ」
「多分、その前に『出先で浮気せずに』がつくのでは……」
「そんな経験ないんだけどな……そんなに浮気しそうな顔してる?」
「ええと…………どうでしょうね。ともかく、ありがとうございます。もちろん持っていきますから、涙目はやめてください」
「僕以外に兄をつくって帰ってこないでね……?」
「……兄をつくるってなんですか」
「君、兄貴分がやたら多いよね?」
「あれは保護者枠です。兄上は、ひとりだけですね」
懐から取り出したのは、蓮の形をした護符だった。
「今回は睡烏の蓮守り。災い除けになるそうです」
「綺麗な蓮花だね。ありがとう。部屋に飾らせてもらうよ」
噴水の横で、魔術があるのかないのかわからないようなお守りを交換する。
兄上が持ってきたのは、どこで見つけたのかわからない、小さなまじない。
俺のは……正直、遠征先のお土産に近い。
もちろん、お守りとしての意味はある。
だが仲間に聞けば、決まって『本当に効くのか?』と首を傾げられる。
「兄上……王に俺との接触について言われたりしませんか」
そう問いかけると、兄上はほんの少し目を伏せ、ため息混じりに微笑んだ。
「そうだね。父上は臆病だから、いい顔はしないね」
その声はどこか軽やかだが、根底には確かに苦いものが滲んでいる。
「やはり、こうしていると難しい立場になるのでは」
俺がそう言うと、兄上はふっと柔らかく笑った。
「君は僕のたったひとりの弟なんだ。だから、君が嫌じゃない限り、僕はちゃんと向き合いたい」
まるで当たり前のように言い切る。
その真っ直ぐな言葉が、少しだけ眩しかった。
「……あまりちゃんと見られると、幻滅されそうです」
冗談めかして言ってみるが、兄上はくすっと笑うだけだった。
「どんな君でも、僕の弟だからね。悪いことをすれば怒るし、悲しいことをしても怒るよ」
「怒られますか……譲れないところは喧嘩になるかも」
その言葉に、胸の奥が小さく疼く。俺がそう返すと、兄上は優しく目を細めた。
「兄弟喧嘩でまた仲良くなれるなら、それもいいかもしれないね」
兄上は軽く肩をすくめ、少しだけ挑戦的な笑みを浮かべた。
「……立場上、戦争になってしまうかも」
「君は戦争が好きなのかい?」
兄上の言葉には、予想以上の冷静さがあり、俺は無意識に息を飲んだ。
「好きではありませんよ」
「あんなに出征してるのに?」
兄上が鋭く反応し、目を細めて俺を見つめた。
「だからこそ、いっそひとつにまとめて、東西の大国と同じだけの力を得れば、争いが減るのではないかと」
「そう? 僕は、みんながみんなのまま、協力しあえたらいいと思うよ」
兄上は静かに言ったが、その言葉には揺るがぬ信念が宿っているように思えた。
その信念を、俺はまるで目の前にある光のように感じたが、同時に遠くも感じた。
「互いにいがみ合っている現状では、それは難しいでしょうね」
俺は少し冷たく言った。
でも、それが実際のところ、俺の信じる現実だった。
「ひとつになったとしても、そこは変わらないんじゃないかな」
「仰る通りです。しかし、ひとつの国なら、まだ上からの命令は通る」
「本当にそうだろうか……」
兄上はふっと微笑み、少しだけ目を細めて言った。
その笑みには、確信と諦めが交じっているような気がした。
「……そろそろ行くのかい?」
「ええ。次は、また砂海土産になりそうです」
「君が無事に帰ってくるのが、いちばんのお土産だよ。オーバーノート、君の武運を祈っている。気をつけて」
兄上の言葉が、胸にじんと響く。
兄の願いが届くように、何としても無事に帰らねばと思う。
「ありがとうございます。ルバート兄上も、どうぞお健やかに」
そう言って、少しだけ笑みを浮かべる。
兄にあまり心配をかけたくなかった。
たまに得られる兄との交流は、俺の癒しだった。
深森の海に派遣されて数年、海賊たちが落ち着いた頃に王城へ呼び戻される。
また、すぐ次の出征先が決まった。
王命を拒絶できない俺を手に入れた王は、この六花地方全土を欲しはじめた。
国土拡大路線を打ち出し、国内外にその意図を知らしめ、何もかも投げ打って進めていく。
俺を使い潰すつもりなのだろう。
王は、道具としての使いどころを決めることにおいて、何も遠慮しない。控えめな性格では決してなかった。
合法も非合法も問わず、俺に降りかかる任務は次々と、やることが山積みだった。
砂海反撃、睡烏災害援助、氷香要所占拠、煉峰の領土奪取――戦争も、侵攻も、調査も、交渉も。
名前が変わろうと、やることはいつも同じだった。
砂海反撃の最中、戦場に吹く風は、熱気と砂埃を運んできた。
乾いた喉を湿らせ、遠くの陣営を見やる。
「ノート、そろそろ進軍の時間だろ?」
「ああ……メイ、どれくらいで終わると思う?」
「そうだなぁ……昼まで保てばいい方だろ」
「よし、日暮れまで保たす。いくぞ」
「また無茶を――!!」
どれだけやりくりをしても、ここにいる全員を無事に帰すことはできない。
王の思惑とは関係なく、俺たちは現場でできる限りのやりくりをする。なにしろ、人の命がかかっているのだから。
味方の損害が少なくなるよう、必死で足りない知恵と予算と魔術を絞り出し、武器を磨きあげて業務を遂行する。
それでも、やっていることは戦争そのもので、荒事に等しかった。
どれだけ工夫を凝らしても、損失を減らすことしかできず、戦自体を止めることはできない。
人員を補充し、武器を磨き、そして、また次の戦へと向かう。
周辺諸国と行き違いが起き、事態が収まるたび、王族の中でも特に使い勝手が良いとされ、交渉役として何度も呼び出された。
そんなことを繰り返すうちに、俺を気に入った人ならぬものから調停の魔術を教えられた。
実際に教えられたのは、相手の心を落ち着かせ、取り入れる術だった。相手を強制的に同じ卓に並べさせ、心を見せるための力だった。
そんな力を得ても、王とは見ている方向が違いすぎて、結局、流れは変わらなかった。
必要な条件を整えて任務を全うし、また城に呼び戻され、新たな任地に送り出される。その繰り返しに、もう何も感じなくなっていた。
俺はただ、王が次に欲しがる土地へ向かうだけだった。
王は俺の扱いにすっかり慣れ、要求は日に日に苛烈になり、俺の存在はただの道具のように扱われていった。
王の要求は難易度が上がる一方で、兄と中庭で顔を合わせることすら難しくなった。
レントは、中庭に兄の姿が見当たらないことに不思議そうに首を傾げていた。
そのうち、最初に出会った柱の片隅、通るだけでは丁度死角になる場所へ隠蔽の魔術をかけ、密かに交換するようになった。
かつて純粋な『お守り』だったそれは、いつの間にか、些細な問題を引き起こすものへと変わっていった。
そのうち、お守り自体も、次第にあったり、なかったりするようになった。
前回置いてあったお守りは、『怨嗟の涙』と呼ばれるものだった。
それはもはやお守りではなく、取りこぼしてきた命の重さを纏う呪詛の道具だ。
戦場に身を置いている以上、命を問う立場にならないわけがなかった。
おそらく、魔術的な縛りがかかってしまっていたのだろう。俺はそれを拒むことができず、ただ受け取り、身につけるしかなかった。
そのため、相殺するための呪い避けを身につけた。
安心したわけではない。
だが、戦場の混乱の中、飛んできた流れ弾が呪い避けを砕いた。
その瞬間、怨嗟の涙が広範囲に効き、自軍に甚大な被害が出てしまった。
即座にお守りを破壊して被害を止め、そこから巻き返してなんとか辛勝した。
全てが終わった後、懐中を確認すると、レントは相性が悪かったのか、すっかり弱りきっていた。
小さな風向きの全身にひび割れが広がり、その姿はまるで砂でできた像のように脆弱だった。
触れるとすぐに砂のように崩れそうで、怖くて力を入れられなかった。
慌てて休憩時間をねじ込み、世話役のところへとんでいった。
「お前の喜びの感情を感じさせろ」
そう言って、世話役はいくつもの品を手渡してきた。
渡された品々を一つ一つ手に取るが、どれも何の感情も湧いてこなかった。指先が冷たくて、無力感だけが広がるばかりだった。
ふと、兄から贈られた数々のお守りを思い出し、その束をそっと握った。
その瞬間――爪より小さな羽が、淡い光を帯びて輝いた。
驚いて手のひらを覗き込むと、レントのひび割れはいつの間にか、浅い傷跡へと変わっていた。
呼吸はまだ浅く、眠ったままだが、さっきまでの危うさは和らいでいる。
……助かったのか。
長く詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。
指先が小刻みに震えていたことに、その時ようやく気づく。
力を込めても、震えはすぐには止まらなかった。
翌日、損害の責任を問われ、王から緊急の呼び出しを受けた。
早馬を幾つも乗り継ぎ、王の執務室の扉を叩く。
「そうか。傭兵部隊の被害が甚大か」
「申し訳ありません」
頭を下げた俺に、王は関心の欠片もない様子で、事務的に言い放つ。
「気分転換に丁度いいだろう。火薬の流通が減って品薄だと、商人どもが騒ぎ立てている。おそらく氷香の妨害だろう――水晶宮へ行け」
「は」
「調停の魔術を習得したそうだな。水晶宮で試してくるといい」
「……は」
従属の印が熱を持つ。
灼熱の鎖が胸の奥を締め付け、逃げることも抗うことも許されない。
熱が膨れ上がり、心臓ごと焼かれるようだった。
今回の損害は、紛れもなく俺の責任だ。
報告書も始末書も当然俺が書く。
被害のあった各所には頭を下げ、できる限りの補填を約束した。
厳しい前線だからこそ、真摯に対応しなければならない。
二度と繰り返さぬよう、手を尽くす。挽回のためなら何でもやる。
俺は、ここまで積み上げてきた。
常勝とはいかずとも、どんな戦況でも八割の勝率を維持してきた。
なのに。
氷香の王宮『水晶宮』は、害意を拒む絶対の要塞。
篝海との国境の山脈の合間にそびえ、幾度となく氷香を狙う悪意を拒絶してきた。
その主、氷香王ルカ――有史以来最強の魔術師にして、数百年の治世を誇る王。
あの男を前に、従属の印すら破れぬ俺の魔術や技が通じるはずがない。
つまり、俺はもう要らない。邪魔者になった。
それだけのことだ。
胸の奥で、怒りと絶望が爪を立てる。
分かってはいた。
だからって、はいそうですか、とはならない。
不要になれば捨てるのか。
捨てる手間すら惜しみ、他国の王にやらせるのか。
とてもこの人らしいな。
懐でレントがもぞもぞと動く。
その小さな温もりだけが、今の俺を繋ぎとめていた。
「ここまでよく戦を御してきたお前なら、問題ないだろう」
「…………は」
「砂海の戦線には、お前の優秀な子飼いがまだ残っているな。お前がいなくても、ある程度は機能するだろう?」
「し…………承………………知……しま、し……たっ…………っ」
痛みと灼熱が口を強制的に動かす。
従属の印は反論を許さない。
俺の築いた大切な関係が、あいつらを縛るしがらみに変わる。
部隊の数が半減し、疲弊した仲間たちは、まだ砂海との最前線で戦い続けている。
メイも、傭兵団の皆も、満身創痍のまま。
王は第一王子の成人を前に、用済みとなった俺を始末するつもりか。
さらに、砂海の装束を纏うよう命じられた。
あくまで俺や砂海が勝手に動いたと見せかけるつもりなのだろう。
ここから馬で水晶宮まで行けば半月はかかる。前線からなら一週間。前線撤収後に動いたことにすれば、十分に筋が通る。
俺を育ててくれた人たちに、憂いの影が落ちないようにしなければ。
せめて俺が死んでも、彼らに迷惑がかからないように。
ああ、くそ……。
従属の印が、邪魔だ。
そうだ。
なら、早く終わらせてやるか?
砂海との争いの真っ最中の今であれば、砂海も前線の奴らも手一杯で組織だった行動にはならない。
俺が死んでも、少なくともあいつらを巻き込まずにすむ。
あの馬鹿親父も巻き込めれば、これほど痛快なことはない。
……あれを使えば、少しは奴らも面白くなるか?
「ミュ!! ミュミュミュ、ミッ!」
「ん? どうした、レント。……あれは――」
夕空が赤く染まるなか、背は少し伸びたけれど、出会った頃のままの笑みで兄が走ってきた。
「ノート! ……ああ、良かった。やっと会えた」
「兄上……」
兄上のところには、俺の失態の報せは届いていないのか。
だから、こうも無邪気に近寄ってきてくれるのだろう。
「今回のお守りは、どうしても手渡ししたかったんだ」
そう言って無邪気に差し出されたのは、紡ぎあげた色糸を固結びにした柄飾り。
「これは、落とし物が戻ってくるんだって。ささやかな効果しかないけど」
……なんで、今さらこんなものを。
その伝承は、この結び方が、大事な絆を意味するからだろう。
これは、自分の縁を魔術に換えて紡ぐための練習用のおまじないだ。
市井で広く教えられているもの。
だから紡げる魔術が淡く、効果も薄い。
「ありがとう、ございます。私からはこちらを。……すみません、これから任務に出るので」
「ミッ?ミィ、ミ!」
「……こら、レント」
「大丈夫だよ、レント。ノート、気をつけて行っておいで」
一礼し、些細な思い出をひとつ覚えて再生する星砂の小瓶を渡して、立ち去る。
あの怨嗟の涙は罰か、警告か。それとも。……今までの兄上は、油断を誘うためのものだったのだろうか。
もちろん、彼か他の誰かの妨害工作の可能性も考えた。だが、それにしてはすべてが些細すぎる。
怨嗟の涙はともかく、他のものは、魔術の痕跡すら感じられないのだ。
効果が薄すぎる。
まずは従属の印の縛りの通り、水晶宮へ行かなければ。
「ミィ、ミッ!」
「悪いな、今急いでいるんだ」
「ミ?」
「火竜の力を借りに行く。……深海火山まで行って火竜に乗る。懐にいれば、俺の領域内だから影響は受けないはずだ」
「ミュイン……?!」
「飛行中は突風や急旋回もあるだろうが、悪いな。しっかり掴まってろ」
レントは尻尾を使い古した靴ブラシのようにしながらも、小さく頷いて懐に潜り込んだ。
思いつきを実行するべく、廊下を急いだ。
城の地下には、国の防壁となる各要所へつながる転移門がある。
有事の際にのみ使用されるが、敵に渡れば致命傷になりかねないため、厳重に管理されている。
その隣には『海底の間』と呼ばれる部屋があった。
深海火山へと通じる転移門が設置されているが、戦略的な価値は低いため、こちらの警備は最低限に抑えられている。
部屋に入ると、壁際の籠から泡石を二、三個取り出し、レントの近くの別の懐にしまう。
泡石は、水中での呼吸を助ける微細な泡を発生させるもので、深海での行動には欠かせない。
転移門の前で深呼吸し、魔術濃度を高める。
空気がわずかに揺らぐのを感じながら、俺は足を踏み出した。
門の先は海底火山の中腹。
熱を孕んだ海水が肌を刺すようだ。
泡石と魔術の防壁がなければ、瞬時に全身が茹で上がっていただろう。
それでもなお、熱は皮膚の奥にまで染み込み、身体の芯が焦げつくように熱い。
深海の圧力がじわじわと体を締めつける。
防壁がなければ、今ごろ全身が押し潰されていたはずだ。
周囲には、幽かに揺れる緑の光を放つ水草灯篭が点在していた。
波に揺られ、柔らかな光が静かに踊る。
仄暗い海底に、小さな灯火がいくつもゆらいでいた。
ふと、篝火のようなまばゆい燈金の瞳が、暗闇の中に点々と浮かび上がる。
火竜たちだ。
彼らの体は灼熱の溶岩でできており、ゆらめく熱を孕んでいる。
普段は海水で熱を冷ますため、表面の鱗は黒鉄のように硬く、鋼色の光を鈍く反射していた。
しかし鱗の隙間からは、脈打つ熾火のような橙赤が滲みでている。
巨体が呼吸と共にゆっくりと明滅する。
炎の波が肌を伝い、瞬く間に赤く染まり、また沈む。
尻尾の先から頭部まで燃え続けるたてがみの炎が、潮の流れにたゆたう。
静かでありながら、どこか畏怖を感じさせる光景だった。
美しさに目を奪われそうになりながら、俺は意識を引き戻す。
伝声の魔術で声を響かせた。
「頼む。誰か俺を水晶宮へ送ってくれないか」
辺りが凍りついたように静まり返る。
水の流れる音すら、遠くなる。
「……あんな食うものもない、暗い場所に、誰が行きたいと思うんだ?」
いちばん近くにいた竜が、ゆらめく熾火のような瞳を細める。
その黒鉄の鱗は、奥に燃えさしを抱えたように淡く光っていた。
竜は半笑いで鼻先を揺らし、かすかに熱気を漏らす。
「用があるんだ。もちろん報酬は用意している」
火竜の棲家は海底火山地帯。
だが、そこは深海にあり、可燃物は意外と少ない。
火竜の飢えについては、古来より人々の知るところだった。
彼らは度々地上へ遠征し、陸に大火を撒きながら食料を確保していた。
それを知った先王が、火竜との契約を結んだ。
火竜たちが深海火山の恩恵を国に授けることを条件に、人間は定期的に食糧を提供した。
やがて火竜は、深海火山だけでなく、その一帯の海を守るようになった。
そしてその象徴として、篝火と灯台を司る存在となる。
火竜たちの食糧事情があったからこそ、人と人外の線引きは保たれてきた。
そのおかげで、まだ火竜たちが人間同士の争いに巻き込まれることはない。
火竜は数十年の絶食に耐えられる種族だ。
必要最低限の食事はとるが、それでも彼らは常に飢えていた。
俺は懐から鉱石炭を取り出し、指先で回しながら水草灯篭にかざす。
これは深海火山で生まれた海底鉱石が、長い時を経て砂海帝国の砂漠に流れ着いたものだ。
乾いた大地に埋もれ、何百年もかけて燃性の炭へと変質した。
「これは百年もの間、絶えることなく燃え続ける。極上の鉱石炭だ」
「……!」
火竜たちの目が揺らめく。燐光のような光が宿り、熱を帯びていく。
「砂漠で見つけたものだから、中まで陽が染み込んでいる。水晶宮へ行く途中で落としてくれれば、それでいい」
しばしの沈黙。
手の上のものを右に動かせば竜達の目も右にいき、手を左に動かせば、燈金の光もつられて動く。
やがて、先程の竜が前に出た。
「……俺が行こう」
「よし、決まりだ」
火竜の背にまたがり、砂海の装束をきつく締め直す。風に煽られぬよう、身を固めた。
鞍はない。翼が大きくうねるたび、足場が変わる。
わずかな突起を頼りに、慎重に掴む位置を探る。
火は篝海の王族には害をなさない。
先王からの契約によって、その身は炎と共にある。
火竜はゆっくりと浮かび上がり、ひと振りの翼で空気を切り裂いた。
そのたてがみが、ぱちりと燃え弾ける。
頬を撫でる風が熱を帯びる。
いつの間にか、海の上を上昇していた。
深海の冷たさとは無縁の世界。
火竜の鱗は、表鱗は艶消しの黒、しかし内側から熾火のように赤く燃えている。
月明かりがそれを反射し、揺らめく光の粒が散る。
まるで燠火が、時折火花を散らすようだ。
大きな皮膜の翼は、反対側が透けるほど薄いが、赤々と燃えていた。
月光を受けて保温の油膜層がうっすらと虹色を帯びる。
「まだ道のりは長い。少し風を裂くぞ」
竜は高く風に乗り、北へ向かって飛び続けた。
陽はとっくに沈み、火竜でも末端に溶けた氷が纏わりつくほど気温が低い。雪がはらはら舞う雲の合間からこぼれる微かな月あかりが、ゆらりふわりと辺りを照らす。
北に向かうにつれ、雪の飛沫が舞い降りる様子は、羽ばたく鳥のようにゆっくりと空を描いていた。
あたり一面が雪に覆われ、すべてが白の世界に変わる頃。
オーロル山脈とハイランド山岳地帯の間の広大な森の先に、小さな、まるで光を内包した真珠のようなものが遠くに見えた。
あれが、噂の水晶宮か。
半透明な球状結界が、雪と氷で白くけぶる。風に吹かれて、その表面はほんのり虹色に染まった。
これだけ距離があれば、まるでシャボン玉のように見える。
徐々に大きくなる真珠色の光を前に、身の回りを整える。
さて、この竜をそろそろ返してやらないといけない。
ただ報酬に釣られて使われたのだから、後々人間のごたつきに巻き込まれないよう、ここから落ちれば丁度いいだろう。
「なあ、どの辺に降りるんだ?」
「少し高度を上げてくれ。落とす位置を調整したい」
「落とす……? まあいいが」
俺は深く息を吸い、風の動きを最後に確認した。
目標地点は水晶宮の球状結界の真上。
計算通りなら、問題ない。
誤差は空中で足場を作って調整する。
「ここでいい。助かった」
「よし、下まで行くぞ」
「いやここからでいい」
「は?ここ、高高度なんだが?!あっ、落とすってそう言う意味か!せめてもう少し低空からにしろ」
「問題ない」
「ちょっ、お前、冗談だろ?! ま、待て、せめてもう少し低く――」
「ありがとう、気をつけて帰ってくれ。……ああ、この件は内緒で頼む」
「あああ……!!おい、こら!」
竜の悲鳴のような叫びを背後に聞きながら、俺は身体を前に倒した。
風が一気に身体を包み込み、落下する。
「…………!…………ッ……ミュイッ……?!」
結界の上に魔術の塊を配置し、それを手繰り寄せる。
風を切る音が耳を裂き、身体がぎりぎりと空気に押し潰されるように軋んだ。
減速はしたが、予想以上に鈍い。何かが干渉している――レントか?
考える余裕すら惜しい。
全力で落下の力と風を調停し、粉雪に変換する。
魔術の塊を置いた結界の真上に降り立つ。
途端にボサボサの風向きが顔を出した。
「ミュイッ?!ミュウ、ミュミュミュッ!」
逆立った毛を膨らませ、レントが威嚇する。
「ああ、急に落下して悪かったな。でもお前が助けてくれたから、無事着地できた。ありがとうよ」
レントは一瞬じっとこちらを睨んでいたが、すぐに毛をしゅんと萎ませた。
「………………ミュ……」
そう言って威嚇を収めてくれた。
「ここからは戦場だ。また何が起きるか分からない。何があっても懐から出てくるなよ」
「……ミ」
納得したのか、レントはまた懐に戻っていった。
俺ははらはらと雪降る夜空を見上げる。
火竜はぐるりと大きく旋回していた。
こちらが居なくなればすぐ去るだろう。
さて、問題はこの結界だ。
何も考えずにつま先を伸ばし、そっと触れてみる。
途端に弾くような硬質な感触が伝わった。
まるで金属の床を踏むようだが、確かに表面は滑らかで、僅かに波打っている。それでいて、まるで生き物のように柔軟で、きっぱりと俺を拒絶していた。
俺は一歩引いて、結界を見下ろした。
「……暗殺を目論む侵入者だ。拒絶して当然だな」
軽く肩をすくめて全身に調停を纏う。
害があれば己の身を対価とする条件で、そっと足をのせる。
一瞬、結界がざわめくような波紋を広げた。
次の瞬間、俺の体は柔らかな幕に包まれ、そのまま水に沈むように結界の中へと吸い込まれていく。
どうやら結界は全てを弾かないようだ。水晶宮の中でもはらはらと雪が舞い降りていた。遅い時間だからか、他に動くものはない。
まるで市場で見かけたスノードームの中に入り込んだようだ。
四角い王城は、岸壁城に比べるとこぢんまりとしている。
だからこそ、余計に玩具のように見えるのかもしれない。
取り急ぎ、建物脇のもみの木を無音で登り、不用心にも外へと揺れるカーテンが見えるバルコニーに降り立つ。
開いている窓の奥には、深い森のような緑と、澄んだ湖のような薄水色が調和する静かな書斎が広がっていた。
夜空色の絨毯の上に石化した古木の事務机に向かう、寛いだ姿の青年がいた。長い銀髪を複雑に結い垂らし、深い濃紺の毛織物を纏って魔術の灯りで読書に勤しんでいる。
羽織った毛織物には月と雪が刺繍され、内側は毛足の長い毛皮がはられている。
氷のように整った冷たい顔は、本に夢中なようで、表情は透明だ。
あれは何度か式典で見かけた顔だ。
認識した瞬間、事前に仕掛けた魔術が発動し、俺の身体を操る。
本来ならば、相手を認識した時点で多少のためらいが生じるはずだ。だが、俺の意思など関係なく、武器が調和の魔術を纏い、静かに振り下ろされる。俺の感情とは無関係に、刃は相手の防壁をすり抜ける。
刃が届く寸前、冷気が弾けるように広がった。
次の瞬間、竜が咆哮するような音が響き、目の前の男が圧倒的な密度の魔術を立ち上げる。
気づいた時には、すでに全身が竜の顎に呑み込まれていた。
竜の牙が皮膚に食い込み、その顎が生きているかのように締めつける。
まったく動けない。
竜の姿を模した魔術に内心、舌打ちをする。
篝海の王族の約定により、火竜と似た姿には害を加えることはできない。それが、例え偽物であろうとも。
やはり、調停の魔術ではこの男に届かない。