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呪いのお守りと海底の火竜


「陛下、あの従属の印とやら……本当に信用できるので?」

「ふむ……魔術塔ノワールにすら拒絶された者が、試しにと置いていったものだからな」

 王はゆるりと杯を傾け、液面を眺めた。

 

「あの禁忌にすら挑む魔術に貪欲な塔が、なおも退けた者の技を、ですか……? 陛下、それはさすがに……」

「塔の目も、鑑定人の街の手配もくぐり抜け、今もなお近隣諸国の裏で動いている。表に出せぬ仕事ばかりをこなしてな。腕の確かさは証明済みだ」

 

「なおさら信用できません。奴がどこかの手先ではないと、どう証明できるのです?」

「公爵……君は慎重な男だな。しかし、大きな取引の最中に、自らそれを壊すような愚を犯す者がいると思うか?」

「……それを、信じろと?」

「ならば、公爵。君に『保険』を施してもらおうか」

「はっ! お任せください。ところで……傭兵部隊の指揮を息子に……」

「その件は然るべきところで決める。……傭兵はどう使い倒すのが効率的か考えておきたまえ」



 *


 あの日連れ帰った生き物の黒く長い毛並みは、驚くほど手触りがよかった。

 ふさふさとした長い尻尾。顔よりも大きな耳。

 丸い身体の両脇には、たぷりとした皮がある。


 つぶらな黒い瞳。背には、小さな羽根。

 鼠や栗鼠に似ているが、それらよりも耳が大きく、しかも翼まである。やはり、見たことのない種族だ。


「ミ……!」

「水ならさっき飲んだろ? 懐に入ってろ」

「ミッ」

「餌は後だ」

「ミヂィ…………!!」


 傭兵団の騎馬隊の世話役によれば、こいつは『風向き』という種族らしい。

 特にこの色は幸運をもたらすとされているが、『気に入ったものの前にしか姿を現さず、その人間にしか懐かない』という。


 つまり、俺が育てることになった。俺が放っておけば、そのうち消えてしまうそうだ。


 幸い、食糧は水と持ち主の感情で動く魔術。

 手間も金もかからないのは助かるが、気を抜けばすぐに消えそうだ。

 好物なら好きに食べさせてもいいらしい。

 なら、懐の隠しにこいつとナッツを二、三入れておけばいいか。水を時折やれば――。

 

 そう、気楽に考えていた。

 だが、蓋を開けてみれば――全然おさまらない。


 戦闘中や有事の際は、流石に大人しく懐にこもる。

 だが、それ以外は手がかかるにもほどがあった。

 ナッツより花びらを食い散らすのが好みで、しかも選り好みする。

『根付いた葉先』『風がよく通る場所の花』でなければ、見向きもしない。


 俺の感情……正確には、それで動く魔術を捕食しているらしいが、実際に食べている場面を見たことはない。


 平穏な時は胸ポケットにおさまり、辺りを見回すのが日課のようだ。

 人や動物と違って、不要な養分は魔術に変換し、背中の小さな翼から排出しているらしい。

 

 小指の爪ほどの小さく薄いこの羽から。


 つい胸ポケット周りを確認してしまう。

 異臭はないか、変色していないか、魔術の乱れはないか――。

 けれど、何も変わらない。

 ……むしろ、少し綺麗になった気がする。

 気になって、何度も確かめていたら、じっとこちらを睨んできた。

 どうやら不機嫌らしい。


 …………妙に表情豊かだな、お前。

 

 

 兄上には、次に会った時に経緯を報告した。

 本来なら、こいつの主は兄上だったはずだ。


 だが、兄上は『たまに触れられればいい』と言って、俺の懐に納まる黒い生き物を見て微笑んだ。


「このレントは、僕が君に渡した最初のお守り、ってことだね」

「ミ!」

「幸運をもたらしてくれる……んですかね」

「ミッ?!」


 俺が冷めた口調で言うと、レントがびくりと震えた。

 兄上はくすくすと笑った。


「ほら、レントが傷ついちゃったよ。こうしてまた会えたのも、彼の幸運のおかげかもしれないね」

「ミィ、ミッ!」

「はいはい、わかった。……眠いなら、ポケットに戻っておけ」


 兄上が『レント』と名付けた風向きは、くるくると回ってからポケットに潜り込み、丸くなった。


「仲良しになったみたいで良かった。……はい、これは洗濯していた侍女から聞いたんだけど、帰還のお守りだよ」

「……兄上、それは恋のおまじないでは?」

「ええ? だって『無事に帰ってきてね』って言っていたよ」

「多分、その前に『出先で浮気せずに』がつくのでは……」

「そんな経験ないんだけどな……そんなに浮気しそうな顔してる?」

「ええと…………どうでしょうね。ともかく、ありがとうございます。もちろん持っていきますから、涙目はやめてください」

「僕以外に兄をつくって帰ってこないでね……?」

「……兄をつくるってなんですか」

「君、兄貴分がやたら多いよね?」

「あれは保護者枠です。兄上は、ひとりだけですね」


 懐から取り出したのは、蓮の形をした護符だった。


「今回は睡烏の蓮守り。災い除けになるそうです」

「綺麗な蓮花だね。ありがとう。部屋に飾らせてもらうよ」


 噴水の横で、魔術があるのかないのかわからないようなお守りを交換する。

 兄上が持ってきたのは、どこで見つけたのかわからない、小さなまじない。

 

 俺のは……正直、遠征先のお土産に近い。

 もちろん、お守りとしての意味はある。

 だが仲間に聞けば、決まって『本当に効くのか?』と首を傾げられる。


「兄上……王に俺との接触について言われたりしませんか」

 そう問いかけると、兄上はほんの少し目を伏せ、ため息混じりに微笑んだ。

「そうだね。父上は臆病だから、いい顔はしないね」

 その声はどこか軽やかだが、根底には確かに苦いものが滲んでいる。

 

「やはり、こうしていると難しい立場になるのでは」

 俺がそう言うと、兄上はふっと柔らかく笑った。

 

「君は僕のたったひとりの弟なんだ。だから、君が嫌じゃない限り、僕はちゃんと向き合いたい」

 まるで当たり前のように言い切る。

 その真っ直ぐな言葉が、少しだけ眩しかった。

 

「……あまりちゃんと見られると、幻滅されそうです」

 冗談めかして言ってみるが、兄上はくすっと笑うだけだった。

 

「どんな君でも、僕の弟だからね。悪いことをすれば怒るし、悲しいことをしても怒るよ」

「怒られますか……譲れないところは喧嘩になるかも」

 その言葉に、胸の奥が小さく疼く。俺がそう返すと、兄上は優しく目を細めた。


「兄弟喧嘩でまた仲良くなれるなら、それもいいかもしれないね」

 兄上は軽く肩をすくめ、少しだけ挑戦的な笑みを浮かべた。

 

「……立場上、戦争になってしまうかも」

「君は戦争が好きなのかい?」

 兄上の言葉には、予想以上の冷静さがあり、俺は無意識に息を飲んだ。


「好きではありませんよ」

「あんなに出征してるのに?」

 兄上が鋭く反応し、目を細めて俺を見つめた。

「だからこそ、いっそひとつにまとめて、東西の大国と同じだけの力を得れば、争いが減るのではないかと」

 

「そう? 僕は、みんながみんなのまま、協力しあえたらいいと思うよ」

 兄上は静かに言ったが、その言葉には揺るがぬ信念が宿っているように思えた。

 その信念を、俺はまるで目の前にある光のように感じたが、同時に遠くも感じた。

 

「互いにいがみ合っている現状では、それは難しいでしょうね」

 俺は少し冷たく言った。

 でも、それが実際のところ、俺の信じる現実だった。

 

「ひとつになったとしても、そこは変わらないんじゃないかな」

「仰る通りです。しかし、ひとつの国なら、まだ上からの命令は通る」


「本当にそうだろうか……」

 兄上はふっと微笑み、少しだけ目を細めて言った。

 その笑みには、確信と諦めが交じっているような気がした。


「……そろそろ行くのかい?」

「ええ。次は、また砂海土産になりそうです」

 

「君が無事に帰ってくるのが、いちばんのお土産だよ。オーバーノート、君の武運を祈っている。気をつけて」

 兄上の言葉が、胸にじんと響く。

 兄の願いが届くように、何としても無事に帰らねばと思う。

 

「ありがとうございます。ルバート兄上も、どうぞお健やかに」

 そう言って、少しだけ笑みを浮かべる。

 兄にあまり心配をかけたくなかった。


 

 たまに得られる兄との交流は、俺の癒しだった。

 深森の海に派遣されて数年、海賊たちが落ち着いた頃に王城へ呼び戻される。

 また、すぐ次の出征先が決まった。

 

 王命を拒絶できない俺を手に入れた王は、この六花地方全土を欲しはじめた。

 国土拡大路線を打ち出し、国内外にその意図を知らしめ、何もかも投げ打って進めていく。

 

 俺を使い潰すつもりなのだろう。

 王は、道具としての使いどころを決めることにおいて、何も遠慮しない。控えめな性格では決してなかった。

 合法も非合法も問わず、俺に降りかかる任務は次々と、やることが山積みだった。

 

 砂海反撃、睡烏災害援助、氷香要所占拠、煉峰の領土奪取――戦争も、侵攻も、調査も、交渉も。

 名前が変わろうと、やることはいつも同じだった。

 

 

 砂海反撃の最中、戦場に吹く風は、熱気と砂埃を運んできた。

 乾いた喉を湿らせ、遠くの陣営を見やる。

「ノート、そろそろ進軍の時間だろ?」

「ああ……メイ、どれくらいで終わると思う?」

「そうだなぁ……昼まで保てばいい方だろ」

「よし、日暮れまで保たす。いくぞ」

「また無茶を――!!」

 どれだけやりくりをしても、ここにいる全員を無事に帰すことはできない。

 

 王の思惑とは関係なく、俺たちは現場でできる限りのやりくりをする。なにしろ、人の命がかかっているのだから。

 味方の損害が少なくなるよう、必死で足りない知恵と予算と魔術を絞り出し、武器を磨きあげて業務を遂行する。

 それでも、やっていることは戦争そのもので、荒事に等しかった。

 どれだけ工夫を凝らしても、損失を減らすことしかできず、戦自体を止めることはできない。

 人員を補充し、武器を磨き、そして、また次の戦へと向かう。


 

 周辺諸国と行き違いが起き、事態が収まるたび、王族の中でも特に使い勝手が良いとされ、交渉役として何度も呼び出された。

 そんなことを繰り返すうちに、俺を気に入った人ならぬものから調停の魔術を教えられた。

 実際に教えられたのは、相手の心を落ち着かせ、取り入れる術だった。相手を強制的に同じ卓に並べさせ、心を見せるための力だった。

 そんな力を得ても、王とは見ている方向が違いすぎて、結局、流れは変わらなかった。

 

 

 必要な条件を整えて任務を全うし、また城に呼び戻され、新たな任地に送り出される。その繰り返しに、もう何も感じなくなっていた。

 俺はただ、王が次に欲しがる土地へ向かうだけだった。

 王は俺の扱いにすっかり慣れ、要求は日に日に苛烈になり、俺の存在はただの道具のように扱われていった。

 

 王の要求は難易度が上がる一方で、兄と中庭で顔を合わせることすら難しくなった。

 レントは、中庭に兄の姿が見当たらないことに不思議そうに首を傾げていた。

 そのうち、最初に出会った柱の片隅、通るだけでは丁度死角になる場所へ隠蔽の魔術をかけ、密かに交換するようになった。

 


 かつて純粋な『お守り』だったそれは、いつの間にか、些細な問題を引き起こすものへと変わっていった。

 そのうち、お守り自体も、次第にあったり、なかったりするようになった。


 前回置いてあったお守りは、『怨嗟の涙』と呼ばれるものだった。

 それはもはやお守りではなく、取りこぼしてきた命の重さを纏う呪詛の道具だ。

 

 戦場に身を置いている以上、命を問う立場にならないわけがなかった。

 おそらく、魔術的な縛りがかかってしまっていたのだろう。俺はそれを拒むことができず、ただ受け取り、身につけるしかなかった。

 

 そのため、相殺するための呪い避けを身につけた。

 安心したわけではない。

 だが、戦場の混乱の中、飛んできた流れ弾が呪い避けを砕いた。

 

 その瞬間、怨嗟の涙が広範囲に効き、自軍に甚大な被害が出てしまった。

 即座にお守りを破壊して被害を止め、そこから巻き返してなんとか辛勝した。

 

 全てが終わった後、懐中を確認すると、レントは相性が悪かったのか、すっかり弱りきっていた。

 小さな風向きの全身にひび割れが広がり、その姿はまるで砂でできた像のように脆弱だった。

 触れるとすぐに砂のように崩れそうで、怖くて力を入れられなかった。


 慌てて休憩時間をねじ込み、世話役のところへとんでいった。

「お前の喜びの感情を感じさせろ」

 そう言って、世話役はいくつもの品を手渡してきた。

 渡された品々を一つ一つ手に取るが、どれも何の感情も湧いてこなかった。指先が冷たくて、無力感だけが広がるばかりだった。

 

 ふと、兄から贈られた数々のお守りを思い出し、その束をそっと握った。

 その瞬間――爪より小さな羽が、淡い光を帯びて輝いた。

 

 驚いて手のひらを覗き込むと、レントのひび割れはいつの間にか、浅い傷跡へと変わっていた。

 呼吸はまだ浅く、眠ったままだが、さっきまでの危うさは和らいでいる。

 ……助かったのか。

 長く詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。

 指先が小刻みに震えていたことに、その時ようやく気づく。

 力を込めても、震えはすぐには止まらなかった。

 

 翌日、損害の責任を問われ、王から緊急の呼び出しを受けた。

 早馬を幾つも乗り継ぎ、王の執務室の扉を叩く。

 

「そうか。傭兵部隊の被害が甚大か」

「申し訳ありません」

 

 頭を下げた俺に、王は関心の欠片もない様子で、事務的に言い放つ。

「気分転換に丁度いいだろう。火薬の流通が減って品薄だと、商人どもが騒ぎ立てている。おそらく氷香の妨害だろう――水晶宮へ行け」

「は」


「調停の魔術を習得したそうだな。水晶宮で試してくるといい」

「……は」

 従属の印が熱を持つ。

 灼熱の鎖が胸の奥を締め付け、逃げることも抗うことも許されない。

 熱が膨れ上がり、心臓ごと焼かれるようだった。


 今回の損害は、紛れもなく俺の責任だ。

 報告書も始末書も当然俺が書く。

 被害のあった各所には頭を下げ、できる限りの補填を約束した。 

 厳しい前線だからこそ、真摯に対応しなければならない。

 二度と繰り返さぬよう、手を尽くす。挽回のためなら何でもやる。 

 俺は、ここまで積み上げてきた。

 常勝とはいかずとも、どんな戦況でも八割の勝率を維持してきた。


 なのに。

 


 氷香の王宮『水晶宮』は、害意を拒む絶対の要塞。

 篝海との国境の山脈の合間にそびえ、幾度となく氷香を狙う悪意を拒絶してきた。

 

 その主、氷香王ルカ――有史以来最強の魔術師にして、数百年の治世を誇る王。

 あの男を前に、従属の印すら破れぬ俺の魔術や技が通じるはずがない。

 

 つまり、俺はもう要らない。邪魔者になった。

 それだけのことだ。

 胸の奥で、怒りと絶望が爪を立てる。

 

 分かってはいた。

 だからって、はいそうですか、とはならない。 

 不要になれば捨てるのか。

 

 捨てる手間すら惜しみ、他国の王にやらせるのか。

 とてもこの人らしいな。

 

 懐でレントがもぞもぞと動く。

 その小さな温もりだけが、今の俺を繋ぎとめていた。

 

「ここまでよく戦を御してきたお前なら、問題ないだろう」

「…………は」 

「砂海の戦線には、お前の優秀な子飼いがまだ残っているな。お前がいなくても、ある程度は機能するだろう?」

 

「し…………承………………知……しま、し……たっ…………っ」

 痛みと灼熱が口を強制的に動かす。

 従属の印は反論を許さない。

 

 俺の築いた大切な関係が、あいつらを縛るしがらみに変わる。

 部隊の数が半減し、疲弊した仲間たちは、まだ砂海との最前線で戦い続けている。

 メイも、傭兵団の皆も、満身創痍のまま。


 王は第一王子の成人を前に、用済みとなった俺を始末するつもりか。

 

 さらに、砂海の装束を纏うよう命じられた。

 あくまで俺や砂海が勝手に動いたと見せかけるつもりなのだろう。

 ここから馬で水晶宮まで行けば半月はかかる。前線からなら一週間。前線撤収後に動いたことにすれば、十分に筋が通る。


 俺を育ててくれた人たちに、憂いの影が落ちないようにしなければ。

 せめて俺が死んでも、彼らに迷惑がかからないように。

 ああ、くそ……。

 従属の印が、邪魔だ。

 

 そうだ。

 なら、早く終わらせてやるか?

 砂海との争いの真っ最中の今であれば、砂海も前線の奴らも手一杯で組織だった行動にはならない。

 俺が死んでも、少なくともあいつらを巻き込まずにすむ。

 あの馬鹿親父も巻き込めれば、これほど痛快なことはない。

 ……あれを使えば、少しは奴らも面白くなるか?

 

「ミュ!! ミュミュミュ、ミッ!」

「ん? どうした、レント。……あれは――」

 夕空が赤く染まるなか、背は少し伸びたけれど、出会った頃のままの笑みで兄が走ってきた。

 

「ノート! ……ああ、良かった。やっと会えた」

「兄上……」

 兄上のところには、俺の失態の報せは届いていないのか。

 だから、こうも無邪気に近寄ってきてくれるのだろう。

 

「今回のお守りは、どうしても手渡ししたかったんだ」

 そう言って無邪気に差し出されたのは、紡ぎあげた色糸を固結びにした柄飾り。

 

「これは、落とし物が戻ってくるんだって。ささやかな効果しかないけど」

 ……なんで、今さらこんなものを。

 

 その伝承は、この結び方が、大事な絆を意味するからだろう。

 これは、自分の縁を魔術に換えて紡ぐための練習用のおまじないだ。

 

 市井で広く教えられているもの。

 だから紡げる魔術が淡く、効果も薄い。

 

「ありがとう、ございます。私からはこちらを。……すみません、これから任務に出るので」

「ミッ?ミィ、ミ!」

「……こら、レント」

「大丈夫だよ、レント。ノート、気をつけて行っておいで」

 一礼し、些細な思い出をひとつ覚えて再生する星砂の小瓶を渡して、立ち去る。


 あの怨嗟の涙は罰か、警告か。それとも。……今までの兄上は、油断を誘うためのものだったのだろうか。

 もちろん、彼か他の誰かの妨害工作の可能性も考えた。だが、それにしてはすべてが些細すぎる。

 

 怨嗟の涙はともかく、他のものは、魔術の痕跡すら感じられないのだ。

 効果が薄すぎる。



 まずは従属の印の縛りの通り、水晶宮へ行かなければ。

「ミィ、ミッ!」

「悪いな、今急いでいるんだ」

「ミ?」

「火竜の力を借りに行く。……深海火山まで行って火竜に乗る。懐にいれば、俺の領域内だから影響は受けないはずだ」

 

「ミュイン……?!」

「飛行中は突風や急旋回もあるだろうが、悪いな。しっかり掴まってろ」

 

 レントは尻尾を使い古した靴ブラシのようにしながらも、小さく頷いて懐に潜り込んだ。

 思いつきを実行するべく、廊下を急いだ。


 

 城の地下には、国の防壁となる各要所へつながる転移門がある。

 有事の際にのみ使用されるが、敵に渡れば致命傷になりかねないため、厳重に管理されている。


 その隣には『海底の間』と呼ばれる部屋があった。

 深海火山へと通じる転移門が設置されているが、戦略的な価値は低いため、こちらの警備は最低限に抑えられている。

 

 部屋に入ると、壁際の籠から泡石を二、三個取り出し、レントの近くの別の懐にしまう。

 泡石は、水中での呼吸を助ける微細な泡を発生させるもので、深海での行動には欠かせない。

 

 

 転移門の前で深呼吸し、魔術濃度を高める。

 空気がわずかに揺らぐのを感じながら、俺は足を踏み出した。


 

 

 門の先は海底火山の中腹。

 熱を孕んだ海水が肌を刺すようだ。


 泡石と魔術の防壁がなければ、瞬時に全身が茹で上がっていただろう。

 それでもなお、熱は皮膚の奥にまで染み込み、身体の芯が焦げつくように熱い。

 深海の圧力がじわじわと体を締めつける。

 防壁がなければ、今ごろ全身が押し潰されていたはずだ。

 

 

 周囲には、幽かに揺れる緑の光を放つ水草灯篭が点在していた。

 波に揺られ、柔らかな光が静かに踊る。

 仄暗い海底に、小さな灯火がいくつもゆらいでいた。


 ふと、篝火のようなまばゆい燈金の瞳が、暗闇の中に点々と浮かび上がる。

  

 火竜たちだ。

 彼らの体は灼熱の溶岩でできており、ゆらめく熱を孕んでいる。

 普段は海水で熱を冷ますため、表面の鱗は黒鉄のように硬く、鋼色の光を鈍く反射していた。 

 しかし鱗の隙間からは、脈打つ熾火のような橙赤が滲みでている。

 

 巨体が呼吸と共にゆっくりと明滅する。

 炎の波が肌を伝い、瞬く間に赤く染まり、また沈む。

 尻尾の先から頭部まで燃え続けるたてがみの炎が、潮の流れにたゆたう。

 静かでありながら、どこか畏怖を感じさせる光景だった。 

 美しさに目を奪われそうになりながら、俺は意識を引き戻す。

 

 伝声の魔術で声を響かせた。


「頼む。誰か俺を水晶宮へ送ってくれないか」


 辺りが凍りついたように静まり返る。

 水の流れる音すら、遠くなる。

 

「……あんな食うものもない、暗い場所に、誰が行きたいと思うんだ?」

 

 いちばん近くにいた竜が、ゆらめく熾火のような瞳を細める。

 その黒鉄の鱗は、奥に燃えさしを抱えたように淡く光っていた。

 竜は半笑いで鼻先を揺らし、かすかに熱気を漏らす。

 

「用があるんだ。もちろん報酬は用意している」

 

 火竜の棲家は海底火山地帯。

 だが、そこは深海にあり、可燃物は意外と少ない。


 火竜の飢えについては、古来より人々の知るところだった。

 彼らは度々地上へ遠征し、陸に大火を撒きながら食料を確保していた。


 それを知った先王が、火竜との契約を結んだ。

 火竜たちが深海火山の恩恵を国に授けることを条件に、人間は定期的に食糧を提供した。

 やがて火竜は、深海火山だけでなく、その一帯の海を守るようになった。

 

 そしてその象徴として、篝火と灯台を司る存在となる。


 火竜たちの食糧事情があったからこそ、人と人外の線引きは保たれてきた。

 そのおかげで、まだ火竜たちが人間同士の争いに巻き込まれることはない。

 

 火竜は数十年の絶食に耐えられる種族だ。

 必要最低限の食事はとるが、それでも彼らは常に飢えていた。

 

 俺は懐から鉱石炭を取り出し、指先で回しながら水草灯篭にかざす。

 

 これは深海火山で生まれた海底鉱石が、長い時を経て砂海帝国の砂漠に流れ着いたものだ。

 乾いた大地に埋もれ、何百年もかけて燃性の炭へと変質した。

 

「これは百年もの間、絶えることなく燃え続ける。極上の鉱石炭だ」

「……!」

 

 火竜たちの目が揺らめく。燐光のような光が宿り、熱を帯びていく。

「砂漠で見つけたものだから、中まで陽が染み込んでいる。水晶宮へ行く途中で落としてくれれば、それでいい」

 

 しばしの沈黙。

 

 手の上のものを右に動かせば竜達の目も右にいき、手を左に動かせば、燈金の光もつられて動く。

 

 やがて、先程の竜が前に出た。

 

「……俺が行こう」

「よし、決まりだ」


 火竜の背にまたがり、砂海の装束をきつく締め直す。風に煽られぬよう、身を固めた。

 鞍はない。翼が大きくうねるたび、足場が変わる。

 わずかな突起を頼りに、慎重に掴む位置を探る。

 

  

 火は篝海の王族には害をなさない。

 先王からの契約によって、その身は炎と共にある。

 

 火竜はゆっくりと浮かび上がり、ひと振りの翼で空気を切り裂いた。

 そのたてがみが、ぱちりと燃え弾ける。


 頬を撫でる風が熱を帯びる。

 いつの間にか、海の上を上昇していた。

 深海の冷たさとは無縁の世界。

 火竜の鱗は、表鱗は艶消しの黒、しかし内側から熾火のように赤く燃えている。 

 月明かりがそれを反射し、揺らめく光の粒が散る。

 まるで燠火が、時折火花を散らすようだ。

 

 大きな皮膜の翼は、反対側が透けるほど薄いが、赤々と燃えていた。

 月光を受けて保温の油膜層がうっすらと虹色を帯びる。

 

「まだ道のりは長い。少し風を裂くぞ」

 竜は高く風に乗り、北へ向かって飛び続けた。

 

 

 陽はとっくに沈み、火竜でも末端に溶けた氷が纏わりつくほど気温が低い。雪がはらはら舞う雲の合間からこぼれる微かな月あかりが、ゆらりふわりと辺りを照らす。 

 北に向かうにつれ、雪の飛沫が舞い降りる様子は、羽ばたく鳥のようにゆっくりと空を描いていた。


 あたり一面が雪に覆われ、すべてが白の世界に変わる頃。

 オーロル山脈とハイランド山岳地帯の間の広大な森の先に、小さな、まるで光を内包した真珠のようなものが遠くに見えた。


 あれが、噂の水晶宮か。


 半透明な球状結界が、雪と氷で白くけぶる。風に吹かれて、その表面はほんのり虹色に染まった。

 これだけ距離があれば、まるでシャボン玉のように見える。

 徐々に大きくなる真珠色の光を前に、身の回りを整える。



 さて、この竜をそろそろ返してやらないといけない。

 ただ報酬に釣られて使われたのだから、後々人間のごたつきに巻き込まれないよう、ここから落ちれば丁度いいだろう。

 

「なあ、どの辺に降りるんだ?」

「少し高度を上げてくれ。落とす位置を調整したい」

「落とす……? まあいいが」 

 俺は深く息を吸い、風の動きを最後に確認した。

 

 目標地点は水晶宮の球状結界の真上。

 計算通りなら、問題ない。

 誤差は空中で足場を作って調整する。

 

「ここでいい。助かった」

「よし、下まで行くぞ」

「いやここからでいい」

「は?ここ、高高度なんだが?!あっ、落とすってそう言う意味か!せめてもう少し低空からにしろ」

「問題ない」

「ちょっ、お前、冗談だろ?! ま、待て、せめてもう少し低く――」

「ありがとう、気をつけて帰ってくれ。……ああ、この件は内緒で頼む」

「あああ……!!おい、こら!」


 竜の悲鳴のような叫びを背後に聞きながら、俺は身体を前に倒した。

 風が一気に身体を包み込み、落下する。

 

「…………!…………ッ……ミュイッ……?!」

 結界の上に魔術の塊を配置し、それを手繰り寄せる。

 風を切る音が耳を裂き、身体がぎりぎりと空気に押し潰されるように軋んだ。

 減速はしたが、予想以上に鈍い。何かが干渉している――レントか?

 考える余裕すら惜しい。

 全力で落下の力と風を調停し、粉雪に変換する。

 

 魔術の塊を置いた結界の真上に降り立つ。

 途端にボサボサの風向きが顔を出した。


  

「ミュイッ?!ミュウ、ミュミュミュッ!」

 逆立った毛を膨らませ、レントが威嚇する。

 

「ああ、急に落下して悪かったな。でもお前が助けてくれたから、無事着地できた。ありがとうよ」

 レントは一瞬じっとこちらを睨んでいたが、すぐに毛をしゅんと萎ませた。 

「………………ミュ……」

 そう言って威嚇を収めてくれた。

 

「ここからは戦場だ。また何が起きるか分からない。何があっても懐から出てくるなよ」

「……ミ」

 納得したのか、レントはまた懐に戻っていった。

 

 俺ははらはらと雪降る夜空を見上げる。

 

 火竜はぐるりと大きく旋回していた。

 こちらが居なくなればすぐ去るだろう。

 

 

 さて、問題はこの結界だ。

 

 何も考えずにつま先を伸ばし、そっと触れてみる。

 途端に弾くような硬質な感触が伝わった。

 まるで金属の床を踏むようだが、確かに表面は滑らかで、僅かに波打っている。それでいて、まるで生き物のように柔軟で、きっぱりと俺を拒絶していた。

 

 俺は一歩引いて、結界を見下ろした。

「……暗殺を目論む侵入者だ。拒絶して当然だな」

 軽く肩をすくめて全身に調停を纏う。

 

 害があれば己の身を対価とする条件で、そっと足をのせる。

 

 一瞬、結界がざわめくような波紋を広げた。

 次の瞬間、俺の体は柔らかな幕に包まれ、そのまま水に沈むように結界の中へと吸い込まれていく。


 

 どうやら結界は全てを弾かないようだ。水晶宮の中でもはらはらと雪が舞い降りていた。遅い時間だからか、他に動くものはない。

 

 まるで市場で見かけたスノードームの中に入り込んだようだ。

 

 四角い王城は、岸壁城に比べるとこぢんまりとしている。

 だからこそ、余計に玩具のように見えるのかもしれない。

 

 取り急ぎ、建物脇のもみの木を無音で登り、不用心にも外へと揺れるカーテンが見えるバルコニーに降り立つ。

 

 開いている窓の奥には、深い森のような緑と、澄んだ湖のような薄水色が調和する静かな書斎が広がっていた。


 

 夜空色の絨毯の上に石化した古木の事務机に向かう、寛いだ姿の青年がいた。長い銀髪を複雑に結い垂らし、深い濃紺の毛織物を纏って魔術の灯りで読書に勤しんでいる。

 羽織った毛織物には月と雪が刺繍され、内側は毛足の長い毛皮がはられている。

 氷のように整った冷たい顔は、本に夢中なようで、表情は透明だ。


 あれは何度か式典で見かけた顔だ。


 認識した瞬間、事前に仕掛けた魔術が発動し、俺の身体を操る。

 本来ならば、相手を認識した時点で多少のためらいが生じるはずだ。だが、俺の意思など関係なく、武器が調和の魔術を纏い、静かに振り下ろされる。俺の感情とは無関係に、刃は相手の防壁をすり抜ける。

 

 刃が届く寸前、冷気が弾けるように広がった。

 次の瞬間、竜が咆哮するような音が響き、目の前の男が圧倒的な密度の魔術を立ち上げる。

 気づいた時には、すでに全身が竜の顎に呑み込まれていた。

 竜の牙が皮膚に食い込み、その顎が生きているかのように締めつける。

 まったく動けない。

 

 竜の姿を模した魔術に内心、舌打ちをする。

 篝海の王族の約定により、火竜と似た姿には害を加えることはできない。それが、例え偽物であろうとも。

  

 やはり、調停の魔術ではこの男に届かない。

 

 



  

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