懐古の記憶と星あかりの草原
霧が裂け、目の前には空虚な王の執務室。
地象儀の中と同じ姿勢のはずなのに、身体がとても軽い。
手に剣はなく、先ほどまで見えていた兄の髪も、首筋も、どこにもない。
手の中の、逃れられない重さだけが残っている。
さっきまで、あんなに重くて動けなかったのに。
力が抜けそうになるのを堪える。
もう、兄はいない。
理解することと、納得することは違った。
……優しく、厳しかった人は。
どこにも、いないのか……。
『うわぁあん!!』
不意に、悲しくて泣き叫ぶ記憶が流れ込んできた。
自分ではない。……あれは、幼い兄上……?
途端、無数の声が頭の中に雪崩れ込む。
まるで、今まで雑踏の中にいたのに、それに気づかなかったかのように。
無数の、継承の儀式の直後。
幾つもの強く酷い嘆きに心が引っ張られる。
「……ぅるっさい……!」
声はぴたりと止まった。
……自分で調整できるらしい。
だが、これは一体なんだ?
兄はさっき、何と言っていた……?
『君は僕を殺して僕の魔術と記憶を得るんだ』
……兄の記憶と魔術だけじゃない。
歴代の王の記憶と魔術も、全て引き継ぐ……つまり、そういうことなのか。
押し寄せる声の奔流に意識を沈め、魔術を発動させる。
新しく得た魔術と元から所有していた魔術――複数の記憶に調停の魔術をかけ、意志で取捨選択できるよう配置と整頓をする。
特に、雑踏のような記憶は慎重に扱わなければならない。
自分の記憶と他の記憶を間違えれば、誤解を生み、判断を誤る。
念入りに区別し、自分以外の記憶は流し読みする程度になるよう、意識の出入り口を制限した。
細かく仕分け、配置するだけで、魔術の消費が激しい。
……疲れた。身体が重い。
流石に、もう何も考えたくない。
ソファに座り、目を閉じた。
*
スルツェは自覚した。
大事なものの隣に居られないことが、どれだけ己を削るのか。
「……ルカ、お前の隣が恋しいよ……」
最初は自分をごまかせた。
だが20年が過ぎた。
記憶は砂のようにこぼれ、何が現実だったのかも曖昧になった。
ふと目を凝らせば、闇の奥にルカが立っている。
「……ルカ?」
だが、瞬きした途端、それはただの揺れる樹影だった。
風が吹く。ルカの声がする。
けれど、それはただの風の音だった。
それでも、忘れはしない。
ルカのいちばんの願いを叶えるのだ。
この地方が、大国の戦場にならないようにすること。
そのために駆けずり回っている――このノートを守ること。
だが、時折、心がふらつく。
「すまない、これから式典があるんだ。一緒に来てくれるか?」
「……」
「スルツェ?」
霧のように記憶が薄れ、輪郭が遠のいていく。
思い出そうとするたび、何かが遠ざかる。
「……ああ、すまない。すぐに向かおう」
「大丈夫か……?」
「ああ、もちろん。大丈夫だとも。行こう、ルカ」
……しまった。間違えた。
ルカじゃない。
声を聞けば分かるはずなのに、頭の中でルカの顔と他の顔が混ざり合ってしまう。
この小さな存在は……なんだったか……いや。
もちろん覚えている。
アルペジオ……ではなくて、ルバート……ではなくて、ええと。
――ああ、ノート。
オーバーノートだ。
「間違えた。さあ行こう、……オーバーノート」
「スルツェ……大丈夫じゃないな?」
「……ああ、そうだな……?」
ノートには誤魔化せなかった。
彼だって、数年前に大切な人を亡くしたばかりなのに。
……誰、だった……?
「そうだ、アルペジオは?」
「……彼は今日いないんだ」
「そうか。あいつもルカのために頑張っているからな」
――式典が終わり、執務室に戻ると、ノートが静かに問いかけた。
「……スルツェ、ルカが恋しいか?」
「うん……そうだな。恋しくないと言ったら嘘になる。だが、安心してくれ。目的は覚えている。俺はルカの願いを叶える」
「………………そうか。スルツェ」
「なんだ?」
「目的を忘れた方が楽じゃないか?」
「目的を忘れる……? ルカの願いを叶えることをか」
「ああ。スルツェには辛いことを強いている。でも、お前を自由にはできない」
「気にするな。分かっていたことだ」
「じゃあ、お前が恐れていることはなんだ?」
「恐れていること?」
「そうだ。何をそんなに恐れている?」
「……そうだな。おかしくなって人を怨むようになるのは嫌だな。ルカを幻滅させるようなことはしたくない」
「そうか」
ノートはぐっと拳を握った。
「申し訳ないが、俺の目的にお前は欠かせない。死なせないために、できることはなんでもやる」
「どういう意味だ」
「スルツェ、約束を忘れよう。そうすれば、楽になれる」
「楽に、なる?」
「ああ、あの日の約束を忘れてしまおう。お前は望んでもいないのに、契約のために篝海の王を守ることになった。お前が守りたいのはルカ王だ。そのままでいい。
守れないことを、人のせいにしていい。そんなに苦しまなくていい」
「……ノート。それじゃ、お前を誰が守る?」
「……悪いな、スルツェ」
人外用に改造された『無垢な眠り』が、静かに魔術濃度を上げ、稼働し始める。
「馬鹿、やめろ!」
「お前が生きていてくれる限り、俺はお前の恒常の火によって守られる。お前は素直にまっすぐ、ルカを好きでいていい」
ぱちり、と弾けたような音がして、視界が暗転した。
スルツェは夢を見ていた。
暖炉の前に、小竜の姿で丸まって眠る。
優しい手が、そっと撫でていく。
それは、ルカの手だった。
いつの間にか、ルバートの手になり、ノートの手になっていた。
気づけば、契約が変わっていた。
俺は……ルカに捧げたはずだった。
今、俺は。
長となった以上、由緒正しき竜として、先代の契約を引き継がなければならない。
守るべきものが変わっていく。
だが、それでも――
ルカを守りたい。
*
メイは深く息を吐いた。
胃が痛い。
王命により、睡烏の辺境で親子を護衛していた。
だが今朝、突然の緊急帰還命令が下された。
さらに、護衛対象の少年に、どうしても雇い主へ手紙を届けてほしいと頼まれた。
上からは、贈答品や手紙の受け取りを禁じられている。
一時帰還の度に手紙を頼まれたが、禁じられているため断っていた。
任務が極秘だったこと、護衛対象が母子家庭だったことを考えれば、複雑な事情があるのは明白だった。
何より、あの子の髪色が気にかかる。
まばゆい蜂蜜色。
王族に連なる者が持つ特徴。
最後の機会だからこそ、つい受け取ってしまった。
あの子の母はもう長くない。
だが、これが及ぼす影響を考えると――胃が痛くなる。
久々に踏む王城の床。華やぎは、もうどこにもなかった。
壁の装飾は減り、豪奢な絨毯は消え、冷たい石の床が広がる。
シャンデリアは簡素な灯りに変わり、控える兵士たちの視線には、怯えにも似た緊張が漂っていた。
「案内する」
無言のまま謁見の間へ通された。
玉座に座るのは、かつて背負って戦場を共にした幼子――だった者。
だが、そこにいたのはもう『かつての彼』ではなかった。
幼いころの面影は微かに残っている。
もうその海色の瞳は輝いていなかった。
冷たい彫像のような表情が、彼が変わってしまったことを雄弁に物語る。
「ジェーン・メイ、帰還致しました」
一瞬、ノートの目が細められる。
だが、それは懐かしさよりも、ただの確認のようだった。
「……ああ。懐かしい顔だな。息災か?」
「……は……」
知っているノートと、なにかが決定的に違う。
「ゆっくり休むといい」
「は。お心に留め置きくださり、ありがとうございます」
迷ったが、意を決して尋ねる。
「…………あの、ルバート様はどちらに?」
玉座の男は無表情のまま答えた。
「兄上は、長い旅に出られた」
長い旅?
「……任務で護衛対象でした子どもから、ルバート様宛の手紙を預かっております、が……」
その瞬間、王の瞳にあの頃の面影が戻る。
「……子ども?」
「はい。……ご存知なかったのですか」
「ああ…………ん……いや…………そうか……」
眉を寄せたが、すぐに元の冷たい顔に戻った。
妙な間だ。
何を考えているんだ……?
「分かった。その手紙は俺が預かろう。構わないか?」
「は、承知致しました」
手紙を受け取る彼の指が、ゆっくりと動いた。
「例の親子のもとへ案内してくれないか」
その夜、身ひとつで現れたノートが、単刀直入に言った。
その言葉の響きに、思わず彼の顔を見つめる。
わずかに眉を寄せた。それだけだった。
「ルバート様は?」
「旅立った」
「……随分と急なことで」
「俺にも予想がつかなかった」
「へぇ……まあいいか。……わかりました。着いてきてください」
……こいつが王? あんなに嫌がっていたくせに。
ノートは風のように駆けずりまわっている時がいちばん輝いていた。
本当にこれでよかったのか、ノート?
新王の改革により、大貴族たちは次々と失脚し、かつて彼に剣を向けた者たちは処刑されるか、流罪となるかした。
聞くところによれば、暴君と呼ばれているらしい。
まるで、何かに追い立てられているようだ。
兎も角、ルバート様がいなくなったのなら、彼の親族として話すべきことはたくさんあるだろう。
密かに設置された転移門をふたりで越え、昨日別れたばかりの高原に降りたつ。
青く透明な星あかりに照らされた草原は、風に吹かれて青銀の美しい波を幾つも描く。
初夏とはいえ、山あいの高原の風はまだ冷たいままだ。
松風草や綿毛草、高山竜胆に駒鳥草――どれも、まだ蕾のままだ。
……本当に、これでいいのか?
ノートの背中を見つめる。
かつて抱きあげた少年は、今や王座を背負い、暴君になりつつある。
坂道を登り、山羊小屋の脇を抜け、扉をノックする。
「……メイさん。帰ったんじゃ……?」
「やあ、アンダンテ。今日は君たちに会いたいという客人を連れてきた。……お母様のお加減は?」
「今日は結構良さそうだよ。どうぞ入って」
室内に入ると、暖炉の灯りが揺れていた。
アンダンテが茶の準備をしながら、ちらちらとノートを見る。
ノートは、彼をまっすぐ見つめていた。
やはり血族のようでよく似ている。
だが、似ているのは顔立ちだけだった。
ノートは、まるで冷たい鎧をまとったように、じっとアンダンテを見ている。
「……ハーナはご病気なのか」
低い声に、アンダンテがきょとんと首を傾げる。
「ハーナ?」
「私の昔の呼称よ。今はオルロ、と名乗っているわ」
小柄な老婦人が、静かに姿を現した。
背筋をぴんと伸ばし、微笑む顔には気品が漂う。
その佇まいに、一瞬、王弟護衛時代の記憶が蘇る。
気高く美しいハーナ・アルガネロ。
今夜の彼女は、とりわけあの頃の面影を映していた。
……普段は寝床から起き上がるのもままならないはずなのに。
彼女はゆったりと微笑み、穏やかに言った。
「病気じゃないの。ただ、寿命が尽きようとしているだけ」
その言葉に、ノートの指が微かに震えた。
……知らなかったのか。
オルロはメイに申し訳なさげに視線を送る。
「メイさん、悪いんだけど、アンダンテを連れて、山羊達の様子を見てきてくれないかしら。どうも今日の風に怯えている子がいるみたいだから」
「ええ、もちろん」
「アン、上着はきちんと羽織なさい」
「……はーい」
少年を連れて外に出る。
振り返ると、ノートとオルロは向き合っていた。
ノートの顔は見えなかったが、彼の肩は微かにこわばっていた。
「メイさん……本当にあの人に手紙を渡してくれたんですか?」
「……すまない。彼は急に遠くへ旅に出てしまってね」
「そうでしたか……いよいよ母さんの食欲が落ちてきましてね。羊を一頭でも手配をお願いできないか、あるいは母さんの顔を見にきてくれないかと思ったのですが……。やはりこちらの頼みはきいてもらえませんでしたか」
(……ノート、お前はどうする?)
「いや……君の願いは叶っているかもしれないよ?」
アンダンテの瞳が輝く。
「本当ですか?!母の好物だからきっと羊ならまだ食べられると思うんですよ」
嬉しそうな少年を見つめ、メイは小さく息を吐いた。
この子は、ルバート様よりノートに似ている。
ひゅるり、高原の風が山羊小屋を駆け抜けた。
「……アンダンテ、君のなりたいものはなんだったかな」
「羊飼いです!……それか、魔術師」
「ふうん……どうしてなりたいんだい?」
「羊はね、穏やかで、寄り添ってくれるんです。山羊よりもゆっくりで、逃げたりしない。一緒にいるだけで安心できるんです。それになにより美味しい」
「……へぇ……魔術師は?」
「……母さんにね、もう少し長生きしてほしいんです。それにね、母さんは昔、とても優秀な魔術師だったと聞いてるので。だから、母さんの魔術を受け継げたら、俺も母さんと同じになれる気がするんです」
メイは、そっと少年の肩を叩く。
「……なぁ、アンダンテ。君がなりたいものになれるか、俺は知らない。もしかしてなれないかもしれない。でも、なれなかったとしても、そこを目指した君にはきっと意味があるんだ」
「メイさん……よく、分かりません」
「今はそれでいいさ。だけど、いつか立ち止まって振り返ることがあったら、思い出してごらん」
かたり、と扉が軋んだ。
そこに、影がひとつ伸びる。
ノートが迎えに来たようだった。
その背中は少し遠く、夜風の向こうにあるようだった。
戻って簡単に今後の話をすると、メイとノートは家を後にした。
まだ夜更の空に星達は瞬いている。
「ノート……もう昔のように、ただ話をするのは難しいのか」
「……」
歩きながら、かつての教え子に声をかけるが、返事はない。
さらら、しりりと葉ずれの音が駆け抜けていく。
気にせず、メイは言葉を続けた。
「お前がまだ王子だった頃、こうして空を眺めながら、よく星の話をしたな。……今でも言えるか?」
ノートは何も答えない。
ただ、歩く足音と、夜の静けさだけが続いた。
しばらくの沈黙の後、ノートは小さく息を吐いた。
そして、小さな壊れそうな声で呟く。
「…………すまない、メイ」
ひび割れた鐘のように脆く、かすれた声だった。
「あの頃の記憶はぼろぼろで、今ある記憶が正しいのかどうかすら、分からないんだ」
メイは足を止め、じっとノートを見つめた。
「ノート……何があった?」
目を細め、口の端にかすかな苦笑を浮かべる。
「……あの頃、俺には従属の印がついていただろう?」
「ああ」
「王は……それでも不安だったらしい」
彼の声は低く、掠れていた。
苦い笑いのようにも、取り返しがつかないことを嘆息するようにも聞こえた。
「城に帰るたび、あるはずもない裏切りの記憶を何度も執拗に探された」
「――あいつ――」
メイの声が鋭くなる。
「大方、父は俺の処分の名分と、俺を完全に制御する術を探していたんだろう。従属の外で俺がどこを向くのか、どこに弱みがあるのか、見極めようとしていた」
ノートは空を仰いだ。
星は静かだ。
「お前たちを巻き込みたくなかったんだ」
彼はふっと息を吐き、目を閉じる。
「だから、見ないようにした。思い出さないよう、きつくきつく封じ込めた」
苦しげな声が夜空に吸い込まれる。
「……別口でかけられた、忘却の魔術の影響もあるんだろう。部分によっては思い出せないどころか、時系列がぐちゃぐちゃで、妄想なのか現実なのか、自分でもわからないんだ」
「そう、か……」
無夜の静寂に、足音が細く刻まれる。
風が葉を揺らす音が、低く響いた。
ふと、覚悟を決めたようにノートはメイに声をかけた。
「メイ……俺はこれから六花地方相手に戦を起こす」
一瞬、風がやんだ。
静かな声だけが響く。
「将軍の席を用意した。メイ、俺と一緒に来い」
どう、と大きな風が吠えた。
メイは眉間に皺を寄せる。
心底、気に入らない。
「俺はお前を小さな時から背負ってきた以上、力になってやりたい」
強い風がざらり、ざらりとかけまわる。
「だがな?」
メイはぎろりと睨みつけた。
「俺が戦場に立つのは過去のためじゃない。懐かしむ為の人形になるつもりはない」
ノートは僅かに目を見開いた。
「……そんな風に見えるか?」
冷たい目で育てた子を見返す。
「もっと駄目だな。周りにはそうとしかうつらない」
また裾を舞い飛ばすような強い風が、ふたりのあいだを駆け抜ける。
「前線にお飾りの将軍が邪魔なのは、傭兵と共に戦ってきたお前がいちばん分かっているはずだろうが」
メイは目を細めた。
「将軍?その座がほしいなら、自分の手で勝ち取る。お前の気まぐれで与えられる筋合いはない」
挑発するように口の端を吊り上げ、言った。
「将軍まで成り上がってやる。黙って座って待ってろ!」
そう言い放つと、メイはどかどかと転移門の前に立つ。
無言で門を見つめる。
しかし――何の反応もない。
足を踏み出そうとするが、空気が壁のように張り詰めていた。
「……チッ」
舌打ちし、肩越しにノートを睨む。
「王の許可がいるんだったな。……なあ、立ち上げてくれ」
ノートは目を見開き、そして、ふっと口元を緩めた。
「……ああ」




