継承の儀式と篝海の国の王
真夜中の王の執務室。
ノートは静かに扉を押し開けた。
相変わらず激務が続いているようで、今夜の兄も書類に埋もれていた。
「おかえり、ノート。今回の遠征は随分と遠かったようだね?」
「兄上。遠い伯父君が死にました」
「違うだろう、ノート」
声に疑いはない。既に知っていたのだろう。
その静かな声は怒りの臨界点を越え、いっそ甘い優しさすら含んでいた。
「……俺が唆した。レトロと組んで、彼に約束を果たさせた。そして、その兄に殺された――そう言えば満足ですか」
ルバートは小さく息を吐いた。
表情には怒りと嘆き、そして深い疲れがにじんでいる。
「君が壊したんだ。隣国を、王家を。……なぜ、僕に相談しなかった?」
「兄上には関係ない。これは、俺と彼の約束だった」
「約束、ね……。君は、そのために何を壊したか、分かっているのか?」
「……分かっている」
「そうか?君は助けたつもりかもしれないが、本当にそうか?誰かが悲しむことを考えたか?取り返しのつかないことをしている自覚はあったのか?違う。考えなかったから、突っ走ったんだ!彼らの人生をなんだと思っているんだ!」
「分かってたさ!……分かってたとも!でなければ、こんな酷いこと、できるわけない!!」
「本当にそうか?君は、焦ったんだ。まだ探す時間はあったのに、なぜ先走った?……それに、気づかなかったのか?この札の組み合わせが引き起こす副作用に」
「……副作用……?」
ノートは息を呑んだ。肩の力が抜け、指先が震える。
そんなはずは――ない。違う、そんなはずは……。
だが、ルバートの目がそれを否定した。
「除名しか見ていないから推測だけど、昔ルカ王が中止した研究の噂を聞いた。高等魔術は専門外だけど、目的は予想できる。その術は魂の忘却によって、生を繋ぎとめるものだろう。だからこそ、誰かを自分の魂に住まわせた者、有り体に言えば一生に一度の恋をした者には毒でしかない。恋した者は魂に住む誰かの面影を追いかけて、いつかすべてを取り戻す。己の死も一緒にだ。……そしてこの世から去ってしまう」
「……知らない……そんなの、知らない……!」
爪が掌に食い込むのも構わず、ノートは拳を握りしめた。
喉が焼けるように痛い。
影が揺れた。空気がひずみ、次の瞬間——黒衣の男が、そこにいた。
「宿雪の魔術は——ルカが止めた。代償に、彼は眠りについた」
浮かび上がるように現れたレトロは、まるで他人事のように言った。
「レトロ……」
「当面、氷香は代理の王をたてて、現状維持に落ち着くだろう」
今までのレトロからはかけ離れた、氷のようなぞっとする声で囁く。
「ルバート、ノート。次は君たちの番だ」
それだけを告げ、レトロはふっと消えた。
まるで最初から、そこにいなかったかのように。
「時の客人は、また勝手を言う……」
深いため息が漏れる。
「オーバーノート。まだ王となり、地方を統一する気はあるか」
「っ……!」
一瞬、息が詰まる。しかし——
「もちろんだ」
「では、あの伝承リストはどこまで集まった?」
「……残り200をきった。でも所在不明ばかりだ。本当に実在するのか?」
「あるよ」
ルバートは目を伏せた。瞳には影ひとつ落ちていない。
「まずは、それを全部集めてくるんだ」
「そんなことをしている暇はない……兄上、退位してくれ」
「それは出来ない」
「兄上……!? 俺は反乱なんて起こしたくない。統一さえさせてくれたら、王位は返すから」
「……はは」
喉の奥で笑う。
「僕にとって、王位なんて——くしゃくしゃに丸めて、燃やしてしまいたいものだ」
疲れ果てた声で、兄は微笑んだ。
まるで、割れた鏡に映る歪んだ笑顔のように。
ノートは、何も言えなかった。
「……それでもね。王だからこそ、見えるものがある。だから、まだ君には渡せない」
「……どういう意味だよ、それ」
「言葉で説明して理解できるものじゃないさ。まずは、あのリストを集めきること。話はそれからだ」
「なぜ」
「レトロはあの調子だ、当てにはできない。メイを連れて行くんだ。ドゥールも巻き込めばいい」
「兄上!」
ルバートは止まらない。
「……別途、対外的な懲罰は行うけど、実質的にもこれが懲罰になるだろうから丁度いい。
必要なものが揃わない限り、もう僕が君に割ける時間はない。
オーバーノート、リストを集めきるまで——この執務室には入室禁止だ」
ルバートの言葉が響いた瞬間——
執務室の空気が歪んだ。魔術が発動し、ノートの足元がぐらつく。
次の瞬間、無理やり扉の外へ弾き出された。
「……ちくしょう」
ノートは奥歯を噛みしめ、拳を握る。
「集めてくればいいんだろう……!」
唇を噛み、強く床を蹴った。
怒りを背中に滲ませながら、執務室を後にした。
*
ルバートの胸に焦燥が募る。
まだだ——まだ、ノートに王位を渡せる状態ではない。
内政も不安定な箇所が残り、地方の反発も完全には抑えきれていない。
ルバートは、王としてできる限りのことをしてきた。
そして、心に決めていたことがある。
——弟のノートが、過ごしやすい環境を作ること。
オーバーノートは、戦い続けて疲れ果てたルバートにとって、
たったひとりの家族であり、かけがえのない宝だった。
だからこそ、彼がいちばん幸せになる道を用意したかった。
ルバートは、王最愛の王妃の子として生まれた。
だが、王妃は早くに世を去り、彼の後ろ盾は存在しなかった。
その分、父王は息子を守り、愛してくれた。
だが、その愛は常に『王の基準』によるものだった。
そして、王が守るはずの隙間から、何度も命を狙われた。
篝海の王家では異例の『生前退位』により即位した父は、多くの敵を抱えていた——。
継承の儀式。
それは篝海の王家がこの地に根付いた時から続く、王のための秘術。
だが、それは単なる『魔術の強化』などではない。
それは王をつくるための殺し合いだった。
儀式が始まれば、現王と継承者は閉ざされた領域に囚われる。
そこでは時間も外界も意味をなさない。
ただどちらかが消えるまで、終わらない。
最後に残った者は、消えた王の記憶と魔術をすべて引き継ぎ、新たな王となる。
祖父も父も、この儀式の結末を知っていた。
だからこそ、父は逃げた。
だが、それでは国は立ち行かない。
祖父は、王が継がれねば国が滅びることを知っていた。
だから祖父は、父ではなく幼いルバートを選んだ。
その結果、祖父は消え、
そして、父は——未知の記憶を持つ息子を、もはや息子とは思えなくなった。
だが、儀式の真実を知るのは、一握りの上位貴族のみ。
それ以外の者たちは、何も知らぬまま、ただ『秘術』として崇める。
そしていつしか、『何も知らぬ者だけが権力の座に残る』という構造ができあがった。
ルバートは、『歴代王の記憶を継ぐ者』として崇められた。
周囲は彼に頭を垂れ、ただ従順に従う。
だが、それは忠誠ではなく畏怖だった。
そんな毎日の中で、彼が命じるのはいつも『父王に従え』という言葉だった。
それがどれほど虚しい命令か、周囲の誰も気づいていなかった。
そんな日々の中、彼をただの王ではなく、『ルバート』として見てくれる者がいた。
それが弟、オーバーノートだった。
そして、レント——あの子は確かに、ルバートの風向きを変えた。
ルバートは呪術や、暴走する魔術に関する民間伝承を研究し始めた。
それは「継承の儀式」をなくすための手がかりを探るためだった。
だが、研究を深めるうちに、彼はある恐ろしい事実に気づく。
それは、魔術が「呪い」に転落していく過程に、あまりに似ていた。
歴代王の記憶を辿れば、この儀式は元々、敵対勢力を排除する『秘術』だった。
だが、時代と共に『王の魔術を受け継ぐ儀式』として形を変え、神聖視されるようになった。
そしてついに、『後継者が王を喰らう儀式』へと変貌してしまった。
今や、王にも継承者にも耐えがたい犠牲を強いるこの儀式が、ルバートには許せなかった。
祖父はルバートに力をつけさせ、最期は己の命を差し出した。
ルバートは、そんな未来を弟に背負わせるつもりはなかった。
自分の代で、この儀式を終わらせると決めていた。
だからルバートは、継承の儀式がなくとも戦える国にするため、改革を推し進めた。
そこには、祖父や父、そして歴代の王たちが命を削りながら積み重ねてきた改革の爪痕が刻まれていた。
その成果は、ようやく実を結び始めていた。
継承の儀式を不要とするほどの強大な魔術が生み出され、魔術軍事の強化が推し進められた。
ようやく、『王が王を喰らう』神聖視の呪縛は、薄れつつあった。
だが、まだ終わらない。
まだ、これでは足りない。
継承の儀式なしで国を支えるには、今までの篝海のやり方ではもう限界だ。
これまでは、人の力と人ならぬものを従わせることでどうにかしてきた。
だが、それだけではもう持たない。
これからの篝海は、人ならぬものと共に歩む国でなければならない。
彼らが自ら手を貸したくなる国を作る。
その力を借り、篝海を永く続く国にするのだ。
残念だが、今の篝海がすぐにそうなるのは難しい。
人の考えや価値観が変わっていくには年月がいる。
それでも……まだ継承の儀式は、なくせない。
あと一度だけ。
あと一度だけ、継承しなければ、この国は守れない。
力を失ったこの国の隙を近隣諸国は見逃さないだろう。
……オーバーノートに、それができるだろうか?
いや……違う。
信じるんだ。
自ら王になると決めた、あの子を。
オーバーノートなら、きっとできる。
…………せめて、これが最後であってほしい。
せめて、オーバーノートにはこんな思いをさせない未来を。
それを、託すのだ。
*
ノートは焦っていた。
20年間、兄の執務室の扉は開かれなかった。
会話は形式ばかりで、食事すら別々だった。
だが、今はそんなことを気にしている暇はない。
まだ、リストのすべてを揃えられていない。
メイやドゥールの助けを借り、歴史の彼方に消えた秘宝の数々を収集した。
人ならぬ者との交渉は困難を極め、ノートもまた、その過程で鋭さを増していった。
だが、最後のひとつ──『継承の核』だけは、どこにもなかった。
そんな折、鑑定人の街から届いた報せ。
──ルカ王が目覚めた。
ノートは、考えるより早く動き出していた。
歴史書の猶予は、もう50年を切っている。
準備に必要な時間を考えれば、あまりにも短すぎた。
兄が築いた国は清廉で、強固な基盤を持つ。
だが、このままでは駄目だ。
たとえ近隣諸国を征服する力を得ても、それは何十年も先の話。
……もう、一刻の猶予もないのに。
まだ『継承の核』は見つからない。
久々に王の執務室の前に立ち、扉をノックする。
「兄上、リストの品は最後のひとつを除いて、すべて揃えました。残りのひとつについて、ご相談させて頂けませんか」
軽い音とともに扉が開いた。
奥では、兄がいつものように書類に目を通している。
「……やあ、ノート。久しぶりだね」
「兄上……どうしても最後のひとつが見つからないんだ」
ノートの言葉を聞いたルバートは、一瞬目を伏せ、それから静かに立ち上がった。
「うん……そうだろうね。それはここにあるから」
彼は管理の厳重な棚から何かを取り出し、執務机の書類の山の上に、無造作に置いた。
──とん。
それは、両手で抱えるほどの丸い霧水晶だった。
虚ろに透き通るそれは、傍目にはただの石の塊にしか見えない。
「君が送ってくれたリストの品はすべてここにある。ノート、残りは今持っているかい?」
「……ああ、あるよ。でも……これは、本当に必要なものなのか? 趣味の収集じゃなく?」
ルバートはわずかに笑い、肩をすくめた。
「半分は趣味さ。でも、趣味が高じてここまで来たんだよ。そもそも、僕が民間伝承に興味を持ったのは──この儀式がきっかけだからね」
そう言いながら、兄はノートの肩に手を置いた。
もう片方の手で、がらんどうな水晶にそっと触れる。
次の瞬間、兄の魔術領域が部屋全体を覆った。
集められた品々に内包されていた魔術が淡く揺らめき、不思議な霧となって広がる。
それは記憶の残滓か、あるいは……
「儀式?」
「そう。継承の儀式だ。篝海王国が建国されて以来、ずっと行われてきた秘奥義。……父を除く歴代の王たちは、すべてこの儀式を通して王位を継いだ。そして、彼らは王という人柱となり、この国に縛られた。決して逃げられなかった」
ノートは息をのむ。
「でも、それなら父上もこの儀式を受けていたはずでは?」
「いや、父はその意味を先に知ってしまったんだ。だから祖父から僕が直接継いだ」
ノートの目が見開かれる。
「兄上が……そんなことを……?」
王位を継ぐための儀式があることは知っていた。
だが、それがこれほどまでに重大な意味を持つものだったとは──。
「そう。だから父上は、とても苦労したと思う。でも、だからってノートに手を出すのは許せなかった」
ふと、兄の成人の日に満身創痍で現れた前王の姿が脳裏をよぎる。
「……成人の日、先王は襲撃を受けていました……」
「うん。君に濡れ衣を着せて殺そうとしていたからね。それはどうしても、許せなかった。でも、僕の仕業だとすぐに見抜かれたし、あの日はなぜか君を守ろうとしていたから、やめたんだ。だから、君が手を汚す必要はなかったんだよ」
兄は棘を飲み込むような顔をして、俺は言葉を失った。
「……さてと、最終確認だ」
ルバートは水晶に触れ、静かに言葉を紡ぐ。
「オーバーノート・ヴァナスリア。君は王位を継ぎ、すべてを注ぎ込んで国に殉じる覚悟はあるか」
ノートは息をのみ、わずかに目を伏せる。
「……それでこの地方が、将来にわたって平穏になるなら」
「ならば……僕と一緒に最後の思い出をつくろうか」
「え?」
兄上、それはどういう意味ですか。
だが、その問いは儚げな微笑みと共に、かき消された。
「!」
次の瞬間。
まるであの天象儀の時のように、激しい魔術が辺りに満ちる。
「ルバート・ヴァナスリアは、これを持って継承の儀式を執り行う」
その瞬間、空気が震えた。
兄の言葉に瞬きをすると、世界が一瞬にして白に染まった。
辺りは霧がかっていた。
遠くから潮騒が聞こえる。
霧の合間に、鮮やかな空青の紫陽花が咲き乱れていた。
「兄上、ここは……?」
「ここは地象儀。霧水晶の内側さ。」
ルバートは息をつき、肩を竦める。
「霧だからこそ、すべてから隠匿できる。ここでは時すらも止まる……ふう、ここまで来ちゃったか。さて、まずはゆっくり話をしよう」
兄は魔術を構築し、椅子とテーブルを生み出す。
湯気の立つ茶と菓子も添えられた。
「さあ、座って。君は珈琲だったね。僕はこのとっておきの紅茶にしようかな」
のんびりした様子の兄に促され、ノートは戸惑いながらも席につく。
珈琲にチョコレート。
兄は紅茶にカヌレ。
まるで兄が即位したばかりのあの日のようだ……
そんな錯覚に、胸がざわつく。
……今は、継承の儀式の最中……だよな?
「兄上、儀式は……」
「うん……ここで何をするべきか、分かるかな」
「継承、ではなく?」
「うーん、そうなんだけど……まずは篝海という国の話をしようか」
「……今更?」
「そうだね。でも、それが根幹だから」
篝海の民はどこからともなく現れ、そしてどこへともなく去っていく。
海から流れ着き、雪深い森の奥へと消える者。
森から現れ、遠い海の果てへと旅立つ者。
それぞれが、それぞれの「呼び声」に導かれ、その先へと歩んでいく。
だが、それを良しとしない者たちが、ここに留まるために国を築いた。
森と海と共に生き、どちらにも迷わないように──。
森に篝火を灯し、海に灯台を掲げた国。
多くの土地から訪れた者たちが持ち込んだ魔術は千差万別で、その多様さこそが国を豊かにしてきた。
そして、その豊かさを狙う者たちは、建国以来、後を絶たなかった。
「それを憂いた王は、敵の魔術と記憶を取り込む術式を作った。それが、継承の儀の原初の形だった。」
「……原初? 今では違うってことか?」
「そう。いつからか、継承の儀式を施した者が『王』として認識されるようになった。そうやって敵はいなくなったんだ。
敵はいないから、継承の儀式も行えない。……それでも王座は続いていく」
「虚構の王でいいじゃないか」
「いいや。最初は邪魔者の排除だった。だが、やがて意味が変わった。王は敵を取り込むことで強くなり続けた。しかし、やがて敵がいなくなった時、王の力は何を拠り所にすべきだったのか――その問いに対する答えが、継承の儀式の変質だった」
「変質?相応しいものを取り込む?」
「そう。儀式の魔術は高度になりすぎ、負担が限界に達した。ひとつの魂が耐えられるのは、一度きりの儀式だけだった」
「一度きり……」
「だから今の形になった。先王か継承者、どちらかだけが生き残る」
「……兄上、それは……」
「君は僕を殺して、僕の魔術と記憶を得るんだ」
兄は静かに立ち上がると、手を振るった。
淡く揺らぐ空気の中心に、剣が生まれる。
夜と夜明けの狭間のように、淡い青と赤の光に染まる透明な剣。
兄はそれを手に、静かにこちらへ歩いてくる。
「これが僕が君にあげられる、最後のお守りだ。」
「……嫌だ……駄目だ……兄上、それは………………狡いよ……」
今まで兄のお守りを拒めた試しはなかった。
魔術的にも、心情的にも、物理的にも。
拒めるはずがなかった。
「うん。僕は酷くて狡い兄だ。君の側にいれなくて、ごめんね……でも、これからはずっと君の中にいる。」
すべてを受け入れたような、あの儚い微笑みが、どうしようもなく腹立たしかった。
兄が手を添えた瞬間、剣の軌道は定まり、それ以外の動きができなくなった。
「こんなことさせて、ごめん……でも君は、僕みたいに誰かに自分を殺させないですむはずだから。」
そのまま、継承の儀式が終わるまで。
兄の吐く息がなくなるまで。
俺は、動くことができなかった。




