名もなき捕虜とただひとつの願い
だから何にもとらわれず、自分の幸せを掴み取れ、と願われた。
でも実際には魂からの叫びのような、たったひとつの願いにずっと縛られている。
記憶のはじまりは暗くて冷たい部屋。
目覚めると朱金髪の人が不機嫌そうにこちらを見下ろしていた。
「目が醒めたか」
「ここは……?」
「痛いところや辛いところはないか?」
「ええ。あの……あなたは、誰?」
「私は君の後見人だ。何か覚えていることはあるか」
私は一瞬、考えた。
けれど、頭の中は真っ白だ。なんにも思い浮かばない。名前すら。
「覚えていること……えっと…………何も、分からない……?」
「……そうか。ならばいい」
彼は険しい顔のまま頷く。
その言葉に、私は混乱した。
ならばいいって……どういう意味?
私が誰かなんてどうでもいいって意味?
覚えてなくてよかったということ?
――もうかえれないの?
そんな不安を抱いた時、隣にいた鮮やかな松明色の髪の人が、しゃがんで私の目線に合わせ、話しかけてきた。
「君は魂から名を除けられた。
だからそこにまつわるものが欠けて、不安定になっている。
だがもう怖いことはないから、安心してくれ。
君は君の生きたいように生きていい」
その声は優しく穏やかだった。
でもそれが全部本当かどうかなんて、今の私には分からない。
名を除けられた。つまり、今の私は名前がないってこと?
寄る辺がないように感じるのはそのせいなのかな。
不安で不安で仕方ない。
辺りを見回す。
灯火みたいな朱燈の髪を結った体格のいい人。
不機嫌そうな朱金の髪の少し細い人。
ふたりの男以外誰もいない。
反響してくる音を聴く限り、ここは暗くて窓もない、がらんとした空間のようだ。
もしなにか起きても、助けを求めるのは難しそうだ。
若い女性のはしくれとして、この状況で警戒しないわけにはいかない。
「あの、そんなことより………………っちゅん……!」
(……わたしを帰して)
底冷えするような空気が凍った部屋に夏用の寝巻姿は寒かった。
くしゃみが飛び出して、言葉はそこで途絶えてしまった。
「ああ寒いよな。君の部屋を用意している。
身の安全は私が保障しよう」
優しい声とともに、大きな布が肩にかけられる。
「私は火竜の長、スルツェという」
「火竜……?」
温かいのに震えが出てしまった。
火竜。
つまり竜、しかも長。
そんな存在が直接出てくるなんて。
なにか大きなことに関わってしまったの?
……それともこの人が何か悪いことをしているのかしら。
「君は被害者だ。全力で保護しよう。
大丈夫、君は何も悪くない。どうか安心してくれないか」
やわらかな声色とともに、手が差し出された。
こちらを傷つけないようにとためらいがちに伸ばされたその手を、私はとらないわけにはいかなかった。
案内された部屋は、城の端に突き出た塔の最上階だった。
窓の外には、エメラルドグリーンの海が広がっている。
真下を覗けば、切り立った崖。
……とても逃げられそうにない、素敵な絶景だ。
彼らが引き上げる直前、コンコン、と扉が鳴る。
入ってきたのは、藁色の髪をきっちりと結い上げた女性だった。
「これからお嬢様に仕えさせていただく、ニハル・ジュストと申します。
王城で心地よく過ごせるよう努めますので、どうぞ遠慮なくお申し付けください」
王城。つまり、ここは王様の城。
――ということは、王様の目があるから逃げられないぞ、ってこと?
そもそも、王様は私を知っているのかしら。
恐る恐る尋ねる。
「あの……王様は、私のことを?」
「もちろん存じております。お連れになったのは王ですから。
ただ今、多忙を極めておりまして、すぐには顔をお見せできません。
どうか無作法をお許しくださいませ」
王様が、直接……?
そんなこと、何か目的がなければありえない。
記憶にない私がなにか罪を犯したのだろうか。その償いの為に?
でも火竜は「君は悪くはない」と言っていた。
じゃあ冤罪?
――もしかして、王様の秘密を見てしまった?
隠し事とか、恥ずかしい趣味とか?
実は背が低いとか、変なものが好物とか……いや、まさか死者だとか?
それとも――捕虜?
捕虜なら、帰るのは無理かもしれない。
嫌な予感がして、思い切って尋ねた。
「あの……いつ頃、家に帰れますか?」
「家、ですか?……確認いたしますので、お時間をいただいても?」
「ええ、もちろん」
帰れるなら、いくらでも待てる。
ただ時間だけが過ぎていった。
ニハルからの回答は検討中、ということだけだった。
さて、どうしよう。
部屋は隔離されているものの、鍵はかかっていない。出入りも自由だった。
捕虜にしてはずいぶんゆるい?それとも逃げ出したらすぐに捕まえて檻に入れるから気にしてないのかもしれない。
帰りたい。
でも帰る場所がどこにあるのかわからない。
いつかどこか分かるかな。
その時自力で帰る為には、油断してもらった方がいいわよね。
なんにせよ、今は何もする気になれない。
ただ潮騒を聞き、窓の外を眺めた。
波の色、空の色。雲の流れ。
刻々と変わる景色をぼんやりと追いかける。
心のどこかが叫んでいた。
——違う。これじゃない。
求めている色はもっと淡い色で。
求めている音はもっとかすかで。
求めているにおいはもっとしずかで。
それから……あのあたたかい感覚。
もっと、もっと……。
………………なんだっけ。分からない。
兎に角私が欲しいものはこれではないのだ。
だけど、似た色の中に一瞬だけ現れる色がある。
あの空の色。あの雲の色。
海の中に、一瞬だけ映るあの輝き——
それを探して私はひたすら外を眺めた。
しばらくすると閉じこもりすぎだと、思われたみたい。
週に一度は朝食を食堂でとるようにと指示が出た。
はじめての食堂は、想像以上に居心地が悪かった。
目の前の三人の男性全員が、口を一文字に結んで黙っている。
そんなに嫌なら、無理に集まらなくてもいいのに。
三人のうち、一人は火竜。
一人は後見人。
そして最後の、蜂蜜色の髪の人物が、私を見るなり歩み寄ってきた。
「俺はこの国の王、オーバーノートという。
……すまない、まずは謝らせてくれ」
予想外すぎる一言に、その場の空気が凍りつく。
ふたりだけじゃない。侍従たちまでもが一瞬、動きを止めた。
どうやら、ありえない事態らしい。
「……謝る?」
「そうだ。君の人生を取り上げてしまった」
「私の……人生を?」
「理由があったとはいえ、納得できるものではないだろう。許してくれとは言わない。恨んでもいい、憎んでくれてもいい。
ただ――君をどうにかして生かしたいと願った人がいたことだけは、覚えていてくれないか」
彼は真っ直ぐに言葉を続ける。
「これからの生活に必要なことは、何でも全力で補助する。
だから――どうか、この先を生きてくれないか」
……ずるい。
私はなにも知らないし、分からないことだらけなのに。
なのに初手で謝るなんて。
でも、だからこそ。
今なら私の望みを聞いてくれるかもしれない。
「謝罪は受け入れます。だから――私を、帰してください」
「…………申し訳ないが、それはできない」
ほんの一瞬、彼の瞳が揺らいだ気がした。
「過去にまつわるものに関わると、君が危険にさらされてしまう」
「……そう、ですか……。では、仕方ありませんね」
断固として「許さない」意思が、声に滲んでいた。
ここで駄々をこねても、無駄。
だから――笑った。
諦めたふりをした。
朝食会は案の定、重苦しい空気のまま進んだ。
王様は考えごとに集中しているのか、一言も発さない。
スルツェは眉間に皺を寄せながら、すごい勢いで大量の食事を片付けていく。けれど、その食べ方は妙に綺麗だった。
カトラリーを操る手つきが、まるで行進曲みたいに小気味いい。思わず見入ってしまう。
……と、ふと視線を感じて顔を上げると、後見人と目が合った。
「あっ」
「……あ」
気まずい。
彼は私に話しかけようとしていたらしい。でも、なんというか――タイミングが悪すぎる。
飲み物を口に含んだ瞬間とか、パンをかじった瞬間とか、どう返事をすればいいのか分からないタイミングばかり狙ってくる。
結局、会話はうまく続かず、気まずいまま食事が終わった。
今日の成果は、私の仮の名前が「ルル」に決まったことだけ。
変な名前にならなかっただけ、まあ良しとしよう。
この城の中で、いちばん安心できるのは内鍵のついた自室。
でも、いちばん落ち着くのは——司書室だった。
中庭に面したその部屋には、物語や辞典、心を遊ばせる本がたくさんある。
そして、ある画集を見たとき。
私は、自分が求めているものの正体を知った。
一面の雪原。
凍りついた山々。
スケートを楽しむ人々と、凍った川。
雪の森の向こうにぼんやりと灯る街明かり。
暖炉のぬくもりと、団らん。
……私は、この景色の中に帰りたいのだ。
海を眺めているときよりも、ずっと心が穏やかだった。
それに、この席はただ落ち着くだけの場所ではなかった。
窓の向こう——中庭の隅で休憩する城仕えたちの噂話が、ちょうどよく耳に入ってくる。
そこで知ったのは、私が「王様がどこからか連れてきた、得体の知れない存在」だということ。
「妖精姫を捕まえて、翅を毟って連れてきたのでは?」
「泥から作られたんじゃないか」
「遠征した他国から、捕虜として連れてきたのだろう」
好意、悪意、無関心。
それぞれの視線の温度が、言葉に滲んでいる。
……まあ、帰りたいと思っているのだから、捕らえられたのだろう。
でも、一つだけ気になることがある。
——私の後見人を名乗る人。
彼の立ち位置は、いったい何なのだろう?
もし、私のことを知っているなら。
元の場所に返してくれてもいいはずなのに。
やはり、私は虜囚なのだろうか。
彼は、私が逃げないように見張っているのだろうか。
最初に来てくれたときから、ニハルは甲斐甲斐しく世話をしてくれた。
はじめは警戒したものの、彼女が「やっと自分を評価してくれる主に仕えられた」と嬉しそうに話すのを聞いてからは、私も率直に接するようになった。
年も近く、同性ということもあって、私たちはいろいろな話をした。
好きな色や天気、好きな絵本やおすすめの小説。
案外趣味が似ていたこともあり、ぐんと距離が縮まった。
そんなある日、ふと気になって、噂話のことを持ち出してみた。
「ルルお嬢様は、ご自分の過去が気になるのですね」
「……ニハルは何か知ってるの?」
「残念ながら、私たち侍女には何も知らされていません」
申し訳なさそうに微笑んで、彼女は私の髪をそっと撫でる。
「ですが……どうしても気になるというなら、調べてまいりましょうか?」
「……え?」
「お嬢様の髪や肌は、典型的な『かの国』の特徴。それも、かなり良い家柄のご出身のようです。少し探せば、何かわかるかもしれませんね」
ふわりと微笑むと、彼女は代理の侍女を立てて、そっと部屋を後にした。
「ルル。これからこの国を含む六花地方には、嵐が吹き荒れる。
君の立場だとまだ危険だ。
申し訳ないが、それを回避する措置を取らせてもらえないだろうか」
朝食会で、王様は静かに告げた。
王様が無愛想な理由にはすぐに気づいた。
何か難しいことをずっと考えているのだ。
その上で話しかけてきた言葉がこれだった。
「どんな措置でしょうか」
(元のところへ帰してくれればいいのに)
「君に一切触れないことを約束する。
そのうえで——俺と結婚してほしい。
いわゆる『白い結婚』だ」
「駄目だ、絶対に許さん!」
後見人が即座に拒絶した。
声は震えていた。
不安と怒りが混じり、彼の意志を表している。
「しかし伯父君、仮称のままでは元の場所に引かれている。
城内でも立場が不安定だ。
このままでは、いずれ彼女を巡って争いが起きる」
「それはお前が采配をふれば済む話だろう。
分かっているのか?それはルルを危険に近づける行為だ」
後見人の目が険しい。
王様はじっと後見人を見つめる。
沈黙が流れ、やがて王様が言葉を続けた。
「……ああ。しかし、今の安全と未来の危険を考えれば、白い結婚が最適解だ。俺はルルを望んでいるわけではない。だが、これが最も確実だ。彼女の立場を守り、いざという時に回避できる」
「だが——」
話は一歩も譲らず、平行線を辿った。
それぞれの立場が、ますます鮮明になっていくばかりだった。
不意に食堂内に魔術の魚が泳ぎ込んできた。
この辺りの伝言魔術は、あの魚の形をしていることが多い。
伝言魔術が王様の手に収まると、ふわりと解けた。
何か緊急のことがあったのか、彼の顔が一層強張る。
「……急な来客が入った。すまないが、今回はこれで解散とする。
……ルル、司書室から好きなだけ本を持っていっていいから、当分自室にいてくれ」
「承知しました」
内心、私は小躍りした。
誰の目も気にせず、好きなだけ本を読める機会など、そうはない。
だって、普段であれば――?
――普段から私は司書室で読むことを楽しんでいる。
……以前はそんな自由はなかったのだろうか。
もしかして、私は以前より幸せなのだろうか。
ずっと籠って本を読んでいられる時間は至福だった。
ただひとつ難点があるとすれば、新しい本を得る為には司書室に行かなければいけない。
王様は『出来るだけ』と言っていた。
これまで何日も籠もっていたし、本を交換に行ってはいけないとは言われていない。
ニハルがいればお願いしたけど、彼女も不在だし…。
……いいよね?だってもう読む本がないんですもの。
それでも怒られるのが怖くて、こっそり見つからないように司書室に返しに行った。
新しい本、気になる本、興味深い本!
両手いっぱいに抱えて部屋へ戻る途中、私はすっかり浮かれていた。
だから曲がり角でぶつかり、本をすべて落としてしまった時、本当に恥ずかしかった。
「大丈夫かね、お嬢さん……?」
拾ってくれたのは優しそうな長い白銀髪のおじいさんだった。
まるで本に出てくる良き魔術師みたいに清らかであたたかい。
今まで見たことない方だからお客様かもしれない。
「ええ、ありがとうございます。私としたことが、本に夢中だったようで大変失礼しました。お怪我はありませんか?」
「ああ、もちろん。なにしろ君は羽根のように軽かったからね。こちらこそ、うまくいかないことつづきで、視界が狭くなっていたようだ」
笑った顔が可愛いらしいって思うのは、それなりにお年を召した男性に対して失礼かしら。
でも、とても素敵な笑顔だった。
慌てて本を拾う私と一緒に、散らばった本を集めてくれるのも優しい。
「ほら、これで最後かな」
「一緒に拾ってくださり、ありがとうございます」
「なに、私のせいでもあるからね。……お嬢さん、君は今幸せかね?」
「ええ!こうやって沢山の本を読めて幸せです」
「そうか良かった…………どうかこのまま幸せでいておくれ」
「……え?」
一度だけ私をぎゅっと抱きしめると、おじいさんはそのまま振りかえらずに去っていった。
私はその場に立ちつくした。
今のぬくもりを、私は知っている。
私の寄る辺。
ほっとするところ。
絶対に安全で何ものにも脅かされない、私の……かぞ、く……?
――ううん、あそこまでおじいさんではなかったはずだ。
だってあの人は……
……………………あの人って?
あの人が誰かなんて、わからない。
でも、あの手の温かさ……私、知ってる。
今の私は名前すらない。
あるのは、ルルという仮称だけ。
でも。
聞き覚えがあるのは。
馴染みがあるのは。
愛着がわくのは。
その愛称で呼んでくれた誰かがいたから――?
せっかく新しい本を借りたのに、頭がいっぱいで、内容が全然入ってこなかった。
「ルル、君の意志を問わずに申し訳ない。
だが、どうやら急がなければいけないようだ」
王様は私をじっと見据え、静かに息を吐く。
その瞳にあるのは優しさではなく、冷徹な決意。
「君にも俺にも、互いへの想いが愛情でないのは確かだ。
だが、俺の君を守りたいという思いに偽りはない。
君が求めれば、必ず解放することを誓おう。
だから――俺と白い結婚をしてくれ」
愛情なんて、微塵もない。
彼にとっても、きっと同じ。
でも、その声は切実だった。
言葉だけじゃない。
彼の意志そのものが、「これしかない」と叫んでいる。
結婚は本来、双方の合意で成り立つものなのに、私は『断る』よりも『叶えなきゃ』と思ってしまう。
まるで魔術ね。
今までこの術を使わなかったのは、彼なりの誠意だったのかもしれない。
でも、もうそんな悠長なことを言っていられなくなったのだろう。
――不思議。
夕暮れの陽射しは、こんなにも優しく美しいのに。
この場を包むのは、決闘前のような張り詰めた空気だけ。
「頼む……君は、俺たちの唯一の光なんだ」
「……私は何も知らない。
でも、あなたにはそれだけの理由があるのでしょう」
一拍置いて、考え込むように言った。
迷いはあった。
けれど、この人は悪い人ではない。
ずっと難しい顔をして、どうにかしようと必死で動いている。
――それは見ていれば分かること。
帰る場所がないなら、どこにいたって同じ。
だったら、せめて誰かの役に立ったほうが、まだ――。
「……あなたが必要だと言うなら、私は応じるわ」
ことは、あっという間に進んでいった。
戻ってきたニハルは、小さな蕾を私に渡した。
――けれど、それが何なのか尋ねる余裕はなかった。
略式でいいからと急かされ、婚姻の儀は慌ただしく準備が進む。
侍女たちは布を繕い、必要なものを整え、私はただ流されるまま。
気持ちが追いつかない。けれど、抗う理由もなかった。
そして、結婚式当日。
後見人は、まだ反対のようだった。
けれど、私が了承したことで、渋々意見を引っ込める。
「お前は……これでいいのか?」
「ええ。だって…………私は帰れないのでしょう?」
「……お前の幸せは、そこ以外にもあるはずだ」
婚礼の衣を纏い、鏡越しに最後の確認をする後見人を見た。
私は、できるかぎりの笑顔で頷く。
――そうかもしれない。
でも、心が求めてしまう。
仕方ないではないか。
式の準備が整うまで、自室で待機することになった。
突貫工事とはいえ、王の相手に相応しいだけの豪華な婚礼衣装は、とてもひとりで出歩けるものではない。
ニハルは、不具合のあった装飾を交換しに席を外している。
ちょうど、ひとりだ。
静まり返った部屋の中、懐からそっと蕾を取り出す。
ニハルがくれたこれは、何の花だろう?
窓辺に向けると、光を受けた花弁が僅かに開いた。
外では、はらはらと雪が舞っている。
この辺りでは珍しい、美しい雪の空。
いつものように、心惹かれる色を探して空を見渡す。
そう――あの雪よりも、なお雪らしい、あの色を。
……あれ。
あの色。
あれこそが――私の欲した、ただひとつ。
「…………!」
胸が跳ね上がる。
雪空を煌めきながら、こちらに向かってくるその色に、私はドレスを抱え込み、部屋を飛び出した。
塔の屋上へと――駆ける。
窓越しじゃなく、直接見たかった。
だって――あれは、私が恋した、ただひとり。
その鱗の煌めきを、間違えるはずがない。
塔の上、小さな立哨台。
風がびゅうびゅうと吹き荒れ、冷たく頬を切る。
飛来する竜が、城をぐるりと巡る。
ひらひらと舞うのは、祝福の花弁。
「――欲しかった色、みつけた」
今の私には、あなたの名前すら残っていない。
それでも。
愛しいひと、また会えた。
薄藍と白銀の鱗が、陽光を反射して煌めく。
竜は――こちらに気づいた。
「………………ルーセント……」
その響き。
私が、ずっと聞きたかったもの。
ルーセント。
それが、私の名前?
魂から除かれてしまったせいか、記憶がない。
なのに――胸の奥が、熱い。
「ルーセント――――!!」
竜が、もう一度、叫ぶ。
その瞬間。
ドレスの裾とともに抱えていた小さな蕾が。
燃え上がるように光り、大輪の青い炎を咲かせた。
衝動のまま、飛ぶ。
立哨台から、彼のもとへ。
青の花弁が、ひらひらと舞う。
私は自分の名を取り戻した。
――そして、思い出す。
私は、すでに死んでいるのだと。
ああ、だから。
なにも、したくなかったんだ。
北の竜が、私を受け止める。
その腕は、香りは。
優しくて、あたたかくて。
懐かしい――。
だけど、私が『死』を取り戻したことで、宿雪の魔術が解けていく。
この身は陽ざしの中の淡雪となって消えていく。
父が昔研究していた宿雪の魔術。
魂が仮死を忘れることで、強制的に生に偏らせる魔術。
――本来なら、思い出してはいけなかった。
だけど忘れていた方がずっと苦しかった。
今の私は、ただ晴れやかだった。
「よかった……あなたのところに帰ってこれた」
「ルーセント……!だめだ、俺と帰ろう」
「私の竜、ありがとう。大好きよ」
綺麗に微笑めただろうか。
せめて最後は、好きな人に笑顔を――。
*
「蘇生は駄目だ。」
レトロは半透明の腕で、手帳にすらすらと書き込んだ。
「彼女の魂には既に宿る心があった。
淡雪が熱を抱えたら、あっという間に溶けてしまう」
ノートから最後のやり直しの結晶を返してもらう。
ぱきん
儚い音が響く。
――だから『こんなことは起きなかった。』ことになった。
*
「ルカ。ルーセントに、宿雪の魔術は効かない」
蘇生の札――宿雪の魔術札をアルペジオに渡し、項垂れていたルカは突然降って湧いた声に頭をあげた。
「なんの話かな?」
「大丈夫。僕は、君が思い出したことを知っているだけ。
ことを荒立てるつもりはない。
――君が、駒物語が好きだった子どもの頃から知っている僕を、信じて」
「……未来から過去に向かうんじゃなかったのか?」
気づけば、いつもの黒衣の青年が窓辺に佇んでいた。
ただ、今までと違う。
時の渡り人の身体は透け、奥の家財が見えている。
「うん。でも、それで僕が消えないように、今、修復してるところなんだ」
「……何を言っている?」
「……分からなくていいよ。分かってもらえるものでもないから」
透けた身体のまま、時の渡り人は手帳から紙を出してルカに渡した。
「まず、これ。ノートと連絡が取れる」
「そんなことより――魔術が効かないとは、どういうことだ?レトロ」
「彼女は、もう恋をしているから」
「――恋?!まだ百年も生きていないのに、そんなの早すぎる!」
「落ち着いて、ルカ」
レトロは静かに言葉を継ぐ。
「もうすぐ、僕とアルペジオが約束を果たす。
でも、ルーセントは駄目だ。
宿雪の魔術をかけたら、彼女は淡雪になる」
「……なんてことだ……じゃあ、誰も残せないのか……?」
レトロが、かすかに微笑む。
「――戦には、最後の夜の約定がある。
彼女が恋をしたからこそ――」
次の瞬間、声も姿もふつりと消えた。
ルカは即座に転移を踏んだ。
ルカが異変に気づいたのはほんの数日前。
アルペジオが今までにない心の閉じ方をしていた。
ふと疑問が湧いた。
彼と酒あての飲み仲間になったのは、いつどんなきっかけだったか。
妙な胸騒ぎがして、有事のために魂の裏側に仕込んでいた予備記憶を読み込む。
若い頃に見たのだ。
人ならぬ者が、人の記憶を奪う光景を。
それ以来、密かに研究し、魂の裏側に記憶の魔術を脱法構築した。
決まった手順を無意識に行うことで、欠けた記憶を取り戻せる。
――暗殺。駒遊び。革命屋に、歴史書。
削り取られていた記憶を拾い上げた瞬間、ルカは額を押さえた。
これを前提にすれば、なにが起きるか予想できた。
わかっていた。
思い出さないほうが、世界は優しかった。
忘れてしまったほうが、心は軽かった。
だが、為政者として。
この国の行く末を見守る者として。
己の罪を刻み、記憶を持ち続けることこそが、責務だ。
そして――理解した。
思い出してしまった今、心のままに動けば、彼らの道行を阻むことになる。
ならば、覚えていないふりをすること。
それこそが、ルカのあるべき姿だ。
それでも。
それでも、キャスリングでの移動を選んだのは――
アルペジオに、札を渡すため。
……それだけではない。
もし、万が一があったら。
助けに行きたかった。
弟を犠牲にする。
わかっていた。それでも。
『俺は俺を必要としない、だから』
『そんなこと言わないでくれ……頼む。俺は弟と一緒に生きたいんだ』
『兄貴はずるい……いつか、兄貴が悪を必要とした時は俺を使ってくれ』
――遠い日の約束が、脳裏をかすめる。
弟の前に降り、阻止するように抱きしめた。
短く、言葉を交わす。
「アルペジオ……すまない」
「……兄貴、約束を果たしてくれよ」
懐に忍ばせた札を、キャスリング。
除名ではなく、宿雪の札をアルペジオの手に持たせる。
アルペジオが宿雪の魔術をルーセントにかけた。
淡雪の魔術が、ルーセントの周囲に降り積もる。
ゆっくりと、消えゆく雪のように――彼女の輪郭が淡くなった。
「――ダメだ!」
ルーセントの肩に触れ、同時に身代わりと除名の魔術札を被せる。
それから返し手で秘蔵の術式を展開。
他世界の花弁を取り出し、弟と他世界に咲く花本体をキャスリングする。
いつかした約束の通り、この世界から弟を追放する。
――宿雪の解呪。
理論上は可能だ。
だが、それができるのは、制作者である自分だけ。
先程放った術式で彼女の名と、身体の一部をもらい、己に繋ぐ。
宿雪の対象を、自分に振り替える。
遅滞魔術で進行を抑え、解呪の段取りを整える。
仮死の一部を、過眠へ。
死のような眠りの中で、己の寿命を宿雪の仮死の対価として支払う。
……なんて、ぐだぐだだ。
魔術王が聞いて呆れる。
家族はもちろん。弟も、娘も、放浪者たちも――。
どれだけの迷惑をかけるのか。
眠りの淵の心は、ぐちゃぐちゃだった。




