天象儀と最後の遊戯
調停の羽根ペンは、調停の魔術のなかでも最も一般的な魔術道具だ。
すでに魔術によって固定された公式書類の訂正に用いられる。
劣化版として『調整の羽根ペン』も存在するが、こちらは数値の変更など、ごく限定的な修正しかできない。
文章そのものがもつ魔術を取りなし、取消や変更を可能にするのは、言語魔術のなかでも調停だけがなし得ることだ。
とはいえ、誰もが扱えるわけではない。
調停が許可した者だけが作り、認めた者だけが使用できる。
彼らは公式書類を管理し、訂正を司る専門職なのだ。
本来、人ならぬものが人間に授けることはない。
だが、放浪者だけは例外だった。
彼は調停に認められ、本来なら許されぬ調停魔術の使用を許された。
それゆえに、調停が日常的に用いるこの羽根ペンを授けられた。
耐圧室の狭いローテーブルの上に、古びた革の手帳と優美な羽根ペンが並んでいる。
雛鳥の羽毛のようにふわふわとした保温性の高い羽根ペン。
その周囲だけ、空気が澄んで見えた。
広げられた革手帳からは不穏な魔術の気配が漏れ出している。
あるいは、その影響で空気が歪んで見えるのかもしれない。
『ルカ・ルーカヴァルト・ノクト・バシット・イレクスが死に、氷香王国は滅びを迎える』
『ルバート・ヴァナスリアが死に、篝海王国は滅びを迎える』
『ナ・ローナ・ユグ・ラ・ト・スペンサー・スペスペティ大司教が死に、信赦教主国は滅びを迎える』
『ランドバルド・バーナード・オーロル大公が死に、煉峰国は滅びを迎える』
『深森皇国のロード・ラスグラニカと砂海帝国のミュルン・サーラーンが、六国の滅びた六花地方で邂逅し、剣を交える』
「年号を訂正できるのは、最大で1000年まで。だが、確実性を求めるなら500年が限界だそうだ」
「……この5つの記述、それぞれに100年ずつ割り振るとして、どう配分すべきか」
「……なあ」
「ん?」
「共に歩むためには、どうしたらいいだろうか」
放浪者の問いかけに、雪月が静かに応じる。
「君も気づいているだろう」
「俺の考えが魔術王に及ぶとは思えないな」
「そんなに万能なら、こんな苦悩はないはずなんだがね……」
「雪月、すべての国名を変更してしまうのは?」
「過去にも、国として呪われたことは何度かあった。そのときは『国名保護の魔術』が作用し、呪いが完全に浸透するまでに時間がかかったんだ。その猶予を使って国名を変え、回避したこともある」
「じゃあ……今回も?」
「問題は、この魔術の精度・速さ・強さだ。これまでの呪いは、国名保護の魔術に阻まれ、密かに呪ったところで即座に効力を発揮することはなかった。だから通常なら、呪いを強化するために人々の認識を利用する必要がある。だが、この魔術は人ならぬものの魔術を使っている。保護の魔術をすり抜け、時間稼ぎがまったく効いていない」
「どうにかならないのか」
「今回は名乗りが浸透する時間が100年じゃ足りない。……本来なら、たった3人が認識するだけで回避できるはずだった。 だが、これは強すぎる。六花全土の民が受け入れない限り、効果がない。」
「……駄目か」
沈黙が落ちる。
羽根ペンの先で革手帳を軽く叩く音だけが響いた。
「レトロに過去へ行ってもらい、国名を変えたら?」
「このインクの乾き具合からして、書かれたのは今夜だ。仮にレトロが過去に遡って国名を変えても、『今夜、革命屋が記載する国名』が変わるだけだろうな……」
ふたりは考えに没頭した。
誰かに知恵を借りたかった。
だが、この障りの濃さと言語魔術の制約のなか、応じられる者はいない。
いまここで、いかに六花地方を生かすか——その方針を決めるしかなかった。
どう考えても、『大事なものを自分たちの手で終わらせる』以外に許される選択肢が思いつかない。
それでも、可能性を探して考えずにはいられなかった。
「この案も駄目か」
「時間も強度も足りない。……レトロの反応を見る限り、俺たちはもう何度も試したが、どれもうまくいかなかったんだろう」
「記憶にないのに、経験済みとはな……。厄介なこともあるものだ」
放浪者は深く息を吐いた。
「滅亡が確定なら……結局、六国統一するしかないのか?」
「そうだねぇ……」
沈黙が落ちる。
重く淀んだ空気のなか、小さな火竜がゆっくりと身を起こした。
「本来の根こそぎの滅亡でなくていいのが幸いだな」
雪月の膝に乗っていたスルツェが、椅子の上でぐぐっと伸びながら呟いた。
「スルツェ、どういう意味だ?」
「魔術に人ならぬものの魔術が含まれているから、人の魔術より位階が高く、強制力が強い。だが、どれほど精巧に作られていても、所詮は人が作ったものだ」
スルツェは欠伸を噛み殺しながら続ける。
「この魔術が認識できるのは、せいぜい人が認識できる範囲だけだ」
「……ということは、やはり名乗りを変えれば、この魔術の対象から外れるのか……?」
「名に紐づいているものが、この言語魔術の支配下に置かれるのだろう。ただ、人名は魂に紐づいているから難しい。だけど——人がそれを国と認めなければ、人の魔術も国と認めない」
スルツェは気怠げにあくびをしながらソファに座り、顎を雪月の膝の上に乗せた。
「国でなければいい……各自治領と統一国の枠を置いてやれば、大多数の者は生かせるか? 雪月」
「ああ、それであっていると思う」
雪月は少し考えてから、ゆっくりと頷いた。
「ただし、人名が魂に紐づく以上、名前に国名が入っている者は、国の一部と見なされる。むしろ、国名を持つ者こそ『国が滅亡した』という形代に成りうるな」
「滅亡してしまったが、被害は最小で統一国家になる……それが最善か」
放浪者は手帳を睨んだ。
まだ問題はある。
だが、少なくとも道は見えた。
「じゃあ、更に大国の向こう側の国と友好関係を強化して、砂海と深森に挟撃されることを防ぐ。それから、統一式典で剣を掲げて交差させれば……こいつは、ただの友好式典の記載でしかなくなるのか」
雪月は軽く目を閉じ、ひとつ息を吐いた。
ようやく糸口が見えた。
「希望が生まれたようだね」
「中枢の者たちも、後世に欠かせないものは挿げ替える。信赦は大司教、煉峰は主席だけが国名を持つ。彼らに事情を説明し、どう対処するかは各国の判断に委ねるべきだろうな」
雪月は一瞬、言葉を探した。
だが、厳然たる事実は変わらない。
「……せめて、次代の者たちが生き延びられればな」
「そうだな。……氷香と篝海は王国だ。王族の名に国名が入る。王族は……難しいだろう……」
雪月は視線を落とし、拳を握った。
「放浪者、お前も……」
「ああ、分かっている」
放浪者は短く息をつく。
「レトロのあの取り乱し方を見ると、俺も逃れようがないんだろうな。……うちは、このあいだの騒動で俺と兄上以外いなくなってしまった。それが、不幸中の幸いかもしれない」
静寂が落ちる。
だが、それは束の間だった。
「我が家は……長い歴史が、仇になったな」
指で額を押さえながら、低く息を吐く。
「分家を増やして、どうにか生かせる者を増やすしかないか……だが……直系は、無理だな」
「……ルカ、ノート。ひとつ、提案がある」
「提案?」
「ああ。お前たちのおかげで鉱石炭を得られ、晴れて長になったからな」
「長になったのか。スルツェ、おめでとう。親父さんに認めてもらえてよかったな」
「おめでとう、スルツェ。悲願達成だな」
スルツェは喉の奥で小さく笑った。
その声には、どこか誇らしさと、ほんの少しの寂しさが混じっていた。
「ありがとう。火竜の長として、人と火竜が共生できるなら、俺の核——恒常の火を貸与しよう」
彼はわずかに間を置き、静かに言葉を継ぐ。
「恒常の火は俺が生きている限り、その身を守る。いかなる呪いも溶かし、燃やし尽くすだろう。ただし——効力は、ひとりだけだ」
沈黙が落ちた。
「なるほど……であれば、雪月がいいだろう」
「待て。火竜の契約は篝海だ。放浪者が適任じゃないか?」
「篝海の契約相手は国王たる兄上だ」
「ルバートも火竜たちのために工夫を凝らしている。彼でも構わない」
「だが、一番スルツェに貢献したのは放浪者だ」
「……スルツェが一番守りたいのは、雪月だろう?」
ノートの静かな声に、スルツェの尻尾がわずかに揺れた。
「……分かった。後回しにしよう」
話題を切り替えるように、ルカが低く息を吐く。
放浪者は静かな声でまとめた。
「結局やるべきことは六花を統一し、自治領制に移行すること。その上で、この言語魔術を回避し、大国と対等に渡り合うしかない」
「厳しい道のりだね。しかも、100年以内に全ての工程を終えなければいけない。その後の六花地方に、革命屋の入る余地も与えてはならない」
「……二国で統一を目指せば、周囲の反発が強すぎる」
雪月は天井を見上げ、微かに瞳を細めた。
「どちらかが統一の旗頭になり、どちらかが滅びの旗頭になるしかない」
静寂が広がる。
誰もが、その言葉の意味を噛み締めていた。
「……スルツェ。統一の旗頭に、恒常の火を授けてもらうのでもいいか?」
「お前たちがそう決めるなら、従おう」
スルツェはそう答えたが、その赤い瞳はどこか遠くを見つめていた。
「……雪月、俺は嫌だ。そもそも俺は王弟だ。国王じゃない。こんな重要なこと決められない」
「そうだな。では兄君をここに呼ぼうか?」
放浪者は一瞬だけ沈黙し、ぎゅっと拳を握った。
「…………いや、あの優しい兄上に、同盟を望んだあの人に、こんな判断はさせたくない」
唇を噛み、放浪者は低く呟く。
「俺は自分勝手な放浪者だ。だったら、ここで勝手に決めてしまって、それから王位を譲ってもらえないか説得してみる」
彼はふっと笑ったが、その目はどこか翳っていた。
「……兄上を失うのは嫌だなぁ……」
「私も家族を失うのは嫌だよ」
雪月の声は静かだったが、そこには深い悲しみが滲んでいた。
「もう二度と家族を失いたくないから、私は国王になったというのに」
「……魔術王でも嫌なのか」
「当たり前だろう」
雪月は淡々と答える。だが、指先が微かに震えていた。
「皆は私をそう呼ぶが、魔術が好きすぎる王様くらいの意味しかないものだぞ、それは」
「そんなものか?」
「そんなものだ……皆に、あまり辛い思いはさせたくないな」
放浪者は静かに目を伏せた。
「そうだな……俺たちはいちばん最後にしよう」
彼は小さく息を吐き、言葉を続ける。
「どうしたって、苦しい状況を避けようはないが……」
「……あの子たちに、手をかける?」
雪月の声が震えた。
「民たちに傅かれているのは、こうして責任を背負っているからだとは理解している。だが……王であることを投げ捨てたくなる。そんなことをすれば、氷香の民たちがみんな滅亡してしまうというのに」
彼は拳を握りしめた。
「……篝海から暗殺を仕掛けた方が、子どもたちの心には優しいか」
「…………すまない、助かる」
雪月の声はかすれていた。
だが、その瞳に浮かぶのは、安堵ではなく苦痛だった。
「妻と私は、話をして……自分たちで、どうにかしよう」
「問題はどちらがどちらを担うかだ」
「ここは老人が道を譲るべきだろう」
「いや、偉大な魔術王の道行きを若輩者が阻むわけにはいかない」
「だが、新時代は若者が切り拓くものだ」
「……キリがないな」
放浪者は苦笑し、駒を指す真似をした。
「雪月、賭けをしないか」
「ふむ、勝った方が大国をもてなす栄誉を得るというのはどうだ」
「ここまで欲しくない勝利ははじめてだな」
——そのときだった。
*
「ルカ、ノート」
静かな声が響く。
ふと見ると、いつの間にか結界が解かれていた。
全身半透明のレトロがふたりを見据えている。
「対価に記憶を賭けて。敗者は今夜を含めた、今までのふたりの夜の思い出を忘れるんだ」
指差されたコップには、結晶がひとつだけ。
「この結晶は、記憶を持った方が将来のために保管して」
レトロはそう言い、ふたりをじっと見つめる。
「僕はこの先を知っている。でも、今ここで僕にできることはもうない。これ以上、君たちを障りにさらしたくはないから——もう行くよ」
「……行ってしまうのか」
「ごめんね。でも、またきっと会える」
時の渡り人はふっと微笑み、そっと手を振った。
「僕が去ったら、すぐ障りを浄化してね。誰が何を忘れても、僕は覚えているよ」
――雪月と放浪者とスルツェが仲良しだったことを。
――君たちの疲れを癒す夜の息抜きがここにあったことを。
彼の姿は半透明から更に薄くなり、空気に溶けていった。
雪月は静かに目を伏せ、再び浄化の魔術を動かす。
「……そうか。記憶があると、なおさら抗いたくなるものだな」
「おそらく、奇襲という形でなければ成功しないのだろう。時間もない。……どうする、雪月」
雪月は深呼吸すると、いつもと同じ調子で火竜に声をかけた。
「……スルツェ、すまない。私の書斎から遊戯盤を持ってきてくれないか」
「ふむ……いいだろう」
小さな火竜は器用に扉を押し開け、軽やかに駆けて行った。
「放浪者……スルツェなんだが」
「ん?」
「竜にとって核を捧げるということは、とても重くて大切なことなんだ。……もし君が核を得て、スルツェが耐えられなくなりそうだったら……私達との思い出を忘れさせてやって欲しい」
「それは……スルツェにとって辛いことだろう」
「ああ……だが、あの子には幸せにいてほしいんだ」
放浪者はしばし黙した後、小さく息を吐いた。
「……………………どうしようもなくなったら、考える」
「悪いな」
遊戯盤と駒の入った籠をくわえて戻ってきたスルツェを、雪月は優しく撫でた。
「ありがとう。スルツェ、今夜の私の書斎であれば誰も来ないだろう。薪を焚べて暖炉に火を入れて、そこで待っていてくれないか」
「構わないが……最後まで付き合うぞ?」
「いいや、君の身体が冷え切っている。無理をしているだろう?君が辛いのは、見ていられない。それに、この魔術に巻き込まれた者は勝負をせねばならなくなる。……ちょっと役割を決めてくる。大丈夫、ふたりで戻ってくるよ」
「………………分かった」
スルツェはしばらく雪月を見つめた後、小さく鼻を鳴らした。
「……約束だ。ふたりで来いよ」
そう言って、人の姿に戻ると、雪月の書斎へと向かっていった。
「はあ、これを使う日は来ないと思っていたんだがなぁ」
雪月はため息をつきながら、手袋を付け替える。
遊戯盤の側面を弄って薄紙の切符を取り出した。
「これは遊戯盤に纏わりつく魔術をまとめて蓄積する魔術符だ」
「魔術の要素は除去してあるんじゃなかったのか?」
「ここは魔術結界の中だからね。魔術の濃度が他より濃い。いくら寄せ付けないようにしても、限界があるんだ。だから、この遊戯盤に纏わる魔術を吸収する術式を用意した」
「……それはなんだ」
「遊戯盤を作る際、助言をくれた者からの贈り物。呪いのお守りだ」
「呪いのお守り……って相反していないか?」
「持っていれば、虫除けの効果がある。だが、所持しているといつか使わざるを得なくなる時が来る。『人が持つには過ぎた物』だそうだ」
雪月はしばらく黙り込み、手にした切符を見つめていた。
「……それでも自分なら使わずにすむと思った。私は愚かだったようだ」
少しの間の後悔と冷や汗が、言葉の裏に隠れているようだった。
雪月は切符を手に取り、静かに切れ目に沿って千切った。
その瞬間、世界が裂けるように変わり、目の前の景色が一変した。
明るい夜空に、無数の星々がきらめいている。
床はまるで水鏡のように、星々を映して揺らいでいた。
遊戯盤が置かれた机は、およそ夜と呼ばれるすべての空を集め固め、鏡面になるまで磨きぬかれたもの。
置かれた二脚の椅子は、静寂の鋼材に知恵と挑戦を綿として冷静を布張りしたもの。
この空間の位階は人の領域を遥かに超えている。
そのため、本来ならば意識の外にあるはずの情報さえ、鮮明に浮かび上がる。
ここでは、人には余分な事柄も、利用者にとっては当然の知識でしかない。
空間の魔術濃度は人の限界よりずっと高く、持ちこたえるのも一苦労だ。
その圧力に耐えるため、雪月と放浪者はそれぞれ全力で防壁を築き、魔術の膜が傷つかぬよう必死に防いだ。
「ここは……?」
「天象儀だ」
雪月がゆっくりと答えた。
「世界から切り離された場所、人ならざる者たちの遊戯場だ。先ほどの切符に必要だった魔術の量は、普通の人間には到底貯めきれない。でも、私は一度だけ、誰かとここに来る権利を与えられた」
「人ならぬ者たちの遊戯場……」
「ここにいる間は時間が流れない。入った瞬間に戻るだけだ。そして、ここの勝負で決まったことは現実に反映される。世界の理の外にあるからこそ、例外を規定できる場所らしい」
「……革命屋が喜びそうな場所だな」
「だろうな。だが、私は来たくなかった」
「なんでだ?」
「ここで決めたことの『反動』は、すべて自分たちに跳ね返ってくるからだ。本来なら、人ならぬ者たちが支援してくれたり、影響を抑えたりしてくれる。だが、ここで起きたことの負担は、すべて自分たちで受け止めなければならない」
「……あの歴史書を無効化できない理由も、それか?」
「そうだ。この手帳には、遥か長い歴史が刻まれている。もし『間違いだった』と規定すれば、その歴史はすべて反転し、なかったことになるかもしれない」
「それは……いいことじゃないのか?」
「その結果、生まれたはずのものが、生まれなかったことになっても?」
雪月の声は冷静だったが、どこか鋭さを帯びていた。
「ここで決めたことは、人間の責任の範囲を容易に超えてしまう。この魔術圧を感じるだろう?だから、ここで扱えるのは、どちらに転んでも大差ない、小さなことだけなんだ」
「そうか。人には優しくないところなんだな。……で、条件は?」
「はは……あっさりしてるな。普通はもっと私に期待したり、利だけかすめ取ろうとするものだが」
「ここは人の手に余る場所だ。都合よく利用しようなんて考える方が間違ってる」
「そうだな。だが、ここに来る者はそう思わないらしい」
雪月は息をつき、改めて放浪者を見た。
「さて、まずは賭けるものを決めよう。勝者は火竜の火を借り、六花を統一する。敗者は今までの思い出を失い、滅びのための下準備をする」
「……忘れているのに、か?」
「それもそうだな。先に暗示をかけておこう」
雪月は放浪者と自分の額に指を当て、微かに魔術を流し込む。
「……そうだ。時代を乗り切るには、国の中枢をなるべく小さくしなければならない。種を蒔くのは嵐の後……」
その言葉が、深く沈み込むように頭へ染み渡る。
「……この暗示を解いてはいけない。最後の瞬間にこそ、考えるべきことだ」
雪月は指を離し、ゆっくりと目を開いた。
「よし、終わったぞ」
「さて。やり方はいつものでいいか? それとも攻防戦にするか?」
「これで君と遊ぶのも最後だ。時間を気にする必要はない。放浪者、攻防戦にしよう」
「……最後、か」
放浪者は一瞬目を伏せ、遊戯盤を見つめた。
「なあ、雪月。決着した瞬間に、記憶を失う可能性は?」
「……あるな。だからこそ、滅ぼす側へ攻め入る糸口も必要だ。内通者と、彼らへの手紙を用意しよう」
「負けたときの頼みごともまとめるか」
「ああ、その方がいい」
二人は便箋とペンを取り出し、立ったままテーブルで書き始めた。
放浪者は手紙にペンを走らせた。
まず、内通者には傭兵団を指定した。
ドゥール宛の依頼書に証として銀の笛を同封する。
岸壁城は要所として残さなければならないことを記した。
兄は一撃で終わらせてやってほしい、と頼んだ。
そして、最後にジェーン・メイへ追放を命じた。
雪月は考えながらゆっくり手紙にしたためた。
内通者には弟のアルペジオを指定する。
篝海と氷香の王族の血を引く彼なら、うまく繋ぎをとれるはずだ。
アルペジオ宛の手紙には、幼い頃に預かった刀傷の積み木を同封した。
それから雪月が死ぬと、水晶宮の球状結界が消える可能性を記した。
最後に妻と子どもたちには、できる限り苦しみの少ない最期を頼んだ。
「……名。そうだ、名前だ!」
雪月は顔を上げ、放浪者を見た。
「放浪者、名前を切り落として仮死状態にすれば、一度死んだものとして扱われる。そこから蘇生すれば、成就したことになるはずだ。全員は無理でも、何人かくらいなら助けられるかもしれない」
「……そんなことが本当にできるのか?」
「理論上は可能だ。禁忌に触れずに擬似的な死と、安全な蘇生の方法を研究したことがある。あの札を使えば、実現できるはずだ。複写すれば、二枚くらいは確保できる」
「なら、俺は兄上を助けたい」
雪月は指先で封筒の端をなぞる。
「……うちは末の娘だな。あの子はまだ恋も知らないんだ」
四通の手紙を封じ、ふたりは無言のまま息を吐いた。
「……少し、疲れたな」
「この空間の魔術圧は、人向けじゃないからね」
放浪者は肩を回し、腕を組む。
「魔術圧に耐えきれなくなって、死ぬなんて馬鹿げたことにならないように……そろそろ、やるか」
「……あぁ。やらなきゃいけないだろうね」
攻防戦では、駒を十種類の中から三種類選ぶ。
駒は最初、どれも同じ形をしているが、場面変化《顕現》が起きると、それぞれ本来の姿へと変化する。
駒には階級と相性があり、階級が高いほど有利に戦える相手は増えるが、その分、機動力が下がる。
一方で、階級が低い駒は相性の影響を強く受けるものの、動きは素早くなる。
「使うのは、いつもの遊戯盤だ」
「……随分と育ったな?」
盤面に映る光の粒を見つめながら、放浪者がつぶやいた。
「この子は作られてから、今日初めて魔術に触れたんだ。出来ること、成せること、なんでも試したい時期だろうね」
「……まさか、それを狙って魔術に触れさせなかったのか?」
「いや、私が欲しかったのは、正真正銘、いつもの遊戯盤だよ。だが、製作に協力してくれた人ならぬ者が、余計な気を利かせてくれたようだ」
「なるほどな……あいつらは、俺たちと見ている世界が違うからな」
放浪者は指で駒を一つ回しながら、目を細めた。
「……で、あんたは、あの形見を使うつもりか?」
「さて、それは秘密にしておこう」
「だろうな」
選んだ三種類の駒に加え、固定の二種類《愚者》と《末》をひとつずつ組み合わせ、八柱の駒を初期位置へと並べる。
「はじめるか」
「ああ、始めよう」
駒は、盤面に刻まれた印の上を動くことができる。
移動した先に駒があれば、それを取ることも可能だ。
端に整列した駒が対面の端まで到達すると、《顕現》が起こり、駒はその本来の姿へと変化する。
特に最初に顕現した駒は、盤面の状態を大きく左右する。
「……《奇跡》、か」
放浪者が、静かに駒を見つめる。
「ああ、《奇跡》だ」
雪月は淡々と答える。
「…………また難しい盤面にしてきたな」
かつり、こつり。
駒を置くたびに、指先から記憶がこぼれ落ちるように、過去の景色が蘇る。
「……まさか、殺しに来た相手とこうして遊戯盤を挟むことになるとはな」
「いや、あの時は君の負けっぷりが見事だった」
「……その次で勝てるとは思わなかったけどな」
「あの時は、駒遊びしに来てくれた君が嬉しくて、つい浮かれてしまったよ」
「……あんた、わざと負けただろ?」
「まさか。ただ、油断しすぎたのは認めよう」
雪月が指を伸ばし、駒を端に進める。
「――さあ、《末》の顕現だ」
きぃん――。
盤面が淡く輝き、駒が変化する。
王冠と剣を携えた、真なる駒の姿へと。
「……これは《終焉》の揃え、だったか」
放浪者が、遊戯盤の上を見つめながら呟く。
「棋譜をよく読んでいたなら、知っているはずだ」
「ほとんどの駒じゃ太刀打ちできない。いやらしい手を出してきたな」
「伊達に数百年、王様をやっているわけじゃないからね」
「王位は関係ないだろ?……ともかく、形見の駒はもらった」
「だが……ほら、そっちももう最後の一駒じゃないか。この駒を取られたら終わりだ」
雪月が駒を指差し、微笑しかけてかたまった。
「……………………ん?違うのか?」
「そうだな。そこから退いてほしかったんだ」
放浪者が駒を動かす。
――しゃりん。
澄んだ音とともに、駒が変化する。
――王冠を戴く、蓮華の杖。
「………………《愚者》の顕現。《万象》の揃え、か」
雪月の表情が、かすかに揺らぐ。
「この駒が最後に残り、《顕現》した時――自陣の駒すべてが真なる駒の状態で復活する。ただし、この駒自体には何の力もなく、顕現した瞬間に盤上から退場する。……で、合ってるよな?」
「ああ。……やられた」
「《奇跡》に《絶望》、そして《因果》、だ」
盤面を見下ろしながら、放浪者が静かに言う。
「……いい揃えだ。それなら、《因果》は成功になる」
雪月は長く息を吐いた。
「はぁ……負けたな」
「《選択》に《魔術》、そして《奇跡》……その揃えをあんたが使うのかよ。なら、これくらいしか勝ち筋はなかったな」
「いや、他の棋譜でも何とかできただろう?」
「その棋譜を実現できるのは、あんただけだよ」
不意に、机の上の手紙が砂のように崩れた。
さらさらと風に舞い、跡形もなく消えていく。
「……さて。履行がはじまったようだ」
雪月が息を詰める。
「あたりが霧がかって見える」
「待て、もうか?!」
「まずい……眠らせるつもりらしい。記憶を消すために」
雪月の声がわずかに震えた。
「手紙には書かなかったが……書斎の引き出し、中段左奥に《除名の呪符》がある。蘇生は一枚きりだ。下段右の引き出しの裏に貼ってある。……足りない分は、自分でどうにかしてくれ」
雪月は放浪者に向き直り、微かに微笑む。
「放浪者。きみと忖度なく過ごした夜は、私にとってかけがえのない日々だったよ」
霧が濃くなる。
「……すまない。あとを頼む」
雪月が目を閉じる。
――かしゃん。
硬質な音が響き、空間がねじれた。
気づけば、そこは元の耐圧室だった。




