傭兵契約とやり直しの結晶
雪月は歴史書を載せた盆を抱え、歩きながら火竜に手短に状況を説明した。
その後ろでは、放浪者が呆然とするレトロの手を引いて、隣室へと移動する。
「……あの部屋をそのままにするわけにはいかない。少し待っていてくれ」
雪月はそう言い残し、巡回中だった当直の警備兵たちを引き連れて書斎へと戻った。
だが、書斎には異変が起きていた。
捕縛したはずの侵入者の死体が、跡形もなく消えていたのだ。
「……消えたか」
彼が静かに状況を確認していると、警備兵のひとりがため息混じりに言った。
「ルカ様、また魔術実験で失敗したんですか?」
「お怪我はありませんね? 部屋がこんなになるなんて、一体何をしたんですか」
別の警備兵が呆れたように付け足す。
「申し訳ありませんが、報告書に記載させていただきます。明日、宰相様と奥様からお話がいくと思いますので、お心づもりください」
「ふむ。では皆に今宵は王命で入室禁止と伝えてくれるか」
「はいはい、王命ね。伝えておきますよ、お爺さん」
「っ?!」
雪月は思わず目を瞬かせた。
そんなふうに呼ばれたことなど、今まで一度もなかったはずだ。
彼らはすっかり慣れた様子で、今回の魔術の暴発も 『また雪月様の実験の失敗か』 と決めつけているらしい。
雪月は無言で盆を持ち直しながら、彼らを見つめた。
警備兵たちは『まあ、気の毒にな』とでも言いたげな雰囲気を残しながら、巡回へ戻っていった。
だが、雪月の手のひらには、先ほどよりもわずかに力がこもっていた。
雪月は この国で最も長く生き、氷香を治めてきた王 だ。
すべてを知っているわけではないが、自分がどう認識されているかは常に観察してきた。 求心力の維持こそが統治の要 であり、そこを見誤れば、一瞬で権威を失う。
だからこそ、 今の違和感 が引っかかった。
念のため、宰相や騎士団長に伝令を飛ばす。
返事はない。
ならばと、他の要職にも順番に送った。
送ったのは 王の意匠をつけた正式な緊急伝令書 。
これを受け取れば、即座に玉座に召集される義務が発生する。
召集に応じない場合、それは国防の拒否とみなされ、厳罰の対象となる。
だが――
戻ってきたのは、まるでそんな義務など存在しなかったかのような反応ばかりだった。
ひとつも、まともな応答がない。
王命を無視するなど、ありえない。
(……何かがおかしい)
まるで 雪月が幼児か、記憶の定かでない老人であるかのように 扱われている。
――これは何らかの干渉を受けている。
記録にはなかったが、言語魔術の影響か……?
この国の中枢が、既に何らかの 魔術の影響を受けている可能性 を考え、雪月は外部への伝達を諦めた。
今日が終わるまで、あと二刻。
この夜が無事に終わればいいが——
ふと、雪月の周囲に見慣れぬ魔術の欠片が漂いはじめた。
嫌な気配だ。
…… このままでは、まずい。
本来なら、雪月も放浪者も あの書斎で死んでいたはずだった。
だが、何かが狂った。
術者の意図から外れた魔術は、失われたはずの未来を取り戻そうと軋みはじめた。
まるで、運命そのものが「誤りを修正しよう」としているかのように。
日付が変わるまでに、魔術が履行されなければどうなるのか。
…… わからない。
言語魔術は目撃例の少ない系統だ。
記録にも、対策にも、前例がない。
雪月は、辺りに漂う魔術の欠片を 睨みつける。
それはじわりと形を変えながら、意図をもって迫ってくるようにさえ見えた。
彼は一つ息を吐くと、皆のもとへと足を向けた。
*
「雪月、俺たちは兵達に証言しなくて大丈夫か?」
「君達は私が内密に呼び込んだ客人だ。本来なら国賓待遇になるから問題ない——はずだった。だが、今は異常だ。まるで私が耄碌して、引退した老人のような扱いだった。警備に通達していない君達は、不審者扱いされる可能性が高い。顔を出さなくて正解だよ」
「……引退してたのか?」
「まさか。後継者もいないのに、そんな暇はないさ」
雪月は苦笑し、しかしすぐに真剣な顔に戻る。
「多分、例の言語魔術のせいだろう」
「あの手帳には、それらしき記述はなかったぞ?」
「先ほど、宰相や騎士団長に手当たり次第、緊急連絡を送った。だが——」
雪月は苦い顔をする。
「まるで幽霊に話しかけているように、誰も応じなかった」
「そんなこと、今まであったか?」
「一度もない。こんなことは、はじめてだよ」
スルツェが腕を組み、低く言った。
「魔術の核が、この手帳ではなく、筆記具のほうにある可能性は?」
「筆記具?」
「確認してみたが、俺の魔術じゃ止められない。因果以外とは完全に断絶されていて、干渉の余地がない」
「なるほど……スルツェ、ありがとう」
雪月はふっと息を吐いたが、その目がすぐに鋭くなる。
「先ほど、書斎から革命屋の死体が消えていた」
放浪者が息をのんだ。
「……ってことは?」
「……核を持ち去られたか」
雪月は低く呟く。
「最悪だな」
耐圧室は窓のない小さな部屋だった。
四人も入れば、もう空間に余裕はない。
特にスルツェの人型は体格ががっしりしていて、ただでさえ狭い部屋をさらに圧迫している。
煮詰めたマーマレード色の髪に燠火の目がぱちぱちと燃えていて、暑苦しさまで倍増だ。
「なあ……狭くないか」
「ここは有事のために、高い魔術圧でも耐えうる強度にしている。今の技術では、この広さが限界なんだ」
「そんなに狭いなら、子竜になればいいんじゃないか?」
「何故ノートのいうことを聞かなきゃいけない」
「いや、狭いっていうからさ。小さくなれば広いだろ?」
スルツェがむっとした顔をしていると、雪月が穏やかな声で言った。
「……スルツェ、小さくなるならこちらに来るといい。この窪みは君にぴったりだよ、きっと」
「わかった」
「なぁ……対応に差がありすぎないか?」
備え付けのソファに腰掛け、四人と一匹でレトロの腕輪を確認する。
それは金の板を伸ばして輪の形にしたような、素朴な装飾だった。
だが、魔術の純度と密度は恐ろしいほど高い。
「従属の腕輪か……」
ノートが忌々しげに呟く。
「誰かを強制的に従わせる魔術なんて、見ているだけでも気分が悪い。……やっぱり、俺には不要だな」
「ミィッ?!」
レトロが小さく鳴き、身を縮める。
「ノート、助けを求めているものを保護するのは、強者の役目だぞ」
「奴が言語魔術で因果を縛るのであれば、君が彼を保護している状態が好ましい。あの革命屋はいつ手を出してくるか分からないからね」
雪月が静かに言うと、レトロがぎゅっと腕輪を押さえながら、低く呟いた。
「……ファラファスに捕まるより、あなたの方がいい」
放浪者は顔を顰め、レトロを見据えた。
「俺も、従属の魔術にかけられたことがある。だからこそ、そんなものを好むわけがない」
一拍置き、息をつく。
「もちろん、お前が好き好んでこの状態じゃないのは理解している。でもな、今日初めて会った奴を、無条件で助けるほど俺はお人好しじゃない」
「それはそうだろう。なら最初から手を出すべきではなかった」
「スルツェ、それは私にも責任があるんだ」
「そうか。ならば仕方ないな」
「だから対応に差があるだろう。もう少し、俺の話を聞いてくれ」
ノートは溜め息をつき、レトロの腕輪に目をやる。
「あのな、従属の腕輪で俺に所有されるお前はいらない。だが傭兵なら話は別だ」
レトロが小さく瞬きをする。
「たとえ脛に傷があろうとも、こちらの命令と規則に従い、有能さを示すものは誰であれ傭兵として雇用を検討する。俺は昔そう誓った。お前にその資格があるかは、これからの働き次第だ」
「……!」
レトロの顔に、少し驚きの色が浮かぶ。
「雇用面接が必要か? お前はどうしたいんだ」
放浪者の問いかけに、おどおどしながらも、レトロははっきりと答えた。
「僕はレトロ。時の渡り人って言われてる。僕も従属魔術が嫌いだ。できるのは古い魔術を扱うこと、過去に行って何かするくらいだ。いろんな制約があるから、できないことも多い。それで良ければ傭兵になりたい」
「過去に行けるなら、その腕輪をはめられる前に行けばいいじゃないか」
「僕は僕が存在してる瞬間には行けない」
「……制約か」
雪月が低く呟く。
「じゃあ、いつ嵌められたんだ?」
放浪者の言葉にレトロは、真っ直ぐ答えた。
「未来だよ」
「未来?」
放浪者は眉を寄せ、スルツェが火の灯った瞳を細める。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ」
レトロは肩をすくめた。
「僕は今から数百年先の未来のこの世界に来て、ことあるごとに過去へと戻って、今から数十年後のファラファスに捕まった。知らない人から出会いがしら腕輪を嵌められるなんて思いもしなかったんだ」
沈黙が落ちる。
未来から来た、という言葉の重みが、その場にいる全員を黙らせた。
「ふうん。あのファラファスって奴の目的は何か知っているか?」
「滅びるのを真横で鑑賞するのが趣味らしい」
レトロは肩をすくめる。
「自国の滅亡を見て以来、滅亡の歴史を書くのが生きがいだって言っていたよ。未来で捕まったとき、奴はそう言った」
「悪趣味だな」
「すぐに慌てて逃げた先が、さっきの部屋だったんだ。……他に知ってることは、あいつがいるとこの腕輪で操られてしまう、ってことくらい」
レトロは腕輪を見下ろし、息をつく。
「……あいつの言っていたこと、僕には全然意味が分からなかった」
「分からなくていいさ」
「そうだな。そんな趣味の奴だったら、さすがに採用は見送るところだったな」
ノートが軽く肩をすくめる。
「で、次は何をしてくると思う?」
「……分からない」
「未来から来たなら、何が起きるか知っているんじゃないのか?」
「知ってることもあるけど、それが本当にそうなるかは別だよ」
「どういうことだ?」
「僕がこの世界に来たとき、その未来の条件がそろわなかったら……どうやら僕は消えるらしい」
レトロは静かに手を上げ、小指の先を見せる。
その先端が、薄く透けていた。
「なんだ、それ」
「……消えたらどうなる?」
「多分、僕のいない世界になるんじゃないかな。どんな世界かは知らないけど」
「君は?」
「さあ?」
考え込んでいた雪月が、時の渡り人に尋ねた。
「………………君は結晶を持っているね」
「結晶?」
「ああ。それで何が起きるか知っているか」
時の渡り人は躊躇した。
*
時の渡り人は口を閉ざして話さなかった。
雪月と放浪者はその後、調停を呼び出して歴史書の文章を消した。
調停は力を使い果たして眠りに落ちる。
その後、潜伏していたファラファスが新たな歴史書を使い、再び台頭した。
緩和された歴史を踏襲するような事件が相次いで発生し、やがて六花大戦が勃発。
六花地方全土が焦土と化す。
レトロはその後結晶を割り、砕けた断片を握りしめた。
*
時の渡り人はしばらくしてから、ようやく話を始めた。
だが雪月以外の者は、あまりにも現実離れした話に驚き、信じることができなかった。
雪月と放浪者は再び調停を呼び出し、歴史書の内容を削除した。
その後、力を使い果たした調停は再び眠りにつく。
その後、潜伏していたファラファスは新たな歴史書を手に台頭し、歴史を踏襲するような事件が連続して発生。
やがて六花大戦が起き、その戦乱の最中に■■■が砂海帝国に捕まり、自白魔術にかけられる。
やり直しの結晶の噂が広まり、時の渡り人を従属させようとする者たちが続出。
その後篝海が滅び、放浪者が死に、ファラファスに追い込まれたレトロは結晶を再び割り折った。
*
「……っ……話しても大丈夫かな……。漏れたり悪用されたら困るんだけど」
「それはそうだ。今日ここで見聞きしたことを口外禁止とする魔術契約をしよう。ただし、既に知っているものには適用外とする。レトロ、君にもこの場で真実のみを語る宣誓をしてほしい。口外禁止は全員分でいいかね?」
「わかったよ」
「もちろんだ」
「ミッ!」
「頼む……って、レント、お前に誓約って必要か……?」
「ミィッ?……ミッ!」
雪月は懐から紙とペンを取り出し、魔術をインクに変えると、定型の誓約文言をスラスラと書き出す。
「よし、じゃあ皆ここに魔術刻印してくれ。……さあレトロ、これで大丈夫だ。この部屋に入ってきてからのことは、漏洩されることはないだろう。そのかわり、君も事実のみを語ること」
レトロは一瞬目をそらし、そしてゆっくりと頷いた。
「わかったよ。結晶の話だったね。あれは、時のやり直しができるらしい」
「やり直し?」
「うん、そう言われてる。でも、やり直した記憶がないから、本当かどうかはわからないんだ」
「記憶がないのに、どうしてやり直したってわかるんだ?」
レトロはしばらく沈黙した後、まるで自分に問いかけるように言った。
「以前、人ならぬものから指摘されたことがある。それに、結晶は最初、鞄にもっとたくさん入っていたんだ。それが今は……2/3くらいしか残ってない。気づいたら、どんどんなくなってるんだ」
雪月は少し考え込み、続けて尋ねた。
「それが事実だと?」
「うーん……わからない。でも、何かが起こったとき、どうしようもなくなったら結晶を折らなきゃいけないって教えてもらった。でも記憶はないんだ。なのに、この手で結晶を折った感覚だけは、なぜか覚えているよ」
「折った結晶はどうなる?」
「さあ……考えたこともなかったよ。きっと、なくなるんじゃないかな」
*
四人は話し合い、調停に氷香の一文を削ってもらい、歴史書を燃やして捨てた。力を消費してしまった調停はそのまま眠りにつく。
その後篝海国が滅びる。
そして潜伏していたファラファスが新しい歴史書を作り、氷香国は大国同士の戦場に変わった。
六花は滅び、レトロは結晶を割り折った。
*
「おそらく、君はそうして何度もやり直しをしてきたんだろうね。少なくとも、私が知っているだけで5回はさっきの部屋で使っている」
雪月のその言葉に、レトロは静かに頷いた。
「それが君の戦いだとして、どうして続ける?」
レトロはしばらく沈黙した後、静かに息をついた。
「……最後まで、諦めたくないから」
「であれば、この言語魔術を無効にするのに、いくつか貰い受けて試してみることはできるか?」
雪月の言葉に、レトロは一瞬目を伏せた。
「……この結晶はね」
レトロは、手の中の結晶をそっと撫でるようにして言葉を続けた。
「もう先がないからって、僕を兄と呼んでくれた子が託してくれたものなんだ。だからきっと、この先、僕の目的を果たすために必要なものなんだと思う」
雪月は少し考え込み、頷いた。
「なるほど」
「それに、あまりいいものではないんじゃないかな」
「いいものじゃない?」
レトロは雪月の顔を見つめた後、ゆっくりと言葉を選んだ。
「時の障りへ触れることになるんだと思う。僕が大丈夫なのはね、逆巻きの時の怪物でもあるかららしい」
「……逆巻きの時の怪物?」
レトロは自嘲気味に微笑んだ。
「今は緩和策や身の内の魔術を抑えてるから、なんとか境界を越えてる。でも、本当は、扉一枚すら越えられない怪物なんだ」
雪月は眉をひそめる。
「つまり、どういうことだ?」
「本来なら僕に関わることで、人には見えない時の障りに触れることになる。一度や二度なら問題ないけど……蓄積しすぎると、正常な魔術が効かなくなる。障りが除去しきれなくなるんだ」
レトロは小さく息をつき、目を伏せた。
「……だから、関わるのはやめた方がいいよ」
雪月はレトロの言葉を受け止めるように、しばらく沈黙した。
そして、静かに言葉を紡ぐ。
「ふむ。時の渡り人と逆巻きの時の怪物が同一とは知らなかった。ならば、私たちはその結晶に触れない方がいいね」
すると、レトロが少し苦笑しながら言った。
「そういう問題? 雇うには、背負うものが大きすぎるんじゃない?」
「ん? 何か問題があるか、放浪者?」
「いや、雇用前に申告したんだ。そこまで想定して雇用すればいいだろう」
放浪者は肩をすくめつつ、雪月に視線を向けた。
「雪月、雇用契約や従属で怪物になることを禁じるか、契約の範囲外にすることは可能か?」
雪月は少し考え、顎に手を当てる。
「条件付け次第だろうね。レトロは緩和策をすでに持っているんだろう? ならば、それを基準に契約条件を考えればいい。放浪者、君の兄上に相談するといい。彼なら伝承に詳しいはずだ」
「兄上が……?」
放浪者は思わず聞き返す。
雪月は意外そうに眉を上げた。
「伝承研究の最先端をいく人じゃないか。……まさか、知らなかったのか?」
「……あ、ああ」
言われてみれば、兄は民話や古い言い伝えをよく口にしていた。
だが、それが『研究の最先端』だとは考えたこともなかった。
雪月は小さく笑う。
「なかなか興味深い人だね、君の兄上は。また会う機会があれば、ぜひじっくり話をしてみたいものだ。伝承の収集者自体は昔からいたが……彼ほど積極的に民話や伝承を集めた者はいない。あの立場にいながら、だよ?」
放浪者はしばし黙った。
兄のことをそんなふうに評価する者は初めてだった。
「彼のもとへ行けば、人ならぬものとの契約や約束の前例がたくさんあるはずだ。互いにとって不利益にならない形を、慎重に選ぶといい」
「……そうだな。わかった、ありがとう」
放浪者は短く礼を言いながら、頭の中で兄の言葉を思い返していた。
「さて、時の渡り人。少し相談がある」
雪月が腕を組みながら、静かに言った。
「私たちも、この地方の命運を背負っているとなると、正直、荷が重い。君の存続にも関わることだし……万が一、私たちが失敗した時は、少しだけでいい。結晶を使ってもらうことは可能だろうか?」
*
レトロは冬の真夜中のような色の肩掛け鞄をぎゅっと掴み、少しの間考え込む。
そして、決意を固めたように頷いた。
「……20回くらいなら、なんとかなると思う」
雪月はその言葉を受けて、軽く口角を上げる。
「よし、決まりだな」
彼は放浪者へと視線を向けた。
「放浪者、彼は私たちにはできないことを成せる力を持っているようだ」
放浪者は腕を組み、しばらく沈黙した後、静かに頷く。
「……いいだろう。レトロ、まずは三ヶ月の有期雇用から始める。もし互いに合わなければ、その時点で手を引く。その際は、従属の腕輪をこちらに返してもらう。ただし、お前が害をなさない限り、俺はその腕輪を使うつもりはない。たとえそれが、お前にとって不利になるとしても、だ。それでいいか?」
レトロは少し目を見開き、それから微笑んだ。
「……ありがとう。暴走なんかしたくない。だから、それを止められる人がいるだけで、すごく心強いよ」
*
「早速で悪いが、先ほどの約束を守るために――仮でここに結晶を入れておいてもらえないだろうか?」
雪月は給水用のガラスのコップを座席下の収納から取り出した。
レトロは鞄から結晶を10個取り出し、静かにそれをコップの中へと落とす。
「これでいいかな?」
「ありがとう。じゃあ、ここから先――もし何か問題が起きて時を戻す時は、この中から使ってくれ。それで無くなった分だけ、我々は失敗したことになる」
*
レトロがコップを見つめ、眉をひそめる。
「……残念だけど、もう何回か使ったみたいだね」
「どういうことだ?」
「既視感がある。つまり、結晶を使って『使用回数を決める場面に戻った』ことがあるんだと思う。見た目は変わっていないけど、多分もう減ってる」
放浪者が静かにコップの中を覗き込んだ。
「8回以上あった、ということか」
レトロは肩をすくめる。
「正確な回数はわからないけど、そんな感じ」
雪月が考え込むように腕を組む。
「念のため、ここで簡易除染をしておこう。時の障りの蓄積は、本人には見えない。浄化をしたところで、すべてが消えるわけじゃない。たとえば、100あったものが0になるのではなく、90が5になるくらいの違いしかない。……慎重に対応しよう」
*
雪月はコップを指で軽く撫で、低く呟く。
「……5回あれば、なんとかなるか?」
「レトロ、他に気になることは?」
放浪者の言葉にレトロは考え込み、ゆっくりと答えた。
「……一文を消しても、結局、似たような結末になるみたいだ」
*
「なるほど、4回しかないなら慎重にならないとな……ん?まだ何か言いたそうだな?」
レトロは眉を寄せ、少し息を詰まらせたように言った。
「戦を仕掛けても、意味がない。外交で打開するのも難しい」
「……どういうことだ?」
「これからも革命屋が歴史書を書き続けていると考えた方がいい。しかも、さっき身体を乗り換えたばかり。今が唯一の隙だ。歴史書に手を入れるなら、この瞬間しかない」
雪月は腕を組み、静かに呟く。
「体を乗り換えた直後……つまり、まだ馴染んでいない?」
「そう。それに、あとから調停で書き加えた内容はすぐに見つかって上書きされる。だから、行動する前に戦略を固めないと詰む」
放浪者が息を吐く。
「……つまり、何かをするなら今しかない、か」
「それだけじゃない。結晶を使ったせいで、この場に時の障りの残滓が滲んでる。ここにいる誰よりも魔術そのものに近い彼女には、長くいられる場所じゃない。短時間で助力を得られなければ……」
「――詰みだ、ってことか」
その瞬間、火竜のスルツェが小さく呻いた。
「……ミ」
「レント?」
放浪者は懐の中の小動物を見下ろし、優しく声をかける。
「苦しいなら、無理するな。懐に入ってろ」
雪月も目を細める。
「スルツェ、私のガウンの内側に来るといい。それから、皆――少し強めに浄化する。目を閉じてくれ」
空気が一瞬、静まり返る。
雪月の指先が微かに光を帯び、周囲にかすかな波紋が広がった。
「……よし、終わったぞ」
その場に残ったのは、静かな安堵と、じわじわと迫る緊張だけだった。
「……使用制限、僕、何回って言ったっけ?」
*
「3回だ」
レトロは震える手で肩掛け鞄を抱え込んだ。
「……駄目だ、全然うまくいかない。もう何度も繰り返してる気がするのに、どうしても抜け出せない。既視感と予感だらけだ。でも記憶がないから、なんでなのかは全然分からない!分からないんだよ!」
「レトロ……」
「この歴史書に手を加えたところで、一国の運命を変えるくらいしかできない。でも、一国を変えたって無意味だ。砂と森に呑まれてしまう。歴史書で両国の歴史を消すのも、書き換えるのも駄目……もう、根本的にやり方を変えないと」
雪月が低く息を吐く。
「……正念場だな」
「なあ」
放浪者は躊躇いながら言葉を探した。
「この書で成立している因果を、無理に動かそうとするから駄目なんじゃないか?」
「ん?」
「もし因果が一対一でしか成り立たないなら、今書かれている出来事を別の形で実現させれば、歪みは起きないはずだ。そうすれば、これ以上悪くなることもないし、革命屋の油断も誘えるかもしれない」
雪月がゆっくりと頷く。
「なるほどな……なら、時間を稼ぐのはどうだ?」
「時間を?」
「日付を変える」
その言葉が落ちると、場の空気がわずかに揺らいだ。
「滅びや死は、望まぬものだが、いずれ訪れる」
雪月は静かに言った。
「レトロ、お前はどう思う?」
レトロは、歴史書を睨むように見つめながら答えた。
「……正直、よくわからない。うまくいくといいとは思う。でも……予感も、既視感も、何もない」
「なら、一度この方向で進めてみよう」
「そうだな。さて、もう一度記述を確認しよう」
雪月は手袋越しに歴史書を開く。
薄い紙の上に、運命を決定づける記述が並んでいた。
『ルカ・ルーカヴァルト・ノクト・バシット・イレクスが死に、氷香王国は滅びを迎える』
『ルバート・ヴァナスリアが死に、篝海王国は滅びを迎える』
『ナ・ローナ・ユグ・ラ・ト・スペンサー・スペスペティ大司教が死に、信赦教主国は滅びを迎える』
『ランドバルド・バーナード・オーロル大公が死に、煉峰国は滅びを迎える』
『深森皇国のロード・ラスグラニカと砂海帝国ミュルン・サーラーンが六国の滅びた六花地方で邂逅し、剣を交える』
「現実を変えるのは難しいし、歴史書の記述を改変しても、すべてを変えることはできない……だったか」
「革命屋がまだ生きていて、別の方法でこの魔術を発動している可能性もある」
放浪者は考え込みながら言う。
「表記を変えないにしても、雪月。日付はどこまで変えられると思う?」
「それは調停に確認しよう」
雪月は一息つきながら、歴史書を指でなぞった。
「おそらく、深森と砂海を六花に呼び込むのが狙いなのだろう。だが……この記述なら、戦場にも、式典の儀式にもなり得る」
雪月は視線を上げ、歴史書を閉じた。
「これは、最後まで変えない方がいいな」
「よし、呼ぶぞ」
*
召喚された調停は、時の障りの濃さに呑まれ、狂った。
六花全土を滅ぼしながら、なおも止まらない。
時の管理者たちは全力で鎮めようとしたが、障りの深さは計り知れず――結局、調停を裁ち落とすしかなかった。
調停を司る者が新たに生まれるまで、「歩み寄り」は無意味になった。
世界は殺伐とし、争いが絶えなくなった。
世界の管理者は辺りを見渡し、ため息をつく。
足元に転がる結晶を拾い上げ、しばし指の間で弄ぶと、ゆっくりと力を込めた。
砕けた結晶が、わずかな光を放ちながら崩れ落ちる。
*
「よし、呼ぶぞ」
レトロは息をのんだ。
――コップの中の結晶が、減っていた。
「あと2回だ」
「……ふむ?」
「ぐっ……!」
低いうめき声とともに、小竜姿のスルツェが小刻みに震えている。
「ぐぅ……障りがきつい……。小僧、どういうことだ……!」
レトロは眉を顰めて叫んだ。
「だから、何度も言ってるけど、覚えてないんだ! 」
「スルツェ、落ち着け」
火竜は歯を食いしばり、深く息を吐いた。
「障りがきつい。今やろうとしていたのは調停を呼ぶことだったな?」
「そうだ。だが、この状態で本当に調停を呼ぶべきなのか?」
「それ以外は無理だろう」
雪月は低く言った。
「障りが濃いと、縁のないものは近寄ることすらできない。まずは再度、浄化をかけよう。目を閉じて……――――――よし、終わった」
「耐圧室は密閉空間だ。障りがこもっているのかもしれないな」
雪月は眉を寄せる。
「放浪者、調停と遠話魔術はできるか?」
「ああ、それくらいの縁の強さと深度は確保している。契約を糸にして、会話は可能だ」
「なら、歴史書の相談と訂正のための調停のペンを頼んでくれないか」
「わかった」
放浪者は短く息を吐くと、周囲を見回した。
「集中が必要だから、少し籠る。待ってくれ」
そう言うや否や、放浪者の手から魔術が流れ出す。
帯状の光が半円を描き、静かに彼の周囲を囲った。
「ルカ」
「どうした、レトロ?」
「……ちょっと荷物を確認したいんだけど、見られたくない。僕も少しの間、結界に入っても大丈夫かな」
「ああ、スルツェと一緒に結晶が減っていないか見ていよう」
「ありがとう」
時の渡り人はそう言うと、鞄から小さな傘のようなものを取り出し、頭上にかざす。
魔術が静かに流れ、半透明の半円が周囲に広がった。
「……スルツェ、大丈夫か?」
「ああ、洗浄魔術のおかげで呼吸が楽になった。だが、まだ少し足に違和感が残るな」
「そうか。何か欲しいものはないか?」
スルツェは少し考え、ゆっくりと口を開く。
「そうだな……深海に花はあまりないんだ。花をひとつくれないか?」
「……これでいいか?」
ルカは短く言いながら、小さな白い花を指先で摘み上げる。
「白いな」
「雪割花という。この辺りでは春を呼ぶ花だ」
「春を……」
スルツェは花をじっと見つめた。
前足でそっと撫でるように触れ、息をつく。
「……花をよく使うと言ったな。戦術で?」
「ああ。置換の魔術の媒介には生物が好ましい。それなら花が最も扱いやすい」
「なるほど……それで、どんな風に?」
「例えば――」
「待たせた」
不意に結界が解かれ、放浪者が姿を現す。
白い羽根ペンをローテーブルに置き、軽く肩を回した。
「調停の羽根ペンを借り受けてきた」




