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水晶宮の遊戯盤と季節の紅茶



 白銀の髪を攫う風が、首筋を撫でた。

 冬の名残が、喉を細く裂いていく。

 それは、誰かが外から持ち込んだ、『自由』の匂いだった。

 あるいは――それに似た何か。


 静けさは、長くは続かない。


 風が一閃。

 頬をかすめた刹那、意識より先に竜の顎の紋が閃く。


 無音魔術展開。

 空気がよじれ、音もなく仮想の魔術の竜が喰らう。


 捕縛成功。強度、速度、抑制――すべて及第。

 雪月は目を細め、視線を窓辺に遣る。


 満月が、窓辺を白く染めていた。

 その光に透ける氷色のカーテンが、淡く揺れていた。

 壁も、床も、異常なし。


 小さく、息をつく。

 


 ここは氷香王国の王宮――水晶宮。禁忌の森のすぐそば。

 害意を拒む球状の結界。

 護られたこの宮で、雪月の書斎は、さらに特別だ。


 幾度も魔術が暴発し、その余波が内装に残る。


 深いビリジアンのベルベット壁紙。

 寄木細工の古木床。

 どちらも魔術を吸収し、硬化し、ときに結晶する。


 ――妻と子どもたちが気を利かせて、こうしたのだ。


 また床が硬化していれば、きっと叱られていた。

 今回は、どうやら無事らしい。

 



 捕らえた男を見下ろす。

 陽に焼かれた刃のように、鋭い眼を持つ若者。

 雪月より、さらに一段と背が高い。


 視線が交錯した。

 その一瞬、男の瞳がごくわずかに揺らいだ。

 雪月は反応せず、しかしその気配さえ、逃さずに取り込む。

 ──盤上の手筋を読む時のように。

 

 半月刀、砂海の装い。

 だがターバンの下からのぞくのは、濃く短い金髪と明るい碧眼。

 この色彩は、砂海の地では珍しい。

 魔術で形作られたような精緻な顔は、人の意をよく引くだろう。

  

 ……砂海の暗殺者?

 いや、それほど安い仮装ではない。

 では──何者だ。

 

 人ならぬもの?……いや。

 水晶宮に時折現れる彼らはこんな偽装をしない。

 相反する所属を持つ姿は、人の群れに馴染めない。


 ということは、人間。

 金髪碧眼……篝海(かがりみ)王国に多いが、あの色は貴族でも稀だ。

 王族――あるいは、それに近しい血統の純粋さ。

 

 短く整えられた、麗しの蜂蜜色の髪に──鋭い南洋の瞳。

 確か……オーロル山脈の調印式。

 そうだ、思い出した。

 若く、慎重な『傭兵王子』──確かに、いた。

 

 だがそれだけでは片付けられない。

 なぜ他国と戦争中の隣国の指揮官が、こんな遠くの氷香王国に?

 

 もうひとつ、疑問が残る。

 うちの諜報員に誤りなどあり得ない。

 

 何かある。

 ――さて、どうする?


 捕縛は完了している。男の身も、逃げ道も。

 意志ひとつで噛み砕き、呑み込む──竜の顎だ。

 処分も術者の意志で決まるが、今はまだ決断を下せない。


 盤が目に入る。

 これは、待ち続けた対局だ。

 駒は揃った。初手は、こちらがいただこう。


 

 

「賭けをしよう。

 この遊戯盤で君が勝てば──首をくれてやる。

 だが、私が勝ったら……来た理由を、語ってもらおうか」


 白銀の長髪をかき上げながら、雪月は静かに笑った。

 生白い首に、夜燈の影が這う。


 黒衣の若い暗殺者は、眼光鋭く問い返した。

「……その駒。何に繋がる?」


「栗の木さ。北雪で締まった、呪も祈りも撥ねつける材だ」


「木じゃない。術だ。

 何を仕込み、どこへ魔術を流す?」


 若者の言葉に、雪月は目を細めた。

「流れない。ここで閉じる。

 勝敗は盤上だけにある。外へは、一滴も流さない」


 若者は無感情に、刃のように低く言った。

「……遊びのために、魔術を断った?」


「そうだ。因果の骨を砕き、祝福も呪いも削いで研磨した。

 物語という鎖を徹底的に切り落とした。

 それを見た高位の人外どもが、口を揃えて言ったよ──

 『それでも座るのか?』ってね」



 一拍、沈黙が重く落ちた。若者が問う。

「……もういい。

 ……報いを、求めないのか?」


「怪我も、害も、何もない。

 なら、罰もいらない。──さあ、座って」


 盤面を動かせるだけ、捕縛の術をわずかに緩めた。

 だが、命を断てる一点──魂だけは、握ったままだ。

 

 

 雪月の言葉に若者は鋭く周囲を見渡し、慎重に座る位置を定めた。

 まるで、負傷した野生の豹のような動きだった。

 ……それほど身構えずともよかったのに。


 互いに向かい合い、静かに駒を置く。

 磨かれた盤面に映るのは、細身ながら、しなやかで張り詰めた筋肉が浮かぶ若者と、細さだけが目立つ、くたびれた男。

 若者の鍛え抜かれた体には無駄がない。


 己の身体を見下ろし、ふと思う。

 ……少しは鍛えるべきか。

 

 そう思ったが、意志はすぐに、紅茶の湯気へとほどけていった。

 

 魔術を使わないこの駒遊びは、一時流行し、すぐに廃れた。

 だが、余計な影響を与えないからこそ、駒を操る手が思考や人柄を映し出す。

 相手の本質を見抜くには、これほど適した遊戯もない。

 

 その打ち方を見て、雪月は思わず口元がゆるんだ。

 長く楽しめそうだ。

 

 ふと、盤面の影が揺れた。

 若者の懐で尾が揺れ、小さな耳が覗く。……なるほど。

 守るものをもつ男は、勝ち急がない。

 

 雪月は紅茶を飲みながら、片手枷付きで勝利を収めた。

 秋摘みの甘い香りと、深い味わいが舌に残る。

 今日の紅茶は、なかなか楽しい一杯だ。


 雪月は静かにカップを置いた。

「さて――駒は語った。

 君の口も、そろそろ……開いてもいい頃だろう?」

 


 若者は悔しげに唇を噛み、目を逸らした。

 だが、その視線の先に救いはない。

 ややあって、言葉を詰まらせるように問いかけた。

「……煙鋼の火薬の輸入を止めたのは何故だ?」


 話題を逸らそうとしているのが見え見えだ。


「おや、問うたのは私の方だったはずだが──。

 まあいい。勝者は余裕を持ってこそだ」


 雪月は気楽な調子で続ける。


「硝石不足から砂海の輸入品を使い出してね。過剰反応で幾つか暴発連鎖事故が起きた。しばらく輸入禁止だ。うちは特にあの気候と相性が悪い」


「……ふうん。じゃあ、篝海への輸出が止まったのも、偶然ってことか?」


「それはなんの話だろうね?」

 雪月は薄く微笑むだけで、何も言わなかった。

 

 若者は目を細め、数瞬の沈黙の後、ふと口角をわずかに上げた。

「……案外、悪くない時間だった」


 彼は雪月の若葉色の目をじっと見据えたまま、つま先に集めた魔術で床を静かに押し込む。

 魔術の圧に、捕縛の術がしなり──薄氷のように、崩れ落ちた。


 若者は窓辺へ歩み寄り、夜の闇を一瞥すると、風に融けるように姿を消した。


「……ふむ。うわさに聞く調停の魔術かい。良い魔術の編み目だ」


 雪月は駒を弄びながら、ふと視線を窓から逸らす。その笑みには、かすかな翳りが滲んでいた。


「……また遊びにおいで。雪月と遊ぶと言えば、結界も目を瞑るさ。

 ──こういう勝負、最近は誰も付き合ってくれなくてね」


 雪月の指先が弄んでいた駒が、静かに盤上で横たわった。

 その声は、誰の耳にも届かぬまま、夜の帳に吸い込まれていった。


 直後、空を裂く羽音が響く。

 火竜が、空へと舞い上がった。


 結界は、彼らを通した。


 

 *

 


 針先ほどの月が夜の帳に縫いとめられ、静寂の窓辺にふたたび影が落ちる。

「……火薬の件は、うちが引き起こした。すまない。もう、二度と煩わせることはない」

 低く抑えた声。悔いの色が、言葉の奥に滲んでいた。


「そうか、分かった。次あまりに酷ければ見過ごせないよ」

 若者は息を詰めたまま、雪月の視線に抗わず向き合う。

 

 短い沈黙ののち、若者が問う。

「……今回も、勝てば、魔術王に問うことができるのだろうか?」

 

 雪月の視線を正面から受け止めたまま、若者は瞳を揺らさなかった。

「――それなら、もう一度、挑ませてくれ」

 砕けそうな決意を、押し出すように。


 その声が、雪月の胸をかすかに震わせ、盤面の静けさをゆるやかに乱す。

 首筋に冷や汗を流しながら、雪月はその揺れを飲み込んだ。

 

(……よし、きた。

 冷静に、慎重に、客観的に見て──これは受けるべき勝負だ。

 ……しかし!)


 書類に伸ばしかけた手が、盤面の気配に引き戻される。

 駒の感触が、掌で疼く。

 魔術研究も、政務も、王としての責務も──すべて、ある。


 だが、視線は離れない。盤面に縫いとめられたまま。

 指先が、駒を欲している。


(これは導きだ。盤面が私を誘うのは、私欲ではない。

 迷える若者の問いへの応答、それが王の責務。

 ……私の欲、では、ない)


 雪月は黙って駒に手を伸ばし、盤面を整えた。


「勝者が、敗者に問える。──その条件でどうだろう?

 答えを拒むのは自由。

 ただし、嘘や情、答えのない問いも、お断りだ。

 盤面が歪む。

 ここは遊戯の場だ。真実だけが駒となる。

 ──人生相談所じゃない」


「それでいい」



 駒を打つ。

 盤上は一手ごとに、魔術の陣法のように形を変えていく。

 呼吸が重なり、リズムが強く刻まれる。

 意志と直感、そして無数の可能性が交錯し、まるでひとつの術式が展開されるようだ。

 手のひと振りが、命の向きを変える。勝敗ではなく、生滅が、盤上に満ちていた。


 若者の手つきは、前回よりも明確に洗練されていた。

 攻め急ぎすぎた前回とは違い、今回は布陣に『引き』の思想が見える。守りの駒を要に据え、王を囲う形を崩さない。

 盤中央に置かれた『橋駒』の上を、射手駒が渡る。

 無駄なく、滑らかに。


 独りで盤と向き合っていた時間が、指先の迷いのなさに滲み出ていた。

 なにより――その明るい海色の瞳が、純粋な熱で輝いている。

 駒を指に挟むたび、遊戯そのものに夢中になっているのが伝わってくる。

 盤の向こうから熱が届き、こちらの指先もつられて疼いた。


 不意に、若者の懐から影がひとつ跳ねた。

 それは、ふさふさと尾を揺らす小動物――『風向き』だった。

 風向きは、まるで夜明け前の風のように、主の感情をなぞっていく。

 主の心に揺れる魔術のきらめきを、しゅるると掬っていた。

 魔術と感情が融け合い、小さな遊び道具は、彼の心そのものになっていた。

 頬袋がぽんぽんに膨らむ頃、若者は無意識にその小さな存在を胸ポケットへと放り込んだ。

 集中が深まり、世界の輪郭が薄れていく。


 そっと湯気立つ春摘みの紅茶を供すれば、彼は自然に手を伸ばした。

 この場の静けさは、本能すら、遊戯の支配下に置いた。

 葡萄のような香りが漂う、透き通った茶。喉の渇きを洗い流すには、ちょうどよい選択だ。


(……おや、その駒を取られるのは少々、困るね)


 雪月は一手を指し出しかけ、盤上の流れに身を滑らせる。

 しかし、指先が一瞬だけ、迷った。その瞬間――。


「……あ」


 気づかれた。

 空気が微かに震え、遊戯盤の温度が変わった気がした。


 直後、駒がひとつ、風に舞うように、音もなく姿を消す。

 その動きに、わずかな歪みが広がり、雪月の布陣は静かに崩れ始める。


 若者は雪月の『形見の駒』を狙っていた。

 この駒は、選択肢が二つ以上ある局面で、最も優先的に動かせる特殊な駒だ。

 それが失われれば、雪月の戦略は大きく鈍化し、反転の余地がなくなる。

 寸手のところで結界駒が滑り込み、狙撃は阻止された。


 だが、代償は重い。

 その駒の消失を皮切りに、雪月の防衛網はじわじわと食い破られていく。

 橋駒を渡り、射手の一撃が炸裂。次々と、手駒が奪われた。


(……あー……)


 雪月は額に手を当て、ひとつだけ深く息を吐く。

 キャスリング――王を守るための、最後の手。

 だがその一手も、焼け石に水でしかなかった。

 それでも、試さずにはいられなかった。

 彼の心には、ただ一つ、揺るがぬ確信があった──それは、最後の瞬間まで、戦い続けること。

 包囲が完成する。残された駒では、どうにも抗いようがない。


  


 若者は静かに告げた。


「詰みだ」


 まるで、それが初めから定められていたかのように。

 冷たくも誇らしくもない、ただ幕を下ろすための声だった。


 沈黙。

 勝利が広がるより先に、虚無が胸を満たす。


 目は盤を見ていない。

 誰の歓声も届かない空白を探すように、宙をさまよう。


 ――まだ、勝ち慣れていないのだ。


 雪月は悟る。

 それは、かつて自分も浮かべた顔だった。


 肉体は仕上がっている。だが、魂はまだ幼い。

 十四、五。問いを手放せない年頃のまなざし。


 勝者の顔ではなかった。

 世界に、まだ問いかけている――戦場では珍しいほどに、真っ直ぐな目だった。

 


 

「……この盤面を六花地方だとして。あんたはこの状況をどう思う?」

「六花地方か……」

 

 雪月は眉を寄せかけ、ふと緩めた。

 唐突な問い――だがその裏に覗いたものに、口の端がわずかに上がる。


 雪月は指先で魔術線を走らせながら、まるで盤上に古戦場を蘇らせるように国を置いていく。

 

 六花地方――魔術の濃霧が視界を曇らせ、六つの国が互いの牙を見失ったまま睨み合う地。


 長方形の盤を上下に割り、左右に小さく丸を描いていく。

 

「南の篝海と北の氷香どちらも巨体だが動きは遅い」

 雪月は駒を静かに上下へ置いた。

 氷香(ひょうか)王国。

 篝海(かがりみ)王国。


「西の煉峰と煙鋼は、産業の腹を支える。重いが、利は早い」

 今度は、重たく指を落とす。

 左に煉峰(れんほう)国、煙鋼(えんこう)国。

 

「信赦と睡烏。右に傾く火種だが――こちらは、祈りの灯と油火が並んでいる」

 右に信赦(しんしゃ)教主国に睡烏(すいう)国。



 配置が済むと、雪月はひと息置いて口を開く。

 

「六花に安寧はない。名に『花』を戴いても、咲くのは火種ばかりだ」


 静寂は、緊張の裏返し。

 魔術の波がひと撫で触れるだけで、平穏なんて硝子のように砕ける。


「……氷香と篝海が組めば、左右の小国は落ちる。まとまれば、二大国すら手が出せない」


 若者が駒をまとめて、盤の一隅に寄せる。


 雪月は、そこから駒をひとつ滑らせた。


「駒の流れが収束するとき、それはまるで――命の鼓動のようだ。

 けれど、これは命じゃない。命よりも精巧な、幻影だ」


 目を細め、静かに言う。


「……魔術膜の話は、避けて通れない」


 若者が眉を寄せる。


「魔術膜で、選択が決まるって話か?」


「『選んだ』つもりでも、膜が先に答えを刻む。

 選ばされた正しさの可動域を、我々が『常識』と呼んでいるだけだ」


 若者は顔をしかめる。


「臓器に思想を決められる? 呪いみたいだな」


「……だが祝福にもなる。問題は、『他人の常識』が見えないことだ。

 見えないまま、ぶつかる。罵る。殺す」


 雪月は視線を盤に戻す。


「『全体をまとめよ』?

 愚かだ。獅子身中に虫を飼う趣味はない」


 盤の駒を指先で撫でながら、まっすぐ若者を見据える。


「規律が効くのは、全員が同じ幻を見ているときだけ。

 だが六花には、六つの幻がある。六通りの『正しさ』と、六通りの『誤り』が重なっている。

 それを私は……統一しようとは思わない」


 一拍置いて、囁くように続けた。


「私は……壊れるまでは、許す」


「そんな悠長なことを言ってる間に、また誰かが死ぬ」


「均してはいけない。軋ませるんだ。

 止めた裂け目は、別の場所で噴き出す。

 だから私は、黙って歪みに寄り添う」


「奴らには裏切る知恵も、戦う覚悟もない。

 ただ、口を開けてるだけだ」


 その言葉に、雪月はかすかに笑った。


「それでも、私は信じている。

 牙を持たぬ者はいない。ただ、その牙に『使う理由』がないだけだ」


「理由があれば、牙を剥くと?」


「いや。『使われた時』にしか――その牙は意味を持たない」


 盤に残る手のひらの跡を見つめながら、雪月は続ける。


「知恵とは、手に残る火傷のようなものだ。冷めてなお、痛む。

 それを隠すか、晒すか――それもまた、選択だ。

 選ぶということは、時に命を守り、時に命を削る」


 ぴたりと沈黙が落ちた。


 若者がそれを破る。


「……自分の得より、他人の損を選ぶ奴は、いつだって現れる。

 理屈じゃない。感情の話だ」


 雪月はうなずいた。


「だからこそ、覚悟が要るんだ。

 違う幻を見ている者と、向き合うために」


「覚悟ね……同盟なんて綺麗事で、深森や砂海から逃れられると思ってるのか?」


 皮肉まじりの問いに、雪月は淡々と応えた。


「孤立した国が耐えられるとは、私も思わない。

 だが、『選ばされた同盟』では、生き残っても意味がない。

 魂を殺されて生きるくらいなら――滅びの中に、私の名を刻む方がいい」




「……綺麗事だ」

 握った拳の指の間から血がにじみ、震えて小さく引きつった。


「剣には勝てない。信じて、裏切られて、何度傷を負ったかも覚えてない。

 停戦なんて、協定なんて……言葉なんか、ただの紙切れだ」

 声が割れ、吐き捨てるように叫んだ。

 

 雪月は、その言葉を否定しなかった。

「ああ、その通りだ。綺麗事なんて、誰も信じない。

 剣は強い。信じても、砕かれる。それでも――」


 雪月の脳裏に、全てを諦めた幼い日が思い浮かぶ。

「それでも私は、言葉にしがみついて生きてきた。

 どれだけ剣に斬られても、言葉はまだ誰かを守れると信じてる」


 若者が、一瞬だけ目を見開いた。

「……信じられるもの、なんて――」

 絞るように、声が続いた。

「もう、どこにもない……!」


 耐えきれず叫んだ若者は、突如としてその声を呑み込んだ。

 若者は目を閉じ、唇を噛み、黙った。

 しばらくして、ぽつりと背を向けた。

 

「……お茶、美味しかった」


 彼の背が風にほどけた。

 風向きがひらりと尾を振り、淡い月光に小さく鳴く。


 冷たい風が窓を開け放ち、遊戯盤を揺らした。

 まるで盤の上に決着が訪れる前兆のように、空気が静かに乱れる。



 *


  

 

 吹き込む風が、血と鉄の匂いを連れてきた。

 傷口を裂くように、空気が軋んだ。


 ……子ども? いや、違う。

 風に混じっていた。あの魔術の匂いが。

 草原を駆ける風のような、あの織り。

 若者の皮を脱ぎ捨てた、隣国の王子――


 少年の背に突き立つ矢が、まるで獣の毛のように逆立っていた。

 沈黙が、それを守る牙となっていた。

 まるで、痛みが人の形をして現れたようだった。


 血は、滴る前にふっと消えた。

 ……呪術で回収したか。砂海帰りらしい処置だ。


 魔術が尽きかけている。

 肩は落ち、骨ばった影が浮き出ている。

 成長の魔術が剥がれ、幼い輪郭があらわになっていた。


 そっと伸ばした雪月の手に、少年は反射のように身を竦め、鋭い視線を返した。

 触れるつもりはなかった。

 ただ、支えたかった。それだけなのに――手は届かなかった。

 

 ……違う。最初から、届かない場所にいたのだ。

 あの背にあるものは、誰にも踏み込ませない何かだった。


 少年の手が、震えながら懐へ。

 その一点だけが、結界のように閉ざされている。

 まるで、命より先に大切なものを抱えているかのように。


 声変わり前の掠れ声が、つっかえながら乞う。


「なぁ、勝者は敗者に問いを立てる権利がある――だろ?

 もう一度、挑ませてくれ」


「まずは、治そう。君を守らせてほしい」


「いいや、賭けてくれ。

 駒遊びを愛するあんたなら、その駒の名誉がかかった問いに、適当な答えは返せないはずだ」


 震える指先が、執務机の上の駒をさす。

 他の駒はすべて手放した。

 だが、あれだけは沈黙を貫いた。


 祖父の命が、最期に残した『ひとつの意志』――

 雪月にとっても、それは同じだった。

 誰にも踏み込ませたくない記憶。

 けれど、盤の上に晒されても拒めなかった。


 盤に置いたからこそ、忘れなかった。

 忘れなかったからこそ、誓えた。


「そんなこと言われたら、私は本気になるしかない。撤回は許さないけど、いいのかね?」


「それが望みだ」


 ……それ以上、少年は何も言わなかった。

 指先に火を灯し、一本ずつ、焼き切る。

 震えず、叫ばず、ただ命を切り離していく。


 焦げた血と肉の匂いが、鼻腔を鋭く刺した。

 ぱち、と何かが弾けた気がしたが、耳には届かなかった。


 雪月はただ、黙って見ていた。

 止める資格も、命令する立場もなかった。


 随分と過酷な環境に身を置いているようだ。

 ……それとも、もう慣れてしまったのか?


「城の者に怒られてしまう。だから、せめて掃除させてくれ」


 無駄な動きを一切せず、簡易除染の魔術を起動する。

 指先に込めた魔術が、繊細に、無駄なく空間をなぞった。


 澄んだ空気に包まれた部屋で、雪月はひとつ、深く息を吐く。

 削られた命の痕跡が、静かに霧散していった。


 沈黙の中、少年の肩がかすかに揺れた。

 安堵か、警戒か、それとも――疲労か。

 その表情からは、読み取れない。


 ……あれが生き方なら、あまりに残酷だ。

 誰も手を伸ばさなかった。

 だから、こんなにも静かに壊れていった。


 誰も守らなかったというなら、せめて盤の上くらいは――守ってみせよう。


 魔術が、空間の縁にまで届いた。

 呪いの痕跡は、最初から存在しなかったかのように、音もなく消えた。


 紅茶をふたり分、用意する。

 今日はたまたま、特製のスパイスティー。ちょうどいい。

 薬効まではいかずとも、少しは落ち着けるはずだ。


 この独特の香りで、焦げた血と肉の記憶を、そっと上書きしてしまえればいい。

 

 ――忘れるためではない。

 思い出したとき、それがただの痛みでなく、

『こんな日もあった』と、笑えるくらいの――人生のスパイスになるように。


  

「……なあ、まだか」

「終わったよ。さあ、はじめようか」


 盤面を立てる。駒を並べる。

 ――条件は、前回と同じでいいね?


 駒たちは、息を呑んで沈黙する。

 呼吸さえ削がれる静寂のなか、彼は震える指で盤を睨んでいた。

 その姿に、胸が軋む。


 けれど、甘えは無用だ。

 本気で来たなら、手は抜けない。

 抜けば――それは、殺意ですらない。

 



◆一手目。

『盾駒』を置く。わざと、隙を見せて。

 勝利の記憶に釣られた彼が、駒を進める。


 即座に射抜く。

 彼の駒が跳ね、崩れ落ちる。


 ――代償だ。



 少年はわずかに目を細め、

 黙って紅茶を口に運ぶ。


 沈黙が凍る。けれど、もう遅い。


◆二手目。

 少年の指が止まり、震える。

 ――そこか。見抜いたな。


 通常、誰も置かぬ位置。

 だが、それが罠だと気づいても、逃げ道はない。

 獲れば自らの駒が落ち、

 獲らなければ王が晒される。


 ――もう、一手遅かった。


 雪月は湯気ごと、紅茶を飲み干す。

 舌先に、ひと欠片の寒さだけを残して。


 流れは動かない。


◆三手目。

 盤上の王が孤立する。

 四方はすべて死地。進めば斬られ、留まれば射抜かれる。


 ――守りは、もうない。


 少年は駒を動かす。だがそれは、火の中へ踏み出す手。

 わかっていても、もう戻れない。


◆四手目。

 盤面が、沈黙する。

 指先から、すべての音が消えた。 

 雪月の指先が止まり、ただ、盤面を見つめる。


 飲み干された紅茶の余韻だけが、そこにあった。


 残された道は、一つしかなかった。

 その王を、選ばれた死地へ。


 少年は駒に触れ、沈黙の中に、それを置いた。

 

 

「さて、勝者の権利だ。君の問いを聞かせてくれ。

 この駒に誓って――偽りは口にしない」


 傷だらけの侵入者は縋るような目で雪月を見上げ、唇を震わせた。

「……昨夜、あなたが言ったこと――あれは、本当に信じていいのか?」

 

「もちろんだ」

 雪月はゆっくりと頷いた。

 

「……望むことがあるなら、遠慮なく言ってくれ」

 雪月は、その問いの行き先に、しばし沈黙を重ねた。

 

 あの夜、顎の紋が人の気配に応じたときから、

 篝海の火は、それ以来、雪月の思いに影を落としていた。

  

「ない。……また遊びに来てもいいか?」

「もちろんだ。私のことは雪月と呼ぶといい」

「……ずいぶんと雅だな」

「互いの立場がぼやけている方が、面白いことが起きるだろう?

 さて、君を何と呼べばいい?」

 

「……放浪者。

 根を下ろさずに、すべてから自由でありたい」

 影は夜風に溶け、ただ静かな揺れだけが、彼の名残を伝えていた。

 

  

 次に訪れる時、またあの風は血の香りを運ぶのだろうか――

 雪月はその問いを、音もなく胸の奥へ沈めた。



 

 

 夜が明ける。

 遠く、鳥が短く鳴いた。

 それでも、昨夜の盤上の勝敗は、まだ指に残っていた。

 一口目の紅茶が静かに喉を通る頃、隣国――篝海の王の死が、厳かに告げられた。



 *

  

  


 夜半。雪月が扉を開けると、足元で結界の光が、ひとつ瞬いた。

 肌に刺さる、静寂。

 ――響くのは、鼓動だけ。


 闇に、砕けた蛍石のような光。

 その中に、音もなく立つ影。



 窓辺の帳が、夜風にかすか揺れた。


「やはり来たか……警備はどうした、などと問うのも無粋か」


 驚きも警戒もない。

 ただ、静かな夜に差した影を受け止める声音。

 

 風が窓から吹き込み、放浪者の髪をわずかに撫でる。


「来るとは思っていたさ。けれど……思ったより、ずいぶん早かったな」 

 扉を音もなく閉め、背を壁に預ける。


  

 一拍の沈黙。夜が息を潜める。

 放浪者は窓の向こうから視線を逸らし、拳を握った。

 まるで心の奥に触れるものを抑え込むように。

 

「なあ……なんで、あんたは綺麗事を語れるんだ?

 あんなにも、現実が血まみれなのに。

 誰も信じちゃいない、絵空事を。

 そんなもんが、王の務めかよ」

 

 闇に響く声は、若さという火に煽られていた。

 

 

 雪月は黙って、彼の目を見つめる。


「皆、あんたを耄碌した夢語りの王だと笑ってる。

 ……なんでだよ。

 あんた、誰より正しかった。なのに、誰も見てなかった。

 それでも、まだ語るのか?

 ――信じちゃいない綺麗事を、王として?」


 沈黙に、かすかな震えが走った。

「それを信じる奴が……一人もいない。

 俺の戦場じゃ、お前の理想は届かない。

 ……なあ、それでもかよ」


 雪月は視線を落とした。

 

「……誰も信じないなら、それでいい。

 ただ、私は――種を蒔いている」

 

「……種?」

 

 南洋の目はまだ無垢で柔らかい。 


「理想は次代のまなざしに燈す灯火だ。 

 踏みつけられ、尽きかけても、なお――燻り、燃え続ける松の火種。 

 災厄に焼かれて、ようやく殻を割り、芽を出す硬い種。


 理想は届かぬからこそ、手を伸ばすに値する火だ。  

 それは愚かで、報われぬ綺麗事だろう。

 だがそれでもと足掻く者がいれば、いつか冬闇を照らす松明になる」

 

 雪月はふと、遠い日を想うように微笑んだ。

 それは慰めでも安堵でもない。

 ただ、かつて抱えた痛みを、ようやく渡せた人間の顔だった。

 

 ――それでも、そうして私を見てくれる者がいたとはね。


 拾えなかった声も、届かなかった痛みも――

 それと知られぬ形で、誰かの手に渡すために、王は策を張る。

 

 己の手では届かぬなら、せめて他の誰かに託すために。


 その仕掛けを見抜いた上でぶつけられた、まっすぐな好意に、

 雪月は懐かしさを覚えた。

 かつて自分も、同じ痛みを抱えていた。

 


「違う、俺だったら無理だ――あの一手は」

 

 言葉が喉でつかえる。

 声にならぬ痛みが、胸の奥で波打った。

 

「内戦は避けられないし、他国の介入もある……

 兄上だって、あれは選べなかった。

 ……だけど、なぜ、あんたはそれを選ぶ?」


 最後の問いに宿ったのは、怒りではなかった。

 迷い。深く苦しい、自問の色だった。


 雪月は指を振り、黒い液体をカップに注ぐ。

 香ばしい香りが漂う。


 放浪者の視線が、湯気へと落ちる。

 まるで、見えない誰かの面影を追うように。


「どうやら――君は珈琲党らしいね」

 雪月は柔らかく微笑んだ。

「若者には苦い方がいいと思ったんだ」

 

「……苦いの、意外と嫌いじゃないんだ」

 


 この夜、この若者になら、言葉を託してもいいと思えた。

 

「真意など、見えてはならない。

 ……見通せば、民は甘える」


 雪月は足元の蛍石のようなほのかなあかりをじっと眺めた。

 種は光が強すぎれば焼け焦げ、弱すぎれば凍りつく。

 

「王が見せるのは、畑と、撒かれた種だけでいい。

 

 芽を育てるのは、光でも雨でもない。 

 土に触れ、見守り、信じる手だ。

 

 だからこそ――

 民が、自ら選び育てなければならない」


 

 差し伸べた手を振り払われた時の冷たさだけが、今も残っている。

  

「綺麗事なんて焼け石に水だと、当時の私はただ呪った。

 

 けれど今ならわかる。 

 あの夜、心に灯った火こそ――

 私の中に残った、たった一つの『松の火種』だったのだ。

 

 そう、私はもう、次代に手渡すだけの者になったんだ」

 

 耕すもののいなくなった星あかりの畑の前で聞いた言葉。

 

 雪月の視線が、ふと空に向く。

 夜の雲がわずかに切れ、ひとつ、星が覗いた。 


「緻密に積んだ石垣も、嵐の前にはただの砂。 

 それでも、指先で石を拾い続ける者が国を作るのだ。

 血と汗と涙の先にしか、本当に守るべきものは生まれない。

 やらねば、と皆が思わなければ――国に意味など、ない」


 放浪者は眉をひそめた。


「……でも、何度も思ったんだ。

 あんたが黙って燃やされても、何も変わらなかった。

 なのに、どうして――それでも続ける?

 ……わからなかった。


 でも、今なら……

 ――そうか。正しさなんて、証すものじゃない。 

 それでも……誤解されたまま、笑われ続ける道を選ぶのか?」


 雪月はそっと頷く。


「皆が王として信じるに値する――その最低限だけでいい。

 その上で何を言われようと、構うものか。

 あとは、見せかけで十分だ」


 同じ夜が、私にもあった。

  

「信じるに値する王が未来を語らなければ、

 誰もそこを目指さない。

 

 希望なき現実に、誰が足を踏み出す?

 世を変えるのは、いつだって夢を見てしまう愚か者さ」


 放浪者は目を見開き、噛み締めるように呟いた。


「理想を持ちながら、現実に足をつけて進む……。

 そっか。あんたも兄上と同じ種の――怪物か」


「怪物だと笑われる夜が、ここまで愛しくなるとはな……

 だからこそ、希望を灯せるのかもしれない」


 雪月は静かに、目を細めた。


「隣国の次期国王陛下が、そうお考えであれば……

 この地方も安泰だ」


 放浪者は雪月の目を見て頷いた。


「決めたよ。

 篝海はいつも力で未来を拓いてきた。

 兄上が内政、俺が戦場。

 けど、それじゃ何も残らなかった」


 言葉には、悔いと願いの両方が宿っていた。

 違う。あれは力じゃない。

 選んでいるのは、『手段』そのものだ。

 

「……あんたの言葉を聞いて、わかったんだ。

 ……こんな夜に、こんな言葉で。 

 まさか俺の中に、芽があるなんてな」


 迷いの奥に浮かぶ影。

 兄か、それとも……もっと遠い幻影か。


「これからは違う。互いの国を守り、盤面を見極める。

 同じ道を歩めるなら、これほど心強いことはない。

 

 …………じゃあ、話そうか。

 俺がここに来た、本当の理由を」


 彼は懐から封筒を出す。

 封蝋が王家の印であることが、光の中でちらりと見えた。

 

 深呼吸ひとつ。放浪者は背筋を伸ばし、言った。 


「俺は、密約を携えた勅使として来た」


 差し出された王家の紋が、鈍く光を返す。


「――なるほど。火種は、とうに灯っていたか。

 これが、次代の始まりだな。」


 雪月は封蝋にそっと指をかけた。

 小さく割れる音が、夜の帳に溶けていく。

 符号を読み、印を確かめ、しばし黙する。

 

 放浪者の目を見る。

 ――迷いは、もうない。


「兄も、あんたも。

 理想を語って、それでもなお手を汚せる。

 

 俺は、力じゃなく――信じる道を選ぶ。

 あんたたちと同じように。


 ……でも怖いんだよ。

 俺が選ぶ道は、また誰かを傷つけるかもしれない。

 

 それでも……信じたいんじゃない。

 信じなきゃ、壊れるんだ」

  

 それでも、と放浪者は目を上げる。

 

「だから――」

 視線が絡む。言葉より深い約束が、交わされた。 

 しばし、夜が言葉を呑んだ。


「篝海は、この盟に未来を賭ける。

 氷香よ――この手を取り、共に歩もう。

 二国の礎を、この夜から築こう。」


 その夜、同盟が芽吹いた。

 雲の裂け目から、一筋の光が差していた。


 ――この一夜を、忘れるな。

 

 そして、君の夜に松の火種があらんことを。



 * 


 

 雪月――氷香王国の魔術王ルカ。

 放浪者――篝海王国の王弟オーバーノート。


 あの戴冠式の日、氷香の魔術王と篝海の傭兵王子が肩を並べた。

 それが、戦火よりも危うい――希望という名の賭けだった。


 新王ルバートのもと、二人は「親交を深めた」と広く喧伝された。

 だが、どこでどうやって心を交わしたのか、誰も知らない。

 二人は決して語らなかった。

 それを語る場は――夜だけに許されていた。


 そして、篝海と氷香はついに同盟に至った。

 国境線で幾度も火花を散らした両国が、火種を抱えたまま、盤上の外交劇に踏み出した。

 戦争ではなく、夜会という遊戯盤で決着をつけたのだ。



 *

 


 放浪者は火竜の背を借り、水晶宮を訪れるようになった。

 いつしかそれは、雪月の部屋を訪う習慣となる。


 夜半を過ぎる頃、彼はやってくる。

 だから、雪月はいつもバルコニーの窓を細く開けておく。

 ひゅるりと風が吹き込めば、それが合図だ。


 ずさんな警備に見えても、何かあれば――雪月が一呼吸すればすべて終わる。

 それを知る者だけが、この抜け穴を黙認していた。

 王にも、休息の間は必要だから。


 ポットには温かい紅茶と珈琲を。

 香りは、互いの気分次第。


 風が合図を告げ、黒竜が風を裂いて降り立つ。

 蜂蜜色の髪が、偽装を脱いで揺れる。

 それが彼の、ささやかな応答だった。


「やあ、放浪者。今日も来たね」

「よお、雪月。借りを返しにきた」


 竜は取引相手を降ろすと小さく身を縮め、すぐ雪月の足元へ駆ける。

 撫でられて満足すると、椅子の下にすとんと収まった。


 盤が置かれ、駒が並ぶ。

 それは国の命運を賭けた夜の戦場だった。


 雪月は慎重に紅茶と焼菓子を、

 放浪者は無造作に珈琲とチョコレートを配置する。

 

 どちらも相手の癖を熟知している。


 風向きが放浪者の肩に舞い上がり、盤面を見下ろす。

「……始めようか」

「いつでも」


 ことり、と初手が置かれる。

 続いて、かつりと駒が応じる。

 

  かつ、こつ、こつ、かつ――

 

 その音が、言葉にならない問いと応答を刻んでいく。

 盤面を挟んで視線が交わり、静かに読み合いが始まる。


 風が吹き、駒が進むたびに、世界のどこかで運命が傾く。

 盤は、戦場の代わりだった。


「帆船が禁呪に手を出した」

 斜めに跳ねる騎士。

 その代償が、どこへ火を移すかを探る一手。


「深森は世界の裏側と組んだ」

 即答とともに、雪月の指は止まらない。


 放浪者の指が止まり、顔が曇る。

「……裏側は、東方にしか手を出してなかったはずだろ」

「だったものが、変わった。私も報告を受けたばかりだ」

 声音には、わずかに試すような揺らぎがあった。


 盤の外で、駒よりも冷たい手が動いている気配がした。


「不老を求めて、疫病の森を開いた馬鹿がいる」

「……星塩砂漠で渇水の罅割れ」

「その亀裂の名が、君の父王だったら?」

  駒の手が止まり、視線が鋭く交錯する。

「……従属の印、出たよ。でももう、徹底的に消した」

「本当に?」

「私のやり方でね。跡形もなく」


 一瞬、盤面を漂っていた魔術の澱が、風に攫われていった。

放浪者の肩から、目に見えぬ棘が一つ、剥がれ落ちる。


「……はい、君の負け」

「あ? 嘘だろ、もう一戦!」

「よし、次だ」


 魔術は不要――それが雪月の矜持。

 けれど夜は短く、欲は深い。

「なら、時間を巻き戻せばいい」

 禁に触れぬ初期化術が生まれた。

 その一手が、次の一巡だけ、生かす。


「なぁ、もし戦場で会ってたら、どうなってたと思う?」

「君を殺したら……燃えたのは国境線じゃなく、この王都だったろうね」

 雪月は笑いながらも、少しだけ視線を伏せた。


 二人の間を、名もなき死者たちが通りすぎてゆく。


「俺だって、そう簡単に死なねぇよ」

「それなら……永遠に殺し合ってたのかもしれないね」

「全土を灰にしてな。……うわ、ないない!」

「まったく。盤面の方が、まだ救いがある」


「この遊戯だけは――どちらも死なずに済む」

「殺すことも、救うこともできない。けれど――」

 

 夜明けは、もうすぐだった。

 机は音もなく片付けられ、痕跡を残さず解散する。


 放浪者が去ったあと、雪月はひとつ駒を転がす。

 その手に、少しだけ願いを乗せて。


「――次は、どんな風が駒を運ぶかね?」


 この夜は、誰にも知られぬ息抜き。

 ここでは国も血も憎しみも、ただの駒に過ぎない。


 戦火の終焉には遠くとも――

 それでも、ここには誰にも奪えない静けさがある。


 盤をしまいながら、雪月はそっと呟いた。

「この夜が……誰かの未来を救っていればいいが」

 答える者はなく、ただ風だけが、次の対局を待っていた。


 次は、明日か。ひと月後か。

 けれど、この夜を続ける者たちは、

 やがて『未来』さえも、笑って手に取るだろう。


 この夜が続く限り――

 世界は、静かに形を変えてゆく。


  


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