ひとさがし
「あ、おはようございます」
ちょっと戸惑い気味に声をかけてきたのは、隣のマンションに住んでいると覚しい男性だった。わたしはなるたけにこやかに応じる。「おはようございます」
週二回の燃えるごみの日、いつもごみ置き場で顔を合わせるひとだ。彼が隣のマンションから出てきたところを見たことし、今もそちらから歩いてきた。
特に話すこともない。あちらも、出勤前らしいし、長話は迷惑だろう。お辞儀してその場をはなれようとした。
「あの」
「はい」
呼びとめられたので足を停め、振り返る。彼はカラス避けのネットの下へごみ袋をおしこみ、わたしの傍までやってきて、声を低めた。
「えっと……探偵さん……ですよね? 相談したいことが……」
探偵、といっても、わたしがやっているのはおもに、行方不明になったペットさがしだった。
数年前に両親から探偵事務所を引き継ぎ、きょうだい達で細々とやっている。ところが、妹は産休、弟は育休をとってしまい、今はわたしひとりで、動物用のおもちゃや餌を手に細い路地をうろつきまわる日々である。稼ぎはそれなり。
事務所(といってもぼろっちい一軒家だ)は夜の九時まで開いている。それを伝えると、彼は夜にうかがいますと云ったので、わたし達はそこで別れた。
「大丈夫なの? お隣、ペット禁止でしょ。きちんとしたひとしか住めないって聴いたけど」
「うーん……」
事務所の古い、けれど本革のソファに横たわっていると、そろそろ予定日の妹が、白湯をいれて持ってきた。わたしは脚を振りあげて体を起こし、白湯のはいった猫の模様のマグカップをうけとる。妹は犬の模様のマグカップだ。
「隠れて飼ってたペットかも」
「どうだろうね」
「お隣の大家さんともめるの、やばいよ」
「……お前、産休じゃなかった?」
「うん。でも、じっとしてると気が塞ぐの。ちょっと散歩。そんなに遠くもないし、心配だったから。ちゃんと食べてるか」
「子どもじゃないんだけど」
「子どもみたいなところあるじゃない。でも、偉いね。ちゃんとお料理してるし食べてる」
白湯をすすった。妹はにこにこしている。ふっくらした頬が目にはいり、顔を背けた。三人目ともなると余裕がでてくるらしい。一人目の時は大騒ぎで、無事に出産するまで二ヶ月くらい入院していた。
妹は帰りがけにスーパーによると話しながら出て行った。「よ、生きてる?」
「お前まで来るのか」
今度は弟だ。丁度、ペット捜索と引き渡しから戻ったわたしは、手を洗いながら応じた。首尾よく猫を見付け、報酬を戴いたところだ。
「食材買ってきたよ。ウインナーと、米と、片栗粉と、安かったから挽肉と……」
「育児は?」
「おとうさんおかあさんに、お姉さんふたり、妹にいとこまで来て、追い出されちゃった」
「お久し振りです」
弟の後ろに隠れるようにして、その妻が立っている。彼女はぺこっと頭を下げた。「あの、疲れてるだろうから、ふたりで出掛けてこいって……」
「そうですか。どうぞ、ゆっくりしてください」
義妹に対してきついことは云えない。わたしは弟を睨みつけ、厨房へ向かった。
「へえ、よさげじゃない」
「なにが?」
わたしがつくった肉団子の黒酢あんかけをぱくぱく食べ、少々黄色くなってきたご飯をかきこんで、弟は箸でなにかを示した。そちらを見るが、壁しかない。「お隣、結構いいお家賃」
隣のマンションを示していたらしい。
義妹が遠慮がちに、わかめスープを飲んでいる。弟はすでに三杯目である。これにウインナーいれてとばかみたいな要求をしてきたので断った。
「いいとこに勤めてるひとばっかだって聴いた。保証人まで厳しく精査してるらしいよ。大家さんが動物ぎらいで、ペットは禁止だけどね」
「誰の情報?」
「情報源については喋れません」
おどけて云うのが憎たらしい。頬をつまんでやると、弟はへらへら笑った。
「でもほんとに、国家公務員の子どもで、いい大学でて、そのまま一流企業に勤めてるとか、医者や弁護士やってるとか、そういうひとばっかりだってさ。もしかしたら、本人のペットじゃなくて、実家の猫ちゃんとかの話かもしれないじゃん? いい仕事したら、宣伝してくれるかもよ。お金持ち達にさ」
それはそうかもしれないので、頷いておいた。今日片付けた依頼が、最近もらった最後の依頼だ。最近、ペットがあまり行方不明にならない。いいことなのだが、わたしにとってはちょっと困るのだった。
余りものを適当に食べ、ラジオをつけてぼんやりしていると、来客があった。あの男性だ。
「さがしてほしいのは、動物ではなくてひとなんですね?」
「はい」
男性――白河久司は、ソファに腰掛け、項垂れている。背負っていたバックパックを脇に置いていた。彼は医者だそうだ。近くの病院に勤めている。
来客用のローテーブルには、彼が記入した依頼書があった。わたしはそれをとりあげて目を通し、戻したのだ。
さがしてほしいのは、萩野紫衣という、女性だそうだ。「依頼者とのご関係」という欄には、「大学時代の同級生」とあった。久しく見たことのない単語だ。両親の時代には、人捜しもしていた。
萩野紫衣……どこかで見た気がする。どこだったかな。
「同級生ですか?」
「はい。私立ですが、ご存じですか? k**大学です」
有名大学だ。わたしが頷くと、白河は安堵したらしい。ごく滑らかに、まるで営業でもするみたいに喋りはじめた。
白河は、萩野と、犬猿の仲だった。
同じゼミだったのだが、ことあるごとに対立し、喧嘩になっては周囲が仲裁にまわった。大学四年間、まともに口をきいたことはなかったという。
「でも実は……」
白河は首をすくめた。神経質に左手を撫でる。「……自分はその頃から、彼女のことが好きで」
「はあ」
「彼女は自分よりも成績がいいし、人付き合いも上手だし、なにもかもを持っているように見えて、どうせ自分が話しかけても無駄だろうと思うと、つい憎まれ口を。結局、大学で最後に顔を合わせた時も、喧嘩別れしてしまって」
わからないでもないような気がしたが、考えてみてもやっぱり理解はできない。わたしはその気持ちの動きについてはなにも云わなかった。
「目的はなんでしょうか」
「目的?」
白河はびくっと顔を上げる。なにか後ろめたいことでもあるのか、目を瞠り、怯えた顔だ。
わたしは彼をまっすぐに見る。失敗は二度とできない。
「最近、物騒な事件があるので、人捜しの場合は見付けてもすぐに教えることはできません。あなたに所在を教えていいかどうか、お相手に確認します」
「それはこまります」
白河は腰を浮かせた。「そんな……」
「では、お引き取りください。ストーカーの手伝いをする可能性を潰せないなら、人捜しはできませんので」
白河は口をぱくつかせていたが、すとんと腰を下ろした。真剣な表情でしばらくローテーブルを睨む。
バックパックに手を置いて、彼は云った。「わかりました。彼女に、俺がさがしていると伝えてもかまいません。さがしてください」
そう云って、白河は出て行った。報酬の話をまだしていないのに。
白河にのアドレスにメールを送っておいた。翌朝確認すると、返事がある。報酬はこちらの提示した額でかまわないそうだ。
わたしは調査を始めることにした……のだけれど、萩野はすぐに見付かった。またしても「散歩」に来た妹にせっつかれ、朝食の準備をしていると、ウインナーの袋にプリントされた名前が目にはいったのだ。
「はぎの紫衣」。駈け出しの小説家だ。
宇宙移民をテーマにしたSF小説「満月を見たコロネイル」を、自身の挿絵付きでネット上で公開し、人気が出て書籍化、更に漫画化され、今春からアニメも放映されている。
ウインナーは「コロネイル」とのコラボ商品だった。主人公の少女コロネイルと、コロネイルの相棒の狐のような動物が描かれている。その横に、アニメスタジオの名前と、「©はぎの紫衣」とあった。
「依頼者って、幾歳くらい?」
「三十過ぎくらいかな」
「そうなんだ。はぎの紫衣って、もっと歳いったひとかと思ってた」
妹はPCをいじりながら云う。「内容が重苦しいんだよね。絵柄は凄く可愛いけど、復讐の話だし」
「そうなの?」
「知らない? 今、結構人気だよ。中学生くらいの子がはまってるみたい。みつともアニメ、かかさず見てるよ」みつとというのは妹の長男、つまりわたしの甥っ子のことだ。「あとは、意外と大人にうけてるんだって。コロネ達がリアルで」
「へえ」
「はい、これで見られるよ」
「ありがとう」
最近はネットで動画を見られるそうで、妹にそれをしてもらった。
アニメタイトルは「コロネイル」。満月部分が削られている理由は知らない。妹は小説を読んだことはないし、漫画も見たことがないので、違いなどはわからないそうだ。
内容は……。
遠い未来、多くの人間が地球を離れて宇宙を開拓し、地球に似た環境の星を幾つか見付けて移住していた。
しかし、技術や学問は地球が一番すすんでおり、宇宙でなにかあった場合も地球の学者達に助けてもらう情況だった。地球政府が優秀な人材の宇宙流出をいやがり、認めないのだ。更に、よその星に優秀な人間が居ることがわかると、地球へ移送された。
コロネイルは地球から遠くはなれた星で生まれ、あたたかい家庭に育った。相棒の狐のような生きもの、ミルミルといつも一緒だ。
彼女の十二歳の誕生日、事件が起こる。
突如、居住区が襲撃されたのだ。コロネイルの家族は彼女をミルミルと一緒に、禁止されていた個人用のシェルターへ押し込み、無理に眠らせた。
目を覚ましたコロネイルが外へ出ると、居住区は壊滅状態。家族は死に、幼馴染みとその一家も姿は見えない。
震動と轟音に目を遣ると、採掘用の機械が不気味に動いている。コロネイルはそれから逃げるように居住区をぬけだす。
森林地帯には生き延びた大人達が隠れていて、コロネイルは彼らから事情を聴いた。
地球では安定したエネルギー供給の為にある鉱石を用いていること。
この星でその鉱石が大量に見付かったこと。
地球政府がこの星に住んでいた住民に退去を命じたけれど、応じなかったこと。
交渉は決裂し、地球政府が強硬手段に出たこと。
すべてを聴いたコロネイルは地球人への復讐を誓い、大人達の手引きで、鉱石採掘船へ忍びこむ。
船が飛び立ち、コロネイルは地球へ辿りついた。地球は「出て行く」人間は厳しく調べるが、「はいってくる」人間には寛大だったので、コロネイルは無事に地球へ降り立つ。
地球人への復讐を考えているコロネイルだが、具体的なことはなにも思い付かない。資金を得るためにミルミルと一緒に得意の歌を道端で披露していたコロネイルは、フルスという憎たらしい少年と出会う。彼はコロネイルと同い年の、地球政府高官の子どもだった。
コロネイルはフルスに反発を覚えていたし、フルスはフルスでコロネイルをばかにしていた。しかし、ふたりはそれ以降も偶然顔を合わせ、関わりを持つことになる。
フルスとの関わりもあって、コロネイルは段々と地球政府への復讐に迷いを覚えるようになる。自分がすべきことはなんなのか?
そして、コロネイルの生まれ故郷では見えることのなかった満月の日、行方不明になったミルミルをフルスがさがして戻ってきたことで、ふたりは一気に距離をつづめる。
と、ここまでが現在まで放映されている部分だ。映像が凄く綺麗だった。普段アニメを見ないので、比較はできないが、ストーリーも面白いと思う。
「このあとどうなるの」
「しらない。小説のレビュー、読んでみたら。ネタバレありで考察してるひとも居るよ」
妹からありがたい助言を戴いたので、わたしは「満月を見たコロネイル」で検索をかけた。たしかに、ネタバレ感想、と銘打ったページが見付かる。
それによれば、このあとコロネイルはフルスに自分の事情を打ち明け、今度はフルスとともに苦悩するらしい。フルスはコロネイルの味方をしてくれて、テロリストとして政府の人間に捕まりそうになったコロネイルを庇い、大怪我をしてしまう。コロネイルはフルスを置いてミルミルと逃走する。
五年後、医者になっていたフルスは、さがし続けていたコロネイルと再開する。コロネイルは地球の辺境で、自然のなかで暮らしていた。エネルギーに頼りすぎず、あの鉱石を必要としない暮らしをすることがわたしなりの復讐だと云うコロネイルに、フルスは結婚を申し込む。
更に二十年後、地球政府はエネルギー政策転換を発表。数百年前に頓挫した宇宙太陽光発電を再びはじめる。その政策を打ち出したのは、地球政府の大統領になっていたフルスだった。
ストーリーや科学的な考証がどうなのかはともかく、アニメの絵柄は可愛かったし、大きな破綻や矛盾はないように感じる。大人気になるかはともかく。
わたしは「はぎの紫衣」で検索をかけ、出版社を確認した。ここから連絡をとればいい。
ふと手を停める。
「どうしたの?」
「ううん……」
「見付けましたよ」
「えっ」
翌朝、燃えるごみの日だったので、わたしはごみ置き場で白河を待っていた。白河はひとり暮らしにしては大きなごみ袋を持ってきた。毎度のことだが。
「萩野さんを」
「あ……そうですか」
白河はうろたえているみたいだ。わたしは続ける。「最近人気のアニメの原作者だそうです」
「へえ! ああ、そういえば彼女、アニメが好きだったな」
白河はちょっと嬉しそうに頷いた。「見ましたか?」
「ええ」
「そうですか……よかった……」
白河はもっと嬉しそうにした。
出版社に連絡をとり、萩野紫衣に白河の連絡先を伝えた。翌日、白河から連絡があった。萩野と話したそうだ。
「それと……」
「はい」
「彼女今度、サイン会をするらしいんです。一緒に行ってもらえませんか?」
わたしはカレンダーを見、その日になにも予定がないことに確認して、承諾した。
はぎの紫衣は、小柄な女性だった。化粧気がなく、カラフルな服を着ている。少し、アニメのコロネイルに雰囲気が似ていた。
はぎの紫衣は、大きな本屋で三十分ほどコロネイルのことを喋った。そのあと、サイン会だ。あたらしく出る、やはりSFの小説にサインをしてくれて、百冊ほど配るらしい。豪勢なことである。
「コロネイルは、小さな頃から考えていたんです」
萩野はピンクのメッシュをいれた髪を、耳にかけた。「小学生くらいかな? その頃から。最初はミルミルの絵を描いていて、この子はどういうふうに暮らしているのかなって考えて、コロネイルがうまれて……高校生の頃に、おおまかなストーリーができました」
「もう書いていたんですか?」
「全然。書き始めたのは、大学生になってからです。大きかったのが、フルスが生まれたこと。彼、最初にストーリーをつくった段階では、居なかったんですよ。コロネイルがいろんなひとと接して変化していくっていう設定だったんですけど、お話に起伏がなくて、なんていうかのっぺりしていて……その時はこっちを書いていました」
萩野はくすくす笑いながら、手許にある小説を示した。
「フルスが生まれて、コロネイルって面白いんじゃないって思って、そこから書き始めて。こっちを完結させるのに凄い時間がかかっちゃいました。でもこっちも面白いですよ」
聴衆がくすくす笑った。わたしも。近くに居る白河は、真剣な顔で萩野を見ていた。
「ええと、どんな字ですか?」
「いとぐちと読む……」
「ああ、はい、わかりました」
「コロネイル、アニメを見ました。面白いです」
「ありがとうございます。どうぞ」
萩野はにっこりして、わたしにサインいりの本を渡してくれた。次は白河の番だ。わたしは係員の指示で、本を抱えて列から離れた。振り返ると、白河が萩野とにこやかに話している。萩野は白河を見ながら、さらさらと迷いなくサインを書いていた。
サイン会のあとはそのまま別れる予定だった。わたしは白河がこちらを見たタイミングで頭を下げ、本屋の出入り口を示す。彼はにこやかに頷いた。
待ち伏せと、張り込みは、大の得意だ。猫や犬をさがす時でも役に立つ技術である。
本屋の前のファミリーレストランに這入って、窓の外を眺めていると、二時間ほどして白河が出てきた。萩野も一緒だ。
わたしは代金を支払い、店を出た。
喫茶店の奥から、ひそめた声がする。
「どうしてこんなことしたの?」
「ごめん」
「謝ってほしいわけじゃないの。でも、驚いたんだよ。探偵っていうひとから連絡があったなんて、編集さんから云われて。わたし……」
萩野は口を噤み、目をまんまるにした。わたしは肩をすくめてみせる。
「どうも」
「探偵さん」
萩野の向かいには白河が座っている。わたしは彼らに断りもせず、その隣のテーブルへ陣どった。中年の男性がお冷やを持ってきてくれる。「紅茶を」
「かしこまりました」
伝票が置かれた。
「あの……」
白河が項垂れた。「すみません。俺」
「いえ、いいんです。おふたりは、別に、喧嘩別れしたんじゃないんですよね。いや、それは事実かもしれないけれど、そのあと再会した。少なくとも、何度も確認しなくても名前を書けるくらいの間柄にはなっている」
ふたりは首をすくめ、萩野が飲んでいたメロンソーダが不穏な音をたてた。ふたりの左手には、お揃いの指環がある。
単純な話だった。ふたりは数年前、偶然再会した。当時、もっと都心に住んでいた白河の隣の部屋に、萩野が越してきたのだ。
大学時代はことあるごとにいがみ合っていたふたりだったが、お互い社会人を経験し、まるくなった。平凡なご近所付き合いが続いていたそうだ。
「わたしは朝が弱くて。ある日、ごみ出しを彼にかわってもらったんです」
「それから、なんとなくそれを続けるようになって……」
ある朝、少々粗忽らしい萩野のごみ袋の底がぬけ、中身が廊下にあふれた。白河と萩野で生ごみやらカッターの刃やらを片付け、お互い大笑いした。
それから、もっと親密な付き合いになり、白河は大学時代から好きだったと告白。萩野はそれを受け容れた。萩野が小説家を志しているのを知って、なによりも応援していたのは白河だったらしい。
そして、ふたりであのマンションへ越してきた。萩野も、わたしの隣人だったのだ。
「この間、婚約しました。コロネイルが思っていたよりも売れたので、わたしからプロポーズして」
萩野が云うと、白河が照れる。わたしは紅茶をすすった。
「で、わたしがひきずりだされたのは、一体どういう訳です?」
「すみませんでした」
白河が頭を下げ、萩野がそれを見た。「わたしも聴いてないんです。どうしてなの、ひさしくん」
「俺、心配だったんです」
白河は項垂れたまま続けた。
「コロネイルは、たしかに、いろんなところで評価されてて、売れてます。でも、次の本が売れるかどうかわからない。紫衣はずっとそれを不安に思ってて、俺、なにかできないかなって。それで、たまたま探偵さんとあった時に、宣伝になるんじゃないかって思ったんです。以前、別の場所に住んでいた時に、猫をさがしているひとが訊ねてきて。もう五年くらい前なのに、未だにその猫のこと覚えてるんです。だから……」
「わたしが、萩野紫衣さんをさがしています、とやれば、何人かの頭に萩野紫衣の名前が残ると考えた、ってことですか」
「俺にできるのはそれくらいで……小説も、面白いとしか云えなくて……ストーリーとか、キャラクターとかについてはさっぱりだから。サイン会も、少しでもひとが居たらいいと思って」
成程、彼の目的はわかった。要するに、ステルスマーケティング、というやつだろう。巧妙なのかずさんなのか。
わたしは紅茶を飲み干すと、伝票を持って席を立った。「あなたは萩野さんの為になってるじゃないですか?」
「え?」
「憎たらしくて、最初はコロネイルと対立し、喧嘩ばかりだったフルス。でも、彼女を助けて、庇ってくれたフルス。フルスはドイツ語で、川って意味ですよね」
萩野へ問いかけると、彼女は赤くなった。「フルスは医者になって、コロネイルに結婚を申し込む。白河さん、もしかして、あなたの親御さんは官僚なんじゃないですか?」
白河が口をぽかんと開けた。そうみたいだ。
「ちゃんと食べてる?」
赤ん坊を抱えた妹がやってきた。わたしはソファに寝転がって、うーんと唸る。三日に開けずやってくるのだから、産休の意味がない。
育休明けの弟が、厨房でおそろしいものをつくってくれた。チーズマカロニだ。「あれ、お前も来たのかよ」
「なによ、来たら悪いの」
「わるくないけど」弟は妹から目を逸らすと、フライパンを自慢げに持ち上げた。「ほら、できたよチーズマカロニ。いいチーズつかった。白河さんからもらったやつ」
「あっそ」
「お医者さんの云うこと聴けよ」
「聴いてる」
チーズマカロニは油で光っている。
あのあと、わたしは白河の紹介で、ある医者のクライアントになり、治療をしていた。食が細っていることを指摘されている。
白河のような、善良で、ある種間のぬけた人間だけなら、世界は平和だ。わたしは一度、失敗していた。
まだ両親が生きていた頃、妹をさがしているという人物に、その女性の居場所を教え、あと一歩でその女性が怪我をするところだった。いや、へたをしたら死んでいたかもしれない。
事実、妹だったのだが、兄妹だろうとなんだろうと確執は生まれる。遺産がどうのこうのという、金持ち特有の事情だったらしい。
なんとか事件はふせいだものの、わたしは怪我をし、しばらく入院した。それ以降、人捜しの依頼をうけるのは極力避けるようになり、次第に食事に対する意欲を失っていった。砂を嚙むようで、味がしなくなってしまったのだ。
わたしはチーズマカロニをつついて、口へ運んだ。最近少しだけ、味を感じるようになってきた。処方されたサプリメントがきいたのかもしれないし、白河のまぬけで、浅はかで、でも愛らしいあの行動が、わたしの心になにかしらの好影響を与えたのかもしれなかった。
弟が姪っ子の頬をつついて遊んでいる。妹がTVをつけた。「コロネイル、はじまるよ」
「ああ」
「これ、映像が綺麗だって評価されてるんだって」
「全然引き延ばさずに、最終回まで来ちゃったなあ」
あまり、興味を持てなかった。わたしはマカロニを突き刺しながら、TV画面をぼんやり眺める。大人になったフルスは、やっぱり少し、白河に似ていた。萩野は公私混同するタイプらしい。
ぎいっと、廊下に面した扉が開いた。「あのー」白髪の女性が顔を覗かせる。上品なツイードのジャケットを着て、耳には本物の真珠が光っていた。
妹が立ち上がり。「はい、なにかご用でしょうか」
「はい。わたくし、白河先生から、こちらで犬をさがしてもらえるって聴いて。凄く可愛い子なんですけど、庭から出てしまったみたいで……わたくし、白河先生のご実家の、隣に住んでおりまして……」
お金持ちの依頼者を、本当に、白河がつれてきてくれたらしい。弟がわたしに目配せして、低声で、やったな姉ちゃん、と云った。