礼拝
紫がかった白い霧の中を、何かに躓いたり穴に落ちたり障害物にぶつかったりしながら歩き続けると女神像の建てられた場所へ出る。円状に設置された女神像を境に霧が晴れていた。
洞窟の中のように薄暗い空間の足元は50センチメートルほど水没しており、石畳の間から水草が生えて白い魚が泳いでいた。
中心には白い花に囲まれた教会のような石造りの建物。
「げ、何これ。」
ヨウは赤く爛れている己の手に眉を潜める。回復しては爛れて血が滲み、再び回復しては爛れて血が滲むという異様な光景を繰り返していた。
≪毒だね。≫
「毒?」
目に見える異変も嗅覚に感じる異変もないというのに。付与がなければ何かしらの体調不良に見舞われていたかもしれない。
≪それも致死毒。この霧に無色無臭の猛毒ガスが混ざっているんだよ。普通の人間なら体中の穴という穴から血がにじみ出て数秒で死に至るだろうね。≫
「そんな中で平気で歩いてる私って凄くない?」
≪はいはい凄い凄い。そろそろ君の体に戻るよ。≫
「え?やだよ。」
当然のように拒否するが当然のように無視したヴィクトルはヨウの体に溶け込んだ。すると碧と翠のオッドアイはガーネットのような深紅色に銀髪は混じりけのない純白へと色が変わった。
≪せめて許可とれクソジジィっ≫
唯一の自由であるヨウの思念が頭の中で響き渡った。見た目はヨウ体の操作はヴィクトル、脳内の思念はヴィクトルとヨウという奇妙な生き物だ。
「ここに入った時点で見つかってるだろうしぼちぼち調律師がくるんじゃない?ヨウに対処できるの。」
≪だったら目が覚めたころには全て終わっている全身麻酔的な効果を所望するよ。≫
視覚も聴覚も感覚も共有されているのに体は思うように動かない。まるでゲームの操作キャラクターになった気分だ。
「体感型のアトラクションだと思って楽しみなよ。早く済ませたいなら黙っててね。」
他人事のようにヴィクトルが笑うと上から奇妙な音がする。
「おいでなすったね。」
上を仰げば鳴き声を発しながら薄桃色のクジラが教会の上を旋回していた。いつの間に現れたのか、何故クジラが宙を泳げるのかと疑問は尽きない。
「毒は仕方ないとして幻覚まで効かないなんてな。」
低い声に視線を正面に戻せば、前髪の一房だけ萱草色のポイントカラーの入った深緋の髪と深紅色の目をした男が現れた。同時に回りを見渡せば10人程度の人間に囲まれている。全員調律師だろう。
「ラッテンフィンガーは強制催眠を誘発する電磁神経刺激装置。俺には無効だよ。」
教会を囲う白い花はラッテンフィンガーと名づけられた強制催眠にて幻覚を見せる旧時代のセキュリティ装置だ。使い方によって安全に対象者を退けることも、残酷に対象者を処分することも出来る。
しかし、電子機器を無効化するヴィクトルには唯の白い花の飾りでしかない。
「俺は夢寐の箱庭の浄化の始祖メルビン専属護衛の補助調律師、通称コン。ヨウに取り付いた始祖ヴィーには統括より捕縛令がでてる。平和主義な俺の為に大人しく同行してもらえるかい。」
「致死量の毒を浴びせといて平和主義なんて笑えるね。」
「苦しみもなく絶命するなんて平和だろう。」
殆どの力を失っていてもヴィクトルは始祖だ。余裕をみせているがコンと調律師達は臨戦態勢を崩さない。どうしたものかとヴィクトルは息を吐く。
「一応言うけど大人しく通してくれるかな。」
「通すかどうかは俺たちが大人しく通した後、あんたがどうするかによるんじゃない。」
「こうゆうやりとり面倒くさいなぁ、やっぱりユーレに任せればよかったよ。」
ヴィクトルが一歩踏み出すと、空気がピリッと緊張に包まれる。陣形を組んだ調律師達が飛び掛かった。背後から殴りかかる棒状の武器を持った調律師を躱し、左右から薙ぎ払われる長剣と短剣を受け止めて持ち主ごと凍らせる。無慈悲に躊躇いのないヴィクトルに怯むことなく四方より調律師の猛攻が続く。
銃弾も炎の矢も届く前に落とされ、武器も攻撃的な特殊能力もヴィクトルには届かない。
旋回する桃色のクジラが見守る中、調律師達は数分で一人残らず氷の像へと変えられた。
≪ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、鬼畜・ツェペシュ、ヴラド・ドラキュラァァ、冷血・アントワネットォォォ。≫
「うるさいし何言ってるかわからないけど、ここまで黙ってた事を評して体を返してあげるよ。」
ヴィクトルは再び思念をヨウの体から出して雪の結晶となる。瞳のと髪の色も元に戻り自身の体を取り戻したヨウはへたり込む。
歌うように鳴きながら旋回していた桃色のクジラがゆっくりと降りてきた。
手のひらサイズの雪の結晶となったヴィクトルの前に、体長1メートルほどのクジラが止まる。
≪メルビンでいいのかな。800年ぶりだね≫
≪ええ、待っていたわ。ドロシーから話は聞いてる。こっちよ。≫
≪ドロシーが?≫
≪忘れたの?始祖同士は離れていても声が届くじゃない。≫
メルビンと言われたクジラは宙を泳ぎヨウと雪の結晶を案内を始める。
≪ドロシーが話したってことは俺の企みも知ってるんだよね。なんで協力するのか理解できないね、君は俺の事嫌いでしょ?≫
≪私を嫌っているのは貴方じゃない。≫
≪俺が嫌いって言ったら思う存分悲観ぶれて楽になるかい。≫
ヴィクトルの皮肉にメルビンは押し黙ると教会の中へと入った。礼拝堂を通り抜けて階段を下る。
≪今更かもしれないけど、後悔してるのよ。≫
≪君は昔からどっちつかずだったよね。楽そうな方に流されてころころ意見を変えてさ、今もレイモンドがいなくなったから俺に味方すれば助かるとか思ってるわけ?≫
≪もう、疲れたのよ。今の状況が終わるならなんだっていいわ。≫
≪相変わらずの自己憐憫ぶりに吐き気がするよ。≫
ヨウには解らない話をメルビンとヴィクトルが繰り広げる。中々重い会話内容だが見た目は雪の結晶と桃色のクジラ。シュールな光景にヨウは目の輝きを失いつつ距離をおきながら後を追いかけた。
石造りの階段を歩き続けると広い空間へ行き着く。隙間なく重ねられた石造りの壁はところどころ淡く光っている。
床には20センチメートルほどの水が溜まっていた。
ほのかに輝き隠された祭壇のように幻想的な場所に宝石の原石のような輝く石と一体化した女性がいた。
これが始祖メルビンの供犠となった姿だ。
ヴィクトルは再びヨウと一体化する。今度は体の所有権までは奪わず、髪に留まるだけだ。
≪ヴィクトル、私はどうなるの。≫
≪知らないよ、君がどうなろうと俺にはどうでもいい。≫
ヴィクトルが辛辣な言葉を放つ中、ヨウが恐る恐るメルビンに手を触れる。触れたところから凍てつき透明なクリスタルのように変化した。
≪……私のせいなのね。≫
そう言い残し、メルビンの依代だった薄桃色のクジラはひび割れて土人形のように崩れた。
≪さて、次に行くよ。≫
ヴィクトルはヨウから離れると変化したメルビンにも崩れた依代にも目を向けずに次の目的地へと向かう。
「滞在時間短っ。もう少しゆっくりすれば良いのに。ってゆーかクジラさんに冷酷すぎない?」
≪ゆっくりする意味がわからないよ。ミュンヒハウゼン症候群患ってる女に構うだけ時間の無駄だし。≫
「何そのほにゃらら症候群って。」
知らない単語に眉を潜めて口をへの字にめげたヨウにヴィクトルは面倒くさそうに溜息を出す。もしここがヨウのいた時代の地球ならば“ググれカス”くらいの罵倒を放っただろう。
≪ミュンヒハウゼン症候群。虚偽性障害の一種だよ。不幸自慢と悲劇自慢で同情されたいかまってちゃんって言えばわかる?≫
「あぁ、悲劇のヒロインぶりっ子ってことね。」
細かく言えば違うが大体のニュアンスは一緒だ。
≪ヨウの無知なんとほっといて俺は早く終わらせたいんだけど。≫
「はいはい、お年寄りってせっかちだよね。老い先短いと焦らなきゃ生きていけないの?」
ヨウは急かす雪の結晶に嫌味たっぷりの返事を返す。いくら疲労することがなく24時間365日無休で動ける体だとしても、精神衛生上休憩がほしいものだ。
≪のんびり構えて、周りに置いてけぼりくらいまくった君よりマシだよ。≫
「うるさいなぁ、新人社員にスパルタ過ぎるんだよ。調律師なんて労基に訴えたら絶対に勝てるくらいパワハラのオンパレードじゃん。」
≪いるよねぇ。たいして働いてない使えない半人前以下の癖に文句だけはニ人前の人。≫
ヨウが一言文句を言えば何倍にも返ってくるヴィクトルの皮肉。
冗談抜きで役立たずだったヨウは二の句が継げない。
≪あーあ、私って本当にお荷物社員だったわ。そう思いながらヨウは数ヶ月前、任務で訪れた地での出来事を回想した。≫
「勝手に人の思考を捏造しながらナレーションしないでよ。」
頭を掻きむしりながら苛立つヨウは深い霧の中、迷うことなく進むヴィクトルを一泡吹かせる方法を考えながら歩いた。
◆メルビン…霧の都イエロの中心で浄化する供犠。
◆夢寐の箱庭…深い霧に覆われたイエロの中心部。常時深い霧に覆われているため人が住むことができない。
◆ラッテンフィンガー…プリムラ・カタータのような白い花球状の花。強制催眠を誘発する電磁神経刺激装置。
空飛ぶクジラとかファンタジーっぽい。




