濃霧
「魔法で楽したいとか、乗り物で楽したいとか贅沢言わないからせめて人の歩く道を歩きたい。」
ヨウは小さな願望を呟きながらほぼ垂直の崖を登る。深い霧で周りが見えないことが唯一の救いだろう。標高2000メートルを超える現在位置で広大な景色が見えようものなら正気を保っている自信がない。
≪疲労がないって便利だね。常に全力出せるから何の取り柄も能力もない君でも楽々ロッククライミングできちゃうんだもん。≫
ヨウの周りをふよふよと浮いている雪の結晶ヴィクトルの悪口に返す言葉も無かった。無視を決め込んで手足を引っかける岩肌の凹みと出っ張りを探す。
なんとか右手の引っ掛かりを見つけ全体重を預けると左足を2センチメートルほどの凹みにかけてよじ登る。次に左手を掛ける隙間を見つけて体重を預け、右足の足場を探してよじ登る。単純で地道な作業を何十時間しただろうか。既に登り始めて2回目の夜になろうとしていた。
≪今、ヨウがロッククライミングしてる崖は6万メートルの巨木の切株だって言ったらやる気でる?。≫
「は?なにそれっ?」
突拍子もないヴィクトルの話にヨウは手を滑らせて落ちかけた。6万メートルということは上空60キロメートルであり、地球で言えば中間圏と呼ばれる領域だ。オゾン層とオーロラの間くらいだろうか。
≪巨木の森は宇宙からも見えたから宇宙樹の森なんて呼ばれててね、木の頂上に宇宙ステーションに繋がるエレベーターが建設されてたんだよ。≫
かつて直径20キロメートル、高さ6万メートルの巨木から出来た森だった。木の根から生えるひこばえですら数千から数万メートルもあったのだ。登る前に見た縦縞模様のある崖は木の化石だったということだ。
≪実際に宇宙樹の頂上付近に設置された施設からエレベーター乗って宇宙ステーション経由して第一衛星基地に連れていかれたしね。≫
「何そのSFとファンシーの合成話は。」
空想科学小説のような体験談にヨウは頭を抱えたくなる。実際の両手は全体重を支えるために大忙しであり頭を抱える余裕などない。
「まず、木が6万メートルも育つわけないでしょ。木が根っこからお水吸い上げるのは物理的に考えたら百メートルくらいが限界だし吸い上げられても高いところでは気温の低下で凍っちゃうって知ってデビルズタワー巨木の切株説砕かれてショック受けたもん。」
森や丘が超巨大樹の切り株であったという説を知った時に好奇心を擽られ調べに調べて夢を壊される情報まで調べて後悔した事は記憶に新しい。
≪だから地球とは物理学も生物学も理が違うんだってば。生身の地球人放り込んでも死にはしないってだけで気圧も重力も惑星の外周も質量も違うんだから。そもそも現在知り得ている科学が全て真実とは限らないでしょ。ロマンを捨てちゃいけないよ。≫
「話が壮大すぎてついていけないんだけど。」
異世界の定石たる動物や種族はいないが、R-0009の世界には斜め上から度肝を抜かされる。専門知識を持った物理学者や生物学者であれば心躍るような異世界かもしれないが、ファンタジー異世界に夢見るヨウにとっては魅力を感じない。
異世界転移ファンタジーの王道パターンが何一つないのだ。同僚である調律師達の異能を駆使した戦闘は拍手喝采ものであったが所詮は他人の能力だ。自身が使えなければ面白みもないだろう。
≪ヨウは妄想世界で生きてる癖に変なところで頭固いよね。≫
「妄想世界で生きたくて調べすぎて何度も現実を思い知ったのよ!!」
≪興味のあることは何処までも突き進む研究者タイプだね。だったら第一衛星には海があるって言っても信じないか?≫
「は??」
あまりに突拍子のない話題にヨウは崖から滑り落ちた。咄嗟にヴィクトルが氷の足場を作ったため数メートルの落下で済んだが下まで落ちたらと考えると身の毛がよだつ。
≪第一衛星って青と白でソーダのフレーバーアイスクリームみたいな色でしょ?あれの青い部分がブルーハワイみたいな色の海なんだよ。≫
深呼吸をしながら落花の恐怖を逃がしているヨウにヴィクトルは呑気な会話を続けた。
≪因みにもう一つの衛星は赤交じりの白でストロベリーフレーバーアイスクリームみたいだよね。≫
丁度、雲のような霧の切れ目から夜空に輝く衛星の姿が顔を出す。ヴィクトルがアイスクリームのようだと比喩する二つの衛星は夜空に輝いている。
「……お腹空いた。」
恐怖状態から落ち着きを取り戻して空を見上げたヨウはぽつりとつぶやく。実際は空腹などないし食事も必要がない。実際に何十日も水すら口に入れてないのだ。しかしながら食べ物の話題がでると味覚が求めてしまうもの。
アイスクリームの口になってしまったヨウは意気消沈しながら再び崖を登り始めた。
「あとどのくらい登るの?先も見えないし、果てしないよ。」
≪丁度半分登ったくらいじゃないかな?≫
「半分!??」
付きつけられた現実にヨウは目玉が落ちそうな程見開く。ここまで登るのに2度目の夜を迎えている。つまり登りきるまではあと二回程夜を迎えなければならないのだ。
「無理、心が折れそう。」
蝉のように岩に張り付きながらヨウは登る手を止めた。呑気に話しかけてくる相手がおり、作業自体も単調であるが苛酷過ぎる。
≪泣いても喚いても選択肢は登る一択だよ。あ、俺が体の主導権を貰って登るって手もあるけど。≫
究極の選択肢に少しだけ揺らぐが、ヴィクトルに体の主導権を渡したくない。意識も五感もあるのに表情さえも自由に動かせない感覚が気持ち悪いのだ。金縛りと同等に辛い感覚を何度も味わいたくない。
「ってゆーかさっき落ちそうになった時みたいに足場作ってくれればいいじゃん。階段作ってよ。」
≪やだやだ、他力本願な奴って。何で俺が君なんかの為に労働を強いられなきゃいけないわけ?落ちそうになったら助けてるだけ感謝してほしいものだね。≫
見た目は雪の結晶であるがヴィクトルの小馬鹿にするような冷笑が余裕で脳内変換される。
「クッソジジィ。」
忌々しそうに歯ぎしりしながら、協力を諦めたヨウは再び崖を登り始めるのだった。
◆宇宙樹…直径90キロメートル、高さ6万メートルの巨木。現在は切り株の化石となっている。
◆第一衛星…青と白でソーダのフレーバーアイスクリームみたいな色をしている。青い部分がブルーハワイみたいな色の海。
◆第二衛星…赤交じりの白でストロベリーフレーバーアイスクリームみたいな色をしている。
数千メートルのロッククライミングって心が折れる。




