水溜
顔に大きな痣や傷跡があったら。突然変異で生まれつき髪色や瞳の色が他人と違ったら。大きな病気をして体に傷があったら。幼少時の出来事で心に闇を抱えていたら。
自分がそうだったらカッコいいのに。
思考に余裕ができると、そんな空想が頭に浮かぶ。真剣に物思いにふけるあまり、常に真顔で話しかけずらいと言われたことすらあった。
それでも夢のような空想の想像は自由で快楽的であり、止めることなどできない。
先天性の疾患でとびぬけて頭が良かったり一部の分野に長けていて持て囃されたり、前世の記憶があり前世の国へ行ってみたり、自分にだけ幽霊が見れて悩んだり、超能力が使えてバレないように悪戯や人助けをしたり。
色々な状況を自身に置き換えてこうだったらいい、ああだったらいいと非現実的な事ばかり考えている。
誰もが標準で当たり前だと思いこんでいる平凡で平和な普通の幸せを手にしていたからこそ、そんな痴がましい妄想ができていた。
思い描く普通を手に入れるために藻掻いている人の事なんて考えた事もなかった。
普通に囲まれて普通の中で身を置いて過ごしているから特殊な環境はフィクションなのだ。
特別に幸福というわけではないが、格段に不幸でもない。
裕福でも貧乏でもない中流の家庭で育ち、ごく普通のパートの母と中年太りを気にするサラリーマンの父。家から徒歩圏内に配偶者に先立たれて独り身となった祖父が住んでいる。
美人ではないが醜悪でもない容姿を持ち、人より飛びぬけて勝っている特技はないが全てにおいて人より劣っている事もない。成績も平均的で普通は出来て当たり前の事は当然出来て、普通出来ないようなことは出来ない。
いつも真ん中で、何もかもが普通。
昨日と同じ様な今日を過ごす事に不満を感じたこともなければ、現状の生活に暇を覚えたことも嘆いたこともない。
少し変わっているところと言えばライトノベルやゲームを好み、趣向が過ぎてお年頃特有の黒歴史を現在進行形で築き上げている事くらいだろうか。
しかしながら思春期には独特の趣味にどっぷるとはまりやすいものであり、成長とともに制御できるようになるものだ。
毎日平和に平均点、平均値、平均的で平凡な日常を送っている。
それが宮野 葉湖という14歳の少女の人生だった。
2013年5月29日午後3時51分。
何もない平日の学校帰りだった。降りしきる五月雨の中、翌日の小テストを憂鬱に考えながら横断歩道を歩いていたら水たまりに落ちて沈んだ。
海外のドッキリ番組のように道路の水たまりに足を入れた瞬間、文字通り全身が沈んだのだ。
横断歩道には淡い青色の傘だけが残されていた。
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葉湖の身体は浮遊力など無視したかのように何所までも沈んでいく。
水流と水圧に目を開ける事は出来ないが固く閉じた瞼越しにも眩しさを感じる。道路の水たまりに落ちて眩しいという現象が起こるなど不思議だがその事象を気にする余裕などなかった。息も出来ない中、顔の穴という穴から水が入り込んでくるのだから苦しくてたまらない。
強くなっていく死の恐怖に気がふれそうになった直前、息苦しさも水圧も無くなり目を開くと沈んだ筈の横断歩道に立っていた。なんだったのだとあたりを見回して目を見開く。
視認できる景色は学校帰りの横断歩道。しかし先ほどまでいたはずの通行人は誰ひとりおらず、車などの街の喧騒が何一つ聞こえない。
雨音すらしない静寂に耳が痛む。
何、これ。
動けずに呆然としていると先ほどまで葉湖がさしていたはずの淡い青色の傘を持った人物が歩いて来た。その人物はゆっくりとした足取りで葉湖に近づきながらにっこりと笑う。
男とも女とも見られる中性的な麗人。
肩まで伸ばした黒髪に紫の瞳。健康的な白い肌。くっきりした顔立ちは見るからに日本人特有の平たい顔ではない。しかし知りえる白人の特徴とはかけ離れており、こんな顔立ちの人種がいただろうかと思考を巡らす。明らかなのは100人中100人が美人と答えるような美貌の持ち主だった。
人がいたことに安心したもつかの間、ゲームやCGアニメーションに出てくるような出立の異質な人物の登場に身構えるしかない。
彼は葉湖の前で止まると、淡い青色の傘を差しだした。
「チュートリアルへようこそ宮野葉湖。私は682代目管理調律師統括の通称シドです。」
聞いたことがあるようでない人気声優のような俗に言うイケメンボイスで紡がれた言葉は理解しがたい台詞だった。
◆宮野葉湖…普通の女子中学生。明日の小テストが憂鬱。
◆シド…682代目異世界派遣管理調律師統括という長ったらしい肩書を名乗ったイケメン。
異世界転移は突然に☆