花心
壊されて荒れた食堂の片づけを済ませたネオは暗い雨の中を歩いている。レース模様の入った薄桃色の傘は一輪の花が咲いたようだ。片付け出したのは朝だというのにあと数時間で朝を迎える時間だ。一人で片づけたためにかなりの時間を要した。割れた食器にドアやテーブルも壊れ、食べ物が落ちた絨毯の染み抜きまでしていたのだから早く片付いたほうだ。
「ゴリカは来る度に何か壊すから困った子だにゃん。」
ぼやきながらネオは足を進める。目的は出かけたまま帰ってこないライネとドロシー。
いつもの場所にいるのだろうと心配など微塵もしていない。ネオが転移すると同時期から隠居生活を送っているが、ライネは能力が無くても強いのだ。百数十年ほど前までは剣一本で最前線に立ち、歴史的建造物に英雄としてステンドグラスの絵になっているほどだ。
「花の舞う街、亡霊の街。地図から消された知られざる街。
幸福に最も近い誰もいない街。絶望に魅入られた悲劇の街。
闇夜に紛れて亡霊が揺らめく。 雨音に紛れて亡霊が囁く。
願いを叶えよう、望むもの全て叶えよう。
代価は願いと同等の大切なモノ。
願いが叶い歓喜する人。失ったモノに哀傷する人。
星の数ほど夢を喰らい、願いの数だけ涙を啜る。
花の舞う街、亡霊の街。地図から消された知られざる街。」
少し高めのネオの歌声が暗闇に響く。
この街の半分は水に沈んでいた。その一箇所に瓦礫が重なって橋のようになっている箇所がある。街が一望できるような高さもなく、格段に景観が良いとも言えない場所。
迷うことなく進むネオの進行方向の先でライネは瓦礫の上に座っていた。
「ライネ様。」
いつもの声色でネオが話しかけるも、何の反応もない。無視をしているのか聞こえないのか。
虚ろに開かれた眼球には何も映されておらず、何よりも光がない。何を思っているのか、あるいは何も考えていないのか。微動せず、人形のように座っている。
瓦礫の沈んだ大きな水たまりの池の水面に視線を向けたままだ。第一衛星と第二衛星が隣り合うように映り、雨が波紋を作って歪ませていた。
「ライネ様。」
もう一度呼びながら、ネオはライネの服を掴む。ライネは振り返るものの、何も言わずに顔の位置を元に戻した。
「お片付け終わりましたよ、帰りましょう。」
「先に帰っていいよ。」
いつもなら聞き入れるライネの言葉にネオは横に首を振る。
「空が綺麗だし。」
「え?」
唐突に言われて空を見上げる。雨雲の合間から朧に衛星が覗いていた。雨が仄かな明かりに照らされ、星が降ってくるようで美しかった。
「キレイですね。」
そう言ってネオはライネを後ろから抱きしめた。少し冷えたライネとネオの体温が重なる。人外となった調律師でも温もりは感じられた。
「ライネ様、ここでかまいませんので最後は傍にいてください。」
「……最後?」
ライネは抱き着くネオを振りほどき、身体ごと振り向いて目を合わせる。ネオはにこやかに笑っていた。
「先程、強制送還プログラムを発動するレイさんの声が聞こえました。どうやらもうすぐお別れのようです。」
穏やかに告げられた言葉にライネの表情が悲しみに歪む。
「……ごめん。」
ポツリとライネが呟いた。
「ネオはもう一度やり直せるのに巻き込んでごめん。」
「いいんです。ライネ様。この50年間、ネオは貴方と過ごせて幸せでした。」
ネオが協力したのはライネの傍にいたかったというだけだ。
海に沈み、祝福の中で安らかに息絶えることができるとネオは微笑んだ。今度はライネがネオを抱きしめる。
「不思議なものですね。ここに来たときはあんなに帰りたいと思っていたのに。結婚を決めていた恋人もいたんですよ。」
「会いたいって毎日泣いてたね。」
ネオは転移した当初、今のような明るさも笑顔もなく突然切り離された幸せな時を恋しがって悲しみに暮れていた。時を戻せるとしても100年は長い。
「でも1年、5年、10年、50年と過ごすうちに霞んでしまいましたし、今更ライネ様のいない世界になんて未練などありません。」
「浮気者だね。ネオは。」
「女心は移ろうものですよ、ライネ様。」
クスク笑い声を上げてネオは抱きしめるライネに身体を預ける。
「ライネ様、ありがとうございした。」
雨音に包まれた優しい時間。
せめて静かに、せめてネオが望む別れであるようにドロシーは二人を見守った。
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衛星ががどれほど動いただろうか。
東の空は薄明るく色が着いてきたというのに、更に色濃く雨雲が覆い空を闇が呑み込む。霧のように細かく降っていた雨が大粒の雫に変わるまで時間はかからなかった。
唄が聞こえる。
雨音が耳鳴りのように木霊して旋律を作り出す。空耳や幻聴ではなく箱庭内で起こる現象の一つだ。この空間ではいつも何かが唄っている。
ライネは瓦礫に寄りかかり、今にも胃の中の物を全て吐き出してしまいそうな気持ち悪さに襲われた。
いくら雨雲が厚くても、夜明けの光は雲を突き抜けて、辺りを薄暗く照らし出す。泥のように濁った灰色の空を見上げて、息を吐く。
親しい者の喪失は何度経験しようとも慣れることがない。一日中墓穴を掘って過ごした時期を思い出す。
数分前までそこにあったネオの温もりは彼女とともに跡形もなく消えてしまっていた。
立ち上がると鉛のような空気を入るだけ詰め込み、おぼつかない足取りで歩き出した。
「ラーイネさーん。」
低い声が空気を震わせて、振り返った。ライネは自身の名を呼んだこの声の主を知っている。
案の定、目の前には最も会いたくない人物が立っていた。ルカが来て、ネオが消え、そしてこの男。統括が反逆者の粛清に本気で取り掛かったのだとライネは確信した。
「感動の初対面なのに、その“嬉しそう”な顔はなんだよ?」
雨が一層激しくなり己の呼吸音さえ聞こえない中、彼の声だけは良く通る。
灰色の髪に緋色と翠色のオッドアイをした男に嫌悪感と恐怖感が苛み自然と表情が歪む。鼻持ちならない男の名前をライネは静かに呼んだ。
「……アーロン。」
名を呼ばれた男は、ただ冷笑を浮かべてライネに近付く。それ以外の表情は何一つ持ち合わせていないかのように薄く口元を歪めて冷たい視線で射抜かれれば動くことはできない。
「俺をゴミみたいな目で見るライネさんは、俺の言いたい事、分かるかな?」
アーロンの冷たく低い声が圧死させんばかりの重さで圧し掛かる。ライネが無言で首を縦に振ったら『当たり前か』と言葉を口先で弄んだ。
「ヴィーはどーこだ?」
「知らないよ。」
即答した後、アーロンは笑い、ライネは俯いた。
「誤魔化せると思ってんの?」
恭しく頬を撫でられ、ビクリと体が跳ねた。驚くほど過剰に反応する。ライネにとってアーロンは恐怖の対象でしかなかった。ライネだけではない。アーロンは旧式の調律師に対して無差別に恐怖を与える存在だ。
統括直属の特命調律師。痛覚無効と再生能力の付与を無効化し、反抗を許さない調律師を粛清するための調律師。特別に誂えられた多種の能力の中には圧倒的な威圧を放ち相手を強制的に恐れさせて押さえつける能力が付随する。
ライネの頬に添えられたアーロンの手が離れた瞬間、視界が一変した。
≪ライネっ。≫
焦るドロシーの声。
ライネは赤く腫れ上がる右頬に痛みを感じる。殴り倒されたと気付いたときにはアーロンの足がライネの頭から地面に落ちたドロシーを踏みつぶしていた。
「ドールっ」
止めようと放った付与すら凍らせるライネの能力はアーロンに届かなかった。
「出来損ないが俺に勝てる気でいるワケ?」
見下された言葉にライネは目を逸らした。強制的に引き出される恐怖心に小刻みに震える様があまりにも可哀相でアーロンの加虐心を強く煽った。
それから、殴って、蹴って、殴って、殴って、殴って。
気付けば数十分、アーロンはライネを殴り続けていた。声も出せずに蹲って自分を守ろうとする姿が憐れで楽しい。
アーロンはライネの腹を蹴り上げて首を掴み、瓦礫の壁に押し付ける。締め付けられた気道から必死に呼吸をしようともがく姿に嗤った。
「ははははははははっ。無様だな。いい気味。俺が優しいうちに言う事聞いておけばよかったんだよ。そしたら苦しまずに壊してやったのに。」
力任せに地面に叩きつければ、額から血を流して小さく呻くライネ。
笑いながら殴るアーロンは狂っているように見えるが残虐性の高い彼はいたって正気だ。心を痛めることなく他者を虐げられるアーロンだからこそ違式の調律師として仲間を粛清する『懲罰』の任務を遂行できるのだった。
髪を掴み、上を向かせれば赤い目元と切れた唇と痣のある頬でライネの顔は鮮やかな赤で染まっていた。
「ヴィーはどーこだ?」
小首を傾げて再度聞かれた質問に、ライネは答える力もない。
アーロンの表情を見る余裕すら無かった。白くぼやけ始めた脳では雨音の騒がしさすら聞こえない。鋭い痛みが全身に走っても自分がどういう状況にあるか分からなかった。
頭が混乱して、思考は停止し、ただ冷たい雨の感触と恐怖があるのみ。
「答えろよ。」
耳に吹き込まれ、無意識に体は反応して右手を見せた。そこには複雑な模様で彫刻が施された指輪が嵌まっている。アーロンはその指輪を大事そうに白い指から抜き取るとライネから手を放した。重力に沿って地面に倒れる音は、あまりにも惨い。
「つまらない意地を張るから痛い目見るんだ。」
「う・・・ああああああああああっ。」
響き渡った絶叫。アーロンの片手がライネの腹部に食い込んでいる。肉を抉りながら引き抜けば大量の血が飛び散った。
投げ飛ばされ、痛みと白濁する意識が浮き沈みを繰り返す。
雨に混ざってアーロンの笑い声が聞こえる。
ライネが感じるのは全身から溢れかえる恐怖と痛み。
これで終わりなのだと意識が途切れるそうになる直前、自分を呼ぶ声がした気がした。
◆アーロン…統括直属の特命調律師。任務は懲罰。調律師を粛清する調律師。
ネオちゃ―――――――ん(泣)




