予期せぬ旅立ち
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「フェリシアッ!!」
その声が聞こえた時、幻聴かと思った。暗闇や、通り過ぎる人、そして何よりも自分の中の得体の知れない何かに怯えながら暗い路地に身を隠し、どのぐらい経っただろうか。
フェリシアの身体はすっかり冷え切り、自分の震えが寒さのためか、それとも先程感じた恐怖のせいか、判断がつかなかった。
――化け物!
耳の奥にあの時のルークの声がこびり付いて離れない。
目を閉じると白い炎が浮かび、知らず歯が鳴った。
膝を抱えて途方に暮れるフェリシアの耳に、此処にいる筈の無い人の声が聞こえた。
驚いて顔を上げると、汗だくのシスター・セレナが其処にいた。
「シスター・セレナ……っどうして」
驚きの声を上げるフェリシアに構わず、シスター・セレナはぎゅうっとフェリシアを抱き締める。
「よかった……フェリシア………無事でよかった……!」
温かい体温に包まれた瞬間、必死で堪えていたものが決壊した。フェリシアの瞳から大粒の涙が流れ出す。しがみ付くフェリシアの背中を、シスター・セレナが優しく撫でる。
「シスターっ………私、私……!」
「わかってる。怖かったでしょう」
「わ、わたしっ、訳がわかんなくてっ、ルークがっ、ルークに、連れられて……」
「――ダイン達に乱暴されたのね?」
流れ落ちる涙をそのままに、フェリシアは何度も頷いた。
「な、ぐられて……痛くて、怖くてっ……そしたら、そしたら………」
「しっ!静かに!」
シスター・セレナが周囲を確認しながら、声を落とす。目線で指示された通りに息を潜めゴミ箱の陰に身を隠すと、通行人の話し声が近付いて、再び遠ざかっていった。
フェリシアの隠れたこの場所は、幸いというべきか、人通りが比較的少ないようで、二人の姿は今の所誰にも見咎められていないようだ。背後の建物はどうも宿屋と酒場が一体になっているようで、時折酔っ払い達の笑い声が聞こえてくるが、それが都合よく二人の声を掻き消してくれた。
ふぅ、と思わず止めていた息を吐くと、シスター・セレナは再びフェリシアに向き合い、素早く頭に帽子を被せた。
「帽子……どうして」
「貴方が帰ってこないし、ルークの様子がおかしかったから探しに行った先で拾ったの」
シスター・セレナの口から自分を裏切ったルークの名前が出て、思わずびくっと震えてしまう。
「ルークは………院に帰ってるの……?」
「ええ。錯乱していて、今は拘禁室にいるわ」
ぽつりと呟いたフェリシアを、シスター・セレナが痛ましい目で見ている。
「フェリシア、時間が無いからいくつか確認したいの。ツライかも知れないけれど、正直に答えて」
「……うん」
「今日、ルークに連れられてダイン達の所へ行ったのね?」
切羽詰まった様子のシスター・セレナに、少し緩んだ気持ちを引き締めてフェリシアは首肯する。
「ルークはアンさんのお手伝いに来てほしいって。ネイサン院長も許可した、って聞いて、それで……」
「そう……。それで、奴らに襲われそうになって、それからどうしたの」
「ほ、炎が………白くて……」
あの時の光景や身体の熱を思い出すだけで声が震える。そんなフェリシアの手をシスター・セレナが励ますようにそっと握った。
「身体の中が熱くなって、あ、あいつらに触られた所が気持ち悪くて………ルークは助けてくれなくてっ………嫌だ!って思って気が付いたら、あ、あいつら……白い炎に包まれて……わた、私、何がなんだか、全然分かんなくて……」
「ルークは?」
「ルークは……逃げた。化け物!って、私に叫びながら……」
そう口にした瞬間、シスター・セレナが怒りを表すようにフェリシアの手を握る手に力を込めた。
フェリシアの瞳から、ぽろりと、一粒涙が落ちる。
「し、シスター………私、こわい。あれ……私じゃないよね? 化け物なんかじゃないもん。私がやったんじゃ……」
「フェリシア。よく聞いて」
思い出してはパニックになりそうなフェリシアの瞳をシスター・セレナがじっと覗き込む。
「いつも着けているペンダントがあるでしょう? あれ、今も着けている?」
「着けてたけど……さっき気付いたら壊れてて……。多分、襲われた時に石が割れちゃったみたいなの」
胸元から台座だけになったペンダントを取り出すと、シスター・セレナが小さく息を呑み、それからフェリシアの身体を検分し始めた。
「顔、腫れてきているわね……。他に殴られたところは?」
「うんと、よくわかんない。身体も殴られた……と思う」
あの時は痛みよりも抵抗するのに必死だった。
「ごめんなさい、すぐに手当してあげたいけど……。他に、痛む所や体におかしい所はない?」
おかしな所……。そう問われて、フェリシアは言葉に詰まった。
あの時身体の内に感じた暴力的な熱は、今は鳴りを潜めている。
けれど、なくなった訳ではない。それはフェリシアの内側でマグマのようにドロリと溢れ出すのを待っている。
「わからない……。けど……身体の中に、すごく熱い何かが、ぐるぐるしてる」
フェリシアが答えると、シスター・セレナは一瞬辛そうに顔を歪めて、ぎゅっと目を閉じた。
目を開けた時、何かを決意したような強い光が瞳に宿っていた。
「フェリシア、時間が無いからよく聞いて」
シスター・セレナが茫然とするフェリシアの肩を揺さぶる。
「し、シスター……」
「フェリシアの今の状態ははっきり言って、かなり危険なの。本当は一から説明してあげたい。でも時間が無いの。だから今は、考えては駄目。深呼吸して、心を落ち着けて平静を保つのよ」
「でもっ……!」
「少なくとも安全な状況に身を置けるまでは、余計なこと――自分の感情が大きく揺れるようなことを考えては駄目よ。いいわね?」
正直言って、シスター・セレナの意図することはよく分からない。どんなに大人びていても、フェリシアはたった十歳の少女で、強靭な精神力なんて持っていない。
信頼していた兄貴分に裏切られ、自分よりずっと年上の男達に襲われ、その男達が突然あんなことになり――凪いだ心を維持することは難しい。本当は今すぐにでも大声で泣きわめきたいくらいだ。
(でも、それが必要だっていうなら……とにかく平常心でいろ、ってことだよね……?)
真剣な表情のシスター・セレナに、フェリシアはゆっくりと頷いた。
「シスター・セレナ、私、これからどうしたら……」
フェリシアの言葉に、シスター・セレナが顔を歪める。その表情だけで、もう今までの生活には戻れないのだと、分かった。
「残念ながら、この街にいるのは危険だわ」
「シスター……、私、もう院には戻れない……んだね。騎士の人達に捕まる?」
「いいえ」
貴族とトラブルを起こして生きていける平民はこの国にはいない。
悲壮な覚悟を決めたフェリシアの予想に反して、シスター・セレナはきっぱりとそれを否定した。
「あなたを捕まえさせたりしないわ。そんなことさせない。あなたのお母さんと約束したもの。あなたを守るって」
「シスター・セレナ……でも――」
「逃げるのよ。此処を出て、安全な所まで」
時間が無い。再びそう言って、自分が着ていたローブをフェリシアに羽織らせると、シスター・セレナはそのまま暫く隠れているように言い含めて、人目を避けながら大急ぎで去って行った。
(逃げるって、何処へ? 逃げて、それから? 安全な所なんて……)
考えるだけで、不安に支配されそうになる。
途端、自分の内で渦巻く熱が強くなった気がした。意識してみると、自分の中に今も渦巻く熱の残滓はフェリシアの感情が不安や恐怖に反応して強くなるようだ。シスター・セレナの言葉は、それを分かってのものだったのかも知れない。
落ち着け、落ち着け、と心の中で只管唱えながら押し寄せる不安や恐怖を振り払う。
どのくらい時間が経っただろう。シスター・セレナが再び戻って来るまでの数十分の間、暗闇でじっと膝を抱えるフェリシアは生きた心地がしなかった。
再び戻ってきたシスター・セレナは汗だくで、その手にはショルダーバッグが握られている。中に入っていたのは、少しの着替えと金貨の入った皮袋、僅かなパンと水。
「ごめんなさい、これくらいしか持たせてあげられなくて」
「シスター・セレナ! 他は兎も角、こんなお金、貰えません」
「いいから、持って行きなさい。本当は一緒について行ってあげたいけれど、私にはまだやることがあるから、行けない。ごめんね」
「そんな、シスターが謝ることなんて……」
滲む視界の先で、シスター・セレナがそっと首を横に振る。
「あなたに伝えるのは酷だけれど、大事な事だから伝えるわね。多分もう少ししたらフェリシアの身体に異変が出てくる筈よ。高熱が出たり、四肢が千切れるような痛みが襲ったり、何日も目覚めない可能性があるけれど……具体的にどんな形で現れるかは私も分からない。それこそ、命に関わるような症状が出る可能性もある。本当なら、ネイサン院長のようなお医者様に診てもらわないといけないけれど、それは出来ないから……」
「そ、ですか……」
「だから、ひとまず身を隠せる場所を見つけたら、身体を休めて、回復に努めるのよ。その間、平常心を保つことも忘れないで」
何もかもが突然で実感が湧かないけれど、孤児院に戻れないフェリシアがネイサン院長に診てもらえる筈もない。
なんだ、どちらにしても私の命は危ないらしい、と自嘲的な笑みを漏らすフェリシアの首に、シスター・セレナがそっと何かを掛けた。
下を向いて確認すると、結んだ革紐の先に赤い石の嵌った、鈍色の指輪が通してあった。
「これは……?」
「私の夫の、形見よ」
「えっ!? なんで……」
「目印になるから」
「目印?」
「そのネックレスにはある人の魔力が籠められているの。その人なら多分、あなたを……フェリシアを助けられる……と、私は思ってる。応じてくれるかどうかは、賭けになるけど。少なくとも、それを持っていればその人にはフェリシアの居場所が分かる筈だから」
「でも、この指輪、シスター・セレナにとって大切なものなんじゃ……」
「大切よ。だから、フェリシアに持っていて欲しいわ」
微笑んだシスター・セレナの瞳は潤んでいて、フェリシアはそっと頭を下げた。
「さぁ、いつまでもこうしては居られないわ。出来るだけ早く、出来るだけ遠くへ行くのよ」
言うが早いか、シスター・セレナが呪文のようなものを唱えると、目の前の地面が隆起してあっという間に本物そっくりの馬が現れた。
「シスター・セレナ……これって……」
「魔法で作ったゴーレムよ。昔から得意だったの。時間がないわ、さぁ乗って」
目を丸くしたフェリシアがシスター・セレナを見上げる。
ゴーレムの存在自体はフェリシアでも知っていた。辺境伯家の騎士団の中には、高度な土魔法の使い手がいて、隣国との小競り合いではゴーレムで戦うこともあるらしい、と街の住民が話しているのを聞いたことがある。
実際に目にするのはこれが初めてだ。市井には高度な魔法を発動出来る程の魔力持ちはおらず、いたとしても直ぐに貴族や有力者に目を付けられ、あっという間に囲われてしまうからだ。
フェリシアはこれまで、シスター・セレナが魔法を使うところなど、一度も見たことがなかった。
これほどの魔法の使い手ならば、修道院や孤児院で楽に済ませることが出来る場面は数え切れない程あったというのに、だ。
それは意識的に、シスター・セレナが魔法を使えることを隠していた、ということ。
他のシスターとは一線を画す美貌や美しい言葉遣い、所作。言葉の端々に滲む教養。
フェリシアも馬鹿ではない。シスター・セレナが元はいい所のお嬢様で、本来普通の平民とはかけ離れた所で暮らしていたのだろう、ということは察していた。他のシスターや孤児も同じように勘付いていた筈だが、多かれ少なかれ事情を抱えている人間の集まりでは、個人の事情を詮索する人間はいなかった。
そのシスター・セレナを、こうして魔法を使わざるを得ない状況に追い込んでしまったことが悔しくて、フェリシアは唇を噛んだままそっと頭を下げた。
「シスター・セレナ、ごめんなさい。ありがとう」
「御礼なんていいの。さ、落ちないようにしっかり掴まって。このゴーレム馬は私の魔力を動力にしているから、夜明けまでは持たせてみせるわ」
鞄を肩にかけ、ジャンプしてゴーレム馬に乗る。馬はしっとりしていて、少し冷たい。
薄く微笑んだシスター・セレナの顔を、目に焼き付ける。
ああ、何気なく過ぎていく毎日が、こんな風に突然終わってしまうって知っていたら。
もっと一日一日を、大事に過ごしたのに。
浮かんでくるのは後悔ばかりで、涙が零れ落ちそうになるのを必死に堪える。
「シスター・セレナ。また、会える?」
「……ええ、きっと会えるわ。だからフェリシア、生き延びるのよ」
互いに別れの言葉は言わなかった。
こくりと頷くと同時に、ゴーレム馬が走り出す。
落ちないように掴まりながら、後ろを振り返ると、夜の闇の中、シスター・セレナの頬で涙が一筋、零れ落ちるのが見えた。
遠く、遠く。
流れていく景色を見ながら、暫くの間ただじっと前だけを見つめていた。
漸くここから冒頭部分に繋がり、このあと短めのシスター視点を挟んだ後、新しい展開に入っていきます。
引き続きお付き合いいただけると幸いです。