裏切り
午後、食堂横の空きスペースで孤児院のチビっ子達を昼寝させていると、ルークに呼ばれた。昼寝の時間があるのは五歳以下の子どもだけだ。それより年上の子ども達は、その時間は自由に時間を使っていいことになっている。
リリーは眠って嫌な夢を見るのが怖いらしい。いつも眠るまでフェリシアの側にいたがるので、フェリシアは自然とチビっ子達が昼寝している間、その横で静かに本を読むのが日課になっている。
気持ちよさそうに寝息を立てる子ども達を起こさないよう注意して、手招きするルークの元へ向かう。
「シア、ちょっと頼みがあるんだけど」
「なに?」
「実はアンさんに庭に生えてるぺぺの実の収穫を頼まれてるんだ。小遣いもきちんとくれるっていうから引き受けたけど、よく考えたら俺一人だとまずいかなって」
「ああー、そうかもねぇ」
アンさんは近所に住む美しい未亡人だ。年齢は多分二十代前半くらいで、去年旦那さんを事故で亡くしてからは女手一つで幼い子どもを育てている。
ペペの実は木に連なって出来る粒上の緑の実のことで、塩漬けにしたり、乾燥させて黒くなった実は肉や魚の調理に使ったりする香辛料になる。
アンさんの家の裏庭にはペペの実が沢山生る木が何本も生えている。元々は薬草採取を専門に仕事していたアンさんの旦那さんが、冬の仕事が無い間の収入源にするために空いていた裏庭に植えたそうだ。
乾燥させたペペの実はとても良い値段で売れるが、収穫にはかなり手間がかかる。木から回収した後丁寧に汚れを落とし乾燥させ、さらに一粒一粒軸から外して……とかなりの工程がある。まだ小さい子どもの世話をしながらアンさんが一人でそれら全てこなすのはかなり大変なので、小遣いと引き換えにルークに仕事を頼んだのだろう。
実はこういう小遣い稼ぎというか、男手を必要とする依頼がルークに持ち込まれることは結構ある。冒険者と呼ばれる人たちに依頼をすると、冒険者ギルドを通す分色々と手続きが必要な上にそこそこの報酬を払わないとならない。
ルークは体格が良く、身体を鍛えていて力もあるので、冒険者ギルドに依頼を出す程ではないけれど男手が欲しい時、近所の奥様方からしたら孤児のルークは都合がいいのだ。春も近づき独り立ちの時期も迫っているので、ルークも快く受け入れている。
ちなみに、孤児に仕事を頼むことは特に禁止されていない。フェリシアも何度か室内で出来る簡単な雑用を引き受けたことがある。とはいっても、決して治安のいいとはいえないノースマルゴでは、孤児で女のフェリシアはルークのように外に出て仕事を受けることは難しい。
ルークは今回もいつものように仕事を受けたのだろうが、まだ十四歳とはいえ、もうすぐ十五を迎えるルークは、背が高く鍛えた身体をしていて、傍から見れば立派な大人の男性だ。そのルークがまだ若い美人の未亡人の家に一人で出入りするのは、周囲の人から誤解を受ける可能性が高い。
アンさんはまだ若く、同じ女のフェリシアから見ても魅力的な女性だ。暫くは亡くなったご主人を偲んで暮らすだろうが、この先ずっと一人身ということはないだろう。ルークと妙な噂が立つのはアンさんにとっても不本意に違いない。
「――だから、シアにもついて来てもらえないかと思って。アンさんから貰う小遣いも勿論半分渡すからさ」
「うーん……ネイサン院長はなんて?」
フェリシアとしては別に構わないが、許可が出るか気になった。
一応、フェリシア達孤児の保護者はネイサン院長なので、外に出るのにも彼の許可がいるのだ。
「……ああ、大丈夫だって。ちゃんと許可は取った」
何気なく見上げたルークの顔が一瞬強張った気がしてどことなく違和感を覚えるものの、お金を稼げるのは孤児であるフェリシアにとっては有難いことなので、すぐにそちらに気を取られてしまった。
「そうなの? ならいいわよ。いつ行けばいいの?」
「この後すぐだ」
「ええっ! もう、そういうことなら早く言って!? この子達が起きるまでに終わるかなぁ。あっ、それに私今日は夕食当番なんだ」
「……なるべく夕食の支度までには間に合うように帰ろう」
「わかった。それじゃあ急がないとね! 準備してくるから、玄関で待ってて」
外出する時に被る帽子を取りに急いで部屋へ向かう。この時、もしフェリシアが振り向いていたら、ルークの様子が何処かおかしいことに気付けたかも知れない。
この時のやりとりをその後何度も思い返すことになるとは、この時のフェリシアには思いもよらなかった。
***
シスター・セレナに言い含められている通り、きちんと髪をしまい帽子を被ったフェリシアは畑作業をする時のズボンに着替えると、ルークの待つ玄関へと急いだ。前回孤児院の門の外に出たのはマーケットの時だが、その時は他にもシスターやナディーンらがいたので、ルークと子ども二人だけの外出はなんだか悪いことをしているようでドキドキする。
キョロキョロしたい気持ちを我慢してルークの背中を追う。
「ルーク、歩くの速い」
「ああ、悪い」
背の大きなルークと小柄なフェリシアではそもそもの歩幅にかなり差がある。指摘するとルークが少々ばつの悪い顔で足を緩めた。
「なんかふたりだけで出掛けるなんて緊張するね!」
「そうか?」
「ルークはひとりで外によく出てるからなぁ。私は殆どないから」
「こないだマーケットに行っただろう」
「あれくらいだもん」
「あんまり、はしゃぐなよ?」
「わかってるってば!」
口を尖らせながら、さり気なく周囲を観察する。
滅多に外に出ないフェリシアは、当然見覚えのない道だ。大通りを抜けると、少し薄暗い路地を何度も迷いなく曲がって行く。
再び速足になってきたルークに置いて行かれないよう懸命に歩いているが、なんだか先に進むにつれ人通りが少なくなっていくような気がするのは気のせいだろうか。
「ねぇ、ルークはアンさんの家の場所わかっているのよね? この道で本当にあっているの? ぺぺの木なんて見当たらないけど………まだつかないの?」
返事のないルークを見上げ、問いかける。
「ルーク? どうしたの? なんか変だよ?」
「………あと少しで着くから」
硬い声のルークの答えは、どこか噛み合わない。視線を合わせようとしないルークに違和感を覚えつつもついて行くと、薄暗い奥まった道の、あばら家の前で足を止めた。
「……此処なの?」
「おう、待ちくたびれたぜ」
不安気なフェリシアの耳に聞こえた声は、傍らのルークから発せられたものではなく――いつの間にか背後に立っていた見覚えのある男のものだった。
一週間前、街で声を掛けてきたあいつ。かまどの灰のような色の髪に、濃い紫の瞳。辺境伯家のドラ息子だ。
相変わらず派手な服のボタンは胸元までだらしなく開き、あちこちにアクセサリーをつけ、髪は後ろになでつけている。平民ではないと一目でわかる出で立ちで下卑た笑いを浮かべるその姿には、どこか薄汚れた雰囲気が漂っていて紫色の瞳は妙にギラついていた。
「なぜ、貴方がこんなところに……」
「あん? 知らなかったのか? ココは俺たちの遊び場だぜ。ま、いわゆる隠れ家みたいなもんー?」
何がおかしいのか、男はゲラゲラ笑いだした。
反射的に後ずさるフェリシアの背中に、硬いものが当たる。振り向くとルークの胸元だった。いつの間にかフェリシアの後ろに立っていたルークのその態度は、まるでフェリシアが此処から逃げるのを防ごうとしているようで、フェリシアは混乱する。
さっき、あの男は『待ちくたびれた』と言っていた。つまり、フェリシア達が此処に来るのを予め知っていた、ということだ。
「ルーク……? アンさんの家に行くんじゃなかったの……?」
仰ぎ見たルークは顔を背け、決してフェリシアに視線を合わせようとしない。
「ははっ! まぁだわかんねぇの? 笑える。孤児のくせに箱入りのお嬢様かよ。言ったろ? ルークくんは、オレ達のオトモダチだって。カワイイ女の子と遊びたいなァーって言ったら自主的に連れて来てくれる、っていうから待ってたの。いやァ、ホントいいオトモダチ持ったぜ」
「そんなの嘘よ!」
反射的に叫ぶ。必死に去勢を張るが、絞り出した声がみっともなく震えているのが自分でもわかる。
「嘘だと思うなら、本人に聞いてみろよ?」
そんな訳ない。フェリシアとルークの付き合いは長い。なんせ、フェリシアが生まれた時からずっと同じ孤児院で過ごしているのだ。たまに喧嘩することはあっても、孤児院で暮らす皆は、私達は、家族だ。
(だから、違うよね?ルークが自分で望んでこいつらに私を引き渡そうとなんて、するわけないよね?)
ルークを勢いよく振り返る。ルークは先程と同じ場所で、何も言わず俯いて拳を握って立っていた。
「ルーク、違うよね……? 違うって言ってよ。こんなとこ、早く帰ろうよ」
どうして、目を合わせてくれないの。
どうして、何も言ってくれないの。
(これじゃ、まるで……。)
「ルーク……」
ルークの態度は、男の言葉が真実だと肯定しているも同然だ。
自分の顔から血の気が引いていくのが分かる。今鏡を覗いたらきっと、真っ青な顔が映ることだろう。
いつの間にか、辺境伯家のドラ息子の両側を挟むように、仲間の男達が立っていた。以前街で見た時にも連れていたのと同じ二人だ。きっとこの二人も貴族だろう。尊大な態度がそれを裏付けている。
自分が不味い状況に置かれていることを、フェリシアも流石に理解した。今すぐにでも走って逃げたい。それなのに、既に男達に周囲を囲まれている。
まだ日が沈むまでには時間があるというのに、周囲には他の人の気配は感じられない。冷たい汗が一筋、フェリシアのこめかみを流れていく。
この国は身分差が激しく、貴族が平民を傷付けても大した罪には問われないが、その逆はほぼ例外なく死罪と決まっている。目の前の男達は既に貴族社会からは鼻摘みされている存在であろうことはほぼ間違いないが、碌に働いていないのに毎日遊び惚けていることから、きっと貴族家から除籍はされておらず、貴族としての恩恵は未だ受けているだろう。
抵抗するにしても、逆にフェリシアの方が罪に問われかねない。
家族だと思っていたルークに裏切られ、フェリシアはすっかりパニックに陥っていた。助けを求めようにも周囲に人は無く、逃げ道も塞がれている。
まだ十歳の子どもでしかないフェリシアにも、目の前の下卑た男に捕まればどうなるか想像がつく。
「こっちに来ないで!」
「いいからお前は大人しく、オレ達の相手をすればいいんだよ。 大人しくすれば優しくしてやってもいいんだぜ?」
ニタニタと笑いながら手下の男の一人がフェリシアの手首を掴む。
「痛いっ! 放して! 触らないでよ!」
「ははっ、イキがいいなァ。生意気な女は嫌いじゃない」
「誰かっ助けて!」
男達がどっと笑い声を上げる。
「ほーんと、なんで女ってどいつもこいつも皆おんなじ反応すんだろうな? 助けなんか来るわけねぇだろバァーカ!」
げらげら笑う男の腕さえまともに振り払えない自分に、悔しくて悔しくて、涙が溢れてくる。
「なんだ、泣いてんのかぁ? イキのいい女は嫌いじゃないが、泣かれると萎えるんだよ」
「お前、ダイン様の気分を悪くさせるんじゃねぇ!」
ドラ息子の名前はダインというらしい。ダインが心底うざそうに言うと同時に、手下の男そのニの平手がフェリシアの顔目掛けて飛んでくる。容赦なく振り下ろされた一撃の、あまりの痛みに一瞬意識が飛んだ。口の中一杯に鉄の味が広がる。被っていた帽子はどこかに飛んでいき、視界にピンクブロンドの長い髪が揺れる。
「おっ、その髪色、お前やっぱりどこぞの貴族の落とし胤かぁ? 恨むなら親を恨めよぉ」
「うるさいっ! 触るな!」
手首を掴まれたまま殴られた衝撃で地面に倒れ込んだフェリシアは、抵抗虚しくそのままずるずると引きずられ、あばら家の中に引きずり込まれる。
「いやだ! やめろ! 放せっ!」
「うるせえ!」
夢中で手足を滅茶苦茶に振り回すと、容赦なく拳が飛んでくる。続けざまに殴られ倒れるフェリシアの身体にダインが圧し掛かり、手下が二人がかりでフェリシアの手足を押さえつける。
十歳になったばなりの少女の力が成人男性に敵う筈もなく、フェリシアに出来ることはただ、下劣な男を睨みつけることだけだった。殴られた頬が、燃えるように熱い。
「お前は黙って言うこと聞きゃいいんだよ! 何の役にも立たねぇお前みたいな孤児のゴミがオレ達お貴族様のお役に立てるんだから喜べよ!」
心底楽しそうに笑うと、男は振り向いてルークを呼ぶ。
「おい、ルーク! お前はそこで見張りしとけよ! それとも、この間みたいにお前も混ざるか?」
信じられない言葉に、フェリシアは一瞬抵抗することも忘れ、呆然とルークを見つめた。
(『この間みたいに混ざるか?』 今、こいつ、そう言ったの?)
蒼白を通り越して真っ白な顔のルークは泣きそうな表情で只管首を横に振っている。
「なんてこと……」
男達の様子から、こいつらが手慣れているのはわかる。きっと、礼拝に来ていたおばさま方の言う『悪さばかり』の悪さの中には、今フェリシアにしているような、理不尽な暴力行為も含まれていたのだろう。
そして、ルークが彼らに加担するのは、これが初めてではないのだ。この所ルークは頻繁に孤児院の外に出かけていた。もしも、その度に彼らの悪行の片棒を担いでいたのだとしたら……。
十年間共に過ごしたルークへの信頼が粉々に崩れ去り、絶望に塗り替えられていく。目の前が真っ暗になったようだ。
知らず、涙が溢れ頬をつたう。
「なんで……ルーク……騎士になるんじゃなかったの。騎士になって、みんなを守るんじゃなかったの……」
茫然とするフェリシアの服に、男達が手を掛ける。
掠れた声は、言葉にならない。頭の中はぐちゃぐちゃで、涙が止まらない。
目の前にいるのはもう、自分が知っているルークではないのだ。身体の奥底から感じたことのない熱が次々と湧きあがり、全身をめぐって膨れあがる。あまりの熱に、あちこちの神経回路が焼ききれそうだ。
フェリシアの様子の変化に気付かない男達の臭い息が顔にかかり、ごつごつとした手が身体を這いまわる。
――気持ち悪い。気持ち悪い。キモチワルイ。臭い。汚い。触るな。
ぐるぐると体内に渦巻く熱の奔流が、外に出せ、この熱に身を任せろと激しく主張する。ピキリ、と何かにひびが入る音がした。
「……に……わら……でよ………」
「あ?」
「――私に触らないでっ!」
そう叫んだ瞬間、身体の内側で何かがはじけ、視界が真っ白に染まった。次の瞬間、フェリシアを押さえつけていた男達の重みは消えていた。
「うわああああああああああ!」
凄まじい呻き声の方へ視線を走らせると、三つの真っ白な炎の塊の中で、何かが燃えていた。肉が燃える独特の嫌な臭気が充満し、それの正体があのドラ息子達だと、断末魔の如き叫び声で理解する。
「な………に……なん、なの、これ…………」
上体を起こして後ずさる。余りの恐怖に声を失ったフェリシアはその場に縫い留められたように動けない。
見たことも無い白い炎は何故か、すぐ近くにいるフェリシアには少しも熱く感じない上に、男達がのたうち回る床や壁にも燃え移る様子はない。
(こんな火見たことない……。これは……魔法の炎?)
「あつぅいいいいいいい!」
「やめろぉおおおお!」
「助けてくれえええええええー!」
男達を焼く炎はますます激しく燃え盛り、全身を焼いていく。茫然と見ていると、ポロポロと少しずつ、彼らの身体の一部が灰になって崩れ落ちていく。
目の前の状況が理解出来ない。自分は先程までこの男達に襲われていた筈だ。
一体何が起きたというのか……。
おろおろと視線を彷徨わせた先には、驚愕に目を見開いたまま、ルークが立ち竦んでいた。視線が交わり、反射的に彼に向かって手を伸ばそうとしたフェリシアに恐ろしい者を見る表情を向けると、
「ひぃッ、ば、化け物……!」
「る、ルーク――」
「うわああああ! こっちにくるなッ! あっちへ行け! この化け物ッ!」
言うが早いか、背中を翻し走り去る。
「ば、化け物………私が………?」
ルークはもしかして、この三人を燃やした――否、燃やしているのがフェリシアの仕業だと思ったのだろうか。だから自分にあんな言葉を――。
「違う!」
思わず叫ぶ。
違う! 違う! 違う! 私じゃない!
知らない! こんなの、知らない!
やったのは私じゃない! 私のわけがない!
魔力のない自分に、出来るわけない。
可能性があるとすれば、魔力持ちのルークの方で――そこまで考えて、ふと気がついた。
さっき、男達に組み敷かれている時に感じていた、自分の内に渦巻く強烈な熱。強大で暴力的なまでに熱いうねり。
それが、綺麗さっぱり消え失せている。
いつだったか、ルークとした会話が頭を過る。
『ねえ、魔法を使うのってどんな感じ?』
『どんな感じって言われても説明に困る。そもそも俺、魔力持ちって言ってもほんの少しだし使える魔法なんて殆どねえよ』
『えーでもルークは魔力量は少なくても、なんだっけ、身体強化?とかいうやつが使えるんでしょ?』
『短い時間ならな。こう、胸の辺りから指の先まで、全身に魔力をめぐらせるんだ』
『ふーん……めぐらせるって、どうやって?』
『そうだな、説明が難しいけど、身体の中に流れている温かい何かを広げていく感じ』
『温かい何か? それが魔力?』
『うん。人によって感じ方は違うらしいけれど、俺はそう感じる』
『いいなぁ、ルークは魔力があって。私も魔力持ちだったらよかったのに』
『こればっかりは、遺伝らしいから仕方ないな』
そう言って、ルークはフェリシアの頭を優しく撫でた。
――身体の中に流れる温かい何か。
あの時、ルークは魔力のことをそう呼んでいた。
(じゃあ、さっきのアレは……魔力? 私がこの人たちを燃やしたってこと?)
そんな筈はない。だって自分に魔力はないと、シスター達もネイサン院長も言っていた。母親が下級とはいえ貴族だったから、生まれた時に何度も検査したって。
気持ちを落ち着けようと無意識に胸元に下げた母の形見のペンダントを握ろうとすると、ペンダントトップについていた石がいつの間にか砕けていた。襲われた時に割れてしまったのだろう。
信頼していたルークからの裏切りに遭い、下卑た男に襲われた挙句、唯一の肉親の形見のペンダントは粉々になり、目の前で人が燃えているのを目の当たりにしたフェリシアの頭の中は滅茶苦茶だった。
背後では男達の絶叫が響く。
「どうしよう。どうしよう、どうしよう……」
このまま此処にいれば、遅かれ早かれ見つかってしまう。
この人たちに助けを呼ぶべき? でも誰に言えばいいの? どう見ても普通の炎ではない。もしこれを孤児で平民の自分がやったと思われ捕まれば、命はない。ネイサン院長やシスター、他の孤児たちに迷惑がかかる可能性もある。
今更ながら凄まじい恐怖がフェリシアを襲う。
「に、逃げなきゃ……」
力の入らない足を叱咤し無理矢理立ち上がる。何がなんだかわからないけれど、兎に角、一刻も早く此処から立ち去らなければいけない。
フェリシアは転げる様にあばら家から抜け出した。背後から聞こえる獣のような咆哮を振り払い、只管遠くへと駆ける。辺りはすっかり暗くなり、シャツ一枚で過ごすには寒すぎる気温だったが、それどころではないフェリシアは寒さを感じなかった。
滅多に街に出ない上、あばら家まではルークに追いつくのに必死で道順も覚えていない。
そもそもフェリシアに、孤児院以外に行く当てなどない。気付けばまったく知らない場所にいて、辺りを見回しても人っ子一人いない。
夜の街は危険だ、と理解していても、疲れ切った頭は働かず、脚が重く動かない。今になって伸し掛かってきた男達への嫌悪と恐怖、肉が燃える嫌な臭いを思い出し、吐き気が混み上げるままに道端で吐いた。胃が絞られているように何度も餌付き、空っぽになるまで吐く。酸っぱいものが口中に広がり、涙が出てくる。
一度決壊すると、もう駄目だった。次から次へと涙が溢れ、視界が滲んでいく。
今更になって襲い掛かる恐怖に身体の震えが止まらない。
どうしよう、どうしたらいいの。
暗く狭い路地に置かれたゴミ箱の影に腰を下ろし、膝を抱えて蹲る。
目を閉じれば、自分に圧し掛かる男たちの歪んだ表情や、ぎらぎらとした濁った瞳、白い炎に焼かれ転げまわる姿、そしてルークの怯えた表情が浮かんでくる。
危険な夜の街で自分以外に頼れる者もなく、気付けば石が砕け散って台座だけになったペンダントをフェリシアは必死で握りしめていた。
読んでいただきありがとうございます。
次話は明日6時です。