最北の街 ノースマルゴ(1)
くーるるるー!
孤児院の朝は早い。教会裏で飼っている鳥の鳴き声で目を覚ますと、まだ眠い目を擦りながらひとつ伸びをして、フェリシアは起き上がった。
隣ではいつもフェリシアの後をついて回る年下のリリーがぐっすりと眠っている。まだ母親が恋しい年頃なのか、いつもこうして夜中フェリシアのベッドに潜り込んでくるのだ。おかげでリリーがやって来てからというもの、只でさえ粗末で狭いベッドの左端に寄って眠る癖がついてしまった。
おやつを食べる夢でも見ているのか、リリーの唇はむにゃむにゃと動き、口端からは涎が垂れている。愛らしい姿にくすりと笑みを零しながら口元をそっと拭ってやると、身支度を整えたフェリシアはそっと部屋を抜け出した。
孤児院の裏手にある井戸から水を汲み上げ顔を洗う。冬も終わりに近づいてきたとはいえ、辺境の早朝はまだまだ寒い。井戸水の氷のような冷たさにフェリシアの目は一気に醒めた。
深呼吸して大きく息を吸い込む。朝の清涼な空気が肺を満たしていく、誰にも邪魔されることのないこの静謐な時間がフェリシアは好きだった。そのために早起きしている……と、言いたいところだが、実際は生まれた時から孤児院で育てられているフェリシアには早寝早起きの習慣が自然と身についてしまっているのが正直なところだ。
まだ少し早いが朝食の準備を手伝いに行こう。
食堂へ向かおうとした時、名前を呼ばれた。
「おはよう、フェリシア」
「シスター・セレナ!おはようございます!」
元気よく挨拶したフェリシアに美しく微笑んだシスター・セレナは、フェリシアと同じく手に小さな桶と布巾を持っていて、いつも被っているウィンプルと呼ばれるシスター帽はまだ被っていない。
平民には珍しい見事な金髪を惜しげもなく晒しているその姿は絵本に出てくる美しいお姫様のようで、フェリシアはほんの少しドキリとした。
普段は孤児達に厳しく指導することも多いシスター・セレナだが、こうしているとまだあどけない十代の少女のようにも見える。
「今朝は随分早いのね」
「へへ……ずっと楽しみにしていたから、なんだか目が覚めちゃって」
「まぁ。そういえば、フェリシアは街に行くのは久しぶりだったわね」
わくわくする気持ちを隠せず、シスター・セレナの言葉に笑顔で頷く。
今日は待ちに待ったマーケットの日なのだ。フェリシア達が暮らす此処、ノースマルゴの街では月に一度街の中心部でマーケットと呼ばれる市が開かれる。普段は何処か寂しげな雰囲気漂うノースマルゴの街に、この時ばかりは所狭し露店がひしめきあい、食べ物系の屋台からちょっとした細工物や雑貨、家具、果ては即興絵師まで、様々な人や物が集まるのだ。
フェリシアの暮らすこの孤児院も、当然ながら毎月マーケットに参加している。売り物は孤児院の皆で焼いた昔ながらのレシピの定番クッキーと、孤児院に隣接する修道院のシスター達に教えてもらいながら作った刺繍入りのハンカチやリボン、サシェなどだ。
それらの収益は全て貴重な孤児院の運営費となる。今後一ヶ月間の食生活にダイレクトに関わってくるため、孤児達も必死である。
丁寧に刺繍された小物や素朴なクッキーはファンも多く、孤児院のバザー目当てでマーケットを訪れる者もいるくらいだと聞く。
伝聞なのは、まだフェリシアがまともに街に下りたことがないからだ。
マーケットの度に孤児院で暮らす孤児達全員を街に連れていく訳にはいかない。行けるのは引率のシスター数名の他、選ばれた数人の孤児達だけだ。無論、ただ遊びに行くわけではなく、お客とのお金や物のやり取りを行わなければならないため、簡単な計算と接客が出来て、ある程度自分で自分の面倒を見られる比較的年嵩の孤児がお供に選ばれることが多い。
数日前に十歳の誕生日を迎えたフェリシアは、四年前、六歳の時に一度だけ同行メンバーに選ばれたことがある。
決して豊かとはいえない孤児院の食糧事情のためか、同年代の子供と比べると線が細く小柄で年より幼く見えるものの、生まれてすぐ孤児院に棄てられたフェリシアはその時点で一通り自分のことは自身でこなし、年下の子供達の面倒を見る余裕もあった。
孤児院という狭い世界しか知らないフェリシアが初めて見た外の世界は人や活気に溢れ、目に映るすべてがキラキラと輝いて見えた。
じゅうじゅうと食欲をそそる香ばしいソースを絡めて焼かれる串焼きや、スパイシーな香り漂う具沢山のスープ。水あめでつやつやにコーティングされた真っ赤な果実。時間を掛けて編まれたであろう複雑で精緻な模様の織物に職人の技が光る美しい木彫りの像。陽気に音楽を奏で、それに合わせて踊る人々。
初めての刺激にすっかり心を奪われたフェリシアは、シスターに自分から離れないようきつく言いつけられていたというのに、ついふらりと手を離して駆け出してしまった。
人波に押し流されあっという間に迷子になったフェリシアが発見された時、柄の悪い男たちに誘拐される寸前だった。人混みに流される内、いつの間にか決して外さないように言い含められていた帽子はどこかにいっていた。顕になった平民には珍しいピンクブロンドの美しい髪と幼いながらも整った顔立ちに目を付けられたのだ。
幸い、男らに連れ去られる前に巡回中の騎士に偶然発見され、大事には至らなかった。
当然のことながら引率のシスターには大目玉をくらい、暫らくの間罰として日曜礼拝の手伝いを命じられた。
あれから四年――フェリシアがどれだけしつこくお願いしても、マーケットへの同行メンバーに選ばれることはなかった。
しかしつい先日、漸く孤児院の院長であるネイサン様から街へ同行する許可を貰えたのだ。二度目、それも四年ぶりの街への外出にフェリシアの心は踊り、ここ数日はずっとそわそわしっぱなしだ。
そんなフェリシアの浮ついた気持ちを見透かすように、シスター・セレナは眉を寄せる。人形のように美しい顔立ちをしたシスター・セレナがそうすると、いつも以上に迫力があってフェリシアは思わずうへぇあ、と変な声を出した。
「いいこと、フェリシア? 何があっても、決してひとりで行動しては駄目よ」
厳しい顔のセレナに、フェリシアはこくこくと首を縦に振る。
「大丈夫よ、シスター・セレナ。私もう十歳になったのだもの! 流石に前回のようにはしゃいで迷子になったりしないわ」
「確かこの間もそう言って火傷してたわよね」
「うっ!」
シスター・セレナが言っているのはついこの間、食事を作る時に今まで大人に任せていたオーブンの調整を「もう十歳だから自分がやる」と言い張って、結果、腕に軽い火傷を負った時のことだろう。
「い、いやでもあれは予想以上に鉄板が重かったっていうか……」
シスター・セレナの視線は鋭い。
……一秒、二秒、三秒。
カンカンカーン! と戦いの終了を知らせるゴングが脳内で鳴る。言うまでもなく、結果はシスター・セレナの圧勝である。
「絶対にひとりで行動しないと誓いますぅ……」
「その言葉を忘れないで頂戴ね?」
未だ疑わし気な視線を向けるシスター・セレナを残し、フェリシアはそそくさと食堂へ向かった。
***
「うわあぁーすっごい賑やか!」
朝食の後、持っている服の中で一番綺麗な綿のワンピースに着替えたフェリシアは、シスター達に連れられ、実に四年ぶりに街を訪れていた。
石畳の敷かれた広場は早朝にも関わらず、既に沢山の屋台や人で賑わい活気に溢れている。何処からかギターの音が聞こえ、あちこちから食欲をそそるいい香りが漂い、朝食を食べたばかりだというのにフェリシアのお腹がくぅっ、と鳴る。
「今日はマーケットですからね。普段はもっと静かですよ」
この状態はあくまで日常ではない、と釘を指すように隣のシスターが苦笑するも、キラキラとした瞳であちこち眺めるフェリシアの耳にその気遣いは届いていなかった。
「こらシア、あんまりキョロキョロすんなよ」
浮足立つフェリシアに軽くげんこつを落としたのは、前を歩いていたルークだ。フェリシアより四歳年上の十四歳。孤児院にいられるのは基本的には十五歳の誕生日までなので、今日同行している孤児の中では最年長だ。
平民には珍しい錆色の髪と深碧の瞳の持ち主で、優し気な面立ちと温和な性格をしているため、フェリシアだけでなく他の孤児らにとっても頼れる兄貴分のような存在である。
孤児で最年長というのもだが、ルークは幼い頃から騎士を目指していて、(主に食糧事情のせいで)痩身の子供が多い孤児達の中では格段に身体が大きく力も強い。
そのため、護衛的意味合いも含めてほぼ毎回シスターに同行している。
そんな彼にとっては華やかに賑わう街並みも行き交う沢山の人々も既に見慣れた光景なのだろう。
「だって、ルークと違って院の外に出たのなんて数える程しかないんだから仕方ないじゃない!」
「まあ、それもそうか」
思わずぷくっと頬を膨らせたフェリシアは、ここ数年で急激に大人びたルークの苦笑いを見て、そういえば自分はもう十歳になったのだった! と思い出し、慌てて子供っぽい仕草を引っ込めた。
フェリシアの心情を察したらしい中年のシスターが隣でなんだか生暖かい目でこちらを見ていて、なんとなくいたたまれない気分になる。
フェリシア達はヴァイス辺境伯が治める国の北部、その中でも隣国と隣接する最北の街ノースマルゴの教会に併設された孤児院で生活している。修道院と孤児院は街で一番大きな教会を左右に挟むように建てられており、食事や洗濯その他生活のための諸々は基本的に相互協力しながら行っている。
残念なことに辺境ですぐ隣は隣国という土地柄もあって、ノースマルゴは決して治安の良い街とは言えない。横幅が十メートルはありそうな巨大な川を挟んで向こうの隣国からは領兵の監視を逃れ不法に入国してくる移民が定期的にいるし、王都で何らかの犯罪を犯した罪人が逃げ込むこともあれば、傭兵崩れのような荒っぽい男達が盗賊紛いの事件を起こすこともしばしばある。
ノースマルゴの地を治めるヴァイス辺境伯家もこれらの犯罪には手を焼いていて、街のあちこちに領の騎士団から騎士たちを派遣し治安維持にあたらせてはいるのだが、現状はいたちごっこの状態が続いている。
厳しい自然のせいか、人の住む街に下りて来ては食料を漁る危険な獣が出没することもあり、そちらの方は基本的に冒険者と呼ばれる自由民達が討伐料を貰い対応してくれているが、怪我人が出ることも多い。
そんな環境なので、普段フェリシア達孤児やシスター達が院の外に出ることは殆ど無い。教会はある意味地域の人々の駆け込み寺のような役割も果たしているため、教会を中心に孤児院と修道院をも包む大きな結界が張られているのだ。結界内にいる限りは獣に襲われることはない上に、結界の中には武器を持った人間は侵入出来ないようになっているそうなので、結界の内側で暮らすのが最も安全なのだ。
尤も、そのように恵まれた環境になったのは現在の孤児院の院長であるネイサン院長がいらしてから。なんでも、ネイサン院長は元々は王都で暮らしていた高貴なお方で――と言っても、フェリシアのような平民からすればお貴族様は皆高貴な存在なので、どのような地位の方なのかはよく知らない――ネイサン院長に何かあってはまずい、と領主である辺境伯閣下が結界を張る魔道具を設置したそうだ。
そんな訳で基本的には孤児たちもシスターらも特別な用事のない限りは結界内から出ない生活を送っているのだが、ルークはこの所頻繁に外出している。十五歳になると孤児院を出て自活しなければならないため、その準備をしているらしい。
自分も五年後には通る道だと分かってはいるが――それでも、幼い頃からずっと一緒に育ったルークにとっては、もう既にノースマルゴの街の景色は未知の世界ではないのだと思うと、なんだか面白くないような、寂しいような気がしてフェリシアはそっと息を吐いた。
迷子にならないよう注意しながらシスターについていくと、広場に出た。時計台の下に荷物を置いたシスター達は手慣れた様子で商品を並べていく。
「わぁ、こうして並べると綺麗!」
「ふふ、でしょう? あら、この一角はフェリシアが刺繍したハンカチ?」
シスターのひとりが指さしたのは、タンポポの花や菫が刺繍されたハンカチだ。
「わ、すごい。どうしてわかったの?」
「だって全部『幸福』の花言葉の花ばかりだもの。他にも『幸福』に関する花言葉を持つ花は多いのに、タンポポとか菫を選ぶところがフェリシアよね」
うんうん、と周囲のシスター達も頷いているのを見て、フェリシアは大した腕でもないのに一人前に署名を密かに忍ばせた気分になっていた自分がなんだか恥ずかしくて首を竦ませた。
「シアは意外と手先が器用だよなァ」
「ルーク、意外と、ってなによ」
「ははっ、怒るなよ。だって未だに野菜を切る手がおぼつかないだろ」
「そ、そんなことないもん!出来るもん!刺繍の方がちょっと得意なだけで……」
「ははっ!正直だな。シアは御針子に向いてるんじゃないか?」
ルークの言葉にフェリシアは表情を曇らせた。フェリシアが孤児院を出るまでに後五年の猶予があるが、その後は院を出て一人で生きていかなければならない。将来への準備は早い方がいいのはわかっているのだ。
けれど、フェリシアとしてはまだ自分の将来を決め兼ねていた。
「御針子かぁ……。そうなったら街の外に出ないといけなくなるよ」
「この辺りじゃ新しい服をわざわざ作る奴なんてそういないもんな。王都辺りまで行く方が職は見つかるよな。あと可能性があるなら領主様のとこだけど……」
「領主様の所は無理じゃない? 辺境生まれなのに辺境を嫌って、奥様もお嬢様も一年中王都にいるって聞いたよ」
「シア、お前なんでそんなこと知ってるんだよ」
「礼拝に来たおばさん達が喋ってた」
細かなことでちょこちょこと叱られるフェリシアは、日曜礼拝の手伝いを手伝わされる機会が多い。お陰でよく出入りする人の顔はすっかり覚えてしまった。
ルークは妙に納得したような顔をしている。
「ねぇ、ルークは騎士になれる……んだよね?」
周囲の浮かれた雰囲気に乗じて、実は気になっていたことを聞いてみる。
ルークは昔から騎士を目指していて、そのために努力していた。幸い体格にも恵まれ、微量ながら平民にしては珍しく魔力持ちで身体強化の魔法を使えることから、実現可能な夢として孤児院の子ども達皆で応援している。
この地で騎士になるということは、辺境伯家の騎士団に入るということだ。自警団もあるにはあるが、そちらは本業を別に持っている腕っぷしの強い男達が、副業として兼業しているイメージだ。
ルークが辺境伯騎士団の試験を受けに行ったのが数か月前。無事に見習いになれそうだ、と明るく報告したルークに、孤児院は沸いた。
ところが、その後からルークは時々憂いを帯びた顔を浮かべるようになった。以前と同じように振る舞っていても、付き合いの長いフェリシアの目には空元気に見えることも多く、ずっと気になっていた。
見習いになるための準備があるからといってルークは頻繁に出掛けるようになったのも同じ頃だ。入団前準備にしてはいささか回数が多いのではないか、そもそも騎士なる前段階の見習い騎士になるための準備とは、何を指すのか? と、フェリシアは密かに疑問に思っていた。
そもそも、ルークから見習いになれそう、とは聞いたけれど、見習いになったとは聞いていない。
準備と称して頻繁に出掛ける割には、騎士団に関する話題を口にするのを避けるルークに、なんとなく聞きづらくてこれまで踏み込んで聞いたことがなかった。
「……ああ、俺は騎士になる」
「そっか!良かった! おめでとう、ルーク」
「おう、サンキュー」
胸のつかえが取れ、にっこり笑ってシスター達の手伝いに戻ったフェリシアは、ルークが一瞬浮かべた苦い表情に気付くことはなかった。
読んでいただきありがとうございます。