王道ファンタジーとジャンルについて
ゲームから取った設定、それはファンタジーと呼べるのか?
本来のファンタジー路線について調べてみると、違った視点が得られる。そんなエッセイです。
こういう話題でいつも気になっているのは、「なろう小説しか読んでいない人」なのか、「『指輪物語』なども(最後まで)読んでいる人」なのか、ということです。
「なろうテンプレが批判された!」とかすぐ思い込んで低い評価つける。そうした行為ばかりする人がいるから「なろう」が低く見られるんだよ、そう言っている人を見ました。まずはなろう小説以外もちゃんと読んで、それから評価してほしい。
シリアスなファンタジー以外は認めないと言ってるわけじゃないので。ちゃんと文章全体を見て理解してほしい。(多少はなろうテンプレに否定的な書き方なのは認めますが)
ハイファンタジー(架空の世界の物語)というジャンルについて、ここ「なろう」にある多くの作品を読んだわけでもない私ですが、あえて一つ言わせていただくなら──「これ、ハイファンタジーじゃないよね?」という作品がある。
異世界を中心にした物語でも、この世界観はファンタジーのジャンルではないんじゃないか? と言われても仕方がない内容だと思うのは、次のような設定を採用している世界観です。
① レベル、ステータス、スキル、称号という「ゲーム」の概念が当たり前のように存在している。
② 前項目に該当し、さらに「経験値」や「スキルポイント」などの概念が登場する。
③ 竜や魔王が当たり前のように(なんの脈絡もなく)主人公の前に現れ、あっさり主人公に倒される、または味方になる(脅威ですらない)。
①と②は厳密に区別する必要も感じないほどに「ゲームから取った設定」なわけですが、もしかするとそうした作品を書いている人や読んでいる人から、「そういった概念の存在する異世界での物語なんだよ」と批判を受けるかもしれませんね。
ですがあえて言います。それはゲームの設定を反映させた世界観であり、厳密なファンタジーからはずれたものであると。
私はこれらの概念を使用したファンタジーを、ハイファンタジーとは呼べないと思っています。
いわば「ゲーム世界・ファンタジー」あるいは「ゲーム設定・ファンタジー」というジャンルだと思っています。
考えてみてください、現実世界に即した世界で「スキルポイント」や「レベルアップ」など、そんな概念が当然のように登場する違和感。
「俺は○ぐれ○タルを倒してレベルが12になったぜ!」
「俺なんかドラゴンを倒して、称号ドラゴンスレイヤーを手に入れたぜ!」
そんな会話、(オンライン)ゲームをやりすぎている人たちの会話でしょう。
つまりリアルさがないんです。決定的に。
それらの言葉が出る作品を読んでいると、当然こう思います。
「あ、これ、ゲームの中の話なんだな」と。
* * *
本来のファンタジーはあくまで現実世界と異なる世界での物語であり、魔法が存在し、人間以外の存在(亜人、獣人、妖精、竜など)がいる世界です。
根本的には現実世界の(物理)法則や、多くの現実世界に共通する観念や価値観が存在し、また非現実的な要素(魔法など)も当然あらわれてきます。
そこでは魔王がいてもいいが、決して人間と仲良くなったり、あっさりと人間の勇者に倒されるだけではいけません。
なぜ魔王があっさりと倒されたり、仲間になってはいけないか、それはファンタジーの大本の意義に理由があります。
『ファンタジー文学入門』という本から一部を抜粋します。
「ファンタジーの作品には、きまって型通りの人物が登場し、魔法使い、ドラゴン、魔法の剣といった、これも型通りの道具立てが見られる。逃避的な大衆文学の一つであるファンタジーでは、このような要素が組み合わされて、話の結末がいつも予想通りになる物語の筋立てが作られる。その結末は、きまって数の少ない善なるものが、圧倒する数の悪に打ち勝つ事になっている」
この部分以外にも、ファンタジー小説や物語について興味深い示唆にあふれた本なので、一読することをお勧めします。
この本に書かれたことだったか定かではないのですが、こんな内容を覚えています(ユング心理学の本に書かれていたものだったかも)。
「(ファンタジーの)展開において、主人公側には欠如状態(町を追い出された、大切な人を殺されたなど)があり、それを克服するために旅や冒険をする物語がファンタジーの定番」である、とする内容です。(ざまぁ展開とは復讐のお話ですよね)
欠如状態を生み出したのが魔王であれ、竜であれ、暴君であれ、──それを討伐し、平和を手にするまでの物語がファンタジーだというわけです。
この『ファンタジー文学入門』に、トールキンの言葉として次のようなことも書かれています。
「本来『ありえない事』を扱う妖精物語は、それを作り事だと思わせたり、幻想だと暗示するような物語の枠組みや設定には本質的にそぐわない」
架空の、空想上のものをいかにリアリティをもって表現するか、そこが幻想文学か大衆文学かに分かれる道、ということかもしれませんね。
小説の、架空のものだよと「ちゃかす」のは御法度だとも書かれています。
王道の、本格的なファンタジーは、過酷な状況におかれた主人公や登場人物が、あらゆる苦難を乗り越えて成長し、または絶望(仲間の死や裏切りなど)し、それらを克服してやっと目的を達成するところに、読書の喜びがあるのではないでしょうか。
そういう意味では、なろうの多くの投稿作品は「お気楽な物語」であり、言い方は悪いですが「なんちゃってファンタジー」とでも呼ばれてしまいかねないものであったり。──そこまでいかなくとも「ライト(軽い)・ファンタジー」もしくは「ソフト(軟らかい)・ファンタジー」と呼びたくなるものが多い印象です。
これは昨今の「お笑い」ブームの影響が強いのではと思ってます。なんでもかんでも「笑えればいい」みたいな人には、決して先ほどの『ファンタジー文学入門』に書かれている内容は理解できないでしょう。
最後に痛烈な批判的精神が出てしまいましたが、私はライトファンタジーを否定する気はありません。そうした楽しいファンタジーがあってもいいと思ってます。
けれど、そうした内容のものばかりが評価されているのは首を傾げます。王道の良さが失われていくのではないかと、危惧する気持ちも芽生えてしまう。
また王道とは違う、異質なファンタジーや、新しい感覚(感性)を持ったファンタジーなども生まれればいいと、つねづね思っているしだいです。(ゲームワールド・ファンタジー以外の)
新しいものを否定するのではなく(流行ばかりを受け入れるのでもなく)、新しいものを受け入れる気持ちがなければ──発展は中断され、可能性は失われていくだけでしょう。
価値のある物語が増え、それを評価される場が増えれば。そう考えずにはいられません。
❇ 「世界観」
本来この言葉の意味は「世界に対する考え方や価値観」といった、「世界とそこに生きる人間は、こうあるべきだ」といったような意味合いですが、創作で使われる「世界観」とは、その世界そのものについての意味で使われています。
❇ 「経験値」「スキルポイント」
これがあると①で取り上げたものよりも、なおいっそうゲーム世界だと認識する。もはや「ゲームの話ではない」と言われても、まったく信じられないレベルで。数値化された能力値なども、はっきり言ってゲーム準拠以外のなにものでもないだろう。
❇ 『ファンタジー文学入門』 ブライアン・アトベリー著 大修館書店。
❇ 「トールキン」
J・R・Rトールキン、『指輪物語』の作者。
トールキンの言葉だという抜粋部分はこうも読めると思います。「ファンタジー物語にゲーム用語を使用するのはそぐわない」これに目を通された人はどう思いますか?
読んでくれてありがとうございました。
大衆文学として生まれたファンタジー小説ですが、その大本は宗教的な意味を持った寓話や神話から派生したとも考えられると思います。人の想像力はどこまで飛躍するのか。
怖いくらいリアルな物語が、本来のファンタジーに必要なものではないかな……
ゲーム設定を上手く取り入れつつ、おもむきのある作品になっている物語も、もちろんあります。