お花の話2
※前回より少し前のお話
とある春の日のことだった。
だんだんあたたかくなってきた気温と穏やかなお日様に誘われて、わたくしとブランはふたり、庭に出てお茶をしていた。
公爵邸の庭園は、王城にも負けず劣らずの見事な花々で彩られている。わたくしは、そんな美しい庭園を見るのがとても好きだった。の、だが。
「桜が見たいなあ……」
……思わずつぶやいてしまうのは仕方ないだろう。だって、わたくしの前世は日本人なんだから。
この庭の花々はたしかにきれいだ。だけどやっぱり、春になると桜が恋しくなってしまう。満開の桜の下呑む酒はやはり格別なのだ。
「サクラ? 聞いたことのない花の名だな」
「へっ!?」
そんなわたくしに、ブランは紅茶を口から離して言った。不思議そうな顔にハッとする。しまった、また前世の知識をぽろっと口に出してしまった! この世界には桜なんて花、存在しないんだった……!
わたくしはなんとか誤魔化そうと、
「え、えーと、は、春に咲く花の名前なんです! このクリアネス王国では見られないんですが、ええと、たしか東方のなんちゃらとかいう国に多くて……!」
「東方? そんな遠くの国の花をよく知っているな。どんな花なんだ?」
「ええ、淡い紅色の、小ぶりな花なんですが、大きな木いっぱいに花をつけるものだから、満開になるとそれはそれは見事なんですよ。……と言っても、わたくしも実物を見たのは一回きりですが」
「ああ、そういえば昔に東方へ旅をしたことがあると言っていたな」
「はい、その時に」
わたくしは作り笑いを張りつけてそう言い切った。以前光に関する知識の出どころを聞かれたときに、『幼い頃東方を旅した時に本で読んだ』と言ってごまかしていたのだ。今回もこれ以上追及されたら何も答えられないけれど……。
「そうか、お前は花が好きだからな」
心配するわたくしとは裏腹に、ブランはそう言って少しだけ笑って、あとはすぐに別の話題に移った。
(よかった、今回も誤魔化しきれた……)
わたくしはそう思って、ほっと息をついて少しぬるくなった紅茶を口に運んだ。
こんなもの、なんでもない世間話だ。その中で出た知らない一単語だなんて、いくらブランでもすぐに忘れてしまうだろう。魔法に関することならともかく……。
だからわたくしも、こんな話をしたことすらすっかり忘れてしまっていた。
*
——そしてそれから、一か月ほどが経ったある日。
「ノワレ。今夜、時間はあるか?」
「ふぇっ!?」
日の傾きかけた夕方、研究室から帰宅したブランを出迎えると、突然そう尋ねられた。
思わずまぬけな声を出してしまったわたくしに、マロンから「淑女らしくありませんわ」という無言の圧力を感じたが、いやだって、こんなの仕方ないじゃない!?
この一か月、ブランはまた何か新しい研究でも始めたのか、帰るのが遅くなったり研究室に泊まることが増えたりしていたのだ。だからこうやってきちんと顔を合わせるのも久々で、そしてわたくしたちは曲がりなりにも、ふ、夫婦なわけで……。
(妻であるわたくしに夜の予定を聞くなんて、これはつまり、そういうことよね……!?)
どぎまぎとまとまらない頭で考える。……どう考えても、そういうことしかありえなくないかしら!?
「も、もちろんですわ! 夜なんて普段は本でも読んで眠るだけですから……!」
そう結論を出したわたくしは、ぐるぐるまわらない頭で答えた。背後でマロンの「淑女らしくありませんわ」という圧を感じたが、そんなこと気にしていられる余裕もない。
(どうしましょう、こんなの、あまりにも久々すぎて……! どんな格好で待っていればいいんでしたっけ!? ああそうだ、今夜は念入りに湯浴みもしないと……! 以前現代知識で生み出したリンスも今日はたっぷり使ってもらって……!)
混乱しながらもあれこれ考える。そんなわたくしの舞いがった頭に冷水でもぶっかけるように、いたって冷静にブランは言った。
「そうか、それならよかった。それでは夕食のあと——庭に来てくれるか?」
………………庭?
*
「えー、と……ブラン? 約束通り来ましたけど……」
「ああ、来たか」
すっかりあたりも暗くなった頃、グレイをマロンや使用人たちに預けたわたくしは、ブランとの約束通りひとり暗い庭に出た。
見慣れた庭園ではあるが、こうも暗いとまるで知らない場所みたいで少し不安になる。ブランの姿を見つけてほっとしてしまったのは、彼には内緒だ。
「それで、どうしたんです? こんな夜に、庭でいったい何を——へっ、ブ、ブラン!?」
春とはいえ夜はまだ肌寒い。軽く腕を擦りながらブランのそばに寄ると、突然腕を引かれ厚い手のひらで目の前を覆われた。いわゆる、目隠しである。
「な、なに!? なんのイタズラですの!?」
「しっ、いいから少し目を瞑っていろ。俺が合図するまで開けるなよ」
「ええ……?」
突然遮られた視界に驚きはしたが、ブランが自分に危害を加えるとも、なんの意図もなくこんなことをするとも思えないため、わたくしは黙ってそれに従った。
「いいか、いくぞ————3,2,1!」
「………………っ!」
ブランの声と共に、わたくしの目をふさいでいた手のひらが離れる。その瞬間、飛び込んできた光景に息を呑んだ。
美しい淡紅色の花が、広大な庭園を埋め尽くすように咲き乱れていた。
ずっしりとした力強い幹に、儚さすら感じる小さな花弁。風に細い枝が揺れると、小さな花びらが空に舞い踊った。
「これ……桜……?」
わたくしが驚き呆けたように呟くと、ブランが隣でにやりと口角を上げるのがわかった。それで気づく。魔法だ。魔法を使って、ブランは桜の花を咲かせたのだ。
よく考えれば、こんな夜にはっきりと花が見えるのもおかしい。花自体がほのかに発光しているのだ。天然のライトアップ——魔法で生み出した花だからできる技だ。
「すごい……きれい……」
星空を背景にほのかに光を放つ桜の花は、前世で見たどんな夜桜よりも美しかった。思わずといったように漏れたその言葉に、ブランはうれしそうに笑った。
「あいにく、“サクラ”という名の花は見つけることができなかったんだ。知り合いの植物学者や、東方の国に詳しい者にもあたってみたんだが」
「うえっ!? そ、そうなのですか。なにぶん昔のことですから、もしかしたら名前を間違って覚えていたのかもしれませんわね!?」
「ああ、そうかもしれないな。だが、お前の言っていた特徴にぴったり当てはまる花があって……それがこの花だ。どうだ? お前の記憶の中の“サクラ”はこれで合っているか?」
少し首を傾げて尋ねるブランに、わたくしはコクコクと頷いた。
「ええ、間違いなくこれが、わたくしの見たかった桜ですわ!」
「そうか、よかった」
笑って言うわたくしに、ブランは少しほっとしたように頬を緩めた。その姿を見て思う。ブランはきっと、わたくしのためだけにこの花の魔法を使ってくれたのだ。わたくしにこの光景を見せたくて、わたくしが言ったなんでもないような一言を覚えていてくれて……。
そう思うと、じわじわと胸があたたかくなるような感覚がした。心の奥がむずがゆくて、それ以上にうれしかった。
「……ねえブラン。わたくし、あいにく魔法には詳しくないのですが……花の魔法って、その花のことをよく知らないと発動しないと聞いたことがありますわ。……調べてくださったんですか? わたくしの、ために……」
「……見たいと、言っていただろう?」
おずおずと尋ねてみると、ブランはそっぽを向いてそう言った。暗闇でその表情まではうかがえないが、少し拗ねたような声色から、彼が今どんな顔をしているのかなんて手に取るようにわかった。
「——ありがとう、ブラン。わたくし、とてもうれしいわ」
そんなブランに少しだけ笑って、腕を引いてそう耳打ちする。ブランは一度驚いたように体を固まらせたが、すぐに力を抜いて「また来年も、こうして咲かせてやる」と言った。わたくしもまた、「来年が楽しみね」と笑った。そのままふたり、夜が更けるまで、花びらが風に舞うのを眺め続けた。
以来、春が来るたびに、わたくしたちはふたりでお花見をするようになる。そんなはじまりのある日の話。
……そして、これをこっそり見ていたグレイが、「お花の魔法を覚えたい!」と言い出すのも、また別のお話。