風送り
原料屋シリーズの一作です。ちょっと不思議な話であることが分かっていれば、今作のみでも問題なく読めます。
踏みしめたブーツの下でざり、と小石が擦れる。なだらかな坂道をやっと登り終えて、原料屋は大きく息をついた。傾斜は緩く外敵もいないただの丘だが、何十キロも続く坂は地味に体力を削ってくるし、この先の目的地、通称「音ノ町」には、日のあるうちでないと入れない。
「あー、怠かった」
万感の思いを込めて呟いて、そのままぐうっと背筋を伸ばす。優しい風が吹いて、彼の羽織と袴を揺らした。心地よさに息を吐いて、原料屋は丘のてっぺんから、その麓に待つ町を見下ろす。
やわらかな草原が突然現れた壁にぷつりと切れて、そこから先はごたごたした鉄の塊だ。色んな部品や破片を寄せ集めて、何十人もの職人が好き勝手にオブジェを作り上げたような、鉄と鋼の工場町。
ふと、吹く風に耳を澄ませて、原料屋は首を傾げる。普段なら既にこの距離からガチャガチャわいわい騒がしいはずの町の気配が、今日はなぜか随分と大人しい。
顔を上げたその先、先程まで晴れていた空にはもくもくと、真っ黒な雲が広がり始めていた。それはちょうど小さな町の上をすっぽり包むような大きさで。鉄の建物に生える細い煙突の数本から、黒い煙が空へ幾筋も伸びている。
「ああ、なるほど」
先程までの呑気な気分がすうっと沈んでゆくのを感じながら、彼は一人呟いた。
「死んだのか」
門番は既に黒衣を纏い、馴染みの原料屋の姿にただ小さく頭を下げてみせた。
門を入ってすぐの細い道は、隙間なく立ち並ぶ軒先とそこに並ぶ鉄塊で、実際よりも狭い印象を与える。くねくねと蛇行し何本も伸びるそれを、しかし慣れた足取りですいすいと原料屋はゆく。もうすぐ夕刻だとはいえ、やはり通りをゆく住人の姿は少なく、声もしなかった。足音、カチャカチャと何かを運ぶ音、扉を閉じる音。それだけだ。
音を扱うこの町では、死者を悼む時に一切の音を手放し、沈黙に身を沈める。
自分たちの生業、生きる糧をほんの少し手放すことで、死者への手向けとするのだろうか。嗚咽さえ静かに溢す彼らの姿を思い浮かべながら、自分なら賑やかに送って欲しいところだけれど、などと益体もないことを考えて。
やがて原料屋がたどり着いたのは細い路地のどん詰まり、傾きかけた小さな小屋だった。特に目立つところのない小さな工場は、しかし原料屋には馴染みの取引相手だ。黒手袋が、錆の浮いた扉を無造作にガンガン、と叩く。
応えはない。ふむ、と首を傾げて、おもむろに彼は扉を押した。
ギイイイイ、と耳障りな音をたてて扉が開く。中は外観通り酷く狭く、道具や鉄材がごたごたと積み上げられている。
ふと原料屋は顔をしかめた。いつも点けられていたはずの電灯は落とされ、部屋の中は真っ暗だ。唯一の窓は一番奥の壁に小さく開いており、しかしそれも、窓を塞ぐように身を屈める人影のせいで光源の役割は果たしていない。
「なんだ、いたのか」
半分ほど開いた扉から体を差し入れて、原料屋は言った。暗闇の中、うずくまっているのは小柄な老婆だった。乱雑にショールを巻きつけた背中は丸められ、背に垂れた白髪は酷く乱れている。人影はかけられた声にぴくりとも反応しない。起きているのか眠っているかさえ分からなかった。
「相変わらず商売っ気のない工場だ。あんまり静かだから留守かと思ったよ。……いや、アンタはいてもいなくても同じかな、そんなありさまじゃ」
カツン、カツンとブーツが石の床に音を立てる。作りかけの商品をひょいと手に取りながら、原料屋はさり気なく言葉を続けた。
「……死んだのは、イライザか」
びくん、と大きく影が揺れたのを横目で見て、原料屋は小さく息を吐く。ああ、ああ。一度、二度、頷いて言葉を続ける。
「残念だ。とても、残念だ」
「やかましい」
がばりと身を起こして老婆が唸った。静かに見つめ返す原料屋を睨む、暗闇の中、潤んで光る二つの目玉。
「…本心さ。あの子はいい子だった。器量も、性格も、技術者としての腕も素晴らしかった。きっと、あんたにも負けない音師に育っただろうに」
「お前のようなもんに言われなくとも分かっとるわ!」
手負いの獣が吠えるように、老婆が吠える。叫ぶ声は水分を失い、かすれ、触れれば切れる冬の風のようだった。
「この、流れ者の半端者、根無し草の香具師、なり損ないめ。お前にあの子の何が分かる!
イライザ、ああ、イライザ! 黄金の髪、静かな微笑み、あの子を嫌う者はこの町に一人だっていやしない。
外の町で生まれ、望まぬまま此処へ来て、慣れぬまま火を焚き音を扱う。不愛想で気難しい老女に振り回され、きつく当たられ、不幸だった、可哀想な、憐れな娘だ。
それでもあの子の手は職人の手だった、音を愛した。その才能と努力で日々を知り、足るを知り、この町を愛した!
素晴らしい、素晴らしい娘だった。この馬鹿な老い耄れを宥め、敬い、愛したあの子が、何故、こんなにも早く、なぜ、なぜ………」
罅割れた声はやがて勢いを失い、やがて老婆は床に体を投げ出して涙を流した。啜り泣く隙間から、細い声が漏れる。
「なぜ、わしを置いていった、イライザ」
薄暗い小屋の中を細く細く老婆の啜り泣く音が響く。それにじっと耳を傾けながら、原料屋は静かに立っていた。やがて泣き声が途切れ始めた頃に、彼が静かに口を開く。
「カゼオクリは、今日の夕かい」
床にうずくまった小さな背中がかすかに震える。
「いつもの炉か」
「……分かってんなら訊くんじゃないよ」
しゃがれた声に一度頷いて、原料屋は踵を返した。
「俺も行くよ。イライザを見送らせてくれ」
「…………」
沈黙に苦笑して、彼の手が背後のドアノブを捻る。ぎいいと開いた扉から外へ踏み出した瞬間、小さな声が原料屋の背中に触れた。
「……好きにしな」
静かな町を原料屋はのんびり歩く。ほとんどの工房は静まり返っていて、今日一日は商売になりそうもないな、と彼は静かに肩を落とした。取引の面でいうなら運が悪かったのだろう。ただ、イライザのカゼオクリに参加できる、という点では、運が良かったとも言えるかもしれない。
カゼオクリは音ノ町独特の葬礼だ。町の中心にある炉に巨大な火を灯して気流を作り、予め空に作っておいた黒雲を吹き払うことで、亡くなった魂を天へと送る。鎮魂の儀礼としては大掛かりな方だろう。存在は知っていたが参加するのは初めてで、この際見物しておくのも悪くはなさそうだ。
気を取り直して、ふと、原料屋は腰に差していた風車を手に取った。鮮やかに赤い羽根を四枚持つ、一輪の風車。
先日とある街で手に入れた、音の鳴る風車だ。音を扱うこの町でも、特に珍しいものや軽やかな音を好んだイライザなら、これで何か素晴らしいものを作りだせただろうに。今はただ重苦しく、風ひとつ吹かないここでは、風車もまた音ひとつたてない。
小さく苦笑して、原料屋は顔の前にその風車をかざす。ふうっと口をとがらせて、息を吐いた。カラカラカラ、と軽やかに羽根が回る。
町のあちこちに葉脈のように入り組んだ細い路地たちは、行き止まりを除けば、全てが最後には中央の炉に行きつくようになっている。まるく円状になった石畳の広場の真ん中に、銅で出来た大きな炉と煙突が空へすっくり立っている。原料屋がそこに着いた頃には、世話人らしき男たちが数人、黙々と炉の世話をしていた。夕暮れももう近く、ぽつぽつと住人たちも集まり始めている。着飾る習慣のない職人の彼らは、しかし各々がみな黒のショールやハンカチを身体の一部に纏うことで喪を示している。
炉に火が灯される。木切れや紙をくべながら火の様子を見る男たちの姿を、原料屋はぼんやりと眺めた。広場に繋がるたくさんの小道から、一人、また一人と住人たちが姿を現す。若い娘や青年たちの集団からは啜り泣く声も聞こえた。
彼らはきっと、イライザのことが好きだったのだろう。死んで初めて、命の価値は目に見えて顕れる。彼女の死は惜しまれている。
いい子だったからな、と原料屋は心の内で呟いた。先ほど老婆に言った言葉は間違いではない。若く、美しく、善良で、技術者としての技術も情熱も持つ娘だった。
だが、それだけだ。イライザは死に、惜しまれ、けれどそれは彼女には届かない。彼女はもう逝ってしまい、やがて一握りの人間の心に小さく残るだけで、その姿もだんだん薄れて行って、やがて消えてしまう、あとかたもなく。
涙をこぼす一群を眺めながら原料屋は小さく息をつく。今さら葬列なんて珍しくもない。普通の人間よりは長く生きる彼にとって、もう何度目か数えきれないほどで、けれど、やっぱり楽しいものでもなかった。
やがて奥の路地からよろよろと老婆が姿を現した。
集まる住人たちの視線を浴びながら、曲がってしまった腰に手を当ててよろよろと、けれど首をすっくと伸ばして前を見つめながら老婆は広場に足を踏み入れる。そのまま炎の灯った炉へと近寄り、手に握っていた一輪の花をそっと差し出した。
白い百合の花。一体どこから手に入れたのだろう。あの狭い小屋に庭なんてものはなかったはずで、だからきっと老婆はそれを何処かから摘んできたに違いなかった。来るのが遅れたのはそのためか。
老婆のぎこちない手がおそるおそる百合を差し出す。ゆらゆらと揺れる炎へ、ふわりと百合が落ちてゆく。原料屋は首を傾けてそれをみた。
炎へとくべるそれは死者への手向けだ。老婆の姿に、住人たちが次々と物を取り出す。手紙、写真、髪飾り、小さな歯車、花、花、花。
自分も何か供えるべきだろうか。ふと思いついて原料屋は背に負っていた荷物を探った。やがて取り出された手に握られているのは、カラフルな数本の風車だ。
「花束、ではないけれど」
でも音の鳴らない花なんかより、彼女はきっとこちらの方が好きだろう。胸中で呟いて小さく笑う。炉の前で泣きながら花を投げ入れる彼らの後ろへと原料屋も進む。やがてぽっかりと口を開く炉と、その中であたたかくゆれる炎の波を見下ろして。
「さようなら、イライザ」
微笑んで、手放そうとして。
瞬間、なにかが聞こえた気がして彼は振り向いた。
ごお、と風が低く唸った。街を隔てる低い壁の向こう、なだらかに続く丘の向こうから、風が。一陣の風が駆ける。
強い辻風が門を揺らして小道を駆け抜ける。軒先の看板が大きく揺れて音を立てた。住人たちから動揺の声が漏れる。ごうっ、と勢いよく広場に吹き込んだ風が、原料屋の手の風車を激しく鳴らした。カラカラカラカラカラ! 吹き付けた風に咄嗟に顔を庇った世話人の手から、小瓶が落ちる。炎へとそれが落ちる刹那、確かに澄んだ声がした。
ありがとう。
小瓶から、ぱらぱらと鉱物の欠片が散る。炎に触れたそれはぱちぱちと光って燃え、途端、炉の中の火は燃え上がる。炉から伸びる煙突がぐうううと振動して、きらきらと風を吐き出した。空の黒雲が吹き飛ばされてゆくのを、住人はぽかんと見上げた。
やがて、彼らの中から小さく笑い声が起こり始めた。くつくつと堪えきれないといった風だったそれは、やがて伝染して大笑いへと繋がった。
あはは、わはは、あっはっは。肩を震わせて、背を丸めて、目に涙を溜めながら。多くはないが決して少なくもない住人たちが、みな一様に笑っている。ああ、イライザらしい。心配するな、俺たちは大丈夫だ。そっちで楽しくやっていて。私たちが逝くまで待っていて。お礼なんて、こっちの言葉だ。ありがとう、ありがとう。ありがとう!
あの老婆も、そこにいた。ぼろぼろと両眼から大粒の水滴を落としながら、誰よりも大きく、歯の抜けた口を開けて笑っていた。イライザ、このお人好し娘め、だからお前は長生きできなかったんじゃ、大馬鹿者、親不孝者。どうか、どうか、よい死後の旅路を。
原料屋は驚いてそれを見ていた。ぱち、ぱち、と幾度か瞬いて、やがてふうっと肩の力を抜いた。今はもう通常の大きさまで収まった炎を見て、町の上に広がる青空を見た。
「……やられたなあ」
そうして久しぶりに、本当に久しぶりに、彼は人間を、人間の特権であるその死を、愛しく思ったのだった。
握りしめた手の中で、火にくべ損ねた風車がゆっくりと回り、カランとひとつ笑い声をあげた。