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LV44

「ん?」


 メランコリックな思いに気疲れを憶えて、ふっと顔を上げると川原の土手にだれかが寝転がっていた。

 それはよくよく見れば、前にボギーにこっぴどくこき下ろされたウチのお客さんだ。

 呑みすぎで寝てんのか、と心配になって近づくと、オッサンは寝ころびつつもその手になにかを透かし見るようにして持っている。


「こんにちわ」

「ああ」


 彼はこちらに気づくと身体をゆっくり上げた。

 珍しく酒分が抜けてるのか、その表情はいくぶんスッキリした様子である。

 ……あー、つい声を掛けちったけど、掛ける言葉が見当たんないね。こういう時、オッサンはどういう話に興味があるんだろうか、ゴルフとか競馬? ……って、どっちも今世じゃないか。

 話の接ぎ穂に困りつつ、苦し紛れに「それは?」と、オッサンの手に持つペンダントを指さすと、オッサンは「これか?」と、俺によく見えるように掲げてくれた。それは雪の結晶を象った代物のようで、指先でつまめる程に小さいものだった。


「これは妻の形見だよ」


 ……我ながら考えうる限りにおいて最悪な選択だった。


「あの、不躾にすみません」

「君が知る由もないことだ、べつに気に病むことはない」

「ですか」


 オッサンは気分を害した様子もなく、キラキラとした川面に目を細めている。なにか、想い出を手探りで触れるようだ。


「ウチの宿に随分と長いご逗留をいただいて。そんなにこの村のことがお気に入りいただけました? 他所の土地の方に、それほど関心をいただけるような村だとは思いませんでしたけど」

「村が退屈なものだ、と? たしかにその通りだ。しかし、ここよりもはるかに貧しい村はいくらでもあるだろう。私の故郷も同じものだからな」

「なるほど」


 長逗留されてるのは故郷の思い出に浸っていたってことなのかな。


「まあ、私みたいなひとり身の客が、いつまでも宿に留まってるのは不信に思われるかもしらないがね。だが、大丈夫だよ。そう怪しい人間でもないし、宿代を踏み倒すこともないさ。もしもの時には、コイツを置いていこう」

「いえ、そんな大事な想い出の品を頂くわけには……」


 ぶら下げたペンダントを示したのに、俺は手をブンブカと横に振ると、オッサンは深々と頷くと、茶化すようにくつくつと喉の奥で笑った。


「私も同意だ。君の心配には及ばないぐらい路銀の払いはちゃんとあるよ」


 なんだからかわれただけかよ。

 微妙に誤魔化されたような気がするけど、意外に冗談も言えるお人なのね。


「この季節は日が落ちるとまだ冷えこみますよ、お早いお帰りをされた方がよろしいですね……今日は酒を呑まれてないようですけど」

「いつも前後不覚に陥る前には撤退することを心得ているよ」

「ですが、あまり暴飲されるとお体を壊されます。旅をしてる最中に、体調を崩されては命に関わるんですから。毎日の食事だってキチンと召しあがっていただけてませんし」

「……大人にそんな気遣いするなんて君はほんとに子供かい?」


 オッサンは苦虫を噛み潰したように苦笑をしたが、それが不意にスッとかき消えた。


「気にかけてくれて有難いが、食事を取るにしても、それを楽しむ気になどならないよ。自分の生命を維持する以上の食材を並べて、喜悦に浸るなど、人間のもっとも卑しい振る舞いの一つだ。しかも菓子などは、その最たるものじゃないかな。いったいどうして、人間の身体に甘味を感じる必要などがあるのだろうね」

「…………」


 いやに挑戦的だ。食欲は七つの大罪のひとつ~。とか言いたいわけなのかね。

 しかし、この私にそんな不躾な質問をぶつけるなど愚問だな。

 人に甘味は必要であるか?

 答えは――必要! でしょ? だって、美味しいんだもの。


 例えばなにか嫌なことが続いて、萎えかけた気持ちを持ち上げるために小さなお菓子をひと口すればガンバレるみたいに。そんなしあわせをだれかに与えられるなら、それだけでもこの世に存在する価値あるじゃん。

 栄養的にも糖分は頭の働きに必要だし……って、まあ、ここで皮肉屋なオッサン相手に栄養学について一席をぶつ機会は他に譲るが。


「そんな難しい話しじゃなく、ただ美味しいものを食べれば幸福な気持ちでいっぱいになるだけで良いと思いますが? そういう貴方は司祭様かなにかで?」

「ははっ、私がそんなに胡散臭く見えるかね――まあ、いい。確かに本当に美味いものは、人をしあわせにするだろう。だが、この舌が腐っていた故に、私は気づけなかったんだよ。なにが人にとっての美味いものか、ね。……私はそれにおいては咎人ともいえるな」

「とがびと?」

「……なんでもない、ついろくに人と話すことはなかったから余計なことが口を継いでしまった。君の菓子を侮辱したことは謝ろう。単に君が幸福そうだったのが、妬ましかったんだ。私はそう、ずっと長らく美味いものをマズイと感じ、マズイものを美味い。そう感じていたのさ。そこで過ちに気づいた私は、こんな舌は火酒で清めねばならぬ、と決心してな」


 懐から取り出したビン酒をあおってみせた。

 だからそれ以来、料理を喰いたくもないってことなんですか? いや、いくらなんでも、不健康に過ぎんでしょうよ。


「どんな事情があるか知りませんが、なにも召し上がらないなんて身体をぶっ壊しますよ。いまから料理をお作りしますから。宿に帰りましょう」

「べつに君が気に病む必要はないさ」

「気に病むもなにも人間喰わずに生きてくことなんてできませんよ」


 その罪ってやつの事情はわからないけど、菓子が食べるに値しない、みたいな言い方は気にくわないんだよ。

 しかし、それを言葉で伝えるだなんて、ナンセンスなことはない。

 マメチ先輩だったら憤りをひと皿の菓子に代えて、オッサンの鼻先に涎が出そうなほど最高の菓子を置くはずだ。だから、俺もそうする。




「とにかく、帰りましょう」と、俺は強引にオッサンを言いくるめて宿に連れ帰った。

 オッサンは俺に興味をなくしたように席に座ると、気怠げに頬杖をついて午睡の続きを始めた。それを尻目にさっそく菓子作りにとりかかる。

 そのメニューは、カステラ――ではなく、領主様から頼まれた新作のスフレだ。

 スフレはある意味、単純な焼き菓子だ。それ故に、最高に難しくもある。

 なぜなら、手抜かりやひとつの狂いが生じもすれば、スフレの味だけでなく形となって現れる。

 メレンゲ仕立てのフワッと雲のようにやわらかな生地は、オーブンに焼かれて膨張して形が変化する。料理人は、つぶさに水分量や焼き具合を調節して、その変化を予めに予測してラメキンと呼ばれる小さなスフレカップに収めないとならない。

 加えて、前にボギーに話して聞かせた通り、これは注文を受けてからでないと、焼かれることもない、人が菓子にあわせる高貴な品だ。


 ――だが、もしも、計算に狂いが生じては、期待に胸を膨らませたお客様をさんざんに待たせた上、ラメキンカップのなかで惨めにもグシャッと形のしょげたスフレを運ぶしかない。

 こんな屈辱はないだろうって程に恥ずかしいマネだろう。そんな辛酸を舐めぬように、いつも以上に時間と注力をかけて、生地を撹拌する感触を確かめる。出来上がったソレをツノが立つ程にまぜたメレンゲとを混ぜて、オーブンへと投入した。

 だが、これで終わりではない。文字通り、気の抜けない一発勝負はこれからだ。

 焼き過ぎては形が膨らみすぎて崩れ、逆に焼きが甘くとも失敗だ。

 俺はオーブンの前に椅子を引いてくると、覗き窓に顔を寄せて余熱にジリジリ焼かれつつ中の様子を窺ってると、


「オーブンの火が燃え移らぬかそんなに心配かね?」


 オッサンは午睡から目覚めたのかそんな茶々を入れてきた。


「まさか。家がボロだとしても、この煉瓦オーブンはまだ2年も使ってませんよ」

「ただの菓子にそこまで気を配る必要なんてあるまい? どうせ、私に食べさせる物なら大した金にならんよ」

「あいにくそんな生半可な気持ちで菓子を作ってはおりませんので。それに、これは焼きが命なんで、火のめぐりから出す瞬間まで目の離せない繊細なものなんですよ。しかもたったの、数十分程で食べ時が失しわれる、って菓子なものなんで」

「そんな菓子が存在するのかね?」

「もちろん」


 そう頷くと、オッサンは救いがたいとばかりに溜息をついていた。

 そのままの姿勢で待ち続けると、厨房に生地の焼けた香ばしい匂いでいっぱいだ。

 もうそろそろかな。と、目星をつけて、少しく緊張しながらオーブンを全開に開け放つ。すると、火傷しそうな熱と、甘い香りが一緒になって、広がった。

 俺は顔を火傷しそうになりながらも、オーブンのなかのカップを覗き込み――ニィッと自然に口角が自然と上がった。

 完璧じゃないか、これ。


「長い間お待たせてすみません、さあ、お熱いうちにどうぞ」

「……これが、君の言う菓子か」

「ええ、スフレです」


 乳白色のラメキンカップからココアブラウンのやわらかな生地が半分飛び出し、平たい小山のようにきれいな楕円を形作っている。


「スフレ? ずいぶんふしぎな菓子、だな……器からはみ出ているが」

「失敗じゃございませんよ。この膨らみは、ベース素材の調節や焼き加減によって、生まれるもので。この形は見憶えございません? テラネ山をイメージして作ったんですよ。ささ、まだ暖かいウチにお召しあがりください」

「あぁ」


 と、手でお薦めると、オッサンは相変わらず気乗りしない感じにすくって、口に運ぶ。すると軽く目を見開いたまま、しばらく固まってしまった。

 ……カチッカチッ、と時間が一分近くも経ってるのだが、やっぱ甘い菓子は、オッサンのお口に合わないのかな。と、ヤキモキしてると、

「……これは、優しい味だな」と、吐息を漏らすようにそう言った。


 優しいって味の感想、か? ま、まあ惡感情は見受けられないし、お召し上がりいただいてるから良いんだけど……なんか、全米が泣いたッ! 的に大絶賛されるよりもよほど照れくさいんだが。


「……ま、まあ、ご満足いただけたようでなによりですよ。なんか、デザートを先に出すって、普通のコース料理とは逆になりますけどね。まだ夕食はこれからですから、どうします? 早くに出せるのなら、余り物ですみませんけど、シチューがありますんで!」


 照れくさくて早口にそうオッサンに声掛けすると、俺は厨房へと舞い戻る。

 ……いや、なんかわかった気がするわ。いままでのうじうじとした悩みの答えが。俺は難しく考えすぎてたんだ。

 俺は村にな~んも還元できないかもしれけれど、菓子を作ることはデキる。

 村人や母さんやシャナンたちにガッカリされても、それだけは残るのだ。なら、始めから心配する必要なんかなかったワケで、まったくのひとり相撲をして――


「え?」


 不意に、オッサンから声をかけられた気がして振り返ったら――グッ、と俺の首に手がかけられた「いったいなにを!?」と、身を遠ざけようとしても時すでに遅く。そのかけられた手は俺の首をしかと捕らえて離さない。

 なんで? と、いう強烈な疑問に、俺は一瞬だけ意識も思考も飛んでいた。

 だが、その疑問は絞められていく力に蹴飛ばされ、後に残るのは喉元からかけ上がってくる苦しさだ。

 抵抗しようにも身体が宙づりにされて動けず、オッサンの手にかけた俺の指先も感覚が希薄。薄れていく意識のなか、なにもできず、睨んだオッサンの表情は、能面のように冷たくなってる。


 俺はその光景を最後にして、意識がプツリと途絶えた。


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