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二話

 心のどこかで昨日の出来事にひっかかりを覚えながらも、亜衣の生活に変化はない。

あたりまえのように起床し、忙しさにやや不機嫌な母親にせかされ学校へ行く。数学の授業の存在に憂鬱になりながらも、学校に到着すればクラスメートと他愛もない言葉を交わす生活だ。

夏が近づきつつある教室は蒸し暑く、ぱたぱたと制服をはためかせ、空気をおこしながら少しでも涼をとろうとする生徒があちこちに見受けられる。頭がよくも悪くもないが生徒の気質がひどくのんびりとしたこの学校は、どうにも緊張感というものがない。だらだらとしたおしゃべりを続けながら、これまた鷹揚な担任教師の登場を待つ。

いつものように担任教師が教室へと現れ、ざわついた部屋が瞬時にして静かになる。

これもまた、見慣れた光景だ。

起立の号令がかけられ、惰性のように立ち上がり、礼をして着席をする。

その短い間に、亜衣は腰が抜けそうなほど驚愕した。

叫び声をあげなかっただけでも自分で自分を褒めたくなる、ほどの衝撃を受けて。


「出欠とるぞー」


当たり前のように出席を取り始めた人間を凝視する。


(っていうかなぜ?うそ?まじで?いやいやいや、どういうこと?)


全ての言葉は飲み込まれたまま、胸の中で混乱しながら渦巻いている。

確かに朝から、そのことをかすかに考えなかったと言えば嘘になる。

噂をすれば影、そんな諺を思い出しもする亜衣だが、その言葉が現実になった瞬間に初めて立ち会った彼女は、錯乱したままそれでも無意識で出欠の返事をしてしまう始末だ。

固まって動かない体を無理やり動かしながら、こっそりと周囲をうかがう。

平然としたまま、当たり前のように受け入れているクラスメートたちを発見してしまう。

ただ、自分だけがうろたえているという事実。

その現象がさらなる混乱を亜衣の心に呼び起こす。

乾ききった喉に無理やりつばを飲み込みこむ。異様に大きく響いた音に、再びこっそりと周囲を見渡す。

そして覚悟を決めたように、ゆっくりと担任教師へと顔を向ける。昨日までは見知った、どちらかというと冴えない中年親父であったはずの担任教師の顔を。

何度見ても、どれだけ目をこすって見直してみても、そこには例の綺麗なイキモノがいた。

人形のような美貌は健在で、少しくたびれたスーツがひどく似合わない。それでもその美しさを損ねないのはさすがといえばさすがではある。美しい生き物と中途半端に時が経過した普通の教室は不釣合いで、そう思う自分がおかしいのかと思うほど周囲は平然と「彼」を受け入れている。

亜衣は、意味もなく手を握ったり開いたりしながらどこかで妙な緊張感を緩和しようと試みる。

人形のような男は、ニヤリ、と亜衣の方をみながら笑い、昨日とはうってかわって、短く整えられた前髪をかきあげながら教室をあとにしていった。


「やっぱ、きれーだよねー」

「へ?」


隣に座った、比較的よく話すクラスメートが亜衣に声をかける。

だが、その言葉にさらに驚愕してしまい、変な声が出そうになるのを必死になって押さえる。


「男とは思えないっていうか」


それを言うなら人間と思えない、の間違いだろう、と、あまり現実を踏まえていないつっこみを心のなかでしながら、クラスメートとの会話に適当に相槌をうつ。


「あの、担任って、あの人だっけ?」


亜衣の精一杯の疑問に、クラスメートは噴出し、「あたりまえじゃん」という短い答えだけが返された。

この教室の中で、彼の存在に違和感を覚えているのは私だけだ。

それに気がついた途端、急激に気分が悪くなり、周囲に言い訳をしながら保健室へと逃げ込んだ。

それで現実から逃げられるわけではないのだけれど。


「んーー、微熱かな。調子悪いんなら帰ったら?」

「あの、うちの担任って」

「あ、あの若はげ?私から言っておくよーん」


ふわふわとしたかわいらしい雰囲気をもった学校医が、いつもの調子で軽口をたたく。


「え?はげ?はげ、うんうん、はげ、や、違う、お願いします」


ころころと笑いながら、学校医がうなずく。


(っていうか、私がおかしーんじゃなかったんだ)


「どうしたの?」

「いえ、なんでもないです」


亜衣の様子が明らかにおかしいことに気がついた学校医が、心配そうに声をかける。

だが、どのように説明してよいのかわからない亜衣は、首を振ることしかできない。

まさか、担任教師が美貌の男に摩り替わっています、などということを言い出せるはずもない。むしろどちらかというと自分の見間違い、いや、夢に違いない、と、それ以上深く考えることを中止してしまった。


(家帰ってシャワー浴びて寝よう)


逃げ出すようにして帰宅した亜衣は、その通りに行動した。神経が太いのかざるなのか、すっきりと目覚めた次の日には、不可思議な出来事は脳がもたらす幻覚、もしくは見間違いだったのだと結論付けた。


 次の日、いつものように登校し、いつものように担任がきて、昨日のように驚くことになった。

やはり、どれだけ目を見開いて見てみても、あの男がその位置に立っており、彼が自分の担任なのだと認識せざるを得ないほど自然に、その場に馴染んでいたからだ。

彼の存在を当然のように受け入れている他のクラスメートは、彼に群がったり、黄色い声を上げたりと忙しい。

それを遠巻きに眺めながら、やっぱり腑に落ちないでいる亜衣は、だけれどもそのことを誰にも言い出せずにいる。


「藤川、どうしたんだ?」


だが、そんな彼女のためらいなど知らないのか、綺麗な男は、やたらと亜衣に声やちょっかいをかける。それを妬ましげに睨みつける周囲の女生徒の視線と、自分だけが担任が摩り替わったことを知っている、というストレスで、その日からたびたび亜衣は保健室の世話になることになった。


「先生…、うちの担任、はげですよね?」

「あ?はげだけど?」


言葉が通じる人間がいる、というそのことだけで泣けるのだと、気がついた。


「すみません、ちょっと寝ます」


指定席のようになったベッドに横たわる。

どれぐらい眠ってしまったのか、気分よく起きたら、目の前に担任が座っていた。

いや、偽担任が、だ。


「うわっ!」


本気で驚いた亜衣は、飛び起きるようにして半身を起こし、枕を飛ばす勢いで後退する。


「なにその反応。オレちょっとショックなんだけど」


どこかのチャラい男のような口ぶりで、キレイな生き物が口をきく。

あっているのかいないのか、そんなことを考える余裕がないほど、亜衣の中の何かが反応をする。

根本的な恐怖心。

本能からくるそれを、どうしてただキレイな生き物に感じるのかはわからない。


「亜衣ちゃんって、結構わかる人なんだねぇ。意外~」

「や、ちょっ、わけがわかんないし」


言葉を吐き出すことも怖いが、沈黙はさらなる恐怖を呼び、つたないながらも意味ある言葉を叫ぶ。


「気にいっちゃったんだよねー、顔はふつーだけど、なんかかわいいし」

「いやいや、普通だから。普通って言ってるんだからかわいくないから」

「なんていうか、雰囲気?そのわかんないけどわかってるってとこが特にさー」


じりじりと距離を詰め近寄る偽担任と、思わず壁際に張り付くように逃げの体制をつくる亜衣。

そんな亜衣の様子を嬉しそうに眺めながらも、なおも近寄る男の両手が、彼女の両手に体重をかける。

いつのまにか押さえ込まれるような体制になった彼女は、声を上げ、助けをもとめようとする。

だが、開けられた口は空気を吐き出すばかりで、少しも音を出さずどれだけ心の中で叫んだつもりでも、ひとかけらも声は漏れてくれない。

強張った四肢を動かし、抵抗を試みるも、体格差なのか相手の拘束は一向に緩んではくれない。

ガラス球のような綺麗な両目が、亜衣の両目をとらえる。


(あーー、なんかやっぱりこいつ人形みたい)


現実逃避のような感想を抱きつつ、亜衣は思考も抵抗も放棄する。急激に柔軟になった彼女に満足した笑みを浮かべ、男が更なる距離をつめる。


「なにやってんの?」


救いは唐突にやってきた。

勢いよくあけられたカーテンと、差し込む蛍光灯の光。

助かった、という希望が浮かんだとたん、亜衣は気持ちを奮い立たせる。

縋り付くような気持ちで視線だけで動かしたそこには、学校医が鬼の形相で偽担任を睨みつけて立っていた。


「せ、せんせい!」


金縛りがとけたかのように動けるようになった体を無理やり動かし、学校医へ飛びつく。


「っていうかあんただれよ?」

「やっぱり、やっぱりこんな人知らないですよね」

「へぇー、珍しいな。亜衣ちゃんは勘がいいだけだけど、まさか耐性がある人間がいるとはな。まあ、ばばあだけど!」

「ごちゃごちゃ言ってないで、警察呼ばれたくなければとっととどきな」


感情のない瞳が、学校医を捉える。

自分が睨まれているわけでもないのに、足がすくんで歩けなくなる。


「……警察届けるか?」

「い、いえ、いいです」


何事もなかったかのような学校医の言葉に、亜衣は彼女の背中に隠れるようにして逃げ込む。


(何かしようとしたけど、先生には効かない?)


「おまえんち、何かあるだろ?」

「狐のことか?」


面白くなさそうな顔をして、彼が緩めたネクタイを締めなおす。


「そういう家がまだあるとはな」

「どうでもいいが、本当に警察につきだされたいのか?」

「ふん、まあいい、亜衣、またな」


捨て台詞を残して、彼はようやく亜衣の視界から消えてくれた。


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