7
すっかり遅くなってしまった。
グラウンドで響く掛け声を聞きながら、廊下を急ぎ足で進む。
夕焼け色に染まった校舎には人影もほとんどない。
教室にも誰も残っていないだろう。
何かあるとは思わないけれど、残してきた鞄が少し気になる。
──結局。
松田先生が言いたいことはほとんどわからなかった。
理解できたのは、名前すら知らない彼をよろしく頼まれたことくらいか。
あと、陽依が見た彼と松田先生が見ている彼は少し違っていることとか。
朝の様子を聞かれて思い出せる限りで話したとき。
あいつ、春日井にはそんな表情見せるんだな、とそれはもう心底嬉しそうに松田先生は笑っていた。
松田先生が知っている彼がどんなのかは聞かなかった。
でも、その表情を見ただけでなんとなくわかってしまった。
「だからって、頼まれても困るんだけどなぁ……」
重くため息を吐きつつ教室のドアを開ける。
自分の席に視線をやった瞬間、思わず声を上げてしまった。
「なっ」
「あ、おかえり」
昼間の一件がまるでなかったかのように、彼は笑みを浮かべて陽依の席に座っていた。
もう来ないと思っていたのに。
もし会いに来たとしても、怒って文句を言って終わり。
でも、彼は昨日と同じように笑っている。
「なんで……」
「ひよちゃんと話したくて。一緒に帰ろう?」
「普通お昼のようなことがあったら、来ないでしょう?」
「んー普通じゃないから、なぁ」
彼は困ったように首を傾げたが、そうしたいのはこっちだ。
口が滑ったと言い訳もできないくらい、酷い嘘を言ってしまった。
しかも、他の生徒がたくさんいるところで。
……宇都木先輩も一緒にいたのに。
「ひよちゃんは気にしなくていいよ。俺が悪いんだし」
「あなたは何もしてないじゃない」
「俺が急に近づいたから。ひよちゃんはびっくりしただけだよ」
だから悪くないと、彼はそう言いたいらしい。
そんなの、納得できる訳ない。
陽依が顔を顰めると、彼はまた困ったような表情を浮かべた。
「じゃあさ」
気まずい沈黙の後、彼は何か良案が浮かんだのか、いつもより一層輝かせた笑みを陽依に向ける。
嫌な予感が一気に駆け抜けて、思わず一歩後ずさった。
「嫌です」
「え?」
「それは嫌です」
「まだ何も言ってないんだけど、ひよちゃん?」
「絶対嫌です」
先手必勝。
そんな言葉が浮かんだ陽依は、彼が変な提案を口に出さないように嫌だと連呼する。
絶対に碌なことじゃない。
彼のことをそれ程知っている訳ではないけれど──そもそも昨日初めて会ったし──その表情を見ればなんとなくわかる。
わかりたくないけれど、わかってしまう。
あれは絶対面倒なことを思いついたときの表情だ。
「ちょっとひよちゃん」
「帰ります。さようなら」
机の横に掛けてあった鞄を掴み、陽依は彼に背を向ける。
駆け出しそうになる足を抑えつつ、早足で教室を出ようとした。
そのまま、彼を置いて帰るつもりだった。
「香椎瑞季」
ぽつりと呟かれた名前。
それは本当に小さな声だった。
いつもだったらきっと聞き逃していただろう。
しかし、それは嫌に響いて、陽依は立ち止まってしまった。
「香椎瑞季、それが俺の名前」
振り返れば、彼の浮かべた暗い表情がちらりと見えた。
目が合った途端、それはすぐに嬉しそうな微笑に隠れてしまったけれど。
ちくりと痛んだ胸の奥が気持ち悪い。
「俺を知って、ひよちゃん」
見え隠れする寂しげな色に、陽依は彼から目を逸らせなかった。