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ずっと奥深くに残る記憶。
普段触れることもなく、忘れてもおかしくないくらい小さなそれが時々顔を出す。
何てことない、顔のない誰かに手を差し伸べてもらっただけの記憶。
逆光だったからか、ただ単に人の顔を覚えるのが得意でないだけなのか。
手を差し伸べてくれたのは誰だったのか思い出せない。
ただ、優しく握って引き上げてくれたこと。
そして、その手が温かかったこと。
ふとした瞬間にそれを思い出しては、その優しい記憶に顔を綻ばせている。
*
急に曇り始めた空は、放課後を待たずにその雫をこぼした。
今朝の天気予報では一日中晴れると言っていたのに。
運悪く折り畳み傘も忘れてしまったことに、思わずため息が落ちる。
先生がいなくなると同時に騒がしくなった教室も、しばらくすれば誰もいなくなって、しんと静まり返っていた。
いつからだろう、一人で過ごすことが多くなったのは。
陽依は薄暗い窓の外を眺めながら、ふとそんなことを思った。
中学まではそうでもなかったような気がする。
高校に入って、一学年の人数も倍以上になって。
それまで仲良くしていた友達も他に気が合う人を見つけたり、クラスが離れて顔を見ることも少なくなっていたり。
そんな中、何が煩わしくなったのか、人との関わりを最小限にするようになっていた。
「コンビニまで走る、かな」
雨は強くなることもなく弱くなることもなく、まだ降り続いている。
このまま待っていてもなかなか止むことはないだろう。
濡れるのは嫌だけれど、仕方ない。
鞄を肩に掛けて立ち上がろうとしたとき、教室のドアが開く音がした。
予想もしていない音に、身体が大袈裟に震えて、思わず顔が熱くなる。
ドアの方に視線を向けると、知らない男子学生が立っていた。
「えっと……」
「こんにちは」
少なくともクラスメイトではない彼は、陽依に笑顔を見せた。
誰かに用があったのだろうか。
もう教室には誰も残っていないことを告げようとしたが、それは彼の声によって遮られた。
「あれ、春日井陽依、さんだよね?」
不安そうな声色に、陽依はおずおずと頷いた。
数百人も生徒がいると言っても、同姓同名はさすがにいないだろう。
彼がいう『春日井陽依』は自分のことだと思う。
こんな人と知り合いだっただろうか。
色々と思考をめぐらせてみたけれど、何も思い当たる節はない。
委員会にも部活にも所属してないし、他のクラスと合同で何かやることもない。
ほっとした表情を浮かべる彼に、だんだん怪しい気持ちが膨らんでいく。
「よかったぁ。人違いかと思ってヒヤヒヤした」
そんな陽依の心境に一切気づかないのか、彼は距離を縮めてきた。
目の前に立って、柔らかい笑みを一層深くする。
「何か……用ですか?」
「もう帰れる? 傘ないんだよね?」
「な、なんで知ってるんですか」
「んー、なんとなく?」
なんとなく、で知れる情報ではない。
そう突っ込んだものの、その後は彼に上手くかわされてしまって。
なぜか一緒に帰ることになってしまっていた。