8 夢もカメラマンも、飛んで行け
「聞いたよー。付き合うことになったんだって? たかちゃーん」
案の定、月曜日の終業後に従兄がやって来た。にやにや笑いを張り付けて。
この間あんなに深刻な顔をして僕の幸せがどうたらと言っておきながら、これだ。このゲンキンな男は、きっとずっとこうなのだろう。
「あれー? 何、ちょっと普通っぽい顔しちゃってんのー? ねぇねぇ、たかちゃーん。聞いてるー?」
「語尾をいちいち伸ばすのはやめろ。大体、いつから『たかちゃん』なんてサムいあだ名がついたんだ。お前に一度も呼ばれたことないぞ」
「いやぁ、従兄の幸せがうれしくてつい」
「別に付き合うだけだ。結婚するって言ってるんじゃない」
「でも、大きな一歩じゃん?」
まぁそうだな、と僕は頷く。
「嬉しいくせにクールな顔しちゃって。そんなに隠さなくてもいいのに。よかったなぁ、彼女できて。お前彼女、久しぶりじゃん」
「真吾を基準にすると八カ月ぶりも久しぶりになるのか。」
「ちょい待ち、別に俺じゃなくても普通に八カ月は久しぶりだろうが。それにね、お前、玲子ちゃん入れるんじゃねぇよ。彼女じゃねぇだろ。あの子とお前、会ったその日から婚約者みたいなもんだったろ」
「婚約者は彼女じゃないのかよ」
「違うね。胸を締め付けられるような恋を抜きに彼女とは言えない」
「じゃあ真吾、彼女いたことないだろ」
「あ、たしかに。ねぇな」
あれほどの人数の女性と浮名を流していながらこの問いに即答する男は、やっぱり最低だと思う。
「ハルカちゃんとはどうなってるんだよ。美咲、かなり心配してたぞ」
「おっと。美咲、ですか。み・さ・き」
このお調子者の男の口を誰か縫い付けて欲しいと心から思った。
「まぁ、今が一番ラブラブ楽しい時期だからなぁ」
真吾の言葉に、僕は肩をすくめるだけで何も答えなかった。
ラブラブ、か。
そういうのとは少し違う。
本当のところ、彼女と付き合うのが正しいのかよくわからなかった。
彼女と食事に行くのは楽しいし、可愛いとも思う。
でも心の底から湧き上がってくるような庇護欲とかそんなものがあるわけでもなく、真吾の言うように胸を締め付けられるような感じもなかった。
ただ、心地よいだけ。
それでいいのだろうか。
「いいんだよ。ごちゃごちゃ考えなくても。お前、忘れたの? 玲子ちゃんとは見合いだぜ? それよかまだ、美咲ちゃんとの方がよっぽど恋愛要素あんだろ」
恋愛、か。
「真吾。好きってなんだと思う?」
「貴俊。それ、アラサー男が真顔で言うことじゃねぇぞ」
お前頭に花咲いてる。と言って真吾は僕の頭の上を探るようなしぐさを見せた。
「じゃあ、真吾にはわかるのかよ」
「わかんねぇよ。俺はそんなこと気にして付き合ってないし」
「じゃあ何を基準に付き合うんだよ」
「だから言ってんだろ。俺の基準はカオ・ムネ・ケツ」
この男に聞いたのは完璧に間違いだった。
僕は天を仰いで目を閉じた。
****************
――目を閉じると、体が沈み込んでいくような感覚。
目の前にはベール。
自分は柄にもなく緊張していて、手がかすかに震えるのを感じながらそのベールをそっと摘み上げる。
左手の薬指には、今しがた細い指で通された指輪が光る。
ベールが引っかからないように細心の注意を払って持ち上げ、それを花嫁の頭の向こう側にふわりと追いやると、顔を伏せていた花嫁がゆっくりとこちらを見上げた。
はにかんだような表情。
――美咲。
そこに、静かな空気をぶち破るような声が響き渡る―――
「You've got a phone call.」
「You've got a phone call.」
「You've got a phone call.」
鳴り響く着信音で目が醒めた。
無機質な女性の声が着信を知らせてくれる。
何だ、このふざけた着信音は。どうせ真吾が勝手に変えたんだな。
枕元に手を伸ばして画面を確認し、通話ボタンを押す。
「もしもし」
『お兄ちゃん! 起きててよかった! 私、茜!』
そんなことは携帯の画面を見ればわかる。
電話の主は高校生の妹、茜だった。
「どうした、茜」
2時か……。6時に起きて会社に行かなきゃならないのに、この時間に起こされるのはきつい。
『今から行ってもいい?』
妹の声が不自然に揺れていることに気づき、ダメと言えなくなった。
「いいけど……どうした」
『家にいられなくて。真兄にも連絡したけど、今日は都合が悪いから来るなって言われて。お兄ちゃんのところしか、行くところなくて』
「……何時に来るの」
『今タクシーに乗ってる。たぶん三十分くらいで着くと思う』
三十分……妹はここの鍵を持っていないから、起きて待っていなくてはならない。
どうせそのあとも事情聴取をして、親と連絡を取って。
朝になるな。間違いなく。
――ああ、明日の朝イチの会議、死ぬ。
*******************
「そんで、なんで家を飛び出したんだ」
くっつきそうになる瞼をこじ開けながらふてくされた態度の妹に問いかける。
今年の春先に実家近くで通り魔事件があったとかで、妹の身の安全には細心の注意を払っていたはずなのに。無事だったからよかったものの、夜中に家を飛び出すなんて勘弁して欲しい。
「お父さんが彼氏と別れろなんて言い出すから」
彼氏。
別れろ。
どういうことだ。うちの親はそんなに理解のない親だったのか。
というか、妹に彼氏がいること自体、初耳だった。
エスケープ事件以来、見合いとか恋愛とかそういうキーワードがタブーになっているので、僕はその点では完璧に放っておかれている。だがやはり、高校生の茜のこととなると親も口出しをするのだろうか。茜は女の子だしな。
だが、何気なく尋ねた問いに対する妹の答えに、僕は両親の口出しの理由をはっきりと悟った。
「相手、どんな人なの」
「えっと、歳は三十五歳で……」
脳みそが揺れることってあるんだろうか。
「別れろ」
「お兄ちゃんまで! なんで! 話を聞いてよ!」
「話は聞いてる。でも、その年齢差はさすがに常識の範囲を超えてる。自分の倍以上生きてる人とよく付き合えるな」
見ず知らずの三十五歳を非難するのは気が引けたからそう言ったが、本当のところは逆だ。自分の半分しか生きていない高校生と付き合える男の神経が、全く理解できなかった。
「関係ないよ。年齢差なんて、年を取ればとるほど関係なくなるって言うじゃん」
それにしたって、いま三十五だということは茜が生まれた時には大学生だったわけだ。大学生が乳児に手を出すなんて犯罪もいいとこだ。
「それで?」
「なに?」
「茜の主張は?」
「え」
妹の目はひどく充血していた。
そういう姿を見ると、やはり心が痛む。
「頭ごなしに反対されるのが嫌なら、説得できる材料を出さないと」
途端に茜が笑顔になる。
「お兄ちゃん、ありがとう。あのね、奈津美って覚えてる?」
「覚えてる」
茜の友人で、うちに遊びに来ているところに何度か遭遇した。
「あの子、モデルの仕事しててね。あ、私の彼氏、カメラマンなんだけど」
かめらまん。
印象だけで物を言ってはいけない。
それはわかっている。
だが、チャラそうな匂いのする職業だ。
「カメラマン」
問いかけるのではなく、確認のように僕はつぶやいた。
「そう、カメラマン。すごいでしょう? 写真集とかで、最後のページに名前載るの」
「あれか、『撮影:○○』みたいな」
「そう! それに、つい最近展覧会もあって。個展の話も来てて」
僕はそういうのはさっぱりなので、すごいのか普通のことなのかわからない。
「芸能人の知り合いもたくさんいるんだよ!」
あー、これはダメだ。
僕が親でも反対する。
芸能人とか業界人とか、そういう人脈をひけらかすタイプの人間にはロクなやつがいない。
急に目が冴えた。
妹にどう伝えたものかと迷っているうちに、妹は味方を得たとでも思ったのか、目をキラキラさせながら話を続ける。
「それでね、今度、私の写真を撮りたいって言われたの」
「茜の写真? なんで? モデルでもないのに?」
兄が言うのもなんだが、妹は世間一般に可愛いとされる部類に入る。いや、その部類を突き抜けているといってもいい。小さいころから街を歩けばタレント事務所や劇団からスカウトを受け、親はいつもそれを振り切るのに苦労していた。
だから、変な虫が寄ってこないように小学校から大学まで一貫の女子校にわざわざ入れたのだ。
「うん。ヌード」
ああ、今度こそ脳が揺れた。
間違いない。
脳が頭蓋骨の中で揺れ、眼球を圧迫したような気がして僕は一度目を閉じた。
眉間をぐっとおさえながらなんとか平静を保つ。
「それは、
俺でも、
反対する」
一音一音、はっきりと告げた。他に答えなんて見つからない。
「なんで?」
「なんでって、ヌードって」
「芸術だよ? やらしいやつじゃなくて」
少し潤んだ大きな瞳を長いまつげが縁取り、少し口をとがらせて上目づかいに僕を見上げる。
この妹は、自分のこの表情が僕らに対してすさまじい威力を持っていることを、ちゃんと知っている。
「芸術とやらしいは共存する」
そう呟くと、茜はわんわんと泣き始めた。
「誰もわかってくれない。お兄ちゃんにまで追い出されたら行くとこないよう」
それはまずい。
その三十五歳カメラマンとやらの家にでも行かれたら一大事だ。
「いや、いいよ。茜。気が済むまでここに居ろ。ずっと、いていいから」
僕は焦ったように茜の肩をつかんだ。
「本当? いいの?」
茜は途端に目を見開き、ぴょこんと跳ねた。
涙、どこ行った。
「その人とのお付き合いのことはまた話そう。ヌードも。とりあえず、相手の人の名前だけ教えてくれる?」
明日にでも真吾に聞いてみよう。やたらと広い人脈を持つ真吾なら、何かわかるかもしれない。
明日っていうか、今日か……。
四を指す時計の短針をじっと見つめて、僕はすべてを振り払うように頭を強く振った。
夢も、カメラマンも、飛んで行け。