7 二人のはじまり
「わぁ、ほんとうに車だ!」
美咲ちゃんからの返事は〈明日、暇です!〉だった。
それで言葉通り、僕は車で彼女の最寄駅まで迎えに来たのだ。
「どうぞ」
助手席のドアを開けてやると、美咲ちゃんはうれしそうにはにかみながら乗り込んでくる。
「父と兄以外の男性の車で助手席に乗るの、初めてです」
その言葉は僕の心の端の方をくすぐった。
どうして男というやつは、「初めて」という言葉にこうも弱いのだろうか。
「お兄さんがいるんだね。初耳だ」
「はい。三歳年上だから貴俊さんの一つ下ですね」
「そうか。お兄さんっていっても僕より年下か。なんだか急に老けたような気分になるな」
「あはは。そんなことないですよ。貴俊さん、私の兄より若く見えます」
「ありがとう」
「貴俊さんはご兄弟は?」
「齢の離れた妹がいるよ。十二歳下なんだ。だからまだ高校生」
「高校生!」
彼女はすっとんきょうな声を上げる。
「驚いた? 高校生。若いよね」
「若いですねぇ」
「小さい時は僕の学校にもついて来たがるくらいべったりだったのに、近頃じゃあ実家に帰ってもほとんど相手してくれないよ」
拗ねたように言うと、彼女はおかしそうに笑う。
本当によく笑う子だ。
「今日はどこに連れて行ってくださるんですか?」
美咲ちゃんは嬉しそうに足をばたつかせながら、うきうきとした様子を隠さずに言った。こうした幼い行動は、高校生の妹に通ずるところがある。そしてそれは不思議なことに、全く不快なものではなかった。それどころか、楽しみにしてくれていたのだと思うと、こちらまで嬉しくなるくらいだった。
「天気もいいし暑いから海辺の水族館でもどうかと思って。水族館、好き?」
「大好きですよ! おさかな!」
彼女は満面の笑みを浮かべている。
「うん。寿司が好きだって言ってたから、魚は好きだろうなと思って」
「貴俊さん、それは別なんじゃないですか? さすがに水族館で魚見ながらおいしそうとは思いませんよ!」
「うそ。僕、水族館にいる伊勢海老とかついつい食べたくなっちゃうんだけど」
「あ、伊勢海老は確かにおいしそうですよね」
「ほら!」
眉を上げて得意げに言うと、美咲ちゃんは反論せずに声を上げて笑った。
誰かと話してこんなに笑ったのは久しぶりだな。
その後も水族館に着くまでずっと、車内には笑い声が響いていた。
「うワぁ……大きいですねぇ!」
「貴俊さん、ほら、あれ見てください! あの魚! 変な形!」
「あ、ほらほら、今年生まれた子供ですって! ちいさーい」
「そのほら、その向こうに、見えます? あの邪悪な魚。あれですよ、岩に擬態してるやつ。あいつ、絶対毒ありますよ。色が汚いですもん」
「あーっ見てください! タツノオトシゴ! ゆらゆらしてて、ゆるいですねぇ」
「あ、イルカのショーもうすぐですね! いい席埋まっちゃうから急ぎましょう!」
「きゃー! すごいすごい! ジャンプ、すごいですね!」
「うわ、イルカと記念撮影できるみたいですよ!あーっもう定員オーバーかぁ……」
「ちょっと待っててください、チュロス買ってきます!」
「ぎゃーったこ焼きもおいしそう! デザート代わりにたこ焼きたべませんか?」
「あ、見てください! あそこ、水槽、お掃除してますよ。わーっご苦労様です。お水全部抜くんですねぇ」
彼女がずっと楽しそうにはしゃぎ回るので、見失わないようにするのが大変だった。おかげで首と目が疲れたこと。
それでも、子供のように駆け回る彼女を見ているとこちらも自然と笑顔になる。
――我々夫婦は、本当に心から君の幸せを願っている。
――お前には幸せになって欲しいんだ。
二つの声がまた、交錯する。
僕は幸せになれるだろうか。
「美咲ちゃん」
はしゃぎ過ぎて疲れたらしく、帰りの車に乗るなり美咲は眠りこけてしまった。
男の車で眠るなんて、無防備だな。
安心してくれていると喜ぶべきなのか、意識されていないと悲しむべきか。
心の行方を決めきれないまま目的地に到着してしまう。
「美咲ちゃん」
横を向いて、少し肩に触れた。
眠っているせいかその肩が熱を帯びているように感じ、思わず一瞬手を引いてしまった。
「美咲ちゃん、美咲ちゃん、着いたよ」
少し大きな声で言いながら軽く揺すると、やっと瞼が震えた。
「ん……」
小さな唇から吐息が漏れる。
本当に無防備だな。
思わずクスリと笑いを漏らすと、その笑い声に誘われるようにうっすらと目を開き、それから驚いたように飛び上がった。
「……わ! ごめんなさい! 私、寝ちゃってたんですね!」
「いいんだよ。疲れてただろうし。遠くまで連れて行ってごめんね。今日は付き合ってくれてありがとう。楽しかった」
彼女はぶんぶんと首を振る。
「とんでもないです! こちらこそ、こちらこそです! 連れて行っていただいて本当にありがとうございました! 水族館はもともと好きでしたけど、今日でもっと好きになりました!」
そう言って彼女はシートベルトを外した。
カシャン、という金属音がして、ベルトが服の上を滑るシュルシュルという音が続く。
彼女がもう一度「ありがとうございました」と言いながらドアに手をかけたのを見て、僕は咄嗟に体を伸ばしてその手を押さえた。
「……? あれ、どうかしましたか?」
彼女の声に僕はあわてて身を引き、運転席に体を収める。
「あ、ごめん。ちょっと話があって。このまま少しだけ、いいかな?」
「はい」
彼女は体を少しずらしてこちらを向いた。
僕もできるだけ体を横に向け、彼女をまっすぐに見つめた。
「もしよかったら、僕とお付き合いしてくれませんか」
一気に言うと、彼女は破顔した。
「はい、喜んで!」
迷うこともなく出てきたその答えが思いの外うれしくて、僕は美咲ちゃんの手を取った。
「じゃあ、これから、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。送っていただいてありがとうございました。またメールしますね!」
そう言って彼女は車を降り、丁寧にお辞儀をして去って行った。
「とりあえず、一歩だ」
僕はそうひとりごち、自宅に向かって車を走らせた。