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エスケープの向こう側  作者: 奏多悠香


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22 一生モノ

 九月十五日、月曜日。

 せめて式当日が、平日だったなら。

 月曜日だというのに、今年の九月十五日は敬老の日で祝日だ。よって会社も休み。忙しい時期ならば休日出勤なんて珍しくもないが、今は残念ながら仕事が落ち着いていた。用もないのに会社でだらだらしていたら、余計な経費がかかるとお叱りを受けそうだ。

 仕事さえあればすんなりと一日が終わっていくのに、休みの日だとそうはいかない。朝の四時に目が醒めてしまい、それからずっとアパートの狭い部屋でそわそわと過ごしていた。

 まぁ、そうだよな。平日に結婚式を挙げる奴はそう多くはないだろう。

 美咲は今日誰かと結婚するのだ。

 その人は美咲を幸せにしてくれるだろうか。

 美咲が結婚を決めたくらいだから、きっといい人なのだろう。

 きっと美咲を幸せにしてくれるだろう。

 だが、美咲はいい子すぎる。騙されてやしないだろうか。

 相手はどんな男なのだろう。

 仕事は何をしているのだろうか。

 ふいに、いつだったかこれと同じようなことを考えたような気がした。ぼんやりとした記憶をたどる。


 ――ああ、2年前だ。玲子が去った後、同じようなことを思った。玲子は幸せになれるだろうか、と。


 そして気づく。


 ――いや、違う。2年前とは全く逆だ。今の僕と同じようなことを考えたのは、たぶんあのときの片瀬だ。僕じゃない。


 急に舞い降りてきたその考えに頭をガンと殴られたような気持ちになった。座っていた椅子を蹴るようにして立ち上がると、ベッドサイドの引き出しをごそごそと引っ掻き回し、たった一枚の小さな紙切れを探す。もうとうに捨ててしまったかもしれない。だが、もしかしたら。もしかしたら、どこかに残っているかもしれない。

 引き出しの中身をベッドにぶちまけてきょろきょろと探すが、紙片は見当たらない。財布を取り出し、カードやレシートをすべて取り出して繰る。ない。ああ、財布は変えたんだった。去年ここへ引っ越してきた後で変えた。前の財布は、物置と化している前のマンションにしまってある。

 そうだ。あそこにあるかもしれない。部屋着のスウェットを脱ぎ散らかし、手近にあったスーツを着る。私服なんてしばらく着ていないせいで、もはやどこにしまったのかもわからない。

 その恰好のまま僕は前に住んでいた家までタクシーを飛ばした。

 車道に飛び出すようにして止めたタクシーの運転手は、車を走らせながらバックミラーで僕をちらりと見る。息を切らしてじりじりと外を見つめる僕を見て何か緊急事態だとわかったのだろう。

 マンションにつくと、階段を駆け上がる。駆け上がりながらしまった、と思った。たぶんエレベーターを待った方が早かっただろう。でも、もうそんなことはどうでもよかった。とにかく、動いていないと、前に進んでいないと、気がおかしくなそうだった。七階にたどり着くころには息があがり、背中を汗が伝う。玄関の鍵を開けて部屋に飛び込むと、むっとした空気が肌をとらえる。ここにはずっと足を踏み入れていなかった。

 思い当たるところを片っ端から探っていくと、目的のそれは領収書をしまっている箱から見つかった。

 片瀬亘の電話番号。一年前、玲子が教えてくれたのを書き留めたメモだった。


「この状況で相談するとしたら、あなたしか思い浮かばなかった」


 僕が電話をすると、幸運にも片瀬はすぐに電話に出て、すぐさま近くのホテルに駆けつけてくれた。順序立ててゆっくりと話をする精神的な余裕などなく、バラバラに今の状況を説明する。片瀬は一言も発さずにそれを聞いたあと、小さく小さく息を吐いた。


「倉持さんを散々苦しめて、さらにご迷惑まで掛けた俺から言えるようなことは何も……あの出来事を正当化なんて、とてもじゃないが、できません。だから、背中を押すことはできない。でも、止める資格なんてもっとありません」


 僕は両手で頭を抱えた。

 どうする。

 どうすればいい。

 頭を抱え、髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。

 そんなことをしたって、そこから答えが出て来るわけじゃない。

 答えなんてない。

 僕は二年前の今日、花嫁を奪われた。

 それは衝撃的な経験だった。

 苦しかった。

 それを、同じ苦しみを、自分が誰かに与える?


 そんなのダメだ。

 考えるまでもなく、それは間違っている。

 だとしたら、正しい答えは、なんだ。

 黙って見送るのか。

 抱えた頭の上を越えて、片瀬の声が聞こえた。


「ただ……

 結婚は一生モノです。

 だから、その後悔も、一生モノです。

 そう思ったら、勝手に体が動いていました」


 意志の力では抗えないほどの、衝動。


 それは、僕にはないもの。

 否、

 なかったはずのもの。


 気が付いたら走り出していた。




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