1 記憶を失った朝は
最初に目に飛び込んできたのは、黒い枕。そして目の前に横たわる人。
ゆっくりと半身を起こし、ずきりと痛んだ頭を押さえる。ベッドサイドに置いてあった時計に目をやると、針は昼前を指していた。
随分と眠ってしまったらしい。
重い頭を何とか持ち上げて周囲を見回すと、脱ぎ散らかされた服がフローリングの床に散乱してくしゃくしゃになっている。
ひどい有様だ。これまで酒の失敗など一度もしたことがなかったというのに、どうやら記憶を失うまで酒を飲み、自宅に帰りつくことなくここで眠ってしまったらしい。記憶がない間に何をしたかも全く分からない。
ぼんやりした頭をぶるぶると振って頭の回転を促し、この場所がどうやら従兄の家であるらしいとわかって胸をなでおろした。
隣に眠る従兄をゆさゆさと揺する。
なんだってこんな齢になって、こんなにデカい男と同じベッドで眠る羽目になったんだ。
「真吾」
んっと掠れた声を上げて、従兄が目を覚ました。
「頭いてぇ」
頭を押さえたままうめく従兄を尻目に僕はベッドから這い出て散らかっていた服を片づけ始めた。靴下に、ジャケットに、ネクタイに、ワイシャツ。自分の家ですらこんな風に脱ぎ散らかすことは滅多にない。昨日の自分はよほど酔っていたらしい。
「そこの黒いチェストにスウェット入ってる。勝手に着て」
かすれ声に言われ、僕はその通りに部屋着を身に着けた。
「頭いてぇ」
かすれ声がまたつぶやき、僕は思わず苦笑いをする。
「付き合わせちゃって悪かったな。大丈夫か。今水持ってくる」
勝手知ったる台所で冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して渡すと従兄は喉を鳴らしながらそれを飲んだ。
「朝起きた時に野郎が隣にいるほど不愉快なことはないな。美女だったら大歓迎なのに」
水を持ってきてやったのに、プレイボーイは平然とそんなことを言う。
「真吾、今日用事あるのか?」
「いや。俺は何も。お前は?」
僕は返事の代わりに首を振る。久しぶりに何も予定のない休日だった。
「じゃあゆっくりしてけよ。別にやることねぇし。後でなんか宅配で飯頼もうぜ。二日酔いによさそうなやつ」
「そんな宅配あるのか」
「いや、ねぇな。斉木さんに電話しとくか」
そう言って枕元の電話に手を伸ばし、短縮ダイヤルを押す。
「あ、おはよう。真吾です。昨日飲みすぎちゃってさ。貴俊も一緒なんだけど、二日酔いやべぇからなんか効きそうなもんお願いしますって斉木さんに伝えてくれる? うん。ありがとう。はーい」
間延びした声でそう言って電話を切る。一人暮らしの男の家に固定電話があるのはいまどき珍しいが、二台の携帯のうち一台は仕事用、もうひとつはプライベート用、そしてこの固定電話は主に家族との連絡用として使い分けているらしい。プライベート用の電話は仕事が忙しくなると電源を切って放置するため、緊急連絡用に固定電話は欠かせないとか。放置される方の携帯に一体何人の女性の番号が登録されているのか想像するのも怖いくらいだ。
それにしても、
「相変わらずの人使いだな」
僕が言うと、従兄は軽く答えた。
「まぁな。でも、斉木さん結構張り切って作ってくれるから。届けてくれたときにちゃんと礼言っとく」
斉木さんというのは真吾の実家の家政婦さんだ、幼い頃からずっと世話をしてもらっているせいか家族のような感覚で、真吾はなんの遠慮もなく彼女に頼みごとをする。そして彼女もまた、嬉々として「真吾ぼっちゃん」の世話を焼くのだ。彼女に限らず、なぜかこの従兄の頼みには応えたくなってしまう。たぶんこういうのをカリスマというのだろう。
「しかし、飲んだなぁ。お前ちゃんと記憶ある?」
従兄は枕に頭を沈めながら言った。
「いや。ウイスキーストレートで飲んだところから記憶ない」
僕は正直に答えた。途端に、従兄がオイっと声をあげた。
「そこからかよ! そこ序盤だわ! お前そのあと女の子と合流したの全然覚えてないの?」
「まったく。女の子って誰?」
「俺の知り合い。偶然近くで飲んでるって連絡来たから呼んだんだよ。お前、覚えてねぇのかよ。せっかくの新しい出会いだったのに」
――出会い、ね。
そう、あれから六か月も経った。
目の前で花嫁姿の玲子を掻っ攫われてから早くも半年。
昨日の朝自宅の郵便受けに届いていた封書には、かつて自分が贈った結婚指輪が入っていた。封筒の凹凸から何となく予測はしていたが、すぐに開封する気が起きずに会社まで持って行き、この従兄と飲み始めたときに思い切って封を破いたのだ。転がり出てきたそれを見た時は、やはり胸がつきりと痛むのを止められなかった。
惚れていたのだと思う。
見合いだったけど、初めて会った時の楚々とした彼女の振り袖姿は今でもはっきりと思い出せる。形の良い茶色の目をじっと見つめるのが照れくさくて振り袖ばかり見つめていたから、振り袖の矢羽柄まできっちりと覚えている。
見合いから八か月。結婚式や新生活の準備は、人生の次章への橋渡しのようなその作業は、浮き立つような期待感にあふれていた。
だが、玲子にはほかに想い人がいたらしい。そしてその相手も、彼女のことを想っていたらしい。
――ワタル、と言ったか。
指輪の交換も終わり、誓いのキスをしようとベールを持ち上げ、目を閉じた彼女の美しさにふと魅入った瞬間だった。一陣の風が舞い込み、彼女を絡め取ってあっけなく吹き去って行った。
棒切れのように地面に突き刺さった両足をあの時動かすことができていたなら、もしかして状況は変わっていたのだろうか。
指輪に添えられた短い手紙には、丁寧な字で謝罪と感謝の言葉が添えられていた。
悪夢のような結婚式のあと最も激怒したのは彼女のご両親だった。結婚式で娘が逃げ出すなど考えもしなかったのだろう。僕に恥をかかせてしまったという申し訳なさや、招待客に対するメンツなど、憤りの種は山ほどあったに違いない。
そんな彼らに僕は、彼女の「ワタル」との結婚を認めてあげて欲しいと頭を下げた。彼女の感謝は、そんな僕の行動に対するものだった。
お人よしだと嗤われるだろう。それでもかまわない。むしろ、よかったのだ。婚姻届を提出する前だったおかげで僕には戸籍上の痛みはなかったし、ほかの男と想いあっている妻を自分の下に捉えておくような趣味も情熱も甲斐性も僕にはない。よかったのだ。そう、言い聞かせた。
結局彼女はご両親とも何とか和解し、想い人と結婚することになったらしい。その報告が、あの日彼女の薬指にはめた指輪と共に昨日もたらされたのだった。
「お人よしめ」
昨日から何度目かになるその言葉をつぶやきながら、真吾は再びベッドに沈みこんだ。
「まぁ、いいんだ」
僕はそうつぶやきながらベッド脇のスイッチを押す。ベッドの足側の壁面上部からスクリーンがするすると降りてくる。ホームシアターつきの寝室。贅沢なものだ。
真吾は金を使うのが好きだ。そして、使い方がうまい。力を抜くところは抜いて、ここぞというところにポンと大金をつぎ込む。たぶん、仕事も同じだ。効率の良さと、こだわりと。天賦の才なのだろうといつも思う。
「何か観ないか」
そうつぶやきながら、お気に入りのミュージカル映画のDVDをプレイヤーに突っ込んだ。頭をからっぽにするには最適だ。
「またそれか。好きだな」
「歌はいい。ストーリーを追わなくても楽しめる」
「それもそうだな」
ゆるい雰囲気でベッドに転がったまま生返事を寄越した真吾は、ベッドサイドに置いてあった携帯を手に取った。
DVDが回る独特の音が聞こえ、すぐにオープニング映像が流れる。
「お人よしに朗報だ」
女優の歌声に包まれてぼんやりとし始めた頃に、後ろからかすれ声が飛んできた。
「何だ」
「昨日飲んだ女の子が、お前のメアドを知りたいって」
嘘だろ。飲んだことすら覚えてない相手と連絡を取るなんて。
僕はうめき声をあげて振り返った。