17 引っ越し
引っ越しを終えた僕の気持ちは晴れやかだった。
狭い部屋。少ない持ち物。
引っ越しと言っても車に詰め込めば一度で運べるほどの荷物しかない。元の家から車で二十分ほどの距離にある新居への引っ越し作業はたった一時間で終わってしまった。
新しい部屋は会社から一駅の場所にある1DKのアパートだ。駅の裏側に位置するため、アパートまでの徒歩十分の道のりには点々と街灯があるだけで、夜になると暗くさびしい雰囲気が漂う。女性なら確実に危ないと感じるその道は、男の僕にとっては静かで趣深いものだった。
茜がここに住むと言ったらたぶん大反対するけどな。僕は男だから、その点は楽なもんだ。
そして元のマンションは、どうするか悩ん末に、すぐには手放さずに置いておくことにした。買いそろえた家具や家電は新しい部屋には大きすぎて入らないし、かといって処分するのも惜しい。それに好立地で駐車場もあり、機能的な間取りのあのマンションが僕は気に入っていた。一人で暮らすのでなければ、だが。新しい住まいには駐車場はついていなかったので、車はそのまま元のマンションに置いておくことにした。
家で食事をする機会はあまり多くないので食器も最低限しか持ってこなかった。お気に入りのマグカップがひとつと、どんぶりにもカレー皿にもなる中途半端な形の深い皿が二枚。パン皿が一枚。箸、スプーン、フォーク、二セット。
衣類など、その少なさに自分で驚愕したほどだ。スーツ七着。部屋着数枚。綿のシャツ三枚。チノパン一本。ジャケット一着。セーター二着。それに下着類。平日はスーツだし、休日家にいる間は部屋着、出かけるときは綿のシャツにチノパン。 寒い季節はその上にセーターかジャケット。これだけだ。さすがにチノパンが一本しかないのはまずいので、今度の週末にでも美咲に付き合ってもらって買いに行こうと決意した。週末の洋服はすでにネタ切れだ。たぶんいつも同じ服を着ている男だと思われているに違いない。
引っ越し作業がすべて終わってから、僕は美咲にメールを出した。
〈引っ越し完了!〉
〈えっ。貴俊さん、引っ越ししたんですか?〉
すぐに返信が返ってくる。
〈そうなんです。実は〉
引っ越しをすると予め言ってしまったら美咲は絶対に「手伝う」と言い出すと思い、終わるまで何も言わずにいたのだ。
それに、あの家を出るのは自分の意志で、一人で済ませたかったというのもある。
それは僕にとって儀式のようなものだった。
玲子のことを1つの思い出にして乗り越え、その向こう側へ行く儀式。
必要なものを運び出してから鍵をかける前に振り返ったその部屋には、もうがらんとした寂しさや空しさは感じなかった。
やっと、終われた。
そんな気がした。
そう思えたのは美咲のおかげだ。美咲の存在がなかったら、玲子が訪ねてきたときにきっと自分の心は揺らいだに違いない。片瀬と冷静に話すことができたかもわからない。彼らと話をしている間中、僕の胸の真ん中には温かな芯があって、そのおかげで僕はかれらを穏やかに見守り、その背中を押して見送ってやることができたのだ。
片瀬と話したあの日曜日の夕方、玲子と片瀬が揃って会いに来た。そして僕は、二人に心からおめでとうと伝え、そして幸せになってほしいと言う事が出来た。僕も幸せになるから、とも。
少し時間をおいて美咲からの返信が届いた。
〈あのマンションから引っ越したってことですか?〉
〈うん。ぼろいアパートだけど、もしよかったら今度遊びにおいで〉
今度こそ、話そう。僕はそう決意した。引っ越しも済ませ、玲子と片瀬の幸せそうな背中を見送った今ならちゃんと話せる気がした。間抜けな自分を知られても、きっと美咲なら受け止めてくれる。
美咲の返信を待つ間に真吾に電話を掛けた。
「あ、もしもし。真吾、今大丈夫か?」
『なんだよ。今日は泊めないぞ』
「あ、ごめん、お客さん?」
『まあな、ハルカちゃんが来てる』
「そっか。いや、いいんだ。こないだ泊めてもらったときに携帯の充電器忘れてなかったか聞こうと思って」
『ああ、探しとく。あったら会社に持ってくよ』
「さんきゅ。じゃあ、楽しんで」
ハルカちゃんは大丈夫なんだろうか。美咲の友達だから、できれば傷ついてほしくない。だがまぁ、大人なんだから僕が口を出すようなことではないだろう。
そう思いながら僕は狭い部屋でシングルベッドに寝転んだ。
この狭さが、いい。
美咲を呼ぶにはもう少し片づけないと。そんな能天気なことを考えていた僕はその時、何もわかってはいなかったのだ。
結局、美咲がその部屋に来ることはなかった。
その日から先、美咲からの返信が途絶えたからだ。




