16 後悔
「一年前のことを……後悔してるって、言われたの」
言われた。
つまり、あのワタルという男が玲子を連れ去ったことを後悔しているというのか。
――人をバージンロードの先っちょに置き去りにまでしておいて、後悔してるってどういうことだ。
無性に腹が立った。
1年前だって、腹が立たなかったわけじゃない。
でも、僕より確実に玲子のことを大事に想っている人がいるなら、そしてそれが玲子の幸せなら、と思ったのだ。
それなのに、何だ。
「それはどういう文脈で言われたの? 突然?」
怒りを抑えて冷静に尋ねる。
「最近ちょっと彼の様子がおかしい気がして……本当にここ一週間くらいなんだけど。ふさぎ込んだりして、落ち着かない様子だったの。だから、もしかしてって思って聞いてみたら……」
玲子はそれ以上言葉が続かないらしかった。わなわなと震え、涙をこらえようと必死で下唇を噛んでいる。
「そんなに噛んだら血が出るよ。堪えなくていいから。別に誰に見られるでもないし。泣いちゃったら」
僕はそう言ってタオルを取りに行く。
その途中ではたと立ち止まった。誰に見られるでもないしって言ったものの、僕に見られるのも嫌なのか。
泣いている彼女を見ても、胸は痛まなかった。僕が彼女に対して直接してあげられることは何もない。彼女を慰めるのは僕の役目ではないはずだ。
だから、きっとこれはチャンスなんだ。
僕があの出来事を乗り越えるための、神様がくれたチャンスだ。
――やるべきことは一つ、か。
あんまり好きじゃないんだけどな。直接対決。
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待ち合わせ場所のホテルのラウンジでその背中を見た時、僕はそれが一年前のあの男だと確信を持った。
「倉持貴俊です」
歩み寄って右手を差し出すと男は立ち上がって恐縮したようにその手を握り、頭を下げながら「かたせわたる」と名乗った。
片瀬。それが今の彼女の苗字なのか。
ソファに座るよう促しながら、自分もテーブルをはさんで正面の席に腰かけた。
「一年ぶりですね」
僕がそう言うと、男は申し訳なさそうに何度も何度も頭を下げた。
正確に言うと、一年と五日ぶり。彼女がうちに来たのが火曜だったのだが、仕事が忙しくてそれから時間を取れず、片瀬に会うのが日曜になってしまったのだ。片瀬の連絡先は彼女に聞いた。
僕が会いに行ってくると言うと彼女は随分と驚いた顔をしたが、「僕があの出来事を乗り越えるためにも必要だと思う」と告げると、暗記していたらしい電話番号をすらすらと教えてくれた。
「あの、彼女は、いまどこに?」
「いまは僕が所有するマンションに居ますが、僕は彼女が来てから従兄の家にいますので一緒に生活はしていません」
僕が所有するマンション、というところに片瀬はぴくりと肩を動かした。
僕の家にいる、と言うのが憚られてその言葉を選んだが、表現がよくなかったかもしれない。
「片瀬さん……玲子……さんに、あの日のことを後悔しているとおっしゃったそうですね」
できるだけ責める口調にならないように告げようとするが、どうしても言葉に潜む棘が隠れない。その棘は片瀬をぶすりと刺したようだった。
「はい……」
手を膝の上で握りしめて肩をぎゅっと持ち上げたその姿勢は、イタズラをして叱られている小学生の男の子のようだ。
なぜ、という言葉を飲み込む。少し落ち着かなくては。
僕は深呼吸をして目を閉じる。目の前に置かれた紅茶の香りがそっと鼻をくすぐった。
「彼女ともう一度……やり直す気はありませんか」
片瀬が零した言葉に僕は目を見開き、思わず立ち上がった。テーブルが揺れ、紅茶が危なっかしげにちゃぷんと音を立てる。
それはいくらなんでも、あんまりな言葉ではないのか。
「すみません」
僕の心の声が聞こえたかのように片瀬は俯いた。持ち上がった肩が中央に寄せられ、さらに男は小さくなる。まるでこの場所から消えたいとでも思っているかのようだった。
「結婚式に乗り込んでくるくらいだから、彼女のことを心から愛して、大切にしてくれる人だと思っていましたが」
棘を隠すことすらせず、意図的に冷たい言葉を吐き出した。
「いえ……! あの、彼女のことは愛しています。ただ……」
男は肩を縮めたまま前のめりになった。
この男、結婚式で花嫁を引っさらった男と同一人物とは思えないな。
消え入りそうな声で話す男を立ち上がって威圧している自分が馬鹿馬鹿しくなって、僕は椅子に座り直す。
「ただ?」
腕を組んで背もたれに体重を預ける。態度が悪いのはわかっているが、こうでもしないと、また立ち上がって殴りかかってしまいそうだった。
「あまりにも無計画で。衝動で彼女を連れ帰ったものの、結局、自分の力では何もできず……彼女との結婚を許してもらえたのはあなたの口添えがあったからだと聞きました。それに、結婚式だって…ちゃんと結婚式を挙げようと思って調べてみたら、想像していた以上にお金がかかることがわかって。俺の実家はそんなに金があるほうではないし、かといって自分の貯金だけではとてもじゃないがあなたの時みたいな式は挙げてやれなかった。お粗末なもんです。彼女のご両親も、結婚を許しはするが俺を認めたわけではないと……あれ以来彼女の足も実家から遠のいてしまって」
なるほど、と僕は頷く。
なんとなく、言いたいことがわかってきた。
「……俺は彼女からすべてを奪ってしまった気がするんです。あの時あなたと結婚していれば、彼女はたぶん何不自由ない生活を送れていたと思います。ご両親との仲もそのままに、親戚や友人から変な目で見られることもなく、手が荒れるような家事をすることもなく……俺たちの結婚を許してもらえたのがあなたの口添えによるものだとわかった時に、本当に思い知ったんです、あなたはたぶん彼女を幸せにできただろうと。そうしたら自分が情けなくてたまらなくなって、それで、彼女に後悔しているかと問われて思わずうなずいてしまいました」
僕は組んでいた腕を外してから姿勢を正し、一度天井を仰いだ。そして、顔をあげてください、と言った。
「あなたのおっしゃるとおり、僕はたぶん彼女に月並みな幸せならあげられたと思います。大切にもしたでしょうし、おそらく浮気もしなかったでしょう。でも、あなたがさっきおっしゃったすべてのことは、彼女が選んだことです。結婚式に飛び込んできたあなたの衝動に突き動かされ、その未来を彼女自身が選んだんですよ」
その言葉に、片瀬は顔を上げて僕を見つめた。目には涙が浮かんでいる。
「あなたの勢いに押されたというのもあるでしょう。でも、彼女は確かに選んだんです。あなたが飛び込んできたのを目にしたあの瞬間、彼女は恐ろしく冷静な目をしていました。そして、あなたに腕を引かれたあと、彼女は申し訳なさそうに『ごめんなさい』と言ってから去りました。だから僕は追えなかったんです。彼女の決意がそこに見て取れたから。勢いに流されてあなたについて行っただけではない。
彼女はあの瞬間に、自らの意志で未来を選んだんですよ。だから、結婚を認めてあげて欲しいと彼女のご両親に頼みました」
片瀬の目が見開かれる。
「彼女の幸せなんて、彼女にしかわからないと思いませんか。結婚式の豪華さや月並みな幸せより、彼女はあなたとの生活を望んだんです。それに、1年前のあの結婚式は、知人の経営するホテルだったから随分と安くしてもらったんです。僕も、あんな金額をまともに払えるほどの収入はありません。倉持の家は、僕自身が築いたわけではありません。僕が誇れるようなものじゃない。もっと自分に自信を持ってください」
僕はそう言ってから、ジャケットの胸ポケットから名刺とペンを取り出した。
「彼女がいるマンションの住所です。七階の角部屋です。エレベーターを降りて左。今日はきっとずっとここにいますから、できるだけ早くに迎えてに行ってあげてください」
名刺の裏に住所を走り書き、片瀬の前に押しやった。
「ああ、それから――」
できれば、ベッドを荒らすのはやめてください。
さすがにちょっと、気まずいので。
僕が冗談交じりにそう言うと、片瀬は困りきった顔で笑った。




