15 突然の来訪者
それは何の前触れもなく、突然やって来た。
あの式からちょうど一年が経った九月の十五日。
真夜中に鳴ったインターホンに、僕はあわててドアを開けた。
外に立っていたのは、雨にぬれそぼって小さく震える玲子だった。
「玲子……」
外は土砂降りの大雨だ。前髪が額に張り付き、髪の毛の先からは水滴が次から次へと滴り落ちていく。僕はドアを押さえたまましばらく玲子の姿を見つめていたが、首を傾げるようにして無言で家に迎え入れた。
大判のバスタオルと家に置かれたままになっていた彼女の部屋着を渡すと彼女はそれを受け取って浴室に消え、着替えてから出てきた。
九月とは言え濡れた体は芯まで冷えているだろう。でもさすがに風呂に入って来いとは言えないから、代わりにマグカップいっぱいの暖かいココアを差し出す。 彼女がそれを好きだと知っている。僕が普段飲まないココアの粉末がここの冷蔵庫に入っているのは、彼女が買って入れたからだ。
「ありがとう」
玲子はマグカップを包み込むように両手で持ち、目に涙をためて礼を言った。
髪の毛がずいぶん伸びたな。
そして、染めたんだな。
パーマもかけたのか。
玲子の優しい雰囲気によく似合っている。
どこか伊織に似ているなんて思ってしまうのは、僕には伊織と茜くらいしかよく知った女性がいないからだろうか。
「突然押しかけてごめんなさい。迷惑だってわかってたけど…ほかにどうしても行くあてがなくて。財布も持って出なかったし、実家になんてとてもじゃないけど帰れなくて……唯一自分の足で来られるのがここだったの」
「まさか歩いてきたの?」
玲子が静かに俯く。
これは肯定、だろうか。
玲子がどこからやって来たのかは知らない。どこに住んでいるかも知らない。
でも多分、相当な距離を歩いて来たのだろう。
「この雨の中、傘もささずに? 大変だったね」
そう言ってから僕は、この状況をどうしようかと考える。
他に行くあてがないというのは本当だろう。
何日かホテルに泊まれるくらいの金額を貸すのもいいかもしれないが、この様子で一人放り出してどこかへ行かれるのも危ない気がする。
ここなら彼女は何度も来たことがあって勝手もわかっているし、服もいくつか残っていた。彼女がここに運び込んでいた荷物のほとんどは一年前に彼女の実家に送り返したが、後々発見されたものなどは追加で送り返すのも憚られ、かといって捨てるのも抵抗があり、そのまま箱に詰めて置いておいたのだ。
ここに滞在するのが、金銭的にも精神的にもおそらく一番いい。
僕は決心をして立ち上がった。
「今日はもう遅いから、ここでゆっくり休むといいよ。僕は真吾の家に行くから」
「でも……」
「いいんだ。ここの勝手はよくわかってるだろう?風呂も台所も、好きに使ってくれて構わない。さすがに布団は抵抗があるだろうから、新しいシーツを出しておく。あとは……どこかに連絡をしたいなら、今の内なら僕の携帯を貸せるけど?」
彼女は首を振った。
「ううん。平気。ごめんなさい。迷惑をかけて」
「構わないよ。明日仕事帰りにここに寄るから。すまないけど、できればそれまでここに居てもらってもいいかな?合鍵をどこへやったか覚えていなくて。で、明日、僕がここに来たときにできれば事情を話して欲しい。力になれるかもしれないから」
彼女はこくりとうなずいた。
痩せたな。
顔ではなく、うなずいたときに不意に目についた首筋を見てそう思った。
合鍵の場所はちゃんとわかっているが、明日まで彼女を留めておくために嘘をついた。
まさか妙なことを考えてはいないとは思うが、この思いつめた空気を纏ったまま居場所がわからなくなるのはまずい。
明日話を聞けば何か解決策が見つかるかもしれない。それまでは、彼女をここに引き留めておくべきだと思ったのだ。
「じゃあ。また明日」
そう言ってカギを掛け、家を出てから真吾に電話を掛けた。
電話に出た従兄の声はくぐもっていた。
どうやら寝ていたらしい。
『おっ前、何時だと思ってんだ』
「悪い、しばらく泊めて」
『おい』
「事情は話さない」
『何だその上からな態度は』
「誰かいるの?」
『運がいいな。今日はいない』
真吾の家にはしばしば女性の出入りがあるので、突然行こうとすると断られることも少なくなかった。
「じゃあ、行くから」
『はいはい』
この短い会話で済んでしまうのは、僕らが従兄だからか。それとも幼い時からずっと一緒だからか。
電車はとうに終わっているので、マンションの前にタクシーを呼んだ。
乗り込んで行き先を告げ、考え込む。
玲子は一体どうしたのだろう。
人に迷惑をかけることを嫌う性格だったはずだ。
その玲子が夜中に来るのだから、よほどのことなのだろう。
奇しくも、九月十五日。
それとも偶然でなく、必然なのだろうか。
一年前の出来事を後悔している?
いや、そんなことで押しかけてきたりはしない。
玲子はたぶん、そういうタイプではない。
もし後悔して僕とやり直したいというのなら、もっとまっとうな方法で来るはずだ。
だいたい、彼らの結婚式が済んだという報告を受けてからまだ四カ月ほどだ。
それくらいで仲が壊れるとは考えにくい。
わからない。
まぁどうせ明日になったら本人から事情を聴けるのだ。
考えても仕方ない、か。
真吾は僕をすんなりと迎えいれ、熱いコーヒーを淹れてくれた。
「さんきゅ」
「どうした。話せることだけでいいから」
「家を人に貸してる」
真吾にも、事情を話す気はなかった。聞いたらこの男は怒りそうだと思ったから。
「人? 美咲ちゃんか?」
「いや、違う」
「そうか。美咲ちゃんには話したか?」
「何を」
「お前の家を人に貸してるってことを、だ」
「いや」
「おい。いいのかよ」
「裏切るようなことをしたくないと思ったから、ここに来たんだ」
玲子とどうこう、なんて事はさらさら考えていないが、自分の部屋で女性と一晩一緒に過ごすのは立派な裏切りだろう。
「ってことは、女か。珍しいな。美咲ちゃんと鉢合わせでもしたらどうするつもりだ」
「いや。美咲はうちに来た事ないからそれは大丈夫だ」
「えっ。おま……美咲ちゃん、お前ん家行ったことないの?」
「うん。あ、でも場所は知ってる。この間ドライブの帰りに彼女の家まで送っていく途中でマンションの横の道を通ったからさ。『このマンションの7階のあそこの角に住んでるんだ』って言っといた」
「付き合って4カ月も経つのに……何か呼びたくない理由でもあるわけ?」
「んー。まあ、敢えて呼びたくはないかな。今はまだ色々二人で出かけるのも楽しいし、あの家は明らかに一人暮らし用じゃないからな。食器とかも二つずつ揃っててかなり妙だし。それに……」
「それに?」
「あの部屋、一人で住むには広すぎるんだよ。美咲が来て帰った後、これまで以上の孤独感に苛まれるのは耐えられない。ようやく一人に慣れて来たのに」
あのパーティーの夜の決意からもう2か月以上も経ったのに、僕は未だに美咲に打ち明けていなかった。あの間抜けなエスケープ事件のことを。美咲と過ごす時間はいつも穏やかで楽しく、その雰囲気をぶち壊すようなことをしたくなかったのだ。
「お前さぁ、引っ越した方がいいんじゃないの。今度こそ」
真吾が枕を投げて寄越しながらそう言った。
「うん。そうするつもりだよ。今部屋を探してるところなんだ」
本当だった。仕事や美咲とのデートで忙しくてなかなか捗らないが、空いた時間を見つけて不動産屋に足を運んだりしていたのだ。
「遅えんだよ」
「ごめん」
「いや、俺に謝ることじゃないけど」
真吾のベッドに横になったが、結局僕はその夜一睡もできずに朝を迎えた。
次の日、会社帰りに自宅に寄ると玲子はゆっくりと話し始めた。
「1年前のことを……後悔してる―――」




