14 誕生日
七月十一日。
パーティーの日から一週間後、僕の誕生日がやってきた。
『今年は実家に帰って来ない?』
電話で母親からの誘いを受けた。
美咲はハルカちゃんを含めた会社の友人たちと、週末を利用して泊りがけで遊園地に遊びに行ってしまっている。つまり僕は暇だった。別に実家にわざわざ帰ってまで祝ってもらうほどめでたい行事ではないが、一応の節目ではある三十歳の誕生日を一人ぼっちで広い部屋で過ごすのも空しくて、僕は久しぶりに実家を訪れた。
車で四十分ほど走ると、見慣れた大きな家が視界に飛び込んできた。僕のために空けておいてくれたらしいガレージの一角に車を停め、塀を回り込んで正門をくぐる。正面に見える大きな家は真吾の実家だ。倉持グループの総帥である祖父と祖母、そしてその長男夫妻である真吾の両親が住んでいる。
僕の実家はその隣にある別棟の小さな家だった。小さな、とは言っても百五十平米ほどはあるのだから、四人家族で暮らすには十分な広さだ。母屋が重厚な日本家屋であるのに対し、僕の家は南仏を想わせる建築だった。両親が結婚したときに、フランスに住んでいたことのある母の希望を取り入れて建てられたもので、母屋と全く佇まいの異なるその外観は全体に和で統一された空間の中では異色を放っていた。
でも、その不調和を嫌がる人は倉持家には誰もいない。
「和洋織り交ざってるわよねぇ。貴俊も結婚したらこの敷地に家建てなさいよう。和でもなくプロヴァンス風でもないとすると……何がいいかしらねぇ。私、ギリシャ風のお家もすごく可愛いと思うのよ」
とは祖母の弁。
ばあちゃん、それは随分と混沌とした空間になりそうだね、とは言わないでおいた。
格式とか、外観とか、そんなことにはあまりこだわらない。
祖母の一言に倉持の家風がよく現れている気がして、僕はとてもうれしくなったものだ。この不調和な外観を一番嫌がったのは長年担当してくれた庭師だったというくらいだ。その家風のおかげか、家の外観の不調和とは反対に、家族や親せきはバラバラながらもうまく調和してとても仲の良い一族だった。
「貴俊! 元気だった?」
玄関を入ると母が嬉しそうに駆け寄ってきた。
「元気だよ」
「先週のパーティー、行けなかったからすごく会いたかったのよ!」
かいがいしくスリッパを差し出しながら母はそう言った。
三十になった息子に対して「すごく会いたかった」とこんなにはっきり言う母親も珍しい。
「最近はどう? 働きすぎていない?」
母の役割はずっとこうだった。父と僕が働きすぎていないかをいつも気にかけて、ブレーキをかけてくれる。特に父は仕事人間で、放っておけば家にも帰らず仕事に没頭しそうなタイプだった。
「週末は大抵休むようにしてるし、大丈夫だよ。父さんほどは働いてない」
「そう。よかった。健康第一だからね! 三十になると体力も落ちて来るし、無理しちゃだめよ」
僕は苦笑した。
「母さんの方こそ。齢なんだから。家事なんか手抜いて、ゆっくりしなよ」
僕は母が立ち止まっているところをほとんど見たことがない。いつもちょこまかと動いて何かの用事をしていて、テレビを見ているときでさえ老化防止のエクササイズをするような人だ。
「いいのよ。これが母さんの活力なんだから!」
そう言う母に先導されて久しぶりに足を踏み入れたダイニングのテーブルには、これでもかというほどたくさんの料理が所狭しと並べられていた。
「お父さんが帰ってくるまで少し時間あるし、料理の仕上げするからゆっくり休んでてね。茜、ほら、貴俊帰って来たわよ」
母はそう言いながらそそくさとエプロンをつけてオーブンに向かう。これからまだ料理が増えるのか。
「よう」
茜とはあの夜中の訪問以来だ。
「お兄ちゃん、お誕生日おめでとう」
天使のほほえみだ。真吾が大量破壊兵器と呼んでいるやつ。
「鳥飼さんのこと、認めてくれてありがとう!おかげでお父さんも渋々ながら許してくれたの。本当に助かりました」
深々と頭を下げる茜。
ああ、と返しながら鳥飼守のプラトニック・ラブ宣言を思い出して思わず笑ってしまった。
「お兄ちゃん、何で笑ってるの」
顔を上げた茜が不思議そうな目をする。
「聞いてない? あのパーティーでの鳥飼さんの話」
「ヌードが勘違いだったことは知ってる!」
女子高生がでかい声でそんなこと言うな、と言ってやりたいが、どうせ聞く耳など持たないだろう。
「それじゃないよ。鳥飼さんの宣言」
茜は首を傾げた。あ、知らないんだな。
「なになに?」
「いや、内緒」
そう言ってからふっと微笑むと、茜は「けちー!」と叫んだ。
「まぁ、誠実にお付き合いしますって感じのことを言ってた」
鳥飼め、武士の情けだ。
「えへへ。鳥飼さん、いい人でしょう?」
「そうだな。茜にはもったいないくらいいい人そうだ」
「えー! 私これでも結構モテるんだからねー! お兄ちゃんと違って!」
楽しそうにそう言った後、妹ははっとしたように固まった。僕の恋愛に関することは、この家では禁句になっているようだ。
「茜、今日ローストビーフ抜きね」
僕は下手な気を遣う妹がなんだか可愛くなって、大好物を取り上げることにする。
「えっ! そ、それは……それだけは……! 後生だから……!」
そんな言葉どこで覚えたんだ。僕は目を眇めたまま口角だけを持ち上げるブラックスマイルを見せつけてやった。
「お願い! せめて野菜に……! 野菜抜きの刑にして……! ローストビーフだけは……! ローストビーフだけは!」
肉好きで野菜嫌いの妹にとって何とも都合のいい懇願は、その日ずっと続いた。
美咲から電話があったのは翌、日曜の夜。実家で一泊した僕も家に戻ってゆっくりと過ごしていた。
『貴俊さん! 月がきれいですよー!』
開口一番、美咲はそう言う。僕はベランダに出て月の姿を探すが、見えない。
「ちょっと待って」
慌てて玄関まで走る。この家、やはり広すぎる。携帯を頭と肩で挟んでがたがたと靴を履く。
『……貴俊さん?』
玄関の扉を開けて廊下に出た。
「ああ、ごめん。もう平気だよ」
ああ、月、あった。ぽっかりと浮かんだ月の周りには雲もなく、上限の月はそのいびつな形をさらしていた。
『おいしそうな月! オムライスみたい!』
食べ物に例えるところが美咲らしい。
「僕にはアメフトのボールに見える」
『えっ貴俊さん、アメフトできるんですか?』
「中高時代に部活でやってた」
『そうなんですか! あんまりアメフト選手っぽく見えないですね!』
アメフト選手と言うといわゆるゴリマッチョを想像する人が多いのだろう。だがポジションにより必要とされる体型は違うし、それに中高時代のことだ。筋肉はとうに落ちてしまった。そう説明すると、美咲はなるほどーっと感嘆の声を上げる。
「ところで、遊園地は楽しかった?」
『楽しかったですよ! 女5人で思いっきりはしゃいできました!』
美咲がはしゃぎ回る様子が目に浮かぶ。
『貴俊さんは、この週末何されたんですか?』
「実家に帰ってたよ」
『え、ご実家ですか?』
「そう」
『ご家族に何かあったんですか?』
急に実家に帰ったと聞いて心配になったらしい。
「いやいや。何もないよ。久しぶりに顔見せろって言われたから」
実は、美咲には自分の誕生日を話していなかった。その日は友達と遊園地に行くと前から決まっているのに余計な気を遣わせたくなかったし、突然自己申告するのも何だかおかしい気がしたのだ。いつか誕生日の話題になった時にでも、言えばいい。
『そうですか! 妹さんにも会えたんですか?』
「うん。会えたよ。相変わらず元気だった。楽しそうに彼氏の話なんかしちゃって、兄としては複雑な気持ちになったよ」
『妹さん、彼氏いるんですね。まぁ、最近の高校生なら普通なのかなぁ。あ、もしかして貴俊さん、私のことご家族に話したりしたんですか?』
ちょっと照れくさそうな、それでいてどこかに期待の籠ったような声で言われ、思わず一瞬言葉に詰まってしまった。
彼女ができたことを話せば家族は喜ぶだろうが、そういうことで一喜一憂させたくない。もう少し関係が落ち着いたら話そうと思っていた。
「実は話しそびれちゃって。まだ話せてないんだ」
僕は正直にそう言った。
『そうですか』
声色にがっかり感がにじんでいる。
「ごめんね。次に会ったときにはちゃんと話しておく」
『はい!』
美咲の声がぐんと明るくなって、僕はほっと胸をなでおろした。
真夜中に降りしきる雨の中、家に突然の来訪者があったのは、それから2カ月後のある日だった。




