10 プラトニック・ラブ宣言
美咲からの電話があったのは、その夜のことだった。
『貴俊さん、来週の土曜日の夜、お暇ですか? お芝居のチケットをもらったんですけど、もしよかったらご一緒しませんか?』
電話の向こうの声なのに、不思議と美咲が今満面の笑みで話しているのがわかる。その表情が残念そうなものに変わってしまうのを想像して、少し胸が疼いた。
「ああ、ごめんね。来週の土曜はちょっと。どうしても外せない仕事が入ってしまって」
案の定、電話の向こうからは『あ』とも『ん』ともつかない、残念そうな声が上がった。
『そうなんですか。残念だけどお仕事なら仕方ないですね。ハルカでも誘って行ってきます!』
――仕事、なのだろうか。妹の彼氏を見に行くという以外に目的はないのだが。
僕は無意識に重い溜息をついた。
ああいう場は、元々好きじゃないのに。
『……貴俊さん? どうかしましたか?』
「ああ、いや、ごめん。なんでもないよ。お芝居の感想、聞かせてね」
『はぁい』
美咲が何やら心配そうな声で言ったところで、背後からそれを遮るように高い声が聞こえた。
「お風呂先に入っちゃうよー!」
廊下まで響いてきた声に携帯を取り落しそうになった。
「あ、美咲、ごめん。また電話する」
小声で電話の向こうの美咲に告げた。
『えっあっ。お客さん……ですか?』
「うん。まぁね。ちょっといろいろ立て込んでて、またかけるから」
『……わかりました。おやすみなさい』
「おやすみ」
妹に彼女の存在を知られたら面倒なことになる。
たぶん興奮してあれこれ聞き出そうとするに違いない。
今はそっとしておいてほしかった。
僕はあわてて電話を切り、妹の声に返事をした。
おやすみなさい、と言った美咲の声がどこか浮かないものだった気がしたが、迫りくるパーティーの恐怖と日常の忙しさの中でその違和感はすっかり忘れ去られていった。
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「はじめまして。倉持貴俊です」
鳥飼守は、僕が差し出した手をぎゅっと握りしめた。
「はじめまして。鳥飼です。妹さんから、いつもお話を伺っています」
茜がどこまで話しているかはわからないが、鳥飼という男の表情から、父や僕が交際に反対していることは知っているのだろうということが伺えた。
「私もあなたのお話はいろいろと伺っています。妹にとんでもないオファーをくださったそうですね」
鳥飼守はああ、と浅く息をついた後、唐突に頭を下げた。
「あの件ですが……あれは、誤解なんです。すみませんでした」
「誤解?」
――ヌードモデルが?
片眉だけを上げて聞き返す。
「茜さんはまだ十七歳ですし、高校生ですから、そもそもなれません」
――え?
「倫理的な問題やその後の管理の問題など、いろんな問題が付き纏いますから、ヌードモデルには原則として年齢制限があります」
そりゃ、そうか。たしかにな。
倫理的な問題はかなり大きいだろう。
「それに、もともと僕は茜さんをモデルにしようなんて思ってもいません。あれは、年齢制限のことを知っている僕の友人がふざけて茜さんに言ったのを、まじめな茜さんが本気にしてしまって……『芸術のためなら脱ぐ!』と言い始めて、僕の方が驚いてしまったくらいで」
なるほど。突っ走りがちな妹ならやりかねない。
僕は思わず苦笑した。
「こんな場で言うべきことかわかりませんが、僕は茜さんと誠意を持ってお付き合いをしているつもりです。高校生に、ふさわしいお付き合いを」
くらり。また脳みそが揺れる。
妹の付き合いの進捗状況なんて知りたくもない。
高校生にふさわしい付き合い、が何を意味しているかはわからないが、一応そういうことを気にする感覚は持っているらしい。
「つまり、プラトニックな恋愛をしています!」
僕の仏頂面に何かを読み取ったらしく、鳥飼守が真面目くさってそう言った。
端正な顔立ちに、がっちりとした体格。
才能からくる自信なのか、身にまとうオーラには突き抜けるような華やかさがある。
そんな男が切れ長の目をがっちりと見開いて僕を見つめ、そんな言葉を吐く。
あまりにも似つかわしくないその言葉に、僕は思わず笑い出してしまった。
「ふっ……くっくっくっ……」
三十五にもなった男が、自分より六歳も年下の男に向かってプラトニック・ラブ宣言。
しかも交際相手の兄。
バカじゃないのかこいつは。
曖昧にぼやかしておけばいいものを、こんなにはっきりと。
気づいていないのだろうが、男は緊張からか、どデカい声を張り上げていた。
彼が起こしたさざ波がゆっくりと会場に広がり、会場がしんと静まり返った。
そうなって初めて状況に気付いたらしく、三十五歳の鳥飼守は俯いた。
何だ。この男、不器用なんだな。兄の僕ですら振り回されてばかりの妹を手玉にとれるような器用な男じゃない。
その発見は僕を安堵させた。
僕はすっと手を伸ばし、その肩に載せた。
「鳥飼さん。父が何と言うかはわかりませんが、僕は妹とあなたの交際にはもう反対しませんよ。その代わり、プラトニック・ラブ、結婚まで貫いてください」
あえてプラトニック・ラブ、を強く言ってやった。
可愛い妹をとられる鬱憤はこれで晴らせそうだ。
今後会うたびにこのネタでいじってやろう。
ちょっと真吾の気持ちがわかるな。
僕は大満足でうなずいた。
それでも鳥飼は僕のからかいに気を悪くする様子もなく、従前の真面目くさった顔を崩さずに力強くうなずく。
「わかりました。約束は、必ず守ります」
三十五の男が、こうなるのか。
恋愛って結構、良いものかもしれない。




