最低な隣人の忠犬
忠犬になった女の話。
さらっと読めると思います。
あたしの家の隣人は最低な人間だ。
佐伯 祐介という人間は、頭脳明晰、成績優秀、容姿端麗、品行方正などの四字熟語の似合う男だ。
あたし八谷 鈴子も小学5年生まではそう思っていた。
祐介とは生まれた時からの隣人で、両親もお互いにとても仲が良かった。
同い年ということもあって、あたしたちはよく一緒に遊んだり、家族で出かけたりすることもしばしばだった。
彼は幼いころから非常にモテる人間で、あたしもよく女の子にひがまれたりもした。
小学五年の時のある日、放課後に靴箱へと向かったあたしは見てしまったのだ。
靴箱に入れられていたラブレターを無表情で破り捨てる祐介の姿を。
(こ、こわっ。アイツ無表情で破ってたよ。)
恐ろしすぎて、声を掛けられなかった。
それ以来、注意深くヤツを観察するようになってから分かったことなのだが・・・
(アイツ目が笑ってねえ。)
それに気づいたときはベッドの中でブルブルふるえたものだ。
家庭環境に問題があるわけでもなく、アレが祐介の性質なのだと割り切り、あたしも他の人のように普通に接することに努めた。そうしたのは、長年の付き合いもあり、嫌いになれなかったのも理由のひとつだ。
中学にあがってから、祐介のモテ具合は更にヒートアップした。ファンクラブなるものが結成され、あたしは幼馴染というだけで度々誘い出されることもあった。
体育館裏というベタな場所に向かうとき、何気に教室の窓に目を向けると祐介と目が合った気がした。
(あー。アイツ目を逸らしやがった。)
本当に最低な奴だ。あたしはファンクラブのリーダー格の少女に取り入って、ラブレター受付係に就任した。
(これも平穏に生きていくためだ。)
山のようなラブレターを祐介に渡した。ラブレターをにこやかに受け取ってはいたが、やっぱりその目は笑っていなかった。
中学を卒業したばかりの春、暴走してきたトラックが祐介に向かって走ってきた。
突然のことで、ヤツも身動きが取れなかったらしい。あたしは祐介の身体を押してトラックの前に飛び出した。
桜の花びらが舞っていた。ひらひら、ひらひら・・・。
とても綺麗だった。
気が付くと病院のベッドの上。
白いカーテンが風に揺れていた。傍らに祐介が座っている。
「なに怒ってるのよ。」
珍しく祐介が表情に出して怒っていた。
「何で助けたんだよ。」
「なんとなく?」
「何だよそれ。」
「祐介のことが好きだからだって言ったらどうする?」
祐介が息をのむ音が聞こえたような気がした。
恋愛感情として言ったわけじゃなかった。あたしの祐介への想いは家族愛に近い。要はコイツが心配なのだ。
「バーカ。冗談だよ。」
特にコイツは恋愛感情なるものを思いっきりバカにしているふしがある。
だから、あたしは祐介に恋愛感情なんて抱けない。
「祐介って他人の事信じてないよね。人間不信って感じかな。あたしのことは犬だとでも思えばいい。忠犬ハチ公ってやつ?苗字もハチヤでぴったりじゃん。忠犬はご主人様を守るのが仕事なんだよ。」
誰かに真心を向けられるのが苦手な祐介にはピッタリな理由だと思った。
「あたしはあんたを裏切らない。バカみたいに尻尾振って付いてってあげるから。」
「俺、犬に優しくなんてしないよ。」
「知ってる。いいんだよ。あっち行けって言われたって忠犬はご主人様に付き従うもんなんだから。」
それからあたしは祐介の犬になった。
カバン持ち、荷物持ちは当たり前。モテる祐介の彼女の世話係。その後の別れ話の事後処理まで何でもこなした。
高校に入り、祐介はタバコを吸うようになった。家の外でも平気な顔をして吸うものだから、あたしは内心ヒヤヒヤものだった。
ある日、コンビニの前で私服でタバコをふかしていたとき、巡回に来た教師にバレそうになった。
教師の姿を見た瞬間に、あたしは祐介のタバコをひったくって自分の口にくわえた。
一週間の停学処分となった。父親に殴られたあたしの頬に貼られた大きな絆創膏を見て、祐介が一瞬痛そうな顔をする。
「いいんだよ。忠犬はご主人様を守るのが仕事なんだから。」
そう言って祐介の鼻をつまんでニヤッと笑った。
その日以来、祐介がタバコを吸う姿は見ていない。
※ ※ ※
気が付けば病院のベッドの上。
白いカーテンが風に揺れていた。傍らに祐介が座っている。
「なに怒ってるのよ。」
珍しく祐介が表情に出して怒っていた。
高校を卒業して、あたしたちは同じ大学へ通って、別々の会社に就職して、そして結婚した。
「忠犬はいつまでもご主人様の傍にいなきゃいけないんだよ。」
それがプロポーズの言葉だった。
渡された指輪が、あたしを縛る首輪のように思えた。
「忠犬がご主人様より先に死ぬんじゃねえよ。」
「忠犬はご主人様を守って先に死んで初めて忠犬になるんだよ。」
「ハチ公はご主人様の後に死んだだろ。」
「ハチ公はね。あたしはもういい歳したババアなの。もう疲れた。眠い。」
「いい気なもんだな。お前は犬じゃねえよ。」
「知ってた。」
祐介が他人に向ける目はいつも笑っていなかったが、あたしに向けられるときはその目がいつもちゃんと笑っていたことを知っていた。
祐介が久しぶりにタバコを取り出して口にくわえる。
あたしはタバコを持つ祐介の指が好きだった。
桜の花びらが舞っていた。ひらひら、ひらひら・・・。
とても綺麗だった。
花びらが舞う空に、タバコの煙がゆらゆらと登っては消えて行った。
祐介も鈴子も最初はお互いに恋愛感情はなく、いつの間にか愛情に変わっていった感じ。
そこに恋はなかったが、愛は存在した。