言葉巧みに未来予知
■Chapter1
「あなたは、未来は見える?」
彼女は突然そう問いかけてきた。まるで、人を試すかのように。
僕はすぐ答えることができなかった。
考える時間欲しさに、テーブルの上に置いてある白いカップに手を伸ばす。そして、眼だけを動かして、周りを見渡した。
木を基調にした喫茶店の店内は、赤色灯の彩りに染められ、わずかに陰を含んでいた。隅にある古めかしいジュークボックスは映画のように音楽を奏でていない。だけど、巨大なオブジェとしては、十二分にその存在を強烈にアピールしている。
お客は僕たち以外いなかった。先ほどコーヒーを持ってきてくれたマスターの姿が見えないのは、たぶん、厨房に入ったからだろう。
「見えないよ」
潔く諦め、糖分ゼロパーセントの黒い液体を身体の中に流し込んだ。舌に苦みを少し感じながらも、表情を変えずに彼女を見据える。
カップをテーブルに戻すと、コン、と乾いた音が耳に届いた。
「でも、君には見えるんだろ」
「うん、見えるよ」
彼女は、当然のように答える。
「なら見せてよ」
* * *
草木の萌える匂いがした。
視線を窓に向けると、揺れるカーテンの隙間から空が覗いている。玄人が描いた写実的なものではなく、子どもがクレヨン一本で塗りつぶした空。雲一つさえ見えない。
そんな薄い青一色のキャンバスの上を白い陰が横切った。郊外とはいえ、海がない街の上空をカモメが飛ぶことはないだろう。だから、ハトに違いない。
それにしても――
ああ、空を飛んだらどんなに気持ちのいいことだろう。
と、夢想し始めようとする僕を黒板のなぞるチョークの音が現実へ戻した。慌ててノートに向かい、黒板に描かれた数式を書き写し始める。何も考えずにシャーペンをしばらく走らせていたが、その問題に見覚えがあることに気づいた。
僕は、お世辞にも頭の回転が早くはない。家で予習しなければ、授業についていくことすらままならない程だ。それが数学となると絶望的。小学校から中学校に進学したときにも、劇的に難易度が上がったと泣き言を言っていたのに、高校ではさらに高度になったおかげで、数式を見るのは苦痛にもなった。
しかし、単位科目にある以上そんなことは言ってられない。念入りに教科書の予習だけはしていた。見覚えがあるということは、教科書に載っている問題。
ノートに書いてあるので写す必要ないや、と手を動かすことを止めたとき、気が抜けたのだろう。キュルルとお腹が鳴った。寝坊して、朝食を食べずにいたのがまずかった。
くすくすと笑い声が聞こえてきたけど、大して気に留めなかった。満員電車のすかしっ屁のように、僕がお腹を鳴らしたことを気づいている人はいないはず。
希望的憶測に身を委ねて、平気な顔でまた授業放棄をしようと試みたとき、僕と同じように外を見ているクラスメイトを見つけた。
肩の辺りまで髪を伸ばしているから、女の人に違いない。着ている制服も、ブレザー全盛時代の世の中であっても、未だにセーラー服が指定の高校だったから、女装趣味がまかり通らない限り、例外はないはずだ。
そのセミロングの黒い髪は、蛍光灯の光が反射して、とても眩しく映っている。背中の辺りまで髪の毛が届いていたら、リンスのCMでも使えるかもしれない。
彼女は誰だろう。
別に謎の転校生だとか、宇宙人がこっそり人間社会に紛れ込んだのを気づいたというわけではなくて、単純に僕が彼女のことを知らないだけだった。
それは、彼女に限ったことではなく、二年生へ進学し、クラス変えしてから一ヶ月以上経っているけど、申し訳程度しかクラスメイトの名前を憶えていなかった。異性に関しては全滅といってもいい。異性と話す機会なんてそうそうないし、他人に興味を持っていないのもあるのだろう。
なのに、彼女に興味を持ったのは、同じように授業放棄をしようとしているという、変な仲間意識を持ったからなのかもしれない。
彼女の横顔を眺めながら、月並みのことを僕は思った。
綺麗な人だなぁ。
なんで、彼女のことを知らなかったのだろう。同じクラスなのに、存在すら知らないだなんて。本当に他人に興味を持ってないんだなと、自分のダメ人間っぷりを再認識してしまった。
「じゃあ、この問題は――シノハラユウコ、お前がやれ」
先生の声が聞こえてきたので、あわてて彼女から目を離すと、黒板にはいつの間にか別の数式が書かれていた。今度は見たこともなかったので、それは先生が作った応用問題なのだろう。
この先生は、よくこういう余計なことをするのだ。しかも、かなり難しい問題ときている。それでいて答えられないと「近ごろの若い生徒は勉強する気があるのか」と陰険なことを言うので、数学嫌いの生徒を中心に嫌われている。
見知らぬシノハラユウコさん御愁傷さま、と心の中で呟いた時、彼女が「あ、はい」と慌てて立ち上がった。
そうか、彼女がシノハラユウコなのか。
彼女はノートを持って、黒板の前に立った。さっき程までの態度を見ている限り、授業内容をノートに書き取っていいないだろう。ポーズなのかな、と思ったけど、黒板を見比べているところをみると、ちゃんと予習をしている畑の人らしい。やたらページをめくっているところからすると、一冊のノートに全教科を書き込んでいるナマケモノ畑の人でもあるようだ。
とはいえ、どんなに探しても、たった今先生が作った問題だから、答えなんて書いてあるわけはない。授業を聞いていないから、気づいていないのだろう。
ためしに、その問題を解こうとしたけど、僕にはサッパリわからなかった。自分の知能を差し引いても、難易度が高い問題に違いない。
だから、大丈夫かな、と不相応に心配してみるが、心配いらなかったようだ。彼女は迷いもなく左手に持ったチョークを走らせていた。
書き終わったものを、先生はしばらく見つめ、何もいわず彼女を席に戻した。どうやら正解だったらしい。さっきまで授業も聞いている素振りをみせてなかったのに、あの問題を解けてしまうなんて心から尊敬してしまう。
彼女はしばらくの間、別の記号が描かれていく黒板を眺めていたが、すぐに外に視線を移した。その横顔を僕はチャイムが鳴るまで見つめていた。
「――シノハラユウコだぁ」
昼休み。彼女の名前をいうと、口に含んでいた購買部のパンを僕の机にまき散らしながら、田中大輔は大げさに驚いた。
「お前も女に興味を持つようになったんだなぁ」
こいつとは一年から同じクラスで、この学校で名前を憶えている数少ない男だった。だから、僕が人の名前を憶えない、ないし興味を持たないことを知っている。そんな男の口から、異性の名前を出したのが意外だったのだろう。
しかし、僕だって女性に興味を持っていないわけではない。それに彼女の名前を出したのは、とくに意味があって出したわけでもなく、ただ会話の流れがそうなっただけだ。
「いや、お前が学校の女子の名前を出したことに意味があるんだ」
僕は黙って、持ってきた弁当の包みをほどいた。蓋を開けると、おにぎりを作るので使う味付け海苔が裏側にへばり付いている。隙間ないようにご飯の上に戻すと、不思議なことに、ご飯の部分を海苔ですべて覆ったのにかかわらず、一枚余ってしまった。
「しっかし、シノハラね。お前も変わっているな」
「彼女が変わっていると、全員変人なわけ?」
余った海苔を口に入れたあと、猫の額ほどしかないおかずの中から卵焼きを選び、箸を伸ばす。
「なら彼女の友達も、彼女の友達の友達も変人となるね。最終的にはクラスメイト皆変人――いやいやいや、この世に生きる全ての人間が変人となるわけだ。おめでとう、大介。晴れて変人の仲間入りだ」
「訂正。お前は元々変人だったな。変人が変人に興味を持つのはおかしくない。類は友を呼ぶってやつだ」
卵焼きとご飯を頬張りながら、失礼なやつだと思ったたけど、大輔のいいたいことはわかったので、口をはさむのは止めておいた。
「まぁ、その変人増殖法でも彼女から広がることはないな」
「ん、なんで?」
綺麗な形をした薄いハンバーグをつつきながら、そう訊ねた。
「シノハラに友達いないもん」
その言葉が気になったけど、二つに分けたハンバーグと共にのどに押し込んだ。下手に踏み込んで訊くと、下衆の勘ぐりをされるのは目に見えている。
それに、彼女のプライベートを知ったところで何の意味があるのだろうか。
口に含んだハンバーグは、ぱさぱさとしていて、あまり味がしなかった。
それから二週間が経ち、六月も半ばに差し掛かろうとしていた。
彼女の話題になったのはあれっきりとなり、あとはくだらない話に終始している。
大輔としては、もっと茶々入れたかっただろうけど、僕がまったく取り合わなかった。それに、先に控えていた実力テストのことで頭を悩ませていたから、たぶんもう忘れているに違いない。単純といえばそれまでだけど、僕としてはありがたいことだった。
実際のところ、僕自身、彼女の忘れたわけではなかった。
だけど、忘れたことにした。
その実力テストも三日前に終了していて、早くも渡り廊下には教科別に上位十名、全体では上位二十名までの名前が張り出されているらしい。
いつもならば関係ないので、一度も見に行ったことはなかった。でも、クラスメイトの――誰かが僕の名前が載っていると教えてくれたので、その好意に応えるべく、教室を出た。
廊下から見える外の景色は色彩をなくしていて、雨が奏でる打楽器音と教室から漏れた喧噪だけが包んでいた。床はモップで引き延ばしたかのように濡れていて、グリップの効かない上履きでは、気を抜くと滑りそうで油断ができない。足下を見ながら慎重に歩く。
渡り廊下に到着して、二年生の順位表を確認をすると、僕の名前はすぐに見つかった。
載っていたのは、世界史だった。
固有名詞を憶えればいい世界史で点数を取れるのに、クラスメイトの名前を覚えていないなんて。生きている隣人よりも死んだ有名人の大切だと無意識に思っているのだろうか。
なんか、気分が悪い。
僕の知能では当然のことだけど、世界史以外には名前が載っていることはなかった。
それで用事は済んだのに、自分のクラスメイトが名前がどれくらい載っているのか興味を持った。名前はわからなくても、クラスで判別ができる。
でも、何のために陳列された文字を眺めているのだろう。知ったところで、なにかするわけでもないのに。
たぶん、自己満足に耽りたかっただけなんだろう。
そんなことをしないで帰ってから、テストと同じようにクラス名簿を憶えればいいじゃないか。そうすれば、名前だけは思い出せる。あとは、時間を掛けて顔を覚える努力をすれば――バカバカしい。
決別をするように教室へ帰ろうとしたとき、その張り紙の中にある名前が見つけて、目を離すことができなかった。
――篠原悠子。
シノハラユウコ。クラスも同じだし、彼女の名前だろう。
その名前は、英語の順位表の一番上に書かれていた。他にもあるのかと探してみると、殆どの教科に名前が載っていて、当たり前のように全教科のトップに君臨している。どうやら、本当に頭がよかったらしい。
見る物がなくなると、今度こそ教室へ向かった。その途中、篠原悠子と漢字変換された名前が頭の中で反芻して離れることがなかった。
耳に響いてくる雨の音が、なぜか憎たらしかった。
結局、クラス名簿を見ることもなく次の朝はやってきた。
その日は雨が上がっていて、久しぶりに太陽を拝めることができた。天気予報でも20パーセントの降水確率だといってから、傘も持たずに登校をしたのだけど、昼頃になると雨が降りだし始めた。だんだんと次第に強くなっていき、放課後には昨日と同じ光景が広がっていた。
「天気予報なんて信じなきゃよかった」
そう机に腰掛けながら大輔がぼやいた。こいつも傘を忘れたのだろう。
「天気予報は外れないんだぞ」
そういうと、大輔は不機嫌そうに僕のことを睨んだ。
「現に外れたじゃないか」
「いやいやいや、お前が見た天気予報が何パーセントを示していたのかわからないけど、少なくともゼロじゃなかったはず。そうじゃない?」
大輔は頭を掻く。
「実は天気予報なんて見ていない」
「…………」
話すのを止めようかと思ったけど、それだと冗談にならないので続けた。
まぁ。あそこまで晴れていると、雨が降るなんて思いもしないだろう。社会のせいとか学校のせいとか、何かのせいにしたい年頃なのだ。
「僕が見たのは20パーセントだった。つまり、20パーセントは降ることを予測していたわけだ。可能性として低い数字だけど、間違っちゃいない」
「そうだったら、毎日毎日、降水確率は50パーセントっていっていれば、絶対に外れないことになるじゃないか」
「そんなこといったら、誰も見てくれないでしょ」
小さなため息をついて、気を落ち着かせる。
「基本的に、天気予報というのは85パーセントとか、49パーセントとかそんな細かい数字を使わない。0から100までの十桁の倍数しか用いないんだ。絶対に雨が降る100パーセントと絶対に雨が降らない0パーセントの二つだけがハズレ、つまり十一分の二しか外れることができない。それで、いまいち予想がつきにくいときは、10とか申し訳程度に付けておけばいいんだから、絶対に間違えないというわけ」
「……五分の一じゃないのか?」
と的はずれなことを訊ねたので、少し頭痛がした。
「指を使って数えてみなよ」
素直には教えずそう返すと、大輔は本当に指を折りながら数え始めた。そして、苦笑い。
「とにかく、天気予報を見るときは、曖昧な場合折り畳み傘でも持っていった方が得策ってわけだよ」
「そういう偉そうなことを言うお前は、ちゃんと傘を持ってきたんだよな」
無言で答えると、大輔は大笑いした。
「お前に入れてもらうつもりだったんだけどね」
そう言い残して、大輔は雨の中に消えていった。
さて、僕も帰るか。
教室のロッカーに教科書と共に鞄も入れて置いたので、両手には何も持っていなかった。読みかけの文庫があったので持って帰りたかったけど、雨で濡れてふやけてしまうのは、ゴキブリを踏み殺すよりも癪にさわる。泣く泣く鞄の中にしまっておくことにした。
帰ったらズボンは乾燥機に入れてアイロンをかければいいし、風呂に入れば問題なしだ。そう自分にいい聞かせて、昇降口から飛び出した。
早く帰りたい、その一心でコンクリートによって補整された道路を走っている。
家から学校までを距離にして約三キロメートル。全力で走ってもマラソン走者でもない僕だと二十分くらいかかる長い道のりだった。
途中、大きな水たまりがあって、迂回しようかと思ったけど、構わず突っ切る。足の裏を中心に弾かれる水。ばじゃん。爽快。なんだか妙に楽しい。
そう思ったのは最初だけだった。学校から出てから五分もたってないのに、もう息は上がっていて体が重い。雨は思ったよりも大降りではなかったけど、ワイシャツにペタペタとくっついては剥がれて気持ち悪かった。途中何度も信号にひっかかり、苛立ちは爆発しそうだ。
それから何分が経っただろう。もう走ることもせずに、ダラダラと帰路を歩いていた。濡れれば一緒だと開ききったせいだ。少し肌寒いけど、服がへばりつくのさえ慣れれば、どうってこともなく、さっきまで走っていたのが途端にバカらしくなった。
前髪がうっとうしく目にかかるので、両手で押さえる。広がった視界の中に、深緑色の傘が開いて落ちているのを発見した。
雨が当てられている時点でツイている訳がないのに、なんとなく「ラッキー」なんて使わない横文字で呟く。しかし、よく見てみると、傘を差して人がしゃがみこんでいて、何かをしているようだった。
こんなときに、しゃがみこんでいる人間はろくな人間じゃないだろう。関わり合いになりたくないと思い、そのまま通り過ぎようとすると、その人は傘から顔を出して僕の方に顔を向けた。
「ラッキー?」
さっきのつぶやきが聞こえたのか。だったら無視してくれればいいのに――
――あれ?
「この猫の名前はラッキーっていうんだ。そうなんだ、ふーん」
傘に隠れるように宅配会社の段ボールがあって、その口から子猫が顔を出して、消えそうな声で小さく鳴いた。しかし、僕にとってどうでもいいことだった。
どうして、こんな場所に篠原悠子がいるのだ。
「でも、どうして名前を知っているの? もしかして――」
彼女は僕の正面に立って、人差しを向けた。
「あんたが捨てたんでしょ」
「ち、違うよ」
なんとか口を開いて、そう答えた。
「んー」
そう唸りながら、顔を僕に近づけてきた。
な、なんだっていうんだ。
心臓が蒸気機関車のように唸りをあげて、ドッキンドッキンと激しく動く。顔もその熱の為か火照ってきたものだから、鼻か耳から煙が出ていないかと心配になった。
「もしかして、いつも外を見ている人じゃない?」
非常に抽象的だったけど、意味がなんとなく分かった。
でも、頭の中は暴走したままで、上手く働らいてくれない。落ち着け、落ち着くんだ。意味もなく、曖昧な記憶をたよりに円周率を数え始めた。
「君もでしょ」
念仏のように唱えていたのが功を奏したのか、普通に会話できる程度には平常心を取り戻してきた。
「あーやっぱり、同じクラスの人だ。こんにちは。はじめまして。篠原悠子と申します」
丁寧にお辞儀をしたので、僕もそれに倣って自己紹介をした。
しかし、現在のシチュエーションがドラマとは違って、主人公である僕が、傘を差さずにダラダラと歩いていて、傘を持ったヒロイン――なのかな、その彼女が傘を持って脳天気に雨に濡れた子猫を見ている。それが、なんかおかしかった。
「で、どうして猫の名前を知っているの?」
しょうがないので本当のことをいうと、大きな口を広げながら笑い始めた。その傍らの子猫は彼女を見て驚いているのか寒いからなのか、小刻みに震えていた。
「この猫どうするつもりなの」
「どうしよっか」
「食べる?」
そのあと、僕たちは段ボールを雨の当たらない場所に移して、猫にさようならを告げた。それ以外には何もしていない。猫が誰に拾われようが、そのまま死んでしまおうが、それは猫の運命。僕と彼女は親に養われている身である以上、手を差し伸べることはできないから。
あまりにも雨にうたれていたので、小さなくしゃみをした。彼女も帰るようだし、僕もこのままだと風邪をひきかねないので帰ろう。そう思って彼女に背を向けると、後ろから声を掛けてきた。
「そういえば、どうして傘を差さないの?」
「この通り、傘を忘れてしまってね」
見ればわかるでしょ、と両手を肩まであげて肩をすくめた。
「天気予報を見てないの?」
それで、大輔に言った冗談を思い出した。
「天気予報は見ているけど、絶対に外れない曖昧なものだからね」
マンガならば、クエスチョンマークを浮かべているような表情を浮かべたので、天気予報は下一桁は使わないとか説明を始めた。しかし、大輔とは違い、彼女はとびっきりの頭脳の持ち主だったので、すぐに間違いを指摘した。
「降水確率は、数字ゲームじゃないよ。空にどれくらい雲がかかっているか、それを数値化しただけだから。わかりやすい例をあげるなら天気雨だね。これは雨が降っているのに、降水確率は0パーセント」
「実は、傘を忘れたことを無理矢理正当化しようとしたへ理屈」
そういうと、彼女は笑った。
「ちょっと、待ってて」
すると、彼女は首と肩で傘を押さえて、鞄の中を漁り始めた。一分もしない間に、ドラえもんが道具を出すときの効果音を口にしながら、折り畳み傘を取り出した。
「こんな事があろうかと、もう一つ持っていたんだよ」
しかし、こんな事とはどういうことなんだろう。
雨が降るかもしれないという仮定条件ならば、折り畳み傘だけ持っていけばいい筈だし、雨が降ることがわかっていたならば、傘だけを持っていけばいいのだ。どういう事が起きようとも、傘を二つ持つ理由にはならない。
もしかしたら、僕に出会うという意味なんだろうか?
いや、そうじゃなくて、ただ折り畳み傘を鞄の中に忘れていただけなんだろう。それを勿体ぶっていっただけの話なんだ。
彼女が折り畳み傘を広げると、へんなキャラクタが描かれていた。これは、小学生が使うような傘なのではないだろうか。少なくとも、高校生が使うもんじゃない。
「それ、貸してくれるの?」
貸してくれるのは嬉しいけど、ちょっと恥ずかしいぞ、と恐る恐る聞くと、彼女は首を横に降った。
「ううん、私が貸すのはこっち」
そして、今まで持っていた深緑色の傘を僕に渡して、彼女はにっこりと笑った。
「いやさ、本当はこっちの傘の方が好きな訳よ。でも、お母さんが今日は雨だからこっちの傘を持っていきなさいってうるさかったわけ。天気予報は半分以上の確率で晴れだっていうのによ。バカらしいなぁと思ったんだけど、お兄ちゃんまで同じことを言い出すわけ。お兄ちゃん、なんか勘が鋭いんだよね。それに加えて、頑固だから持っていかないと怒るわけ。まぁ、こんなことで逆らってもしょうがないじゃない。だから、泣く泣く持っていったと。雨が降ったとしても、折り畳み傘を差して帰ればいいかなぁって。でも、本当に雨が降っていざ差そうとしたら、傘を持っている人が傘を差している光景が浮かんでみたわけ。おかしいでしょ。だから、さっきまで好きでもない傘を差していたの。だから、本当に助かる」
よくもまぁ口が回るものだと思ったけど、悪い気はしなかった。
でも、どうして彼女には友達がいないのだろう。こんなに小粋なトークをするんだから、友達が多くてもおかしくないと思うんだけど。
「でも、借りは借りだからね」
「借りって? 今度雨が降っていたときに、僕が傘を二つ持っていて、君が傘を持っていなかったら貸せっていうこと?」
「そんな確率あるわけないじゃない。そうだな、今度なんかを奢ってくれればいいよ」
これでまた、彼女と話すチャンスができたので、心の中でファンファーレが鳴り響く。「いいよ」といおうとしたら、彼女はちょっと待ってと手のひらを鼻っ柱につきつけた。
「駄目だ。どうせ私のことだから、借りを作ったことを忘れてしまう。よし、今から行こう。駄目っていわないよね。もしそんなこといったら、傘返してもらうから」
すでに濡れているから、別に構わないんだけどな。でも、そんなこと言ったら、すべて終わってしまう。自分の財布の中身を思い出して、頷いた。
「じゃ、私いい店を知っているの。別に高い物を奢らせるつもりはないから、行こう」
彼女は水しぶきをあげながら、駆け足で先に行ってしまった。僕は呆然とその場に取り残されながら思った。
彼女はとびっきりヘンだ。
篠原悠子がつれてきたお店は、商店街の通りある『a.i.u.e.C.o』という名前の喫茶店だった。読み方は「あいうえこ」で正しいのだろうか。
「ここの店のコーヒー美味しいんだから」
と僕を中に入れようと急かした。
長い時間雨にうたれていたから、下着まで浸透するくらいびしょびしょだった。冷静に考えて、入るのは迷惑だろうと思い、次の機会にしようと申し出たが、彼女は「大丈夫、大丈夫」と言い残して、店内に入っていった。
そういうのなら、しょうがない。店の人に文句を言われたら彼女の責任にしよう。
諦めて入ると、彼女は大きなバスタオルを手に持っていた。
「どうしたの、これ?」
「この店のマスターに借りたの」
「もしかして、君の両親が経営していたりする?」
「両親じゃなくて。親戚」
納得した。しかし、自分の知り合いが経営している店を美味しいと紹介をして、奢らせるなんて大した根性だと思う。でも、それが彼女らしくてむしろ心地よかった。
「この店には誰かつれてきたの?」
一通り拭いた後、もう一枚バスタオルを椅子に敷いて、僕は彼女の机を挟んだ正面に座った。
「んー今のところ無いね。友達がいないから」
「どうして?」
本当は訊くべきではないんだろう。でも、このまま疑問にして消化不良を起こしたら、今日の夜は眠ることができなくなる。それに、彼女のことが少しでも知りたかった。
「いやさー。私、人の名前を覚えるのが苦手なの」
僕と同じだった。でも、それだけなら大輔みたいな奴が一人でもいるもんだけど。彼女の話はまだ終わらなかった。
「それに、目が悪いんだよね。だから顔が憶えられないの。なんとなくなら区別できるんだけどね。黒板に至っては全滅。予習とかしてないとさっぱりでね。でも、したらしたらで授業を聞く意味がないじゃない。だから暇でね。教室を見渡したところで、みんなカリカリとノートとっているし、見る物が外しかなくてね」
「眼鏡とかコンタクトはしないの?」
当然のことをいったつもりだった。でも、彼女は首を無駄なくらい強く振った。
「邪道だね」
なんのことだかわからないけど、彼女にしてみたら眼鏡会社は悪の結社なのかもしれない。深く考えずに納得した。
「そういえば、木太郎くん」
「木太郎なんて名前じゃない」
そうだっけと、彼女はとぼけた。そして、口を開いた。
「あなたは、未来が見える?」
* * *
「それじゃあ、今から私は左手を挙げるから」
そういって、彼女は左手を挙げた。
「ほら、言ったとおりでしょ」
「え、それだけ」
さも得意げにやるものだから、どんなに凄いことなのだろうと思っていたので、肩透かしをくらった気分になった。
「それくらい僕にだってできるよ」
「でも、さっきまでできなかったんでしょ。おかしいね」
彼女は嬉しそうに笑うもんだから、僕は何もいうことができなくなった。
「人って何を見ているんだろうね」
「未来じゃなくて、たぶん……」
未来なんて過ぎてから考えればいい。記憶から漏れだした時間が、全てを補ってくれるから。
僕は君を見ているよ。
そう言おうかと考えて、恥ずかしいから止めておいた。
気がつくと、窓の外は雨が止んでいて、空を架ける七色を橋が街に浮かび上がっていた。
■Chapter2
「君は、未来が見えるかい?」
兄弟とは似ているものなのか、篠原悠子と同じような台詞を、連続した会話の中ではなく、突然、思い出したかのように言った。
「ええ、見えますよ」
それに対して、あの時とは違い、肯定する言葉で返す。すると、彼はニヤリと意味真な笑みを浮かべた。
「ほほう、それは本当かい?」
「ええ、なら今からやってみましょうか?」
同じことを繰り返すのだろう。そう思っていたのだが、思いがけない返事が返ってきた。
「なら、日曜日に新潟競馬場で開催される関屋記念の一、二着がなんなのかわかるかい?」
そういって、彼は白いコーヒーカップに手を伸ばした。おいしそうに飲んでいる姿を眺めながら、僕はこのあとどうすればいいのか考えていた。
競馬のみならず、ギャンブルに関係することはさっぱりの人間だった。サッカーだって簡単なルールしかわからない。
未来のことだから、適当な馬の名前をいえば、その場を逃れることはできるのだけど、どんな馬が出走しているのかがわからないのでお手上げ。
「どうしたんだい?」
テーブルにカップをおいて、僕のことを見据えた。その目は、僕が悩んでいることを悟っているようだった。
「降参です。僕には見えません。未来予知はできませんよ」
「うん、君にはわからないようだね」
当然のことを確かめるように頷いた。
「僕だって、未来予知はできない」
それは、妙に含みを持たせた台詞だった。
「未来予知は、ですか?」
思わず訊ねると、彼は自分の口元に人さし指を添えて、視力を失ったという右目を閉じた。
「素晴らしい指摘だね。でもそれは、この物語の終わりまで関係ないから、ひとまずおいておこう」
* * *
梅雨前線が西から東へ通り抜け、暗鬱な梅雨は終わりを告げた。
雲が晴れ、太陽が照りつけている中、半そでの人たちが目立つようになると、ああ、もう夏なんだな、とため息をつかずにいられなかった。
僕は夏という季節は好きではない。
いや、嘘はいけない。僕は夏が大嫌いだ。
理由はたくさんあるのだけど、温度調整ができないからというのが一番の理由だ。
冬は、寒ければ着込めば、雪だるまのような見た目を無視すれば問題ない。しかし、夏は裸になっても暑いものは暑い。たとえ、骨だけになっても、この暑苦しさは変わらないんじゃないかと思う。
外を出るのも嫌になり、学校に行くのすらも億劫になる。それほど、僕は夏という季節が大嫌いだった。
それでも、学校には足を運ぶ。出席日数が足りなくなることが恐いわけじゃない。教室に行けば、篠原悠子に会えるからだ。
僕は彼女に恋愛感情を抱いている。
とびっきり頭もいいし、さらさらのストレートヘアも魅力的だし、会話が面白いのもそうだろう。だけど、それはあくまで彼女に惹かれてから知ったことで、どうして、彼女のことを好きになったのかはわからない。
僕は彼女のことが好きだ。なぜならば、僕は彼女のことが好きだからだ。どんな美麗句を並べたところですべて結果論になってしまう。
初めはその感情に気がつかなかった。いままで、人を好きになったことはなかったのが大きな理由だろう。
高校二年生のくせに、ガールフレンドの一人もいなかったのか、と人はいうかもしれない。自分の名誉を守るための発言に捉えられそうだけど、中学生時代にたった一人だけ、そういう関係になった人がいた。
名前は彼女の名誉のために伏せておく。
彼女は、僕が中学三年生のときに所属していた部活の後輩だった。
読書を愛する僕と同じ趣味であった彼女は、なんの因果か恋心を抱いてしまったらしい。
僕は話の合う友だちとしてしか認識していなかったから、告白されたとき、とても狼狽えてしまった。
人の名前と顔が一致しない健忘症の気がある僕でも、憶えている数少ない異性であったし、一緒に居ても楽しい人だったので、断る理由はなかった。
互いが同時に好きになることもあるかもしれないけど、たぶん現実にはそんなにないだろう。少なくとも僕の方にはそういった感情を持っていなかった。ならば、時間をかけて相手を好きになろう。相手が好意を持っているならば、できるはずだ。
僕はそう考えて、つき合うことを決めた。
しかし、彼女はそうではなかったらしい。その日から、僕のことを束縛するようになってきた。所属していた部活には、わずかであったが他のも異性がいたのだけど、その人とは話すだけで嫉妬する。毎日電話しないと嫉妬する。日曜日は一緒に出かけないと嫉妬する。エトセトラ。
やってられなかった。
そんな人を好きになれるだろうか。僕の彼女に対する好感度グラフは下降し始め、最後にはマイナスまで位置していた。
別れようと決めた時、僕は高校受験を控えていた。勉強することに重点をおくような人間ではなかったけど、これを口実に別れ話を切り出した。
彼女は別れる気はさらさらなかった。いろいろとこじれた末に、彼女はこう言った。
「わたしと勉強どっちが大事なの?」
勉強というのは、人生とイコールで結ばれるのが現代社会では同義だ。勉強ができるから幸せになれるというわけではないのだろうけど、少なくとも勉強ができた方が幸せになれる確率は高い。
夢だってそうだ。僕にはまだなりたい職種というものはなかったけど、突然、宇宙パイロットになりたいと思う日が来るかも知れない。そのときに、知識がなかったらどうなるだろう。それをなくすためにも、勉強するということは大切なのだ。
もちろん、そんなものは建て前だ。今の僕だったら、人生と篠原悠子を天秤にかけたら、確実に彼女を選ぶ。恋愛は麻薬と同じと誰かが言っていたが、その通りだと実感している。一度そのものに捕われてしまえば、抜け出すことが難しい中毒症状。
しかし、僕は彼女のことが好きではない。好きになれなかった。だから僕は、勉強の方が大切だ、とはっきり拒絶した。
彼女は泣いたので、少しだけ罪悪感を抱いたけど、僕は自分の出した結論を覆さなかった。そのあと、周りから非難の声をもらったし、実際に行動で示され、村八分のような状況にもなった。僕が悪者になったことを意味していたけれども、もうすぐ卒業だったので嫌われてもオール問題はナッシングだった。
そんなわけで、僕は恋愛経験するような機会を得ながらも、それを逃してしまった。
それから二年ほどが経ち、篠原悠子に出会った。
いろいろと、あった末に彼女と教室の中でも話すようになった。あくまで友だちとしてでだ。告白をしようかと思ったことは、何度もあったけど、まだ彼女のことを何も知らない。
まだ、行動に移すのは早い。打算を利かせているように捉えられても構わない。告白して距離が遠くなるよりも、なんぼかマシだから。
一学期は終わり、夏休みに入った。
クーラーの効いた部屋で、貪るように本を読んでいた去年とは違い、アルバイトを始めた。理由が彼女にプレゼントをあげるため――だったらカッコイイのだけど、とくに理由はなかった。しいて挙げるならば、暇だったからだろうか。
夏嫌いの僕だから、外に出るようなアルバイトは死んでも選ぶわけがなかった。内勤、それも太陽から逃げるように夕方から夜までの勤務時間のものにした。
時間帯的に、晩飯を早めに取らなくてはならなくなる。うちの両親は、共働きで本当に夜中にならないと帰って来ないので、あてにならない。
自分で作るという案は、包丁とかそういう類いの細かい作業は苦手な人間だったし、アルバイトが始まる前に労力を使い果たしてしまいそうなので、頭から却下。
あとは、レトルトかインスタント食品に頼るしかなくなるのだけど、毎日こういうものを食べ続ける、そう考えるだけで、お腹いっぱい。ごちそうさま。
生活習慣病への第一歩を踏み出しかねないので、アルバイト代が出るんだし、豪遊してもいいだろう。外食を決めた。
外食する場所は、彼女と一番初めて会話をした喫茶店『a.i.u.e.C.o』。「エーアイユーイーシーオー」ではなく「あいうえこ」とローマ字読みするので間違いないらしい。マスターが、東京で見かけた『a.i.u.e.o』という喫茶店の名前を気に入り、パクってしまったそうだ。
Cを入れればいいというものではないとは思うのだけど、マスターは気にしている。それどころか、内装も本家(?)と全く違うらしい。だから、似たような名前でもあっても、別の店だと豪語していた。
こういった内部事情を知るくらい、僕はオーナーと仲良くなった。さすがに、アルバイトの度に行くことはしなかったけど、週に二回も顔を合わせれば、客商売だし、さすがに憶えるだろう。
なぜ、この店を選んだのかというと、休みの間に、篠原悠子に会えるかも知れないという甘い期待があったからだ。
しかし、実際のところ、彼女には一度も会っていない。
親戚が運営しているから、ちょくちょく顔出すのだはないかという考えはどうやら間違っていたというわけだ。とはいえ、このお店の料理は手軽な値段であったし、コーヒーもおいしいので、それほど不満があるわけでもなかった。
夏休みの残りが折り返し地点に来た頃、僕はこの場所で彼に出会った。彼の名前は、篠原雄一。彼女のお兄さんだった。
「はじめまして。話は妹から聞いているよ」
彼は右手を差し出してきたので、僕も無意識に手を握った。
身長は180センチ前後だろうか。多少痩せているようにも見えるけど、ガリガリってわけではない。スレンダーという言葉がぴったりだった。
彼女の兄弟だけあって、ハンサムといってもいいのだけど、髪はぼさぼさで無造作に伸ばしているし、うっすらと覗いている無精髭。黒ぶちの度が強そうな眼鏡がすべて台なしにしている。彼はファッションとかには興味がないに違いない。素材がいいだけに実にもったいないと思う。
「ここで会ったのは、なにかの縁だ。コーヒーの一杯くらいならおごってやるよ」
そうやって、雑談タイムになだれこんだ。基本的に僕が聞き役になり、彼が話す話に耳を傾けていた。
話をまとめるとわかったことは数点。一つは、偶然出会ったのかのように初めに言ってたけど、実はそれは嘘で、彼は僕に会いたがっていたことがわかった。
どうやら、妹からクラスメイトの名前が出てきたのが、彼にとって青天の霹靂のような出来事だったらしい。
こりゃー会わないと、と思ったらしく、その方法を考えている時に、オーナーから僕がよくお店を出入りしていることを聞き、チャンスを逃すなと言わわんばかりに店の中で張り込むことを決めたそうだ。ちなみに、今日は二日目。すぐに会えてよかった、彼は笑みを浮かべながらそう言った。
二つに、篠原悠子が眼鏡・コンタクトレンズを邪道と言い捨てた理由がわかった。
三年程前に、家族旅行の途中、交通事故にあったという。運転席と助手席にいた彼女の両親は亡くなった。お兄さんもつけていた眼鏡の破片が右目に入り、片目だけだけど、失明してしまったそうだ。彼が目から血を流す光景を彼女はモロに見てしまったらしく、視力が落ちた今でも使うことができないらしい。
よく見ると、眼鏡グラスの先に見える右目――義眼だろう――瞳の色が多少異なっていることがわかった。左目は少し茶色がかったのに対し、碁石のように綺麗な黒色だった。
予想にもしなかった重い内容に、僕は言葉を失った。しかし「気にするものじゃない」と笑って、二杯目となるコーヒーにたっぷりの砂糖とミルクを入れた。僕と彼女がブラック派なのに対して、彼は甘党なのだろうか。
そうやって数十分が話しているとき、突然、彼は「未来が見えるかい」と言った。
* * *
「物語?」
「気にしなくてもいいよ。ちょっとだけ、散文的なことをいってみたかっただけだから」
わけがわからない。
「妹の話に戻ろう。君は、妹が未来を見ることができると思うかい?」
「見えない――いや、見えるはずがないといった方が適当ですかね」
「だから、普通はだろ? 妹はちょっとだけ普通じゃない。君もそのことは知っているんじゃないか?」
「たしかに性格は普通じゃないですけどね。でも、性格と未来視できることはイコールで結ばれないでしょう。もし、その定義が正しかったら、世界中に異能力者がたくさんいることになってしまいます」
「性格から定義つけたら、そうなってしまう。でも、異能力も持ってしまったせいで、性格が歪んでしまうとしたら、ありがち間違ったもんでもないだろ」
そういう考え方もあるわけか。
しかし、頭の中ではそんなことをあるわけがないと、思っている。
だってそうだろう。好きになった人は、未来が見えることができます。くだらないジョークもいいところだった。
「まあ、納得できないだろう。あ、そうだ。いいものをあげよう」
彼はそういって、財布をポケットから取り出した。そして、何枚かある電車の定期券のようなものを抜いて、その一枚を僕の前に差し出す。
「なんですか、それ」
「あれ? 見たことないのか。珍しいなぁ。って、知っている方が駄目か。ええと、これは勝馬投票券――略して馬券だな。さっき言った関屋記念ので……簡単に説明しないとわからないだろうなぁ。この『(4)―(5)』って書いてあるのは、選んだ馬の番号か枠のことを指すんだ。ちなみに、馬連だったらそのその番号に該当するのはマリコベルビーとエドガワクヨツヤっていうんだけど、ま、それはどうでもいいや。数字の隣にある二千円というのは、いわなくてもいいだろ」
僕は頷いた。つまり、一と五番のトップを独占すれば、配当金かける二千円をもらえるということだろう。
「で、この組み合わせの配当金だけど、馬連だったら一口が18080円。万券っていわれるやつだ。これが当たれば、二十倍――約四十万のお金が入ることになる。一気にお金持ちだ」
「それを、僕にくれるっていうのですか?」
「うん」
四十万円という金額に目を眩みそうなったけど、冷静に考えれば杞憂なことだ。
詳しいことはわからないけど、高額配当となっているのは、誰もがその馬の組み合わせは来ないと思っているからなんだろう。つまり、確率としては、僕が東大に受験して主席合格するのと同じくらいに違いない。
それでも、まだ二千円の価値があるものだ。僕は、その申し出を断った。
「もう買ってしまったものだ。どうせ、はずれ馬券だと思っているだろう。だったら、ただの紙くずだと思って受け取ってほしい。受け取ってもらえないなら、ゴミ箱の中に捨てよう。さらば、まだ二千円」
そう言われては、受け取らないわけにはいかない。僕はもらったものをポケットの中に入れた。
「その結果がわかるのは後のことだから、置いておこう。えーとなんの話をしていたんだっけ? そうだそうだ」
彼は財布をポケットに戻した。
「妹は未来が見えるといい出したのは、事故のあとだった。わたしが未来を見ることができれば両親はしななかったのに、って考えたんだろう。まぁ、僕自身も未来が見えれば、片目が潰れることもなかったし、似たようなことを思ったさ。だけど、妹は本当に未来が見えるようになった。しかし――」
「しかし?」
「人とつき合う上で、未来を見てしまったらどうなると思う?」
「仲良くなる人があらかじめわかる……とかですか?」
「さらに先を見えてしまうと」
「ええと……、わかりません」
こう答えると、お兄さんは眼鏡をかけなおして、僕のことを見た。
「絶対的な別れ――死だよ」
僕は言葉を失った。
「妹は、両親の死を避けたいがために、未来が見えることを願った。それなのに、見える未来は死を暗示している。人間、いつかは死んでしまうからね。病死だったり、事故死であったり、人に殺されたり、エトセトラ。どんなに仲良くなっても、いつかは別れる人、そして死んでしまう人と思ったら、人とまともに付き合えなくなる。だからさ、妹には友だちがいないんだよ」
「……そんなこと、あっていいわけがありません」
救われない話じゃないか。未来が見えることを望んだが故に、未来が不幸になってしまうなんて。
――って、なにを考えているんだ、バカバカしい。
そもそも未来が見えるっていう時点でおかしいんだ。
「他にも、競馬の結果の他にどんなことがわかるんですか?」
根底をつくがえすために、未来が見えるという証拠を集めようと思った。少しでもいい淀んだら、彼の一流のジョークとして笑ってやる。
「天気予報とかね。妹が傘を持ったら、絶対に雨が降るとか」
そのエピソードは身に覚えがあるぞ?
『こんな事があろうかと、もう一つ持っていたんだ』
そうだ、雨の日、喫茶店に行く前の会話だ。
この時、すでに証明されていたって――あれ?
「なんか変だ」
「どうしたんだい?」
心配するお兄さんを無視して、僕は考える。
「もし、僕と会うことを予知していたのならば――」
ならばなんだ?
どういうことなんだ?
彼女は人とつき合うのを避けようとしていた。
だけと、僕とは話している。
なぜならば、雨の日に僕たちは偶然出会ったからだ。
でもそれも、未来で見ているビジョンにあったはずだ。
僕との出会いがなければ、僕たちはただのクラスメイトのまま。
なんか矛盾してないか?
「君に進んで会おうと思ったわけだ」
お兄さんは、当たり前のようにそういった。
「だから、僕は君に会おうと思ったんだ。妹が今まで誰にも興味を持たなかったのに、突然そういう人ができたんでね。僕が気にならないわけがないだろ」
「でも、どうして?」
「たまにはさ、中途半端に未来を見たいと思ったんじゃないかな。きっかけだけを抽出すれば、出会いしか残らないし。それに、どうせだったら、似たような人をと思って選んだんじゃないかな。なんでもいいじゃない。結果がよければ、ね」
そして、右目をウインク。
「君が何をしようか僕にはわかっている。最初にいったとおり、コーヒーはおごりだから、気にせずに行けよ」
本当にわかっているみたいで、お兄さんは喫茶店から自分の家の道筋が書かれた地図を僕に渡した。
「ありがとうございます」
そういって、僕は喫茶店から飛び出すように出ていった。
僕は走っている。あの雨の日のように。
身体は悲鳴をあげ、息が苦しくなっても、僕は走るのを止めなかった。
結局、僕は受け身だったんだろう。
本当に会いたいと思っていたら、彼女の電話でもすればよかったんだ。
だけど、勇気がなかった。だらしないな、ホント。
今は違う。
僕は、人と触れあうことが幸せだなんて思っていない。
たしかに、幸せに感じるときがあるかもしれない。でもそれは、花火のように一瞬だけ錯覚するだけで、あとは寂しさが残るだけだから。
だけど、一人で生きていきたいなんて思ったこともない。
たとえ死に別れたって、悲しむよりも先に、ありがとうって感謝の言葉をいえる人だっている。
僕にとって彼女がそうだ。死んじゃないけど、そんな感じ。
でも、そんなのは結局のところ、どうでもいいことだ。
彼女に会いたい。ただ、そのことを心から思う。
表札に『篠原』と書いてあるのを確認して、僕はチャイムを押した。まだ息が苦しくて、膝もガクガクいっているけど、気にしない。
すぐにドアが開いて、彼女と一緒に子猫が僕を出迎えてくれた。
「あれ、お久しぶり。――って、どうしたの?」
しらじらしいな。未来が見えるんだったら、わかるだろ。
言葉にしようにも、やっぱり身体がいうことを聞いてくれず、重い息だけが吐き出されるだけだった。
「中に入る?」
「……あ、ありがと」
絞り出すようにいうと、彼女は子猫を抱き上げて、僕を家の中へと招いた。
「ラッキー、今からお茶の用意をするから、お客さんと遊んでいて」
疲れ切った僕を居間のソファーに座らせて、子猫を預けた。
しばらくの間、天井を眺めたあと、ふと、あることに気がついた。
そういえば、ラッキーって名前だから、あの時の猫なのかな。
「お前、あの時の猫なのか?」
子猫は大きな瞳で僕の事を見つめるけれど、猫だから当然喋らない。
「そうだよ」
かわりに、お茶を持ってきた彼女が答えた。
「てっきり、見捨てたんだと思ったけど」
「なりゆきでね」
言葉の使い方を間違っている気がするけど、僕は流した。
「実は教えたいことがあったんだ」
そして、深く息を吸い込み、気を落ちつかせる。
「実は、僕も未来が見えるんだ。それと伝えたくてね」
「どんな未来?」
彼女は楽しそうに、僕の事を見た。
「今から僕は、君に告白をする」
「……それで?」
「そして、君はテレながら、いいよ、っていって頬を頷くんだ。どうだい、当たっているだろ?」
「うん、大正解」
■Chapter3
「お兄さんには、未来が見えるんでしょう?」
夏休み最後の水曜日に、彼女に頼んでお兄さんを『a.i.u.e.C.o』に呼び出した。そして、彼が頼んだコーヒーがテーブルに置かれたのを確認すると、僕はそう訊ねた。
「どうして、君はそう思うんだい?」
楽しそうに笑みを浮かべる。
「言いましょうか?」
僕は人差し指を立てた。
「ついこの間、雄一さんがいないときに家を訊ねました。両親が亡くなったとあなたに教えられていたので、家の敷居を跨ぐのも躊躇したものです。しかし、入るそうそう、居間から女性が出てきて、『あらあら、悠子ちゃんが男の友達を連れてくるなんて、お母さん嬉しいわぁ。お赤飯を炊かなくちゃいけないかしら』と、いうものですからビックリしましたよ。なにせ、僕に霊能力があったなんて思いもしませんでしたから」
「君も今時の若者なんだねぇ」
つっこむ場所はそこかよ、と叫ぶのを制して、人差し指に続いて中指を立てる。
「次に、もらった馬券を親に頼んで払い戻してもらいました。だけど、不思議なことに約四十万ではなく、約四千円。僕はギャンブルに疎い人間なので知らなかったのですが、競馬には馬連と枠連――あとは忘れましたけど、配当金が違うみたいですね。馬番だと『(4)-(7)』が当たり馬券。それも万馬券みたいでしたけど。それに、日曜日に開催されるともいいましたっけ? たしかに土曜日には開催されないようです。土曜日には。結果の分かっている当たり馬券をもらえるのは嬉しいのですが、やっぱり悪いので返しますよ」
背に掛けておいたデイパックから封筒を取り出して、彼の目の前に置く。
「あげたものを返したもらうのは、僕の気が済まないのだけど、君も自分の意見を変えないだろう。よし、この場はおごってあげるから好きな物を頼んでよ。何がいい? 拒否権はなし」
「じゃ、スマイルを」
へー、と驚いたような表情を浮かべた
「叔父さんのスマイルなんて欲しいんだ。実は親父マニア?」
「冗談です」
「言ったことに責任を持たないとダメじゃないか。それをわからせるためにも、ここで叔父さんを呼んで二度と同じ過ちを踏ませないようにするという僕の優しさをわかって欲しいなぁ」
「なら、雄一さんは言葉の責任を持つために、両親を殺すのですか?」
「僕は嘘つきだからね。嘘つきが嘘をつかなくなったら、終わりなんだよ」
小さなため息を僕はついた。
「雄一さん」
僕は、彼の茶と黒の瞳を見つめる。
「なに?」
「あなたには未来が見えますよね」
僕はもう一度訊ねた。すると、迷いもなく「見えるよ」と彼は言った。
「誰もが未来を想像することができる。それが本当に起こるのかは、わからない。だけど、その想像した未来に近づかせるために、行動をとることができる。そういった意味では、誰にだって未来が見えているって言えるわけだ。これでいいかい?」
「正解です」
最後に出題者と回答者が入れ替わってしまったけど、まあいい。行き着く場所は同じだったから。
満足して息をはくと、お兄さんは「あっ」と思い出したかのように言った。
「忘れるところだった。えーと、僕が言葉たくみに嘘をつくのはわかったよね」
うなずいていいものかと思ったけど、首を縦に振った。
「んじゃ、最後に本当のことを教えよう。実はね、僕も未来予知ができるんだ」
「――へ?」
なにを言いたいのかわからなかった。また、性懲りもなく嘘をついているのだろうか。それとも、お得意の偽装だろうか。
「これをプレゼントしよう」
そう言うと、前と同じように財布から馬券を取り出した。
そこには、『新潟11レース 馬連(4)-(7)2800円』と書かれていた。
「関屋記念の当たり万馬券。約四十万円の払い戻しなり」
彼はにっこり笑った。