進みゆく日々
夕食もホームドラマのような温かいワンシーンで彩られていた。
両親――父はアルベルト、母はエレオノーラという名前だとクララに聞いた――には罪悪感がある。
訓練場で歩くどころか木剣の素振りをした俺に対して、二人は目に見えて喜んでくれていたが……中身はどこの誰とも知らないおっさんなのだ。
しかし、それを話すわけにはいかない。『魂交換』が不可逆であるとすれば、俺はすでにリーネ・リンデベルクになってしまった。
だからこそ、決してばれてはならない。俺が俺であることは……。
食事が終わって部屋に帰ってくると、ずいぶんとしんみりした気分になってしまった。
俺は結婚もせず、当然子供はいない。それでも疎遠になった友人が、子供の話になると途端に早口になるのを思い出す。たぶん、親ってのはそういうものなのだろう。
「……うしっ! これで一区切りだ! 次に進まないとな!」
食事が終わり、クララの手で身を清めるという羞恥の時間も終わった。
暖かい布で体を拭かれるのは気持ちいいが、同時に体が女だと強制的に自覚させられる。それに興奮しないように心を落ち着かせるのは大変だったぜ……。
おっと! これは余計な思考だな。予定通りに魔法へ意識を切り替える。
『――最初は呼び水、鏡を見て、目を逸らさずに、言葉を一つ』
日記に書かれていたことは単純だった。鏡を見て、自分に精神を操作する魔法を掛けるということ。
慣れれば鏡がなくても発動できるらしいが、まずは手順通りだ。俺は姿見の前に立ち、鏡の中の自分を睨みつけ、短く呟いた。
「集中」
瞬間、部屋の音が消えた。
いや、物理的に消えたわけじゃない。音から意味が剥ぎ取られたのだ。廊下の軋み、風の音、自分の衣擦れ。それらが意識の外へ遠ざかる。
胸の奥にあった漠然とした不安がほどけ、代わりに視界の解像度が跳ね上がった。世界が鮮明になり、思考が加速する。脳のクロック数が倍になったような全能感がある。
これはゾーンなのか? 極限集中状態ってやつだ。その深さ、程度はどうあれ、雑音を無視して一点に寄せられるという確信がある。
机に戻り、『基礎補助魔術』を読み直した。文章が水のように染み込んでくる。単語が脳に刻まれ、図解が頭の中で立体になる。
――これは凄いな。理解力が数段上昇している。
ある程度のところまで読み込んで、長い息を吐く。それを合図に強制的な集中は解除された。
視界が戻って来た。いつもの見え方だ。
こいつはあまりにも便利すぎる。補助魔術が肉体を強化するなら、これは心を強化する魔法だ。
集中力をブーストする、恐怖をミュートする、眠気をコントロールする。それができるという確信がある。
そこまで考えて、異質のひらめきが脳髄を走る。
……待てよ。集中できるなら、逆に気分を高揚させることもできるんじゃないか?
俺は自分の華奢な身体を見下ろした。とんでもないもやしボディ。あまりに頼りなくて、軽くぶつけるだけで壊れそうな気配がぷんぷん漂っている。
胸の大きさだけはご立派だが、誇れるのはそれだけだ。
しかしそれは今だけの話。もし肉がついたらどうなる? 自分の体を見ながら想像する。
……確実に極上の女体になるだろう。間違いない。男として、この身体を堪能しないなんて嘘だ。
「……いいじゃないか」
昏い欲望が脳裏を走る――と、情緒を込めてみたが、自分の体を好きにして何が悪いっていうんだ。
とはいえ順序は変わらない。
「まずは飯を食って体力をつける。そして体を鍛える」
あえて言葉に出す。体作りが先決で、その方針に変化がないことを強く自覚するためだ。
それでも自然と笑みが浮かぶ。
快楽を操作するスライダーに、この指はすでにかかっている――それを動かすためにも努力しないとな。
補助魔法でも精神操作魔法でも使って、理想のボディを作り上げる。まずはそれからだ。
魂交換の二日目から、俺はさらに露骨に動いた。
庭の訓練場で素振りをする時、まずは『集中』をかける。鏡による自己暗示は呼び水で、一度感覚が分かれば鏡はすぐに必要なくなった。
『身体強化』が使えればそっちの方が訓練には相応しいけど、どうにもしっくりこない。というかできない。
だから『集中』で代用している。
それでも疲労を無視して動けるし、足元にも意識が向くから安定する。身体能力が上がったわけじゃなく、集中力を使ったごり押しだけどな。
だから、クララには「ヤバそうなら止めてくれ」と指示を出している。限界まで動くのはいいが、越えたら体を壊す。
翌日に筋肉痛が襲ってくるが我慢だ。確実な未来におけるお楽しみがあるからな。モチベーションが違うぜ。
とはいえこのもやしボディで一日中鍛錬はできない。体力がないから当然だ。だから午後に鍛錬を回し、午前は座学に当てる。
勉強の大切さは大人になったら嫌というほど分かる。最低でもこの世界のことを知らないと話にならない。
集中をかければ、難解な歴史書も退屈な計算も苦にならない。文字が逃げない。数字を嫌がらない。必要な情報が脳内の本棚にきっちり並んでいく。
そして、それを支えるのは睡眠だ。夜、目が冴えて眠れないときは『静寂』と呟く。すると絡まった思考がほどけ、泥のような眠りへ落ちていく。
眠気操作は地味に効く。やはり睡眠こそ最高のメンテナンスってわけだ。
そんな生活の合間に、日記をたびたび読み返している。
やはり、『魂交換』について具体的な記述はどこにも書かれていない。禁忌を越えた禁忌として、文字に残すことすら躊躇われたのだろう。
ただし『精神干渉』については断片的ながら記録がある。それを解析して、魔法の精度向上に利用している。
やはり適正があるのか、補助魔法はなかなか成功しないのに、精神操作魔法は苦も無く発動して、自分の精神を思い通りに操作することができる。
楽しい苦労は嫌いじゃないが、始まりに苦戦すると途端に苦行になる。その苦行をすっ飛ばせたのは僥倖だろう。
しかしこの精神操作魔法は強力無比で、だからこそ忌み嫌われる禁術でもあるはず。リーネはこの力に触れて精神を病んでしまった……で、俺はどうか?
「どうでもいい」
分かり切ったことをあえて口に出すと、やはり驚くほど軽かった。
禁忌? 禁術? 知ったことか。使えるものは使うだけだ。
ただし過度な依存はまずい。力に使われたら終わりだ。魔法を使わない場合の限界も知っておく必要にあるしな。
そんな生活スタイルになって一週間もすれば、屋敷の空気も明らかに変わっていた。廊下を歩く俺の足音は軽く、視線は迷わない。
食卓での会話も増えた。アルベルトは俺を見るたびに目尻を下げ、エレオノーラは微笑みながら時折涙ぐんでいる。
クララとの距離も縮まった。監視の距離じゃない。信頼の距離だ。
「お嬢様、今日はお顔の色がよろしいですね」
「最近調子がいいの。よく食べて、良く動くからだね」
「それは何よりでございます」
正しいことを焦らずに継続する。俺がやっているのはそれだけだ。
精神操作というズルをやっているが、それも含めて自分の力だと開き直る。とはいえこのままでは効率が悪い。だから俺は両親に頼み込んだ。
止まっていた勉強を取り戻したい。ちゃんと教師から学びたい――と。
返事は即決だった。過保護の空回りは、方向さえ合えば強力なジェットエンジンになる。
家庭教師が次々とやってきた。礼法、歴史、法律、領地の税制や代官の務め、魔獣の生態など。
知識を体系的に学ぶことで点が増え、それが線として結びつき立体になる。世界を構造として捉えること。それは俺が学んだ学問の実体だ。
精神魔法はやはり便利で、勉強効率を最大にできる。便利すぎて笑いが出る。
そしてある日、アルベルトが妙に真面目な顔で切り出した。父がこういう顔をする時は、決まって重大発表だ。
「剣の稽古も続けるなら、専任の教師を付けよう。勉学と同じで自己流は悪い癖になる」
素振りは体作りのためだけど、せっかくファンタジー世界に来たのだから、本気で学ぶのも悪くはない。
「先生って、どんな人?」
「安心しなさい。歳も近い女剣士だ。腕は確かだぞ。元は王宮務めだった」
元王宮。
その言葉に部屋の空気がピリッと締まった。クララの背筋が伸び、エレオノーラの微笑みが深くなる。
――どうやら何かあるようだな。アルベルトは俺をじっと見つめる。これは覚悟を問う目だ。
「それならお願いします。剣もちゃんと教わりたいです」
流石に子供染みた甘えの演技はできない。礼を尽くして頭を下げる場面だろう。
そんな俺の言葉を聞いたアルベルトの顔には、峻厳な顔付きの中に、隠し切れない嬉しさが宿っていた。
翌日の午後。
廊下に、いつもとは違う複数の足音が響いた。クララの物に混じる、乾いた硬質のリズム。音だけでも分かる。
「失礼します」
凛とした若い女の声だ。
俺は椅子から立ち上がった。胸の奥で、カチリと何かが切り替わる。集中のスイッチじゃない。もっと原始的な、男としての本能のスイッチだ。
クララが扉を開ける。そこに立っていたのは、張り詰めた空気を纏う、一人の女剣士だった。




