魔力の手触り
革の表紙はひんやりと冷たかった。
机に置いた瞬間、部屋の室温が一度下がったような気がする。ページをめくる音が、やけに大きく響く。
俺は深呼吸をして、金文字のタイトルを指でなぞった。
『基礎補助魔術』
地味だ。あまりにも地味すぎる。
だが、その飾らなさが逆に信用できる。『誰でも簡単にマスターできる!』みたいな胡散臭い帯が付いていないのがいい。
最初のページを開くと、いきなり核心が書いてあった。
ポエムのような前置きも、偉そうな精神論もなし。そこにあるのは、無機質なマニュアルだった。
『魔力を感知する』『形を与える』『現実へ具現化する』。
……なるほど。工程で殴ってくるタイプだ。魔法ってのは作業で、その先に現象が出る、と。
魔法の設定なんて作品によって千差万別だ。呪文を唱えるだけのやつもあれば、計算みたいに組み上げるやつもある。
これはそれらの中間だな。ふわっとした神秘を煽らず、かといって厳密なロジックはない。ただやることだけを並べてくる。
だが『魔力を感知する』。この一行目が癖ものだ。魔力を感じられなければ、スタートラインにも立てない。
本には瞑想が必要だとある。数か月、下手したら年コースか?
華奢な掌を握ったり開いたりして、体の調子を確かめる。そして嫌な想像をしながらも魔力を感じられるか試してみるが――。
これ? これか?
意識を集中すると、身体の奥底に『ある』としか言いようのない空白がある。
そこに何かが充填されている感覚。まるで配線だけされて、今までスイッチが入っていなかった回路に、初めて通電したような手応えだ。
拍子抜けするくらいあっさりで、逆に怖い。本当にこれでいいのか? 本にはなんと書いてあるかな?
……一度魔力を感じることできれば、あとは容易いとある。自転車の乗り方をマスターすれば、すいすい乗れるようなものだ。
俺はともかく、リーネは『魂交換』なんて秘術を使えるんだ。つまり元からこの身体には何らかのパスが通っている。
うーむ……ご都合主義? 修行編で人気を出すのは難しいからな。
なんてのはメタ的な発想だが、大変な過程を踏み越えなくてもいいなら、それは有難いとしか言いようがない。
ここは流れに乗っておこう。もし代償があるなら、その時に払うしかないな。
本を読み進めると、『基礎補助魔術』というだけあって補助魔術について詳しく書かれている。
派手さはないが、ラインナップとしては極めて実用的だ。身体強化、呼吸の安定、視力補助、疲労軽減、耐寒などなど。
地味だからこそ有用であり、毎日使えるものが多い。睡眠の質を上げる魔法なんてものもある。こんなの現実世界でも欲しいわ!
くたびれた大人になれば分かる。これらがあれば人生の難易度が劇的に変化するだろう。
うきうきしながらページを追っていくが、だんだんと疑問が湧いてくる。
この本によれば、魔法とは魔力を変換して現実へ具現化することだ。
なら、『魂交換』とは何だ?
魂についての記述はこの本にはない。教科書の理論とラインナップからすれば、明らかに逸脱しすぎているから当然かもしれないが。
とはいえ魔法についての基本はここに書かれているはず。その観点から『魂交換』について考察してみる。
別の人間と中身を入れ替える。それだけじゃなく世界を跨ぐというおまけ付きだ。それはこの世界の魔法の枠からはみ出しすぎているように思える。
応用にそのことが書かれているのか? それとも別の体系があるのか? ……今は断定しない。だが、少なくともこの一冊だけでは説明がつかない。
引き出しの中に入っていた可愛い押し花のしおりを挟んで本を閉じた。
そして引き出しを開け、例の日記を取り出す。
今日は感情移入せずに、フラットに読まないとな。
これは資料だ。メンヘラポエム集ではなく、攻略ウィキだと思って読め。
日記を開いてページを探す。
筆圧が強く、インクが濃い夜の記録……『弱い』『いらない』といった自虐ワードはスルーする。
俺が知りたいのは、精神状態が不安定になる、その引き金となった『原因』だ。
時間を掛けて丁寧に探していく。流し読みした時に目にした文章、あれはどこだ? ……あった!
『――私は触れてしまった』
『――あれは補助じゃない』
『――心に触る』
これだ――リーネがおかしくなった原因。少なくともその一つ。
リーネが触れていたのは現実じゃない。現実の奥、人の内側だ。
さらに読み進めると、決定的な単語が出てきた。
『禁忌』
禁術、悪魔の技、見つかったら終わる。ネガティブワード満載で書かれている。
内容は一つだ。人の精神に作用する魔法。自己強化じゃない。他者の精神の操作。
肉体に手を入れる補助は教科書に堂々と載っているのに、心が関連する魔法ついては何も書かれていない。
俺は本棚の魔法関連をいくつか抜いて、索引を流し見した。
どれにも精神を操作する魔法についての記述はない。それが当然であるかのように、最初から書かれていないのだ。
精神なんて脳の働きだと考えれば肉体と地続きのはずなのに、この世界では線が引かれているってことか? 触れた瞬間に、社会の空気ごと冷えるやつかもしれない。
俺は一度目を閉じ、長く息を吐いた。
吐いた息は生温かいのに、部屋の空気が冷え切っているような錯覚がある。
答え合わせだ――おそらくリーネは禁忌に類する魔法に触れてしまった。
日記の断片から見えるのは、精神干渉。要するに他人の脳味噌をいじる魔法だ。
知られたらまずい。だから隠す。誰にも話せないから孤独になる。そして孤独の中で歪む。
その果てに『魂交換』なんていう特大の禁じ手に手を出した。
この『魂交換』の出所は『禁忌』とはまた別のようだが、それは今は置いておく。
リーネが歪んだ一因に、生まれ持った才能が関係していたなんて。そりゃあ、呪い以外の何物でもない。
……でも、な。
俺は目を開け、日記の文字を睨んだ。『禁忌』の文字の下に、薄く線が引かれている。
リーネはこれを恐れていた。だが同時に、その力に魅せられてもいた。
とはいえ、倫理観が邪魔をして一線を越えることはできなかったようだがな。だからこそ今の生活からの脱出に、『魂交換』なんて手段を選んだのだろう。
口元が、勝手に歪むのが分かった。
だが、いいじゃないか。精神操作魔法。最高に使えるスキルだ。
自分自身に使うならまるで問題ないしな。眠りを整える魔法が許されるなら、心を整える魔法だって同じじゃないか。
手段が薬か、訓練か、魔法か。その違いに見せかけて、やってることは結局調整だ。
……いや、同じだと言い切れるほど単純じゃないのは分かってるさ。分かってるが、それでも手が伸びる。
この気分の高揚を無視して、冷静になって判断しよう。
単純に考えればいい、要は使い方の問題だ。
包丁は人を殺せるが、料理も作れる。精神魔法は人を壊せるが、自分を律することもできるはずだ。
……ああ、頭の中で理屈が滑る。滑りが良すぎる。
これは危ないかもしれない。俺はいま、この状況を最高に面白いと思ってしまっている。
『禁忌』というレッテルの貼られたレアスキル。そう認識した瞬間に、恐怖よりもゲーマーとしての好奇心が勝ってしまった。
時と場所で『禁忌』なんて変わる。それを理解しないと痛い目を見るのは当然理解しているさ。
これだから大人は最悪だ。だが、この図太さこそが人生というゲームの攻略に必要なんだ。
俺は日記の続きを読んだ。
『禁忌』の説明の横に、震える文字で、まるで自分に言い聞かせるような走り書きがあった。
『――最初は呼び水』
『――鏡を見て、目を逸らさずに、言葉を一つ』
鏡――背筋がゾクリとした。
理由は分からない。だが、本能が告げている。これが入口だ。
部屋の隅にある姿見が、視界の端に映り込む。あれを使えば――。
その時、廊下から、微かな足音が聞こえた。
クララだろう。一定のリズム。平穏な日常の音。
夕飯の時間か? 呼びに来ると言っていた。そこまで集中して魔法にのめり込んでいたということか。
俺はそっと日記を閉じた。次にやることは決まった。
「食事を取って、体を清めるだったか? その後に……試してみようじゃないか」
誰もいない部屋で呟く。
その瞬間、ノックの音が響いた。クララが来た。
さて、一時休憩だな。本番は誰にも邪魔されない夜になってからだ。




