リーネという人物
リーネの自虐的な思い込みが、ボタンの掛け違いを雪だるま式に膨れ上がらせていた。
そう結論づけたが、一方的な決めつけは良くないな。異世界の女の子と体が入れ替わるなんて事態が今だ。
ならばリーネ側の心情を読み解き、確信を強固にしてからでも遅くはない。
日記をさらに読み進める。今度は流し読みではなく精査するためだ。
『魂交換』について調べるのも重要だが、流し見では詳細な記述は見つけられなかった。だから後回し。まずはリーネの心情を探っていこう。
『今日は廊下の音が怖い』
『母様の声が優しいほど怖い』
『みんなが私を見ている』
怖い、怖い、怖い。理由のない恐怖って感じだな。
敵がいないのに、四方八方を透明な敵に包囲されているような書きぶりだ。
これは日記じゃない。心の中の荒天予報だ。ずっと暴風雨警報が鳴り響いている。
ページを飛ばす。
たまに明るい日もある。『お菓子が美味しい』『雲が綺麗』『クララの髪留めが可愛い』。
だが、すぐに黒い波が来る。
『私は役に立たない』
『兄様たちがいる。だから私はいらない』
役に立たない、いらない。それは自分自身への呪詛なのかもしれない。
そう書くことでいらない自分を完成させようとしているかのようだ。
パタン、と日記を閉じた。静かすぎる部屋に、乾いた音が響く。
……胸くそ悪い。
同情? ああ、できるさ。そこまで追い詰められた可憐な少女の心情に同情して悲しくなることはできる。
だが、それ以上に俺の感情を支配したのは――純粋な怒りだった。
ムカつく。やはりムカつく。
決めつけは良くないと思い精査してみた。その精査はまだ足りないのかもしれないが――だからと言ってこの感情を無視することはできない。
俺は椅子に深く座り直し、最高級のふかふかクッションに体重を預けた。
こんなに柔らかい世界にいながら、どうして自分から茨の道へ突っ込んでいくんだ。
窓の外では風がそよぎ、廊下からはクララの落ち着いた足音が聞こえる。
運動の後のお茶ということで、クララが持ってくる手はずになっていた。
この足音に何の不安がある? むしろ安心を運び込む音と言っても過言じゃない。なのに、日記のリーネはこれを監視の足音と変換した。
愛されているのが怖い。大切にされるのが重い。
何も返せない自分が惨めで、向けられる優しさが高金利の借金に見えていたわけか。
過保護の空回り。と、言葉にすれば思いのほか軽い。
最大限リーネを慮れば、それは当人にとっては窒息死寸前の檻だったとは思う。
……だとしても、だ。
それでも『魂交換』はやりすぎだろ。
俺は自分の掌を見た。小さい手に汗の跡と砂の汚れが若干残っている。
今日、俺はここで動けた。笑えた。飯も食えた。父親とも話せた。
結局のところ、リーネを閉じ込めていたのは、頑丈な扉でも鍵でもなく、本人の頭の中にあった柵だけだ。
その柵を壊す努力をする代わりに、彼女は俺を巻き込んだ。
この身体を捨てて、俺を巻き込んで体を奪った。リーネにはこの体が負債に見えた。だから俺を引きずり込めたんだろうな。
――ふざけるなよ!
俺は怒鳴りたかったが、怒鳴る相手はここにはいない。行き場のない怒りが、腹の中でゴロゴロと転がっている。
なら、決めた。
俺は机をドンと叩いた。いてぇ……この程度でこれか?
手首から痛みが走る。か弱いな、ちくしょう。
だが、その痛みは気付けにはちょうどいい。リーネに対する配慮を止めるには十分だ。
それにいくらか冷静にもなれた。柵だけと言い切るには、強迫観念を増大させる事情が日記からはいくらか読み取れたのも事実だ。
かわいそうなお嬢様ってのは間違いじゃないだろうさ。まあ、だからと言って遠慮をするという選択肢はすでに消え失せたが。
「リーネの身体だから大事にしなきゃ」とか、「彼女の人生を壊さないように」とか、そういう変な気遣いはゴミ箱行きだ。
俺は俺のやり方で、この身体を使う。
もっと動く。もっと食う。もっと両親やクララに要求して、もっと図太く生きる。
その結果どうなるかは、後で考えればいい。
決めた瞬間、胸のつかえが取れた気がした。
俺は立ち上がり、窓を少しだけ開けた。流れ込んでくる空気と、土と草花の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
この匂いを、リーネは外に出て吸えたはずなんだ。
外の空気を堪能していると扉がノックされる。クララが来た。
「入っていいよ」
「リーネお嬢様。お茶をお持ちしました」
ということでいったんティータイムだ。
お茶というには茶葉ではなくハーブティーのようだが、お茶はお茶だ。それで喉を潤し気分を落ち着ける。
窓から流れる冷涼な空気を感じながらの午後の一服。それは心を落ち着かせるには十分だった。
「ご馳走様。午後はゆっくり休むから、私のことは気にしないで」
「かしこまりました。では、夕食の時間になりましたら、またお呼びに来ます」
そう言ってティーセット一式を片付けてクララは退出した。
さて……一服して頭がクリアになった。これからのプランについて考えよう
なんて言っても、特に考える必要もない。やることは二つだ。単純明快にいこう。
一つ。体力をつける。
木剣を振り、走り込み、砂地で転ばない足腰を作る。
まだ走ることに恐怖する貧弱さだが、鍛えていけばすぐにできるようになるはず。
まずは基礎的なステータスを底上げすること。それが何より重要だ。
二つ。魔法を研究する。
研究という言葉でハードルを下げておくが、要は魔法を使えるようになりたい。
日記には秘術だのなんだのと書いてあった。他にも魔法についての記述がある。つまり、当たり前のようにこの世界では魔法が認知されている。
ファンタジー世界に来て、魔法を使わないなんて嘘だろ。
火の玉を……それは後回しでいいや。空を飛び……そんな魔法あるのか? あっても事故ったら怖いしパスだ。あわよくば催眠……自己催眠ならむしろ、今の俺にふさわしいか?
そのためのテキストはどこだ? 日記には様々な本の名称が書かれていた。魔導書っぽい物があるはずだ。
俺は部屋の中を物色し始めた。机の引き出し、棚、飾り棚……あった。
部屋の隅にある本棚の下段にあるのが魔法関連だろうか? 背表紙の名称に『魔法』やら『魔術』なんて単語が並んでいる。
俺はそのうちの一冊を抜き出した。
革の表紙はひんやりとしていて、日記のような情念の重さがない。道具としての無機質な冷たさが心地いい。
金文字で刻まれたタイトルを読む。何々――。
『基礎補助魔術、第一巻』
喉が鳴った。
やっぱりあるじゃん、スキルブック。
ページの端が手垢で少し丸くなっている。
結構使いこまれているな。リーネだけならこうはならないだろう。
王都にいるという兄達か? それとも親父さんか? そのお下がりと考えるのが妥当だろう。
分からないが、ここに知識があるという事実だけで十分だ。
俺は本を机に置き、椅子に座り直した。そして背筋を伸ばす。
これは儀式だ。ただの虚弱美少女ごっこで終わらせないための、俺自身の宣戦布告。
――だなんて意気込んでみたが、人生余裕が何よりも必要だ。
焦ると本当に人間って奴は知能が下がるからな。まあ、気楽に行こうか。
「……さて」
誰もいない部屋で、思わず声が出た。
さあ、チュートリアルの続きといこうか。
俺は期待に指を震わせながら、分厚い表紙をめくった。




